防災

2014年4月22日 (火)

(自然からの警告、南海トラフ巨大地震に要注意)室戸岬沖 深海魚105匹「海域に異変か」専門家

 一匹だけ生きて捕獲されたホテイエソのニュース動画を一番下でご紹介

室戸岬沖、網に深海魚105匹 専門家「海に異変か」
2014/4/22 16:08
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2201L_S4A420C1000000/
魚拓

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高知県・室戸岬沖の定置網に入り込んでいた深海魚「ホテイエソ」(22日、高知県室戸市)=NPO法人「日本ウミガメ協議会」室戸基地提供・共同

 高知県・室戸岬沖の定置網に22日、生態がほとんど分かっていない深海魚「ホテイエソ」が105匹入り込んでいるのが見つかり、うち1匹は生きた状態で捕獲された。21日にも9匹見つかったばかりで、専門家は「海に何らかの異変があったのでは」と指摘する。

 付近の海洋生物の生態を調べているNPO法人「日本ウミガメ協議会」(大阪)によると、網は地元漁師が沖合約2キロ、深さ約70メートル付近に仕掛けた。体長は10~25センチくらい。生きている1匹は協議会が保管しているが、だいぶ弱っているという。

 深海魚に関する著作がある北海道大学の尼岡邦夫名誉教授(魚類学)は「深海魚は波の動きや水温の変化に敏感。生息域に何らかの異変があり、異常な動きをしたのかもしれない」と話した。

 ホテイエソは黒い体に鋭い歯を見せて笑ったような顔が特徴的。下顎のひげの先には発光器が付いている。〔共同〕


深海魚9匹がニヤリ 高知沖の定置網
2014.4.21 18:26 [生物]
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140421/trd14042118260016-n1.htm
魚拓

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高知県・室戸岬沖の定置網に入り込んでいた深海魚「ホテイエソ」(NPO法人「日本ウミガメ協議会」室戸基地提供)

 高知県・室戸岬沖の定置網に、大きな口を開けてニヤリと笑ったような顔が特徴的な、深海魚「ホテイエソ」が9匹入り込んでいるのが21日、見つかった。

 付近の海洋生物の生態を調べているNPO法人「日本ウミガメ協議会」(大阪)によると、一度にこれだけ見つかるのは珍しい。ホテイエソは黒い体に鋭い歯を持ち、下顎のひげの先には深海魚特有の発光器が付いている。9匹は長さ10~15センチ、重さ6~20グラム。

 定置網は室戸市の漁師が深さ70メートル付近に仕掛けた。協議会が標本にして調べる。研究員の渡辺紗綾さん(30)は「珍しい生き物にびっくり。生態が分かっていないので、生物研究者として興味深いです」と話した。


高知・室戸岬の定置網に深海魚「ホテイエソ」105匹!
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/04/23/kiji/K20140423008025450.html
魚拓

上記画像と同じなので(略)
高知県・室戸岬沖の定置網に入り込んでいた深海魚「ホテイエソ」
Photo By 共同

 高知県・室戸岬沖の定置 網に22日、生態がほとんど分かっていない深海魚「ホテイエソ」が105匹入り込んでいるのが見つかり、う ち1匹は生きた状態で捕獲された。21日にも9匹見つかったばかりで、専門家は「海に何らかの異変があったのでは」と 指摘。今年に入り、各地でダイオウイカなど深海生物の捕獲が相次いでいるがいずれも原因は不明で、生態同様に謎が深まるばかりだ。

 室戸岬沖付近の海洋生物の生態を調べているNPO法人「日本ウミガメ協議会」(大阪)によると、網は地元漁師が沖合約2キロ、深さ約70メートル付近に仕掛けた。ホテイエソの体長は10~25センチくらい。網から引き上げられた際の急激な水温や水圧の変化によって、生き残っていたのは105匹のうち1匹だけだった。協議会が保管しているが、だいぶ弱っているという。

 ホテイエソの棲息域は定置網より50メートル以上深い水深120~800メートルの範囲。黒い体に鋭い歯を見せて「ニタ~」と笑ったような顔が特徴的で下顎のひげの先には発光器が付いている。

 室戸沖で年に数匹程度は網にかかるが、21日に9匹が一挙に捕獲され、協議会は「貴重な標本」と大歓迎。ところが、翌日になんと10倍超の105匹が捕獲され、一転して不気味な雰囲気に包まれた。協議会の室戸基地研究員の渡辺紗綾さん(30)は「ここまで大量な数は記録にない。海の流れや水温に特に変化がなかったので、むしろ怖い」と謎めく現象に不安を隠せない。

 日本近海では今年に入り、ダイオウイカ、リュウグウノツカイ、メガマウスなど生態が謎に包まれた深海の生物が相次いで見つかっている。室戸岬でも昨夏、ツラナガコビトザメ78匹が一気に水揚げされ話題になった。

 深海魚に関する著作がある北海道大学の尼岡邦夫名誉教授(魚類学)は「深海魚は波の動きや水温の変化に敏感。棲息域に何らかの異変があり、異常な動きをしたのかもしれない」と話した。“大漁”現象について、専門家の間では海水温の影響があるとみられているが、原因は不明。文字通り水面下で謎が深まっている。

 ▼ダイオウイカ 開眼目ダイオウイカ科に分類される巨大なイカ。体長は6~18メートル

 ▼ツラナガコビトザメ ツノザメ目ヨロイザメ科に属するサメの一種。最小のサメの一つで、捕獲されたものの最大体長は22センチ

 ▼メガマウス ネズミザメ目メガマウス科に属するサメの一種。体長は約4~7メートル

[ 2014年4月23日 05:30 ]

 

 以下は、メガマウス捕獲のニュース

定置網に4.4m「メガマウス」 由比漁港(静岡新聞)
(2014/4/15 07:47)
http://www.at-s.com/news/detail/1008354061.html
魚拓

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トラックの荷台に載せられたメガマウス=14日午前、静岡市清水区の東海大海洋学部(同大提供)

 14日午前6時ごろ、静岡市清水区の倉沢沖で、由比漁港所属の第11光洋丸の定置網に大きな口が特徴の深海性サメ「メガマウス」がかかり、由比漁港に水揚げされた。東海大海洋学部(同区)の調査で、体長約4・4メートルの雌と分かった。記録が残っている捕獲例としては今回が世界で57個体目、県内では6個体目。生態に未解明の部分が多い。同大は5月の大型連休後半に海洋科学博物館(同区三保)で公開の解剖調査を行う。
 同学部の田中彰教授によると、メガマウスは水深200メートルほどの深海に生息し、夜間は餌を追うなどして浅い所まで上がってくる場合があるという。過去には遠州灘に打ち上げられたり、御前崎沖での巻き網漁などで捕獲されたこともある。

↑↓4月14日に漁港でロケ中にメガマウス捕獲に遭遇したタレントの杉浦太陽君。
それを伝えるブログ記事⇒http://ameblo.jp/sunsuntaiyo/entry-11822045206.html
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 以下、2011・3・11発災の約2か月前、メガマウス捕獲と撮影成功の記事を紹介しつつ、「宏観現象(こうかんげんしょう)」をキーワードに3・11を予言しているブログ

(以下転載始め)
2011年 01月 15日
三重県尾鷲市九鬼町の沖合でメガマウス捕獲:大地震の前触れ?
http://quasimoto.exblog.jp/13986396/

(略)

メガマウス生け捕り?体調5mの巨大魚が網に
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110115-OYT1T00249.htm?from=main5
Internet Archive

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定置網に入ったメガマウスとみられる魚(三重県尾鷲市で)

 三重県尾鷲市九鬼町の沖合約500メートルの定置網に14日、メガマウスとみられる全長約5メートルの魚がかかった。

 メガマウスはネズミザメ目のサメで、大きな口とオタマジャクシのような形の頭が特徴。確認例は国内で12例、県内では大紀町などで3例と少ないうえ、大半のケースは、巻き網などにかかって死んだ状態で発見されており、生態は不明な点が多い。

 水揚げをしていた漁業者の1人は「漁師を50年しているが、初めて見た」と驚いていた。

 鳥羽水族館飼育研究部の帝釈元(はじめ)次長(47)は読売新聞の記者が撮影した写真を見て、「水上に表れたひれの形などからメガマウスの可能性が高い」と話している。また、「飼育している施設は世界的にもなく、泳ぐ姿を見られるのは非常に貴重だ」としている。

 メガマウスとみられる魚は網の中に残され、15日にも専門家が確認し、国内の水族館に売却される予定。
(2011年1月15日15時10分  読売新聞)

(略)

それによれば、このメガマウスなる巨大魚は、「リュウグウノツカイ(竜宮の使い)」という、巨大深海魚と同様に、”地震の前触れ”かもしれないという魚の類いにランクされている。そこで、一応ここにもメモしておいたというわけである。

こういうものは、「宏観現象(こうかんげんしょう)」という動物の地震反応の1つであると考えられている。地震電磁場(地震が起こる前に地盤の歪みから放出されるイオンや岩石内の石英による圧電効果などによって生じる電磁波のこと)を動物が感知して、異常行動を起こすというものである。というのも、この地震電磁波は極超低周波(だいたい0から10ヘルツ)であるために、動物の脳波と共鳴できる範囲にあり、それゆえ、動物が不安を感じたり異常行動に出ると考えられているからである。

そんなわけで、このメガマウスなる巨大深海魚が何かを察知して浅瀬にやってきたという可能性も捨てきれないからである

備えあれば憂いなし。
(以上転載終り)

 

幻のサメ メガマウスを撮影
NHK 1月15日 22時35分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110115/k10013427181000.html

幻のサメとも呼ばれる「メガマウス」が、三重県尾鷲市沖の定置網の中で泳いでいる姿が撮影され、世界的にも貴重な映像になるものと注目されています。
メガマウスは、大きな口が特徴のサメの一種で、太平洋やインド洋などに生息するとされていますが、これまで捕獲されるなどした例は世界でも50余りしかなく、生態もよく分かっていません。
14日、三重県尾鷲市の沖合およそ300メートルの定置網の中を、体長5メートルほどのメガマウスが泳いでいるのを地元の漁業者が見つけ、連絡を受けたNHKのカメラマンが撮影に成功しました。
映像を確認した三重県にある鳥羽水族館の古田正美館長によりますと、このメガマウスはメスとみられ、生きた状態でその姿が捉えられるのは、極めて珍しいということです。
古田館長は「メガマウスのむなびれや尾びれの使い方などを確認する貴重な手がかりになるのではないか」と話していました。

 

↓太平洋側にのびる四国の岬の内、東側にあるのが室戸岬(その室戸岬沖でホテイエソが大量に捕獲された)。
浜岡原発と南海トラフ。こんなプレートの境界上にある浜岡に原発などキチガイ沙汰
(↓クリックすると拡大します)スクロールして見るなら
Hamaoka

 

浜岡原発:「津波集中」の立地 東大地震研が海底地形分析
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110926k0000m040149000c.html
Internet Archive

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浅い海底が外洋に突き出て、津波のエネルギーが集中しやすい浜岡原発付近※東京大地震研究所のデータを基に作成

 東海地震の震源域に位置する中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)の前面の海域には、浅い海底が外洋に突き出すように広がり、津波のエネルギーが集中しやすい地形であることが、東京大地震研究所の都司嘉宣(つじ・よしのぶ)准教授(地震学)の分析で分かった。

 浜岡原発の前面には、深さ200メートルより浅く、約20キロ沖まで舌状に広がる「御前崎海脚」と呼ばれる海底があり、その先は深さ500メートルまで急激に落ち込んでいる。また、御前崎海脚の両側も急に深くなっている。

 津波の速度は水深が深いほど速く、浅いほど遅い。都司准教授によると、海から陸に向かう津波は、海脚の中央に近いほど速度が遅くなる一方、中央から離れるほど速度が速く、津波の進む向きが中央方向に曲げられる。そのため、光が凸レンズを通過して焦点に集まるように、海脚の根元に当たる同原発周辺に津波のエネルギーが集中するという。

 中部電は東海、東南海、南海地震が連動した場合、同原発付近が高さ約8メートルの津波に襲われると想定。約1000億円の対策費をかけて、来年12月の完成を目標に海面から高さ18メートル、厚さ2メートル、全長1.6キロの防波壁の建設などを進めている。

 都司准教授は「浜岡原発は、地震だけでなく、津波の被害も受けやすい場所に立地している」と指摘している。【石塚孝志】

毎日新聞 2011年9月26日 2時30分

 【写真で見る】中部電力浜岡原発
 【1960年代から】写真で見る 東京電力福島第1原発の歴史
 【9月24日公開の福島第1原発の写真と映像】
 静岡・浜岡原発:「永久停止」決議へ 「安全担保ない限り」--牧之原市議会
 中部電力:12月にも節電要請 浜岡原発停止で供給不安

 

室戸岬沖 深海魚105匹 「海域に異変か」専門家 1分7秒
KyodoNews
http://youtu.be/zcC3bBdS_jY

公開日: 2014/04/22

念の為mpg

概要:
高知県・室戸岬沖の定置網に22日、生態がほとんど分かっていない深海魚「ホテイエソ風景地」が105匹入り込んでいるのが見つかり、うち1匹は生きた状態で捕獲された。21日風景地にも9匹見つかったばかり。専門家は「海に何らかの異変があったのでは」と指摘する。

 

高知・室戸で深海魚の「ホテイエソ」100匹以上捕獲20140422 TBSnewseye
http://www.dailymotion.com/video/x5ss1m7

高知・室戸で深海魚の「ホテイエソ」100匹以上捕獲20140422... 投稿者 osanpodeonigiri
公開日: 07/07/2017
期間: 00:39

念の為mpg

概要:
珍しい深海魚捕獲のニュースが相次いでいますが、今度は高知県室戸市で「ホテイエソ」風景地という深海魚が100匹以上も網にかかりました。

高知・室戸で深海魚の「ホテイエソ」100匹以上捕獲
http://news.tbs.co.jp/20140422/newseye/tbs_newseye2183179.html

動画 38秒

 珍しい深海魚捕獲のニュースが相次いでいますが、今度は高知県室戸市で「ホテイエソ」という深海魚が100匹以上も網にかかりました。

 ホテイエソは、東北から沖縄にかけて太平洋の水深200メートルから600メートルの深海に生息しています。ヒゲの先端などから光を放ち、近寄ってきた魚などを食べるそうですが、これまでに見つかった個体数が少ないため、生態についてはわからない部分が多いということです。

 ホテイエソは室戸沖の定置網に21日に9匹、22日に105匹がかかっているのが見つかりました。2日連続でこれほどの数が見つかるのは、非常に珍しいということです。(22日23:26)

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 キャンペーンバナーなど

2014年都知事選、2月6日(木)18:00練馬駅北口での細川さんの脱原発podcast小泉さんの脱原発podcast演説と観衆の“間の手”掛け声が何ともいい感じ。お勧めです。

 ↓2月2日銀座4丁目街宣での一コマです。暖かい時もあれば、1月26日池袋東口や、1月29日の三鷹や吉祥寺の様に厳寒の日もありました。街宣最終日2月8日は、雪で電車が遅れ僕は新宿まで行く事が出来なかった。暖かい日でも街宣車の上は確実に風が強く寒い、伊達や酔狂では出来ません。細川(76)小泉(72)148歳コンビのファイトに感謝し、脱帽の都議選でした。
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 以下動画では、さらに小泉氏の脱原発について詳しくジックリ聴く事が出来ます。

2013年11月12日
脱原発は郵政民営化の比ではない壮大な事業•小泉元首相が日本記者クラブで講演
videonewscom
http://youtu.be/QOXsnZiTjwk

↑SOBA:動画の40分4秒の所からの以下部分はかなり重要。
 河野太郎代議士から贈呈された「新しい火の創造 エイモリー・B・ロビンス (著)」について。米国が脱原発が必要だと説いている。2050年には脱原発・脱石油・脱石炭・脱天然ガス。うかうかしていると日本の先を越して米国が脱原発を進めるかも知れない。

 

 気象庁の震央分布図(→頁アーカイブ)、こんな所で原発なんて危険きわまりない(石橋克彦氏、地震学)。汚染水ダダ漏れだからオリンピック開催もふさわしくない。( Japan is situated in a volcanic zone on the Pacific Ring of Fire. It's also located near major tectonic plate boundaries, where's an un-wise place for 54 reactors. and now Osensui is not under control. So Japan and Tokyo is Unworthy of 2020 Olympic Games. )。震央分布図がある新頁

(Epicenter distribution map)
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 震災後3年、「汚染水はアンダー コントロール」やオリンピックにはしゃぐ真性馬鹿安倍晋三への福一の現場作業員からの怒りの声(←20140314MBS報道するラジオ)

「汚染水ダダ漏れ日本の五輪召致馬鹿騒ぎ糾弾」バナー、Oh No OSENSUI. Tokyo is Unworthy of 2020 Olympic.
↓click, popup & enlarge anime
「汚染水ダダ漏れ日本のオリンピック召致馬鹿騒ぎは世界の恥さらし」バナー


 

↓「カルト宗教 統一協会のお友だち こんな奴らが改憲?笑わせるな」バナー。

 クリックすると拡大します。ブログに貼れる370pxのサイズです。微修正の可能性有り、反映させますので直リンクが使用条件です。
「カルト宗教 統一協会に応援され(笑) こんな奴らが改憲?笑わせるな」バナー


2006/06 Japanese Chief Cabinet Secretary Shinzo Abe(2005/10/31 - 2006/9/26 ; Prime Minister 2006/9/26 - 2007/9/26, 2012/12/26 - )sent a message to Moonie's mass wedding blessing ceremony. Abe have appeared on cover page of cult Unification Church's monthly magazine "SEKAI SHISO". Moonie also support Shinzo Abe.

 

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※原発関連で3冊:

知事抹殺 つくられた福島県汚職事件 佐藤 栄佐久 (著)

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隠される原子力・核の真実―原子力の専門家が原発に反対するわけ 小出 裕章 (著)

 

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2011年7月26日 (火)

3・11:東日本大震災 宮城・山元町の自動車学校、送迎手間取り25人死亡

 震災前、震災後の画像を見ると、津波被害の凄まじさにあらためて驚かされます(他の防災関連エントリーリンク紹介は末尾)。

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。
宮城県山元町の常磐山元自動車学校は標高0m(入口前緯度経度 +37 56 11.750",+140 54 42.312" )。

 

 良くまとまっているサイト。

常磐山元自動車学校の悲劇・宮城県山元町
http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_joban-bus.html

↑のサイトの説明画像↓
海岸から約950mだった常磐山元自動車学校
Jobanjidosya_map

 

↓以下、4枚の画像は震災前後の画像を比較できるGoogle ストリートビューへのリンク(グーグル「未来へのキオク」)より

震災前の常磐山元自動車学校入口前
1

 

震災後の常磐山元自動車学校入口前
2

 

震災前の常磐山元自動車学校全景
3

 

震災後の常磐山元自動車学校全景
4

 

発災前2009年12月10日、常磐山元自動車学校周辺のグーグルアース衛星画像。
スクロールして見るなら
20091210

 

証言3・11:東日本大震災 宮城・山元町の自動車学校、送迎手間取り25人死亡
毎日新聞 2011年07月23日 東京朝刊
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110723ddm041040182000c.html
魚拓

20110723dd0phj000004000p_size5  宮城県山元町の常磐山元自動車学校は、送迎のワゴン車など7台のうち5台が津波にのまれ、10代の教習生25人が死亡した。防災無線が大津波警報を告げ、避難を呼びかけていたにもかかわらず、学校が送迎車を出発させたのは地震から40分余りたってから。しかも、車は通常の送迎ルートをたどった。遺族は「対応の遅れと不適切さが最悪の事態を招いた」と指摘、裁判で責任を追及する構えだ。【鈴木美穂】

 ■騒 然

 「先生、早く(車を)出して!」「やばい」。3月11日午後3時半すぎ、教官の運転で自動車学校を出たワゴン車が国道6号交差点に差し掛かった時、車内は騒然となった。3人の教習生と乗り合わせていた山元町の川越美幸さん(19)が振り返ると、黒い波が迫っていた。しかし、信号は停電で消えており、2台のトラックが立ち往生して道をふさいでいた。

 「やばいのは分かってる」。教官がアクセルを踏んで急発進し、国道を山側に突っ切って逃れた。川越さんは「停車は一瞬だったが長く感じた。生きた心地がしなかった」と振り返った。

 ■待 機

 3月は免許取得のピーク時期。自動車学校は高校を卒業したばかりの若者ら約40人でにぎわっていた。午後2時46分の地震発生後、建物の倒壊などを心配して外に逃れた教習生らは、寒さをしのぐため前庭に停車中のバス内で待機していた。学校が「午後4時から教習を再開する」と呼び掛けていたからだ。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110723ddm041040182000c2.html
魚拓

 角田市の斉藤瞭さん(18)は、亘理町の早坂薫さん(当時18歳)とバス内に並んで座っていた。既に車内のラジオやサイレンを鳴らした車が高台への避難を呼び掛けていた。

 学校側が教習を打ち切り、送迎車で送り届ける方針を打ち出したのは、午後3時半ごろだった。教官から自宅の方向ごとに乗り換えるよう指示があり、斉藤さんは教習生3人とともに別のワゴン車に乗り込んで先発した。早坂さんの送迎車は同乗者が多かったため振り分けに手間取り、なかなか出発する気配がなかった。早坂さんに手を振った斉藤さんは「明日もまた会える」と思った。

 ■漂 流

 斉藤さんを乗せた車は、海沿いの相馬亘理線を走った。学校から約1キロ進んだ時点で海の方を見ると、白い煙が立ち上っていた。

 「火事じゃね?」「津波!」。同乗の友人とそんな会話をした直後、ゴーッという地鳴りとともに「海が勢いよく迫ってきた」。教官がハンドルを切った途端、近くに止まっていた無人の車が波に流されて突っ込んできた。同乗の女子教習生2人がすすり泣いていた。その間にも、車は50〜60メートル流された。ガラスが割れ、車内に泥水が入り込む。二波、三波と襲われ、車は次第に横転し始めた。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110723ddm041040182000c3.html
魚拓

 「外に出ろ」。教官が叫び、斉藤さんは割れた窓から水中に飛び込んだ。車内に濁流が流れ込み、2人が沈んでいくのが見えた。斉藤さんも水中でもまれ、木や金属とぶつかりながら漂流し続けた。びしょぬれになって民家の上にいたところを救助されたのは、12日午前3時ごろだった。

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津波に襲われた常磐山元自動車学校(左奥)。余震による津波に警戒しながら、消防隊員らが行方不明者を捜していた=宮城県山元町で2011年3月14日、丸山博撮影

 ■後 悔

 「あの日、教習所に送り出さなければ」。早坂薫さんの母由里子さん(47)は悔やんでいる。11日午前、薫さんと2人で就職祝いのスーツを買いに出かけ、送迎バスが来る駅に送り届けたからだ。

 午後4時10分すぎ、父満さん(49)と薫さんの携帯電話が1度だけつながった。ゴボゴボと水の音がして、男みたいな声がした。「混線かな」と切ってしまったが、「もしかしたら娘だったかも」と激しい後悔に襲われた。以来、娘の携帯が通じることはなかった。薫さんは6日後の17日に遺体で発見された。

 「お子様を守りきれず申し訳ない」。自動車学校の岩佐重光社長は遺族に謝罪したが、4月中旬には弁護人を通じ「損害賠償責任は負わないと判断される」との文書を送りつけてきた。早坂さん夫婦は「生徒の安全を守るのが学校の責務。せめて高台に避難させてくれていれば」と話す。

【関連記事】
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日赤:義援金計2594億円 15都道県に送金

最終更新:7月22日(金)23時20分

 

防災関連エントリー:
東日本大震災の記録 大津波悲劇の中の救い、防災の備えが命を救った、英字紙記事も。

3・11東日本大震災「学校最多の犠牲者、石巻市立大川小」検証のために関連記事採録。 

検証・大震災:3家族の3.11、陸前高田・河野さん、名取・佐藤さん、石巻・木村さん。 

災害:巨大地震や原発被災、「毎日小学生新聞」が画像表示などあり分かりやすいので資料保存。 

3月11日〜3月28日のNYT写真集を全採録。直視し忘れないことが犠牲者への弔い。事実を伝えない日本のマスゴミは糞。 

 

 「防災必需品+体験談」←グーグル検索です。普段からの備えが大事、参考にして下さい。以下、僕自身が用意している基本グッズのAMAZONリンクをはっておきます。

 ※をつけたグッズは、小さな子は別にして家族全員個人装備でも良いと思います。特にヘッドライトは明かりの欲しい作業の時などに使って重宝しています。夜、自転車の前照灯が球切れした時にも使い助かりました。雨具は傘以外に、即行で着脱できて両手が使えるポンチョもお勧めします。

ホイッスル 笛 ※(救出要請SOS、その他)

ヘッドライト ※

LED懐中電灯 ※

SONYポケットラジオ ※

SONY防災ラジオ ←スマホ手回し充電可能タイプの

LEDランタン 

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卓上カセットコンロ 

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 ロープは万能道具、普段から慣れておくことが大事。

決定版 ひもとロープの結び方 便利手帳 

使えるロープワーク―必ず役立つ「結び」の完璧テクニック (OUT DOOR)←アウトドア好きの方が書いた本。

アウトドア用のロープ ←リンクをはりましたが、一番良いのは登山用品店に行って説明を聞き、自分でも手にとって選ぶ事です(太さの感じが分かります)。通常、メジャーを使って1m単位で量り売りしてくれます。僕自身は、径3.5㎜と4.5㎜のでそれぞれ2m、3m、5mのを適宜本数組み合わせて普段からザックの隅に入れてます。また車にはそれに加え径8㎜で10mのを2本積んでます。細いロープは長いのだとうまく使えません。短いのを準備して使うのがロープに慣れるコツ。長さが足りなければつないで使えばよいのです。

 着るものを含め、防災グッズはアウトドアグッズを転用出来るわけですが、ザッグを例に取ると、防災用と比べアウトドア用のザッグは作りも頑丈ですし、使い勝手もはるかに良いです。

リュックサック ※

ザック ※

 意外と忘れるのがマスクとゴーグル。特にマスクは瓦礫の粉じん対策として必需品(特に肺がんを引き起こす石綿:アスベストに要注意)、避難場所での風邪の集団感染予防にもなります。またゴーグルは震災での粉じん対策だけでなく富士山が噴火した場合、大量の降灰に対する備えとしても必要。マスクとゴーグルは花粉症対策としても使え、何もしないよりは放射能降灰への備えとしても有用と思います。

山本光学のN95マスク  ※

山本光学の浮遊粉塵用セーフティゴーグル ※

 薬や救急用品など。これは個人それぞれ違うはず。以下は僕が用意しているもの。消毒用ジェルは避難所で用意しているはずですが、万一に備え感染症防御でこまめな手洗い用。スキンクリームはウォシュレットが使えない避難所で拭く時に使う切れ痔予防。裏技用途で、ジェルやワセリンはたき火が必要な時に火口(ほくち)に少し使うと火を熾しやすくできます。手ぬぐいはバンダナ代わりや鉢巻きにも使え、いざという時には包帯にもなる必需品。

消毒用ジェル救急絆創膏テーピング用テープけが等の軟膏ワセリンスキンクリームソンバーユなら)、とげ抜き手ぬぐい

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 以下追記、資料として採録。

阪神・淡路復旧作業石綿禍 東日本被災地にも暗い影
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/18/201208/0005483567.shtml
魚拓 

B_05483568 重機で解体される被災ビル。粉じんが舞う=1995年2月、神戸市兵庫区

 発生から17年半となる阪神・淡路大震災の被災地で、建物の復旧作業に伴うアスベスト(石綿)被害が新たに確認された。牙をむき始めた大震災の石綿禍。しかし、当時の環境庁(現・環境省)などによる石綿の飛散調査は「おおむね問題なし」との結果だった。時をへて相次ぐ中皮腫の発症は、実態把握の不十分さを浮き彫りにするとともに、東日本大震災の被災地にも暗い影を落としている。

 家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。阪神・淡路大震災の被災地では、倒壊した建物からすさまじい量の粉じんが発生した。日本では石綿消費量の約8割が建材に使われてきた。吹き付け材、屋根材、内装材、吸音材、外装材、耐火被覆材(たいかひふくざい)などだ。震災で崩れた建物のがれきには、命を脅かす「死の棘(とげ)」が含まれていた。

 当時の環境庁の調査によると、解体現場周辺で空気1リットル中の石綿繊維量は平均3~5・4本、大気汚染防止法の基準(10本)を下回った。一方、民間研究機関「環境監視研究所」(大阪市)の測定では、解体現場周辺で1リットル中160~250本が検出された。基準値をはるかに上回る。

 官民でデータに隔たりがあるが、中皮腫が増えているのは「飛散防止に有効な手を打てなかったことを示している」(専門医)とみる人は多い。

 解体が急ピッチで進む中、行政が現場に本格的な粉じん対策を指示したのは、発生から1カ月あまりたってからだ。復旧工事が急がれる中、石綿対策が後手に回ったことがうかがえる。

 発生から間もなく1年半になる東日本大震災の被災地でも、石綿の飛散に不安が高まっている。

 環境省の飛散調査では、約350地点のうち95・4%で「問題なし」との結果だった。しかし、現地調査をした森裕之・立命館大教授(公共政策)は「極めて不十分」と疑問を投げ掛ける。「建材は解体作業で細かく砕かれており、風向きによって測定値が大きく異なる。東北の被災範囲は広大で、阪神・淡路の教訓を踏まえて丁寧に測定すべきだ」と話す。

 被災地ではがれきの集積場が点在している。原発事故に伴う放射能汚染に目を奪われがちだが、宮城県石巻市の石巻赤十字病院の矢内勝・呼吸器内科部長は「がれきが身近にある以上、石綿の吸引を避けるために万全を尽くす必要がある」としている。(加藤正文)

【発症時期迎え被害拡大か】
 中皮腫で亡くなった宝塚市の男性=当時(65)=が阪神・淡路の復旧作業に携わったのは、わずか2カ月だった。震災アスベストの危険性を訴えてきたNPO法人ひょうご労働安全衛生センターは「十分な飛散対策がないまま、復旧解体が街中で繰り広げられた。労働者だけでなく、住民やボランティアへの被害も懸念される」と指摘する。

 石綿が肺の中に入り、中皮腫や肺がんといった石綿疾患を引き起こすまでの潜伏期間は、十数年から40年とされる。阪神・淡路大震災から17年半、同センターの西山和宏事務局長(50)は「発症時期に入ったのではないか」と警戒感を強める。

 近年、復旧に携わった労働者の石綿疾患が相次ぐ。2008年、解体にかかわった兵庫県内の男性の中皮腫発症が判明。その後、解体作業の現場監督を務めた芦屋市の男性、がれきを収集した明石市職員の発症が確認された。

 しかし、いずれも発症と震災時の石綿飛散との明確な因果関係は証明されておらず、兵庫県の井戸敏三知事は「原因が阪神・淡路大震災だとはなかなかなりにくいのではないか」などと繰り返し発言している。

 これに対し、今回の宝塚市の男性のケースでは、石綿に触れる機会が震災後の復旧作業に限定される。男性の妻(67)は「夫と同じような作業をしていた人は多いはず」との思いで、夫の病状の公表を決心した。

 被害拡大や不安解消に向け、行政の速やかな対応が求められる。(中部 剛)

2012/8/24

 

論壇
アスベスト禍の衝撃 史上最悪の産業災害
命に突き刺さる棘、震災復興でも深刻な被害が

http://gendainoriron.jp/vol.03/rostrum/ro03.php
魚拓 
Internet Archive 

神戸新聞編集委員 加藤 正文


国賠勝訴 
複合型ストック災害 
クボタショック 
震災アスベストの脅威 
相次ぐ発症 
異常事態の中で 
繰り返される過ち 
課題を示す窓 


 原発事故とアスベスト(石綿)禍には被害の構図が共通している。過去に地震や津波が繰り返し発生した地に原発を起き、研究者が再三、その危険性を警告していたにもかかわらず、虚構の「安全神話」の中で稼働を続けた。一方、石綿も戦前から有害だと分かっていながらも、その有用性、経済性から「管理して使えば安全」と国は十分な規制を行わず、約1千万トンを消費した。使用禁止は北欧に遅れること20年、ヨーロッパ諸国に遅れること10年以上たった実に2006年だ。

 原発事故は「史上最大・最悪の公害」(宮本憲一・大阪市立大名誉教授)であり、石綿禍もまた「史上最大の産業災害」(同)である。筆者は2005年6月末、兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場内外で深刻な被害が発覚した、いわゆる「クボタショック」以降、各地で取材を重ねてきた。その成果を『死の棘・アスベスト』(中央公論新社、2014年)として刊行した。石綿はその使用状況の広がりを反映して、被害状況も多様だ。本稿では、①石綿産業の原点としての大阪・泉南②アジア最悪の被害を出した兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場③今後、深刻な被害が懸念される震災アスベスト-の3点で被害と不作為の構図を描いていく。


国賠勝訴

 「勝訴」「最高裁、国を断罪」。原告側の弁護士の旗が出ると、最高裁前に詰めかけた被害者らから拍手がわいた。2014年10月9日、石綿を吸って肺がんや中皮腫などを患った大阪・泉南地域の元工場労働者らによる国家賠償請求訴訟で、最高裁は国の賠償責任を初めて認める判決を言い渡した。

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知られざる地場産業だった大阪・泉南の石綿紡織産業。100年の時をへて最高裁が国の不作為を認定した(大阪アスベスト弁護団提供)

 「労働環境を整備し、生命、身体に対する危害を防止するために、国は技術の進歩や医学知識に合うように適時適切に規制権限を行使すべきだ」。この「適時適切」という理念を盛り込んだ判決が確定するまでに、どれほどの苦難があったことだろう。病気に斃れた無数の声なき声が、100年もの長い時を超えて重い扉をこじあけたのだ。

 関西空港の対岸、大阪府泉南市、阪南市を中心とする泉南地区は、日本の石綿紡織産業の原点の地だ。中小零細の工場が集積し、戦前は軍需産業、戦後は自動車や船舶、機械などの基幹産業を支えた。最盛期には約200社が稼働し、約2千人が就労したという。戦前から石綿紡織工場の全国一の集積地として発展した。

 主な製品は、石綿を主原料に綿花などを混紡した糸、そして、この糸を布状やひも状に加工したものだ。耐熱性、絶縁性にすぐれ、各種パッキング、蒸気機関車などの防熱ふとん、自動車の摩擦材などに幅広く使われた。「小はランプの芯から、大は重化学工業の発熱部を覆う断熱材として欠かせなかった」(柚岡一禎・泉南地域の石綿被害と市民の会代表)。あちこちに工場が点在し、「街全体が石綿工場のようだった」といわれるが、今の街並みからは想像もつかない。高度成長期をピークに生産は次第に先細り、産地は消えた。長年、数多く労働者や住民が石綿による肺の病気で苦しんできたが、2006年、石綿対策の不備について国の責任を問う集団訴訟が提起されるまで知る人は少なかった。「国は石綿の危険性を知っていた、対策を取ることもできた、でも、やらなかった」。長い間、隠されてきた被害が表に出た瞬間だった。

 戦前の調査がある。国は1937(昭和12)年、泉南地区の被害をつかんでいた。旧内務省保険院の調査で、労働者の石綿肺罹患率が12・3%に上ることが判明した。担当医師らの「有害工業に属し法規的取り締まりを要する」との警告が残る。だが、国はこれに対して不十分な症例調査にすぎないとの立場をとった。その後も罹患率は10%を下回らず、労働基準監督署が調査を重ねた。しかし、「被害は深刻ではなかった」という見解を譲らなかった。 クボタのような大企業と違い、泉南はほとんどが零細企業で対策も不十分だ。「だからこそ国に被害拡大を防ぐ責任があった」。石綿問題に詳しい立命館大の森裕之教授(公共政策論)は国の不作為を指摘する。

 訴訟は2陣あり、1陣の地裁、高裁、2陣の地裁、高裁。そして今回の最高裁、過去5回の判決が投げ掛けるのは、一体、何のために労働関係の法規はあるのか、という根本的な命題だ。いくつもの曲折があったが、最高裁判決は、人間の命と健康を守るため、という基本原則を明確に示した。

 不断の努力で最新の知見に合わせて健康被害を予防する。被害が発生しているのならば、根絶まで対策を取る。これは法律や規則以前の行政の当然の責務だが、縦割りの官僚機構の中でその意識はかなり薄れている。あえてこの原則を厳しく指摘したところにこの判決の最大の意義がある。


複合型ストック災害

 手元にアスベスト(石綿)の原石がある。白く毛羽だった繊維のついた蛇紋岩。カナダ・ケベック州の鉱山都市セッドフォード・マインズの取材時にもらったものだ。

 壮大な露天掘りの鉱山に立ったとき、上流から下流へ流れる川のように、採掘された石綿が輸出され、港から工場に運ばれ、加工され製品となり、最後に瓦礫として廃棄される様子がまざまざと脳裏に浮かんだ。 熱や引っ張りに強く、燃えない。そして何より安い。産業革命とともに本格利用が始まり、各国の経済成長を支えた。その用途は建材、水道管、パッキング、シール材、ブレーキ材など実に3千種類に及んだ。

 かつては「奇跡の素材」と喧伝され、有害な「悪魔の素材」にもかかわらず、大量に使われた。日本は1千万㌧を消費した。1970年代にWHO(世界保健機関)やILO(国際労働機関)が発がん性を指摘したのに、日本が使用禁止にしたのは前述のとおり2006年。建物など社会のあちこちに蓄積(ストック)された石綿。髪の毛の5千分の1の微細な繊維は吸引すると長い潜伏期間をへて中皮腫や石綿肺などの病気を引き起こす。「生産・流通・消費・廃棄の経済活動の全局面で複合的に影響を与えるストック災害」(宮本・大阪市大名誉教授)とされる。近代化の初期に大量使用され、経済成長が一段落するころに「死の棘」の本性をみせる。これが複合型ストック災害の恐怖だ。

 日本で中皮腫による死者は2006年から毎年千人を超え、10年は1209人、11年1258人、12年は1400人、13年は1410人と増加。兵庫、大阪、東京、神奈川で多い。石綿を扱う工場などで働いたことがないのに病気になった人の数は中皮腫と肺がんで8千人を超え、その半数が亡くなっている。

 一方、労働災害として認定される人の数は毎年千人を超えている。高度成長期に起きた四大公害事件よりも被害者が多くなるのは間違いない。規制の決定的に遅れを踏まえると、被害のピークは2030年と予測される。


クボタショック

 アスベスト問題が労災を超えた公害であることを明確に示したのは、2005年6月に起きた「クボタショック」である。ショックたるゆえんは、工場の元従業員のみならず周辺住民の間で中皮腫が多発していることが発覚したからだ。中皮腫は石綿に起因する極めて予後の悪い特異性疾患だ。それが工場の周辺に広がっていた。発症状況を地図に落とすと、この特異な病気が工場の半径4キロにわたって広がっている状況が浮き彫りになる。

 2014年9月末時点で周辺住民と元従業員の死者は435人となり、アジア最悪の被害となっている。住民の被害者は263人で、元従業員(172人)を上回る。「俺、何か悪いことしたか」「1億円もらったってこんな病気、嫌」「クボタによる陰湿な殺人」「健康な体を返してほしい」―。不条理に命を奪われた患者たちの言葉はあまりに重い。

 クボタの社長は道義的責任から謝罪し、原則半径1キロの発症については救済金を支払ってきたが、肝心の因果関係についてはいまだに認めようとしない。「お見舞い金の延長」(首脳)という見解にとどまる。


震災アスベストの脅威

 重機がうなりをあげて建物を壊していく。むき出しの鉄筋、破砕された建材、積み上がる膨大ながれき、舞い上がる粉じん…。東日本大震災の被災地で続いた光景は、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災の状況と重なる。当時、全国から駆けつけた労働者たちは、復旧復興のためにひたすら解体作業に打ち込んだ。すぐそばではごく当たり前の日常生活が営まれていた。あたりを舞う粉じんに潜む「死の棘」の存在を、気に留めることはほとんどなかった。

 来年1月で丸20年となる。神戸の街に震災のつめあとは感じられなくなった。順調に「復興」したかのように見えるこの街で、肺の奥に突き刺さった微細な繊維、アスベスト(石綿)が牙をむき始めている。がれき処理に関わった人が相次いで、石綿に起因するがん、中皮腫を発症しているのだ。吸引後、10数年から40年たって発症するのが石綿のリスクだ。

 「チュウヒシュ? 俺が?」。2012年5月、兵庫県明石市にある県立がんセンターで思わず問い返した。医師の診断は「腹膜中皮腫」。高濃度のアスベスト(石綿)暴露で起きる病気だ。明石市環境部の男性=当時(48)=の仕事はゴミの収集業務だが、石綿との関連を考えるうちに、1995年の阪神・淡路大震災時に思い至った。

 男性は当時、がれきの処理業務に奔走した。ブロックやスレート、木材など震災で全半壊した住宅のがれきをパッカー車に積んで、処分場に運んだ。波形スレートは半分に割って車に押し込んだ。2、3トン積みの車だったが、可燃であろうが、不燃であろうがお構いなしだったので「5、6トンは載せていた」。

 処分場にがれきを投入する。荷重が重すぎて油圧で荷台が上がらないのでパッカー車の中に入ってがれきをかきだした。狭いパッカーの中はすさまじい粉じんだった。「使い捨ての紙マスクを2重にして使っていたけど、鼻の中まで真っ黒になった」。当時、焼却場は壊れていたのですべてのゴミを埋め立て処分場へ。破砕してブルドーザーでならした。舞い上がる粉じんとともにがれきはうずたかく積み上がった。

 時は流れ、2011年暮れ、下腹部にできたしこりに気づいた。それが見る間に大きくなった。「当時、俺よりもたくさんアスベストを吸い込んだ人がいた。神戸に来ていたボランティアの人もそうだ。俺が病気になるというとは、これからもっと多くの人が発症するということ。入念な検査をみんなにしてほしい」。男性の病状は悪化し、2013年10月に亡くなった。


■ 相次ぐ発症

 時がたち、阪神・淡路大震災の生々しい記憶が遠ざかる中で、石綿関連疾患の発症が相次いでいる。2008年3月、震災時の解体作業で石綿を吸ったため、がんの一種、中皮腫になったと訴えた兵庫県内の30代の男性を、姫路労働基準監督署が労災認定した。震災時作業による労災認定は初のケースだった。石綿の被害は潜伏期間が十数年~40年とされる。「震災による石綿疾患はいずれ爆発的に発生する」と、かねて懸念されてきただけに、いよいよ来たのか、という覚悟を迫る発症の報告だった。

 2009年5月、芦屋市の男性=当時(80)=が労災認定された。中皮腫と診断されたのは2007年。元建設会社の営業マンで、震災後の95年10~11月、人手が足りず、解体作業で現場監督を務めた。重機の巨大なハサミが建物をつかむと、左右に10メートルほど粉じんが広がった。労災を申請すると、労働基準監督署は建設会社に勤務していた77~98年の約22年間に石綿に触れたと判断した。しかし、渾大防さんは「営業マン時代、建設現場に出ることはほとんどなかった。石綿を吸い込んだのは、震災時の現場監督時代しか思い当たらない」と話す。13年暮れ、男性は死去した。

 2012年8月には、宝塚市内の男性(11年に65歳で死去)も労災認定された。この男性は衣料品販売をしていたが、震災で仕事ができなくなり、1995年2月、作業服に着替えてアルバイトとして工務店で勤務した。民家からずり落ちた瓦を集め、屋根にブルーシートをかけた。マンションの改修工事にも立ち会った。マンションの室内では職人が壁や天井をはがしたり、電動のこぎりで建材を加工したりしたため、相当量の粉塵が部屋にたちこめた。妻(67)は今、夫のかぶっていた野球帽にほこりがたくさんついていたことを思い出す。工務店のアルバイトはわずか2カ月。この間に石綿を吸い込んだ。16年後に中皮腫を発症し、2011年10月に死去した。妻は悲しみを口にした。「がれきの中のアスベスト(石綿)のことなんて考えもしなかった。お父さんは悔しかったと思う。同じ哀しみを東北の被災地で決して繰り返さないでほしい」

 同じ月、兵庫県内に住む別の70歳代男性も神戸東労働基準監督署から労災認定されたことも判明。3年近く瓦礫処理作業に携わったという。労災認定などで表面化する被害だけで5人。その背後で、解体、瓦礫収集、運搬、処理などの復旧・復興に関わった数多くの労働者が次々と石綿禍に倒れている。これが阪神・淡路大震災の被災地の現実なのだ。


異常事態の中で

 死者6434人、家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。現場は異常事態であり、緊急事態だった。

 「最悪の労働環境だった」。解体や瓦礫処理に携わった労働者たちの証言だ。神戸市兵庫区で工務店を経営する男性(81)は振り返った。「マスクどころか、タオルもまかずに仕事した。石綿が危ないなんて考える余裕はなかった」「防護シートを張らずに解体した。飛散を防ぐために水をまこうにも、水道管が壊れて水は出なかった」

 発生約1カ月後から一斉解体が始まった。無数の業者が被災地に集まり、神戸だけでも100件、兵庫県内で200~300件の解体が同時に進行したという。住民への情報開示、飛散対策が積み残されたまま、混乱の中、大量解体が進んだ。一体、どれだけの粉じんが街中を舞ったのだろう。当時、がれきの街を取材で回りながら、のどがいつもいがらっぽく、目が痛かった記憶が残る。

 都市では高度成長期以降、郊外型の開発に力が注がれ、インナーシティーと呼ばれる中心部の再開発は遅れてきた。ニュータウン開発に力を入れた神戸では、とりわけインナーシティー問題は課題となっていた。そこには石綿を含む老朽建築物が数多く取り残されており、災害対策としても石綿に十分注意が払われてこなかった。震災時の兵庫県地域防災計画には環境保全の記述はなく、10年後の復興10年委員会の「総括検証・提言報告」にもアスベストの文字は一カ所もない。

 「これは単なるアスベスト対策の欠陥ではなく、日本の都市政策、災害対策、復興政策の欠陥と関連している」(宮本、森永、石原編『終わりなきアスベスト災害』岩波書店、2011)。この指摘が重くのしかかる。

 しかし、自治体の対応は鈍いといわざるを得ない。東日本大震災の起きる1年前の10年5~8月に掛けて立命館大は全国の自治体に地域防災計画に震災時アスベスト対策を盛り込んでいるかどうかを調査した。結果、72・5%が「現在、盛り込んでおらず、特に盛り込む予定はない」と回答。そのうち、環境省が07年に策定した災害時の石綿飛散防止マニュアルについても、「認識していない」「確認していない」としたのは5割超。

 これが日本の石綿対策の実情である。そこに東日本大震災が起きたのだ。


繰り返される過ち

 東北の被災地に点在する瓦礫の集積場で遊ぶ子どもたち。倒壊した建物の前で、マスクをつけずに普通に歩く中高生…。「目に見えないアスベストが飛散しているから、できるだけマスクを」。そんな思いが募る。阪神・淡路大震災の被災地であまりに無防備だったからだ。

Kato_asbestos2 積みあがる震災がれき。微細な石綿繊維の飛散が懸念された。阪神・淡路大震災の教訓は生かされたのだろうか=2012年、宮城県石巻市

 津波に根こそぎ奪われた東北の町は、当初は声を失う惨状だったが、その後、がれきの様子が気になった。宮城県石巻市。2012年秋に県立石巻商業高校(約580人)の隣に広がるがれきの集積場には驚いた。高い囲いが巡らされ、白い袋詰めされた膨大ながれきが積み上がっている。搬入された後、生徒から「喉が痛い」「目がかゆい」などの声が寄せられたため取られた措置だった。

 がれきは、撤去、運搬、仮置き、処分の全過程で粉じんが発生する。倒壊家屋や破損した船舶には、ふきつけられたり、練り込まれたりした石綿がたくさん含まれている。当初、環境省の担当者は「津波で塩水にぬれ、石綿の飛散が抑制されている」としたが、乾燥が進み、破砕や運搬作業が進む中で、当然、飛散する。

 がれきの総量は東日本2300万㌧、阪神・淡路2千万㌧だ。東日本大震災に特徴的なのは、沿岸には製紙業をはじめ、さまざまな工場があることだ。長期間、排水を流したことで、海底にはさまざまな物質が蓄積している。「津波は、海底に沈殿していたものを一気に陸に揚げた。産業廃棄物を含むヘドロは普通の泥ではない」と石巻赤十字病院の矢(や)内(ない)勝・呼吸器内科部長が警告する。発生2カ月後に訪れた際、海底にたい積したヘドロが津波で打ち上げられていた。臨海部にそびえる日本製紙石巻工場の周りを歩いていると、雨が降り出した。それまで白っぽかった泥が、雨にぬれると、どす黒く変色した。石綿、砒素、鉛…。危険物質は数多くある。

 東日本で阪神・淡路とは決定的に異なる点がある。犠牲者の9割が建物倒壊による「圧死」が阪神・淡路なのに対し、東日本では死因の9割が津波による「溺死」だ。これはそのまま石綿被害にもあてはまる。破損した建物が津波で流され、そして有害なヘドロが沿岸部に拡散している状況を踏まえると、粉じんの飛散に伴う健康被害は、阪神・淡路大震災よりもはるかに広域になる危険性がある。

 環境省は東北の被災地で11次にわたってモニタリング調査を行った。結果、1713地点のうち99・6%で問題がなかったという結果だった。「おおむね問題なし」と環境省の大気課長(当時)はいう。ここでも20年前の阪神・淡路大震災の当時と似ている。

 しかし、「調査はきわめて不十分」と森裕之・立命館大教授(公共政策)は言う。被災地ではがれきの量を減らすために成形板を破砕しているケースがあるといい、「破砕物は風向きで測定値が大きく異なる。被災のエリアは400㌔にわたる広大な地域だ。もっと丁寧な測定が要る」と話す。


課題を示す窓

 大震災の発生でどれだけの石綿が飛散したのか、完全な把握は難しい。とはいえ、できることはある。まず、アスベストを含んでいた建物の倒壊した地区を中心に、当時の住民や解体・撤去にかかわった労働者らを登録し、健康診断を継続しなければならない。土木工事に他府県から多くの労働者が神戸・阪神間にやってきた。これはボランティアも同じだ。アスベストに暴露したというリスクを本人に周知させ、健康診断を受けなければならない。

 もう一つ必要なのは、私たちの住む街にいったいどれぐらいの石綿が蓄積しているのか。神戸市は固定資産税台帳によって建物の建築年次を調べ、アスベストの飛散可能性のあるものをチェックしている。これは公表していないが、地図に落とし込んでいるので、アスベストマップとしても活用できる。

 「大震災の発生時、ふだんは見えない社会の課題を示す窓が開く。その窓はごく短い期間に閉じてしまう」。阪神・淡路大震災のちょうど1年前の1994年1月17日、米カリフォルニア州ロサンゼルス市ノースリッジで起きた大震災の報告書にはこんなフレーズがある。窓が開いているうちに、根本的な対策がとれるか。神戸で生かせなかった阪神・淡路の教訓を、東日本で生かさなければならない。これは石綿問題にとどまらず、私たちの社会の未来にかかわる問題である。

主要参考・引用文献

(1)中部剛、加藤正文『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』、かもがわ出版、2014年

(2)加藤正文『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』、中央公論新社、2014年

(3)立命館大学政策科学会編『別冊政策科学 アスベスト問題特集号』、2008、11、12年

※新聞、雑誌、インターネットサイトの記事、各種訴訟の訴状、判決文などを参考にした。


かとう・まさふみ

1964年西宮市生まれ。大阪市立大学卒。89年神戸新聞入社。経済部、北摂総局、阪神総局、論説委員などを経て、現在、経済部次長兼編集委員。著書に『工場を歩く-ものづくり再発見』(神戸新聞総合出版センター)、『工場は生きている-ものづくり探訪』(かもがわ出版)、『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』(共著、かもがわ出版)、『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』(中央公論新社)など。


   「いのちに突き刺さる」アスベストの悲惨―――
真正面から立ち向かった著者渾身の
「怒りと告発」の書に戦慄する。
――内橋克人氏(評論家)

これは“影の日本経済史”であり
世界的スケールで“白い肺の恐怖”を
描いた力作である。
――黒木亮氏(作家)

『死の棘・アスベスト』
加藤 正文著 中央公論新社 定価1700円(税別)

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2011年5月 8日 (日)

災害:巨大地震や原発被災、「毎日小学生新聞」が画像表示などあり分かりやすいので資料保存。

 以下、資料として保存(他の防災関連エントリーリンク紹介は末尾)。

 「Newsがわかる」より(←頁内ジャンプ)

 

ニュースがわかる・災害:巨大地震でまち壊滅/1 想像を絶する被害
http://mainichi.jp/select/wadai/wakaru/others/archive/news/2011/20110322org00m040024000c.html
Internet Archive

20110322org00m040007000p_size8
岩手県陸前高田市では家の6割以上が津波にのみこまれた。被災した人を助けるため、がれきの中を歩く自衛隊員=2011年3月13日

 ◇M9.0の東日本大震災

 3月11日午後2時46分ごろ、東北地方で巨大地震が起こった。宮城県栗原市で震度7を記録したほか、東京の中心部で震度5強など北海道から九州の広い範囲で震度6強~1のゆれを観測した。震源の深さは約24キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は日本で観測史上最大、1900年以降で世界史上4番目にあたる9.0だった。

 この東日本大震災は巨大津波を引き起こし、東北の太平洋沿岸を中心に想像を絶する被害をもたらした。亡くなったり行方がわからなくなったりした人は約3万人。福島第1原発では爆発事故が起こり、放射性物質がもれ出す大変な事態になった。

20110322org00m040009000p_size6
東日本大震災の発生後、火災が起こった宮城県石巻市の住宅街=3月11日午後5時57分

 ◇東北中心に死者・不明者約3万人

マグニチュード(M)……震源(地震が起こった場所)における地震の大きさ。それに対し「震度」は、地震が起きたそれぞれの場所でのゆれの大きさ。

 震度7は、最高ランク(※)のすさまじいゆれです

 ※気象庁の震度階級表による

ニュースがわかる5月号

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ニュースがわかる・災害:巨大地震でまち壊滅/2 「プレート境界型」
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 ◇プレートの境目で大地震が3回起こった
 ◇震源域、海中で南北500キロにも

 東日本大震災は、三つの大きな地震が次々と重なって起こった。

 最初の地震は3月11日午後2時46分、岩手県と宮城県の三陸沖でM8.8の大きさで発生。わずか150秒後、南の福島県沖を震源とする地震があり、続けてさらに南の茨城県沖を震源とする地震も起こった。この間だいたい6分。

 三つの地震の震源域(地震が起こった地域)は南北500キロ、東西200キロとみられ、地震の大きさは合計でM9.0に及ぶ。

 震源のあたりは地震が多いところなんだね。

 ああ。今回の震源域の近くに、これまでくり返し起きてきた「宮城県沖地震」の震源域がある。でも東日本大震災は、宮城県沖地震の予想規模よりずっと大きかった。

 広い地域にある複数の震源が連なって動いたんだ! それで最大級の地震になったんだね。

 同じタイプの巨大地震には、チリ地震(1960年、M9.5)、スマトラ沖地震(2004年、M9.0)がある。後者は大津波などで28万人以上が亡くなった。

 ◇断層が大きくはね上がり、巨大地震になった

 地球は、陸や海をのせた10枚ほどのプレート(岩板)でおおわれている。それぞれ年に数センチの速度で動き、プレートどうしが押したり引いたりする巨大な力が地震を引き起こしている。

 東日本大震災は、プレートの境目で発生する「プレート境界型地震」だ。海側の太平洋プレートが陸側の北米(北アメリカ)プレートの下にもぐりこむ境目で起きた。地震の規模が巨大だったのはプレートのずれが大きかったから。岩手県から茨城県までの断層が20メートルはね上がったとみられる。

・断層……地層の割れた部分。

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 ◇巨大地震になる「プレート境界型」

 プレート境界型地震は異なるプレートの境目で起きる。沈みこもうとするプレートによって押し下げられたもう一つのプレートがひずみに耐えきれず、はね返って巨大地震を引き起こす。10万人以上の犠牲が出た1923年の関東地震(関東大震災)がこのタイプ。過去に大きな被害をもたらした東海地震、東南海地震、南海地震も同様だ。

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 ◇プレート境界型地震の特徴

・M8以上の巨大地震になる

・被害の範囲がとても広い

・津波が発生する

・同じような場所でくり返し発生する

 直下型の活断層地震というのもある。Mは小さめでも、まちを直撃するとひどい被害が出る。1995年の阪神大震災が代表例だニャ

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 ◇巨大津波が一気に
 ◇地震後10分で沿岸に

 海底を震源とする巨大地震は津波を引き起こす。東日本大震災がこれほど大きな犠牲を出したのは大津波のせいだ。

 今回の大津波は、地震発生後わずか10分以内で東日本各地の沿岸に到達した。三陸沖から茨城沖にいたる南北に長い断層が動いたため、広い範囲の沿岸にほぼ同時に着いた。

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陸に押し寄せ、家をのみこむ大津波=宮城県名取市で2011年3月11日

 ◇入り江の地形に津波集中

 沿岸の特殊な地形も被害を大きくした。湾や三陸リアス式海岸のV字形地形のようなところでは津波が集まりやすい。宮城県の仙台市や石巻市などが面する仙台湾では、入り江の地形に沿って津波が集中。水が一気に押し上げられ、高いところでは十数メートルに上った。

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 ◇自動車の速さでおそいかかる

 津波は、海底の地形が動いて海水が持ち上げられ、大きな波となって四方八方に広がる現象だ。伝わる速さは海が深いほど速く、海岸近くまでくると遅くなる。そのため、陸地に近づくにつれて後からきた津波が先にきた津波に追いつき、陸に到達したときには波がとても高くなる。その速さは自動車ほどで、エネルギーも大きい。

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 ◇岩手、宮城、福島の海沿い すさまじい被害

 東日本大震災では予想よりはるかに高い津波が東北地方の太平洋沿いにおそいかかった。避難中や避難済みの人までがあっという間に高波にさらわれ、恐ろしいまでの被害をもたらした。

 ◇死者のほとんどが水死

■岩手県陸前高田市(元の人口2万3000人)

 津波でほぼ壊滅状態。大半の家が壊れ、市内はがれきと化した。残っているのは市役所やスーパーなどいくつかの建物だけで、8000世帯のうち5000世帯が被害にあったとみられる。

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津波で廃虚となった岩手県陸前高田市=2011年3月12日

 ◇「不明」2000人が無事

■宮城県南三陸町(元の人口1万7000人)

 ここも津波で壊滅状態。宮城県は3月14日、1000体ほどの遺体を確認した。町民1万人と連絡が取れなかったが、15日に約2000人の無事がわかった。

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津波で骨組みだけが残った建物=宮城県南三陸町で3月13日

 ◇火力発電所が火事

■福島県南相馬市(元の人口7万3000人)

 津波で1800世帯が壊滅状態。14日、市内にある東北電力原町火力発電所のタンク近くから出火し、一時は大きな炎と黒煙が上がった。

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学校の体育館に避難した人々=福島県南相馬市で2011年3月12日

 ◇小学校で70人以上が犠牲に

■宮城県石巻市(元の人口16万人)

 市立大川小学校では70人以上が犠牲になった。巨大津波が近くの川を逆流して約6キロ先の校舎をおそい、2階建ての屋根が少し見える高さにまで達した。市内では火災が起こり、全焼した小学校もあった。

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巨大津波が火災を引き起こした宮城県石巻市の門脇小学校

ニュースがわかる5月号

【関連リンク】

国土交通省 防災情報提供センター
http://www.mlit.go.jp/saigai/bosaijoho/
日本地震学会
http://www.zisin.jp/
ぼくとわたしのさい害学習ウェブ(京都府亀岡市)
http://www.city.kameoka.kyoto.jp/kcm/jishin-web/index.html

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原発が被災、大事故に/1 被ばく逃れ7万人超避難
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爆発で壊れた福島第1原発。左は3号機、中央奥が4号機=2011年3月15日、東京電力提供

 東日本大震災では、原子力発電所(原発)の事故も起こった。東京電力の福島第1原発(福島県大熊町、双葉町)で、原子炉の中心部が溶ける炉心溶融という重大なトラブルに見舞われた。建物の爆発も相次ぎ、施設の外に放射性物質が放たれ、被ばくの危険から逃れるために7万人を超す住民が避難した。野菜や水道水も汚染された。

 原発は核分裂という反応を利用している。ウラン燃料が核分裂した時に発生する熱でお湯を沸かし、水蒸気の力でタービンを回し電力に変えるしくみだ。この反応によって、人体に有害な放射線や放射性物質も同時に生まれる。だからトラブルになると大変なんだ。

 ふだんなら原発では核分裂反応がゆっくり連続して起こるようにコントロールし、高温になりすぎないように常に水を循環させて冷やしているよ。燃料はあまりに高温のため、原子炉を止めた後も水で冷ます。2800度くらいの高温になると燃料が溶けて放射性物質が出てくるから、プールの中で水に浸した状態にしているの。

 ■原発が海岸沿いにあるのは、冷やすために大量の水が必要になるから。でも、今回はこれが裏目に出て津波を受けて被害が大きくなった。

 ◇原発で起きうる重大事故

☆核分裂の反応がコントロールできず暴走して、原子炉が爆発する

☆燃料を冷やすのに失敗し、原子炉が溶けて壊れる

 典型的な重大事故は上の2種類。原子炉が壊れると、たくさん放射線を出す「死の灰」が飛び散ることになる。原発の安全策は「原子炉を止める」「原子炉を冷やす」「放射性物質を閉じ込める」の三つだ。

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原発が被災、大事故に/2 続く爆発、放射性物質が外に
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 東日本大震災直後に原子炉は自動停止し、暴走は防げたが、冷やすのに失敗した。爆発や炉心溶融によって建物や燃料棒が壊れ、放射性物質を閉じ込めるのにも失敗した。

<1>冷却できず、水蒸気が大量発生

 地震や津波で機器が破損したり、非常用電源が確保できなかったりした。原子炉内を冷やせないので、水蒸気がどんどん発生した。原子炉内や周辺設備の圧力が高まった。爆発や火災が続き、建物が壊れた。その結果、放射性物質が外部に放出された。

<2>炉心が溶け出した

 原子炉内は水が蒸発して減り、さらに温度が上がるという悪循環になった。いつも水中にある燃料棒が水面から上になり、高温になって溶け出す「炉心溶融」が起こった。炉心溶融がどんどん進めば、原子炉が壊れる大事故になる。

<3>使用済み燃料プールも過熱

 施設内全体の温度が上がると、使用済み燃料を保管するプールの水も蒸発した。この水蒸気には高いレベルの放射性物質が含まれる可能性が高いが、壊れた建物から外に出た。

 放射線をあびるとどうなるのかニャ?

 放射線をあびることを被ばくというんだけど、大量に被ばくすると死ぬこともある。白血病になったり、臓器から出血したり、がんになったりする。放射線が細胞を壊したり、突然変異させたりするからだ。

 事故後、放射線量が高くなっている。心配だニャ。

 原発の建物周辺ではとても高く、1時間あたり500ミリシーベルトにもなった。たった30分で作業員の1年間の被ばく量の上限250ミリシーベルトに達してしまう。シーベルトは体への影響を表す放射線の単位で、250ミリシーベルトで白血球が一時的に減るそうだ。ベクレルは放射性物質が放射線を出す能力の単位だよ。

 関東地方まで広い範囲で観測されている。大丈夫?

 実は、人間は年間平均2.4ミリ被ばくしている。自然界にも放射線があるんだ。必要以上に神経質にならなくてもいいけど、なるべく体内に入れない方がいいから、情報に注意しよう。放射性物質に野菜や水道水も汚染された。でも、規制値はとても厳しく決められているから、基準以上のものを飲食したからといってすぐに健康を害するわけではない。

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 ◇震災で初めて、歴史に残る事故

 これまで世界で最も重大な原子力事故は、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故で、深刻さを示す物差しではレベル7。ついでアメリカのスリーマイル島原発の事故がレベル5。国内では茨城県東海村の被ばく事故がレベル4だった。

 地震による被害としては、2007年7月の中越沖地震の時、東京電力柏崎・刈羽原発で火災が発生したが、重大なトラブルには発展しなかった。今回の福島第1原発の事故は震災で初めての深刻な事故で、政府は4月12日、最も深刻なレベル7(暫定)に相当すると発表した。

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原発が被災、大事故に/3 原発頼りの日本
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 ◇電力の3割をまかなう

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エネルギー別発電電力量の移り変わり

 日本はアメリカ、フランスに続く原発大国。運転中の原発は54基で、福島、福井、新潟など、限られた地域に集中している。資源の少ない日本にとって、「原子力は少ない燃料でたくさんの電力を生み出すことができる」と推進されてきた。現在、電力の3割を原子力でまかない、20年後には4割以上に増やす計画だ。原発は石油や石炭に比べて二酸化炭素(CO2)の排出が少ないため、地球温暖化対策になると考えられている。

 ◇推進の動き一転、各国が見直し

 ヨーロッパやアメリカでも原発は温暖化対策になると見直されていた。急速に発展し電力不足が予想されている新興国でも原発への期待が高まり、アジアや中東など60カ国が導入を考えているといわれる。だが、原発先進国・日本での重大事故が急ブレーキをかけそうだ。スイスは建設をしばらく認めず、新たに安全対策のルールを定めることを決め、中国も一時、建設を中止した。

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原発が被災、大事故に/4止 関東では連日の「停電」
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 被災地に発電所をもつ東北電力、東京電力では十分に電力を提供することができなくなり、大がかりな停電を避けるために計画停電に踏み切った。東京電力では地震被害で1625万キロワット分の発電ができなくなり、3月14日から計画停電を始めた。国の役所や多くの会社がある都心部をのぞき9都県が対象になった。節電する人が増えたものの、信号機が消えるなど生活を直撃した。

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停電で信号が消えたため、誘導されながら横断する小学生。車は渋滞の列ができた=さいたま市で2011年3月15日

■計画停電……発電電力量が消費電力をまかないきれないと予想される時、電力会社が地域別に一定時間、電力の提供を停止すること。戦後の混乱期以外で行われるのは初めて。

 ◇電車は運休、工場は停止に

 停電の計画を受けて、首都圏の鉄道会社は、運行区間を区切ったり、本数を減らしたりして対応した。電車が半分運休した路線もあった。社員を早く帰らせるほか、出社させない会社もあった。また、さかり場ではネオンを消し、大きなビルに入った店を休みにするなど節電の動きが広がった。

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節電のために街灯以外のネオンが消えた東京・渋谷のハチ公前=2011年3月14日

 ◇電力需要は夏場がピーク

 被災地の原発が運転を再開するためには相当の時間がかかる。事故を起こした原子炉は使用できない可能性もあり、電力不足は長く続くと覚悟した方がいいだろう。

 1年のうちで電力消費が最も多いのは、エアコンを使う夏場。東京電力の担当地域では最大6400万キロワット必要になるが、今のままだと4800万キロワットしか提供できない。いろいろな節電の試みを今から考えておく方がよさそうだ。

 ◇節電の工夫

使わない部屋の電気を消す

外出時には電気製品のコンセントを抜く

冷蔵庫の開け閉めは最小限に

テレビの音量は控えめに

洋服や帽子などで暑さ寒さをしのぐ

夏場はカーテンを閉める

 原発は地震がきても安全だと説明されてきましたが、この先、原発頼りのエネルギー政策を見直す必要が出てくるでしょう。政府は原発を輸出しようと、企業と一緒に外国に売り込んできたけど、今後は難しいかもしれないです。

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ニュースがわかる目次:2011年5月号 4月15日発売
2011年04月10日
http://mainichi.jp/feature/news/20110404org00m100044000c.html
魚拓

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定価330円(年間購読3,960円)

月刊「Newsがわかる」は、小学校中学年から中学生をおもな対象に、ニュースをわかりやすく解説した雑誌です。

カラーの図表、イラスト、写真が豊富で、できごとの核心がひとめでわかります。

5月号のニュース解説のテーマは次の通りです。

 ◇<災害> 「巨大地震でまち壊滅」

 3月11日、東日本大震災が起こりました。マグニチュード9.0は日本の観測史上最大。海で起きた地震だったため、巨大津波が起こって東北の太平洋沿いに想像を絶する被害をもたらしました。原発事故まで引き起こし、今も深刻な影響を及ぼしています。

 ◇<技術> 「インターネットが革命起こす」

 インターネットが革命を起こす時代です。北アフリカのチュニジアやエジプトでは「フェイスブック」「ツイッター」を通じて国民の抗議行動がもりあがり、長期政権を倒しました。世界とつながるインターネットの発達が、言論統制や隠ぺいを許さなくなっています。

 ◇<生きもの> 「『春の小川』の生きもの図鑑」

 文部省唱歌の「春の小川」を知っていますね。あの歌ができてまもなく100年になります。歌詞をあらためると、当時の小川の風景は今とだいぶちがっていたようです。だんだん暖かくなってきました。家族で春の小川を観察しに出かけてみてはいかがですか?

 ◇<文化> 「現代に生きる『芸術は爆発だ!』」

 高度成長にわく1970年、大阪万博会場に「太陽の塔」を建てて人々のどぎもを抜いた芸術家がいました。岡本太郎(1911〜96年)です。「芸術は爆発だ!」といった名ぜりふで昭和の日本人に強烈な印象を残しました。今年は誕生から100年です。

 ◇<国際> 「産油国リビアが戦争状態」

 リビア国内が戦争状態になっています。41年も続いたカダフィ大佐の独裁支配に国民が反旗をひるがえしたのがきっかけです。アフリカ有数の産油国だけに、世界経済にも不安をあたえています。

http://mainichi.jp/feature/news/20110404org00m100044000c2.html
魚拓

 ◇その他の連載もお楽しみください

●人気まんが

 ◇杉山ただし作「トッポちゃんのなぜ? なに? 日本日記」……日本の調査にやってきた宇宙人の女の子がゆかいな騒動を巻き起こします。今回は「ファストファッション」を調査。新米調査員のプッチちゃんがおしゃれに頭を悩ませるわけとは?

 ◇森本サンゴ作「少女記者マイちゃん」……夕やけ新聞記者のマイちゃんは小学6年生。ワカル先輩といっしょに学校新聞のネタ探しに走り回ります。今回は伝説の(!?)事件記者として鳴らしたマイちゃんのおじいさんが登場します

●冒険エッセー「あんどうひろまさの世界一の旅」

●パズルで算数に強くなる「高浜先生の実験算数脳!!」

●インタビュー:ゲストはさかなクン

●食育のページ「タベルくんのおいしいクイズ」

 

防災関連エントリー:
東日本大震災の記録 大津波悲劇の中の救い、防災の備えが命を救った、英字紙記事も。

3・11東日本大震災「学校最多の犠牲者、石巻市立大川小」検証のために関連記事採録。 

3・11:東日本大震災 宮城・山元町の自動車学校、送迎手間取り25人死亡 

検証・大震災:3家族の3.11、陸前高田・河野さん、名取・佐藤さん、石巻・木村さん。 

3月11日〜3月28日のNYT写真集を全採録。直視し忘れないことが犠牲者への弔い。事実を伝えない日本のマスゴミは糞。 

 

 「防災必需品+体験談」←グーグル検索です。普段からの備えが大事、参考にして下さい。以下、僕自身が用意している基本グッズのAMAZONリンクをはっておきます。

 ※をつけたグッズは、小さな子は別にして家族全員個人装備でも良いと思います。特にヘッドライトは明かりの欲しい作業の時などに使って重宝しています。夜、自転車の前照灯が球切れした時にも使い助かりました。雨具は傘以外に、即行で着脱できて両手が使えるポンチョもお勧めします。

ホイッスル 笛 ※(救出要請SOS、その他)

ヘッドライト ※

LED懐中電灯 ※

SONYポケットラジオ ※

SONY防災ラジオ ←スマホ手回し充電可能タイプの

LEDランタン 

・火を熾すもの(チャッカマン西洋火打ち石

卓上カセットコンロ 

VICTORINOX多機能ナイフ ※

ポンチョ(アウトドア雨具) (←お勧め)※

 ロープは万能道具、普段から慣れておくことが大事。

決定版 ひもとロープの結び方 便利手帳 

使えるロープワーク―必ず役立つ「結び」の完璧テクニック (OUT DOOR)←アウトドア好きの方が書いた本。

アウトドア用のロープ ←リンクをはりましたが、一番良いのは登山用品店に行って説明を聞き、自分でも手にとって選ぶ事です(太さの感じが分かります)。通常、メジャーを使って1m単位で量り売りしてくれます。僕自身は、径3.5㎜と4.5㎜のでそれぞれ2m、3m、5mのを適宜本数組み合わせて普段からザックの隅に入れてます。また車にはそれに加え径8㎜で10mのを2本積んでます。細いロープは長いのだとうまく使えません。短いのを準備して使うのがロープに慣れるコツ。長さが足りなければつないで使えばよいのです。

 着るものを含め、防災グッズはアウトドアグッズを転用出来るわけですが、ザッグを例に取ると、防災用と比べアウトドア用のザッグは作りも頑丈ですし、使い勝手もはるかに良いです。

リュックサック ※

ザック ※

 意外と忘れるのがマスクとゴーグル。特にマスクは瓦礫の粉じん対策として必需品(特に肺がんを引き起こす石綿:アスベストに要注意)、避難場所での風邪の集団感染予防にもなります。またゴーグルは震災での粉じん対策だけでなく富士山が噴火した場合、大量の降灰に対する備えとしても必要。マスクとゴーグルは花粉症対策としても使え、何もしないよりは放射能降灰への備えとしても有用と思います。

山本光学のN95マスク  ※

山本光学の浮遊粉塵用セーフティゴーグル ※

 薬や救急用品など。これは個人それぞれ違うはず。以下は僕が用意しているもの。消毒用ジェルは避難所で用意しているはずですが、万一に備え感染症防御でこまめな手洗い用。スキンクリームはウォシュレットが使えない避難所で拭く時に使う切れ痔予防。裏技用途で、ジェルやワセリンはたき火が必要な時に火口(ほくち)に少し使うと火を熾しやすくできます。手ぬぐいはバンダナ代わりや鉢巻きにも使え、いざという時には包帯にもなる必需品。

消毒用ジェル救急絆創膏テーピング用テープけが等の軟膏ワセリンスキンクリームソンバーユなら)、とげ抜き手ぬぐい

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 以下追記、資料として採録。

阪神・淡路復旧作業石綿禍 東日本被災地にも暗い影
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/18/201208/0005483567.shtml
魚拓 

B_05483568 重機で解体される被災ビル。粉じんが舞う=1995年2月、神戸市兵庫区

 発生から17年半となる阪神・淡路大震災の被災地で、建物の復旧作業に伴うアスベスト(石綿)被害が新たに確認された。牙をむき始めた大震災の石綿禍。しかし、当時の環境庁(現・環境省)などによる石綿の飛散調査は「おおむね問題なし」との結果だった。時をへて相次ぐ中皮腫の発症は、実態把握の不十分さを浮き彫りにするとともに、東日本大震災の被災地にも暗い影を落としている。

 家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。阪神・淡路大震災の被災地では、倒壊した建物からすさまじい量の粉じんが発生した。日本では石綿消費量の約8割が建材に使われてきた。吹き付け材、屋根材、内装材、吸音材、外装材、耐火被覆材(たいかひふくざい)などだ。震災で崩れた建物のがれきには、命を脅かす「死の棘(とげ)」が含まれていた。

 当時の環境庁の調査によると、解体現場周辺で空気1リットル中の石綿繊維量は平均3~5・4本、大気汚染防止法の基準(10本)を下回った。一方、民間研究機関「環境監視研究所」(大阪市)の測定では、解体現場周辺で1リットル中160~250本が検出された。基準値をはるかに上回る。

 官民でデータに隔たりがあるが、中皮腫が増えているのは「飛散防止に有効な手を打てなかったことを示している」(専門医)とみる人は多い。

 解体が急ピッチで進む中、行政が現場に本格的な粉じん対策を指示したのは、発生から1カ月あまりたってからだ。復旧工事が急がれる中、石綿対策が後手に回ったことがうかがえる。

 発生から間もなく1年半になる東日本大震災の被災地でも、石綿の飛散に不安が高まっている。

 環境省の飛散調査では、約350地点のうち95・4%で「問題なし」との結果だった。しかし、現地調査をした森裕之・立命館大教授(公共政策)は「極めて不十分」と疑問を投げ掛ける。「建材は解体作業で細かく砕かれており、風向きによって測定値が大きく異なる。東北の被災範囲は広大で、阪神・淡路の教訓を踏まえて丁寧に測定すべきだ」と話す。

 被災地ではがれきの集積場が点在している。原発事故に伴う放射能汚染に目を奪われがちだが、宮城県石巻市の石巻赤十字病院の矢内勝・呼吸器内科部長は「がれきが身近にある以上、石綿の吸引を避けるために万全を尽くす必要がある」としている。(加藤正文)

【発症時期迎え被害拡大か】
 中皮腫で亡くなった宝塚市の男性=当時(65)=が阪神・淡路の復旧作業に携わったのは、わずか2カ月だった。震災アスベストの危険性を訴えてきたNPO法人ひょうご労働安全衛生センターは「十分な飛散対策がないまま、復旧解体が街中で繰り広げられた。労働者だけでなく、住民やボランティアへの被害も懸念される」と指摘する。

 石綿が肺の中に入り、中皮腫や肺がんといった石綿疾患を引き起こすまでの潜伏期間は、十数年から40年とされる。阪神・淡路大震災から17年半、同センターの西山和宏事務局長(50)は「発症時期に入ったのではないか」と警戒感を強める。

 近年、復旧に携わった労働者の石綿疾患が相次ぐ。2008年、解体にかかわった兵庫県内の男性の中皮腫発症が判明。その後、解体作業の現場監督を務めた芦屋市の男性、がれきを収集した明石市職員の発症が確認された。

 しかし、いずれも発症と震災時の石綿飛散との明確な因果関係は証明されておらず、兵庫県の井戸敏三知事は「原因が阪神・淡路大震災だとはなかなかなりにくいのではないか」などと繰り返し発言している。

 これに対し、今回の宝塚市の男性のケースでは、石綿に触れる機会が震災後の復旧作業に限定される。男性の妻(67)は「夫と同じような作業をしていた人は多いはず」との思いで、夫の病状の公表を決心した。

 被害拡大や不安解消に向け、行政の速やかな対応が求められる。(中部 剛)

2012/8/24

 

論壇
アスベスト禍の衝撃 史上最悪の産業災害
命に突き刺さる棘、震災復興でも深刻な被害が

http://gendainoriron.jp/vol.03/rostrum/ro03.php
魚拓 
Internet Archive 

神戸新聞編集委員 加藤 正文


国賠勝訴 
複合型ストック災害 
クボタショック 
震災アスベストの脅威 
相次ぐ発症 
異常事態の中で 
繰り返される過ち 
課題を示す窓 


 原発事故とアスベスト(石綿)禍には被害の構図が共通している。過去に地震や津波が繰り返し発生した地に原発を起き、研究者が再三、その危険性を警告していたにもかかわらず、虚構の「安全神話」の中で稼働を続けた。一方、石綿も戦前から有害だと分かっていながらも、その有用性、経済性から「管理して使えば安全」と国は十分な規制を行わず、約1千万トンを消費した。使用禁止は北欧に遅れること20年、ヨーロッパ諸国に遅れること10年以上たった実に2006年だ。

 原発事故は「史上最大・最悪の公害」(宮本憲一・大阪市立大名誉教授)であり、石綿禍もまた「史上最大の産業災害」(同)である。筆者は2005年6月末、兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場内外で深刻な被害が発覚した、いわゆる「クボタショック」以降、各地で取材を重ねてきた。その成果を『死の棘・アスベスト』(中央公論新社、2014年)として刊行した。石綿はその使用状況の広がりを反映して、被害状況も多様だ。本稿では、①石綿産業の原点としての大阪・泉南②アジア最悪の被害を出した兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場③今後、深刻な被害が懸念される震災アスベスト-の3点で被害と不作為の構図を描いていく。


国賠勝訴

 「勝訴」「最高裁、国を断罪」。原告側の弁護士の旗が出ると、最高裁前に詰めかけた被害者らから拍手がわいた。2014年10月9日、石綿を吸って肺がんや中皮腫などを患った大阪・泉南地域の元工場労働者らによる国家賠償請求訴訟で、最高裁は国の賠償責任を初めて認める判決を言い渡した。

Kato_asbestos1
知られざる地場産業だった大阪・泉南の石綿紡織産業。100年の時をへて最高裁が国の不作為を認定した(大阪アスベスト弁護団提供)

 「労働環境を整備し、生命、身体に対する危害を防止するために、国は技術の進歩や医学知識に合うように適時適切に規制権限を行使すべきだ」。この「適時適切」という理念を盛り込んだ判決が確定するまでに、どれほどの苦難があったことだろう。病気に斃れた無数の声なき声が、100年もの長い時を超えて重い扉をこじあけたのだ。

 関西空港の対岸、大阪府泉南市、阪南市を中心とする泉南地区は、日本の石綿紡織産業の原点の地だ。中小零細の工場が集積し、戦前は軍需産業、戦後は自動車や船舶、機械などの基幹産業を支えた。最盛期には約200社が稼働し、約2千人が就労したという。戦前から石綿紡織工場の全国一の集積地として発展した。

 主な製品は、石綿を主原料に綿花などを混紡した糸、そして、この糸を布状やひも状に加工したものだ。耐熱性、絶縁性にすぐれ、各種パッキング、蒸気機関車などの防熱ふとん、自動車の摩擦材などに幅広く使われた。「小はランプの芯から、大は重化学工業の発熱部を覆う断熱材として欠かせなかった」(柚岡一禎・泉南地域の石綿被害と市民の会代表)。あちこちに工場が点在し、「街全体が石綿工場のようだった」といわれるが、今の街並みからは想像もつかない。高度成長期をピークに生産は次第に先細り、産地は消えた。長年、数多く労働者や住民が石綿による肺の病気で苦しんできたが、2006年、石綿対策の不備について国の責任を問う集団訴訟が提起されるまで知る人は少なかった。「国は石綿の危険性を知っていた、対策を取ることもできた、でも、やらなかった」。長い間、隠されてきた被害が表に出た瞬間だった。

 戦前の調査がある。国は1937(昭和12)年、泉南地区の被害をつかんでいた。旧内務省保険院の調査で、労働者の石綿肺罹患率が12・3%に上ることが判明した。担当医師らの「有害工業に属し法規的取り締まりを要する」との警告が残る。だが、国はこれに対して不十分な症例調査にすぎないとの立場をとった。その後も罹患率は10%を下回らず、労働基準監督署が調査を重ねた。しかし、「被害は深刻ではなかった」という見解を譲らなかった。 クボタのような大企業と違い、泉南はほとんどが零細企業で対策も不十分だ。「だからこそ国に被害拡大を防ぐ責任があった」。石綿問題に詳しい立命館大の森裕之教授(公共政策論)は国の不作為を指摘する。

 訴訟は2陣あり、1陣の地裁、高裁、2陣の地裁、高裁。そして今回の最高裁、過去5回の判決が投げ掛けるのは、一体、何のために労働関係の法規はあるのか、という根本的な命題だ。いくつもの曲折があったが、最高裁判決は、人間の命と健康を守るため、という基本原則を明確に示した。

 不断の努力で最新の知見に合わせて健康被害を予防する。被害が発生しているのならば、根絶まで対策を取る。これは法律や規則以前の行政の当然の責務だが、縦割りの官僚機構の中でその意識はかなり薄れている。あえてこの原則を厳しく指摘したところにこの判決の最大の意義がある。


複合型ストック災害

 手元にアスベスト(石綿)の原石がある。白く毛羽だった繊維のついた蛇紋岩。カナダ・ケベック州の鉱山都市セッドフォード・マインズの取材時にもらったものだ。

 壮大な露天掘りの鉱山に立ったとき、上流から下流へ流れる川のように、採掘された石綿が輸出され、港から工場に運ばれ、加工され製品となり、最後に瓦礫として廃棄される様子がまざまざと脳裏に浮かんだ。 熱や引っ張りに強く、燃えない。そして何より安い。産業革命とともに本格利用が始まり、各国の経済成長を支えた。その用途は建材、水道管、パッキング、シール材、ブレーキ材など実に3千種類に及んだ。

 かつては「奇跡の素材」と喧伝され、有害な「悪魔の素材」にもかかわらず、大量に使われた。日本は1千万㌧を消費した。1970年代にWHO(世界保健機関)やILO(国際労働機関)が発がん性を指摘したのに、日本が使用禁止にしたのは前述のとおり2006年。建物など社会のあちこちに蓄積(ストック)された石綿。髪の毛の5千分の1の微細な繊維は吸引すると長い潜伏期間をへて中皮腫や石綿肺などの病気を引き起こす。「生産・流通・消費・廃棄の経済活動の全局面で複合的に影響を与えるストック災害」(宮本・大阪市大名誉教授)とされる。近代化の初期に大量使用され、経済成長が一段落するころに「死の棘」の本性をみせる。これが複合型ストック災害の恐怖だ。

 日本で中皮腫による死者は2006年から毎年千人を超え、10年は1209人、11年1258人、12年は1400人、13年は1410人と増加。兵庫、大阪、東京、神奈川で多い。石綿を扱う工場などで働いたことがないのに病気になった人の数は中皮腫と肺がんで8千人を超え、その半数が亡くなっている。

 一方、労働災害として認定される人の数は毎年千人を超えている。高度成長期に起きた四大公害事件よりも被害者が多くなるのは間違いない。規制の決定的に遅れを踏まえると、被害のピークは2030年と予測される。


クボタショック

 アスベスト問題が労災を超えた公害であることを明確に示したのは、2005年6月に起きた「クボタショック」である。ショックたるゆえんは、工場の元従業員のみならず周辺住民の間で中皮腫が多発していることが発覚したからだ。中皮腫は石綿に起因する極めて予後の悪い特異性疾患だ。それが工場の周辺に広がっていた。発症状況を地図に落とすと、この特異な病気が工場の半径4キロにわたって広がっている状況が浮き彫りになる。

 2014年9月末時点で周辺住民と元従業員の死者は435人となり、アジア最悪の被害となっている。住民の被害者は263人で、元従業員(172人)を上回る。「俺、何か悪いことしたか」「1億円もらったってこんな病気、嫌」「クボタによる陰湿な殺人」「健康な体を返してほしい」―。不条理に命を奪われた患者たちの言葉はあまりに重い。

 クボタの社長は道義的責任から謝罪し、原則半径1キロの発症については救済金を支払ってきたが、肝心の因果関係についてはいまだに認めようとしない。「お見舞い金の延長」(首脳)という見解にとどまる。


震災アスベストの脅威

 重機がうなりをあげて建物を壊していく。むき出しの鉄筋、破砕された建材、積み上がる膨大ながれき、舞い上がる粉じん…。東日本大震災の被災地で続いた光景は、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災の状況と重なる。当時、全国から駆けつけた労働者たちは、復旧復興のためにひたすら解体作業に打ち込んだ。すぐそばではごく当たり前の日常生活が営まれていた。あたりを舞う粉じんに潜む「死の棘」の存在を、気に留めることはほとんどなかった。

 来年1月で丸20年となる。神戸の街に震災のつめあとは感じられなくなった。順調に「復興」したかのように見えるこの街で、肺の奥に突き刺さった微細な繊維、アスベスト(石綿)が牙をむき始めている。がれき処理に関わった人が相次いで、石綿に起因するがん、中皮腫を発症しているのだ。吸引後、10数年から40年たって発症するのが石綿のリスクだ。

 「チュウヒシュ? 俺が?」。2012年5月、兵庫県明石市にある県立がんセンターで思わず問い返した。医師の診断は「腹膜中皮腫」。高濃度のアスベスト(石綿)暴露で起きる病気だ。明石市環境部の男性=当時(48)=の仕事はゴミの収集業務だが、石綿との関連を考えるうちに、1995年の阪神・淡路大震災時に思い至った。

 男性は当時、がれきの処理業務に奔走した。ブロックやスレート、木材など震災で全半壊した住宅のがれきをパッカー車に積んで、処分場に運んだ。波形スレートは半分に割って車に押し込んだ。2、3トン積みの車だったが、可燃であろうが、不燃であろうがお構いなしだったので「5、6トンは載せていた」。

 処分場にがれきを投入する。荷重が重すぎて油圧で荷台が上がらないのでパッカー車の中に入ってがれきをかきだした。狭いパッカーの中はすさまじい粉じんだった。「使い捨ての紙マスクを2重にして使っていたけど、鼻の中まで真っ黒になった」。当時、焼却場は壊れていたのですべてのゴミを埋め立て処分場へ。破砕してブルドーザーでならした。舞い上がる粉じんとともにがれきはうずたかく積み上がった。

 時は流れ、2011年暮れ、下腹部にできたしこりに気づいた。それが見る間に大きくなった。「当時、俺よりもたくさんアスベストを吸い込んだ人がいた。神戸に来ていたボランティアの人もそうだ。俺が病気になるというとは、これからもっと多くの人が発症するということ。入念な検査をみんなにしてほしい」。男性の病状は悪化し、2013年10月に亡くなった。


■ 相次ぐ発症

 時がたち、阪神・淡路大震災の生々しい記憶が遠ざかる中で、石綿関連疾患の発症が相次いでいる。2008年3月、震災時の解体作業で石綿を吸ったため、がんの一種、中皮腫になったと訴えた兵庫県内の30代の男性を、姫路労働基準監督署が労災認定した。震災時作業による労災認定は初のケースだった。石綿の被害は潜伏期間が十数年~40年とされる。「震災による石綿疾患はいずれ爆発的に発生する」と、かねて懸念されてきただけに、いよいよ来たのか、という覚悟を迫る発症の報告だった。

 2009年5月、芦屋市の男性=当時(80)=が労災認定された。中皮腫と診断されたのは2007年。元建設会社の営業マンで、震災後の95年10~11月、人手が足りず、解体作業で現場監督を務めた。重機の巨大なハサミが建物をつかむと、左右に10メートルほど粉じんが広がった。労災を申請すると、労働基準監督署は建設会社に勤務していた77~98年の約22年間に石綿に触れたと判断した。しかし、渾大防さんは「営業マン時代、建設現場に出ることはほとんどなかった。石綿を吸い込んだのは、震災時の現場監督時代しか思い当たらない」と話す。13年暮れ、男性は死去した。

 2012年8月には、宝塚市内の男性(11年に65歳で死去)も労災認定された。この男性は衣料品販売をしていたが、震災で仕事ができなくなり、1995年2月、作業服に着替えてアルバイトとして工務店で勤務した。民家からずり落ちた瓦を集め、屋根にブルーシートをかけた。マンションの改修工事にも立ち会った。マンションの室内では職人が壁や天井をはがしたり、電動のこぎりで建材を加工したりしたため、相当量の粉塵が部屋にたちこめた。妻(67)は今、夫のかぶっていた野球帽にほこりがたくさんついていたことを思い出す。工務店のアルバイトはわずか2カ月。この間に石綿を吸い込んだ。16年後に中皮腫を発症し、2011年10月に死去した。妻は悲しみを口にした。「がれきの中のアスベスト(石綿)のことなんて考えもしなかった。お父さんは悔しかったと思う。同じ哀しみを東北の被災地で決して繰り返さないでほしい」

 同じ月、兵庫県内に住む別の70歳代男性も神戸東労働基準監督署から労災認定されたことも判明。3年近く瓦礫処理作業に携わったという。労災認定などで表面化する被害だけで5人。その背後で、解体、瓦礫収集、運搬、処理などの復旧・復興に関わった数多くの労働者が次々と石綿禍に倒れている。これが阪神・淡路大震災の被災地の現実なのだ。


異常事態の中で

 死者6434人、家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。現場は異常事態であり、緊急事態だった。

 「最悪の労働環境だった」。解体や瓦礫処理に携わった労働者たちの証言だ。神戸市兵庫区で工務店を経営する男性(81)は振り返った。「マスクどころか、タオルもまかずに仕事した。石綿が危ないなんて考える余裕はなかった」「防護シートを張らずに解体した。飛散を防ぐために水をまこうにも、水道管が壊れて水は出なかった」

 発生約1カ月後から一斉解体が始まった。無数の業者が被災地に集まり、神戸だけでも100件、兵庫県内で200~300件の解体が同時に進行したという。住民への情報開示、飛散対策が積み残されたまま、混乱の中、大量解体が進んだ。一体、どれだけの粉じんが街中を舞ったのだろう。当時、がれきの街を取材で回りながら、のどがいつもいがらっぽく、目が痛かった記憶が残る。

 都市では高度成長期以降、郊外型の開発に力が注がれ、インナーシティーと呼ばれる中心部の再開発は遅れてきた。ニュータウン開発に力を入れた神戸では、とりわけインナーシティー問題は課題となっていた。そこには石綿を含む老朽建築物が数多く取り残されており、災害対策としても石綿に十分注意が払われてこなかった。震災時の兵庫県地域防災計画には環境保全の記述はなく、10年後の復興10年委員会の「総括検証・提言報告」にもアスベストの文字は一カ所もない。

 「これは単なるアスベスト対策の欠陥ではなく、日本の都市政策、災害対策、復興政策の欠陥と関連している」(宮本、森永、石原編『終わりなきアスベスト災害』岩波書店、2011)。この指摘が重くのしかかる。

 しかし、自治体の対応は鈍いといわざるを得ない。東日本大震災の起きる1年前の10年5~8月に掛けて立命館大は全国の自治体に地域防災計画に震災時アスベスト対策を盛り込んでいるかどうかを調査した。結果、72・5%が「現在、盛り込んでおらず、特に盛り込む予定はない」と回答。そのうち、環境省が07年に策定した災害時の石綿飛散防止マニュアルについても、「認識していない」「確認していない」としたのは5割超。

 これが日本の石綿対策の実情である。そこに東日本大震災が起きたのだ。


繰り返される過ち

 東北の被災地に点在する瓦礫の集積場で遊ぶ子どもたち。倒壊した建物の前で、マスクをつけずに普通に歩く中高生…。「目に見えないアスベストが飛散しているから、できるだけマスクを」。そんな思いが募る。阪神・淡路大震災の被災地であまりに無防備だったからだ。

Kato_asbestos2 積みあがる震災がれき。微細な石綿繊維の飛散が懸念された。阪神・淡路大震災の教訓は生かされたのだろうか=2012年、宮城県石巻市

 津波に根こそぎ奪われた東北の町は、当初は声を失う惨状だったが、その後、がれきの様子が気になった。宮城県石巻市。2012年秋に県立石巻商業高校(約580人)の隣に広がるがれきの集積場には驚いた。高い囲いが巡らされ、白い袋詰めされた膨大ながれきが積み上がっている。搬入された後、生徒から「喉が痛い」「目がかゆい」などの声が寄せられたため取られた措置だった。

 がれきは、撤去、運搬、仮置き、処分の全過程で粉じんが発生する。倒壊家屋や破損した船舶には、ふきつけられたり、練り込まれたりした石綿がたくさん含まれている。当初、環境省の担当者は「津波で塩水にぬれ、石綿の飛散が抑制されている」としたが、乾燥が進み、破砕や運搬作業が進む中で、当然、飛散する。

 がれきの総量は東日本2300万㌧、阪神・淡路2千万㌧だ。東日本大震災に特徴的なのは、沿岸には製紙業をはじめ、さまざまな工場があることだ。長期間、排水を流したことで、海底にはさまざまな物質が蓄積している。「津波は、海底に沈殿していたものを一気に陸に揚げた。産業廃棄物を含むヘドロは普通の泥ではない」と石巻赤十字病院の矢(や)内(ない)勝・呼吸器内科部長が警告する。発生2カ月後に訪れた際、海底にたい積したヘドロが津波で打ち上げられていた。臨海部にそびえる日本製紙石巻工場の周りを歩いていると、雨が降り出した。それまで白っぽかった泥が、雨にぬれると、どす黒く変色した。石綿、砒素、鉛…。危険物質は数多くある。

 東日本で阪神・淡路とは決定的に異なる点がある。犠牲者の9割が建物倒壊による「圧死」が阪神・淡路なのに対し、東日本では死因の9割が津波による「溺死」だ。これはそのまま石綿被害にもあてはまる。破損した建物が津波で流され、そして有害なヘドロが沿岸部に拡散している状況を踏まえると、粉じんの飛散に伴う健康被害は、阪神・淡路大震災よりもはるかに広域になる危険性がある。

 環境省は東北の被災地で11次にわたってモニタリング調査を行った。結果、1713地点のうち99・6%で問題がなかったという結果だった。「おおむね問題なし」と環境省の大気課長(当時)はいう。ここでも20年前の阪神・淡路大震災の当時と似ている。

 しかし、「調査はきわめて不十分」と森裕之・立命館大教授(公共政策)は言う。被災地ではがれきの量を減らすために成形板を破砕しているケースがあるといい、「破砕物は風向きで測定値が大きく異なる。被災のエリアは400㌔にわたる広大な地域だ。もっと丁寧な測定が要る」と話す。


課題を示す窓

 大震災の発生でどれだけの石綿が飛散したのか、完全な把握は難しい。とはいえ、できることはある。まず、アスベストを含んでいた建物の倒壊した地区を中心に、当時の住民や解体・撤去にかかわった労働者らを登録し、健康診断を継続しなければならない。土木工事に他府県から多くの労働者が神戸・阪神間にやってきた。これはボランティアも同じだ。アスベストに暴露したというリスクを本人に周知させ、健康診断を受けなければならない。

 もう一つ必要なのは、私たちの住む街にいったいどれぐらいの石綿が蓄積しているのか。神戸市は固定資産税台帳によって建物の建築年次を調べ、アスベストの飛散可能性のあるものをチェックしている。これは公表していないが、地図に落とし込んでいるので、アスベストマップとしても活用できる。

 「大震災の発生時、ふだんは見えない社会の課題を示す窓が開く。その窓はごく短い期間に閉じてしまう」。阪神・淡路大震災のちょうど1年前の1994年1月17日、米カリフォルニア州ロサンゼルス市ノースリッジで起きた大震災の報告書にはこんなフレーズがある。窓が開いているうちに、根本的な対策がとれるか。神戸で生かせなかった阪神・淡路の教訓を、東日本で生かさなければならない。これは石綿問題にとどまらず、私たちの社会の未来にかかわる問題である。

主要参考・引用文献

(1)中部剛、加藤正文『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』、かもがわ出版、2014年

(2)加藤正文『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』、中央公論新社、2014年

(3)立命館大学政策科学会編『別冊政策科学 アスベスト問題特集号』、2008、11、12年

※新聞、雑誌、インターネットサイトの記事、各種訴訟の訴状、判決文などを参考にした。


かとう・まさふみ

1964年西宮市生まれ。大阪市立大学卒。89年神戸新聞入社。経済部、北摂総局、阪神総局、論説委員などを経て、現在、経済部次長兼編集委員。著書に『工場を歩く-ものづくり再発見』(神戸新聞総合出版センター)、『工場は生きている-ものづくり探訪』(かもがわ出版)、『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』(共著、かもがわ出版)、『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』(中央公論新社)など。


   「いのちに突き刺さる」アスベストの悲惨―――
真正面から立ち向かった著者渾身の
「怒りと告発」の書に戦慄する。
――内橋克人氏(評論家)

これは“影の日本経済史”であり
世界的スケールで“白い肺の恐怖”を
描いた力作である。
――黒木亮氏(作家)

『死の棘・アスベスト』
加藤 正文著 中央公論新社 定価1700円(税別)

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2011年5月 2日 (月)

東日本大震災の記録 大津波悲劇の中の救い、防災の備えが命を救った、英字紙記事も。

 表題の「防災の備え」ですが、紹介記事中にあるように目に見える具体的な防災対策、いわゆるハード面が大変重要なことはもちろんですが、それに加え、同じく他の記事中にあるように普段からどのような心がまえをしていたので役立ち助かったか、あるいは現実の災害でどんな対処をして助かったかなど、そう言うソフト面も「防災の備え」として大事な知識・智慧です。防災への教訓を得るために、パソコンに保存していた記事をアップ(2013/10/14)しておきます(他の防災関連エントリーリンク紹介は末尾)。

 なお被災した学校は被災後仮校舎に移転した例などが多いので、被災した元の場所がどんな感じだったか分かる様に、元の被災場所位置情報(緯度経度)を記事の前にメモしておきました。また被災前、被災後の状態が分かる様に極力画像を収集しアップしてます。

※タグ:防災、非常通路、機転きかせ、「運命の避難階段」、頑丈な校舎、素早い判断。

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

越喜来小の正門は標高6m(正門前の緯度経度 +39 07 1.578",+141 48 43.687" 大船渡市三陸町越喜来字沖田47)で、
避難用スロープを出た道路が標高約9m(出た道路の緯度経度 +39 07 1.560",+141 48 40.830" )で、
西に行った第1避難所の三陸駅が標高20m(緯度経度 +39 07 01.760",+141 48 35.960" )、
更に西に行った第2避難所の南区公民館が標高41m(入口の緯度経度 +39 07 00.920",+141 48 31.580" )

市議の「遺言」、非常通路が児童救う 津波被害の小学校(朝日)
2011年3月29日17時6分
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103290249.html
魚拓

Tky201103290252児童らが避難した後、津波で押し寄せたがれきに覆われた越喜来(おきらい)小学校の非常通路(中央)。右の児童たちも、この通路から高台に逃れて助かった=28日、岩手県大船渡市三陸町越喜来、仙波理撮影 

SOBA:写真を拡大して見るとがれきの下に非常通路の支柱が見えます。瓦礫上方の向こうに第1避難所三陸駅のホームも見えます。 がれきを片付けた後の非常通路(←頁内ジャンプ)


Tky201103290251 平田武さん=親族提供 


Tky201103290250 津波避難用の非常通路が取り付けられていた場所(写真中央)には、流されたがれきが山積みになっていた=岩手県大船渡市三陸町越喜来、其山写す 

がれき片付け後の非常通路はこちら(←頁内ジャンプ)


Tky201103290254 越喜来小学校の非常通路

 岩手県大船渡市の海沿いの小学校に、津波から逃れる時間を短縮する非常通路をつけるよう提案し続けていた市議がいた。昨年12月、念願の通路ができた。市議は東日本大震災の9日前に病気で亡くなったが、津波にのまれた小学校の児童は、通路を通って避難し、助かった。

 海から約200メートルのところにある越喜来(おきらい)小学校。3階建ての校舎は津波に襲われ、無残な姿をさらしている。校舎の道路側は、高さ約5メートルのがけ。従来の避難経路は、いったん1階から校舎外に出て、約70メートルの坂を駆け上がってがけの上に行き、さらに高台の三陸鉄道南リアス線三陸駅に向かうことになっていた。

 「津波が来たとき一番危ないのは越喜来小学校ではないかと思うの。残った人に遺言みたいに頼んでいきたい。通路を一つ、橋かけてもらえばいい」。2008年3月の市議会の議事録に、地元の平田武市議(当時65)が非常通路の設置を求める発言が記録されている。

 親族によると、平田さんは数年前から「津波が来た時に子供が1階に下りていたら間に合わない。2階から直接道に出た方が早い」と話すようになったという。

 平田さんの強い要望をうけたかたちで、昨年12月、約400万円の予算で校舎2階とがけの上の道路をつなぐ津波避難用の非常通路が設置された。予算がついた時、平田さんは「やっとできるようになった」と喜び、工事を急ぐよう市に働きかけていた。

 11日の地震直後、計71人の児童は非常通路からがけの上に出て、ただちに高台に向かうことができた。その後に押し寄せた津波で、長さ約10メートル、幅約1.5メートルの非常通路は壊され、がれきに覆いつくされた。遠藤耕生副校長(49)は「地震発生から津波が来るまではあっという間だった。非常通路のおかげで児童たちの避難時間が大幅に短縮された」と話す。

 市教育委員会の山口清人次長は「こんな規模の津波が来ることは想定しておらず、本当に造っておいてよかった。平田さんは子供のことを大事に考える人でした」と話した。

 非常通路から避難した児童の中には、平田さんの3人の孫もいた。平田さんの長男、大輔さん(38)は「人の役に立った最後の仕事に父も満足していると思う。小学3年の息子にも、大きくなったら話してやりたい」と語った。(其山史晃)

 

SOBA追加関連画像(2013/10/14):
(↓クリックすると拡大します)
Photo ←越喜来小周辺地図。矢印の所が正門。西に行くと第1避難所の三陸駅、更に西に行くと第2避難所の南区公民館。三陸駅は標高20m(緯度経度 +39 07 01.760",+141 48 35.960" )、更に西に行った第2避難所の南区公民館は標高41m(入口の緯度経度 +39 07 00.920",+141 48 31.580" )


 以下画像は「津波避難対策の事例について」より(←pdfの10頁/全16頁中)
越喜来小学校のスロープ(非常通路)の位置、児童らが利用した避難用スロープ。

Photo_2 スクロールして見るなら

←朝日の記事中、「津波避難用の非常通路が取り付けられていた場所」の写真とほぼ同じ位置方向から撮っている越喜来小の避難用スロープ。がれきは片付けられてます。越喜来小の正門は標高6m(正門前の緯度経度 +39 07 1.578",+141 48 43.687" )、非常通路を渡った道路の標高が約9m(出た道路の緯度経度 +39 07 1.560",+141 48 40.830" )、西に行った第1避難所の三陸駅が標高20m(緯度経度 +39 07 01.760",+141 48 35.960" )

朝日の記事では「長さ約10メートル、幅約1.5メートルの非常通路は壊され、がれきに覆いつくされた。」と書いてありますが、この写真を拡大すると分かる様に手すりが壊れただけで本体はしっかり残っていたのが分かります。

がれきが散乱している被災後間もなくの非常通路記事画像に戻る(←頁内ジャンプ)


60746_1 スクロールして見るなら

←被災前の「越喜来小学校前から三陸駅方面」by haw**even*40
撮影日: 2010 年 7 月 4 日(グーグル「未来へのキオク」


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←アップ、撮影時にはまだ避難スロープはありません。(避難通路が出来たのは、撮影日5ヶ月後の2010年12月)前記元画像が大きかったので画質を落とさず螺旋階段の右奥を見られます。また、坂を二度登り切った先に第1避難所三陸駅のホームが写ってます。


Photo スクロールして見るなら

←避難用スロープで出た標高約9mの道路(緯度経度 +39 07 1.560",+141 48 40.830" )から南方向を望む。既に越喜来小の校舎は取り壊され、校庭跡の先に越喜来湾まで見渡せます(2013/06のグーグルアース)なお、縁石に避難スロープ鉄枠の右パイプ残り、左パイプの抜けた穴が写ってます


1 スクロールして見るなら

←被災後取り壊される前の越喜来小。坂下から坂上の三陸駅方向を望む(以下4枚はグーグルの過去イメージより、2013/10/09取得)


2 スクロールして見るなら

←アップ。螺旋階段右奥に非常通路が見えます


3 スクロールして見るなら

←さらに手前の正門をアップ。


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←さらにアップで、くずれた正門の表札部分「大船渡市立 越喜来小学校」の表示。(正門前の緯度経度 +39 07 1.578",+141 48 43.687" 大船渡市三陸町越喜来字沖田47)


Photo_2 スクロールして見るなら

←越喜来小の東、小さな橋の手前、刈谷薬店前(道路北側にあった)あたりから越喜来小を望む。越喜来小正門前、避難用スロープで出た道路前を通り、右手奥三陸駅まで続く道路。


 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

大船渡小は標高約12m(正門前の緯度経度 +39 03 25.656",+141 43 07.312" )で、
避難所の大船渡中は標高約63m(正門前の緯度経度 +39 03 13.430",+141 43 02.940" )
越喜来小の緯度経度位置データは前の記事参照。

機転きかせて避難、全校無事 大船渡小と越喜来小(岩手日報)
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110323_13
Internet Archive

Newsy2011m03d23hinan0323 津波で校舎が3階まで破壊された越喜来小。避難開始の判断が児童の命を救った=大船渡市三陸町越喜来

 津波襲来時、大船渡市の大船渡小(柏崎正明校長、児童268人)と越喜来小(今野義雄校長、同73人)は状況に応じた対応で、児童全員が生き延びた。事前の想定を大きく上回る津波を前にマニュアルにとらわれない学校の判断が、児童の命を救った形だ。

 越喜来小は第1避難所に三陸駅、第2避難所に南区公民館を設定。通常は揺れが収まってから避難するが、今回はあまりにも揺れる時間が長すぎた。細心の注意を払いながら、揺れている間に避難を開始した。

 大津希梨さん(4年)は「大きな揺れのときにしゃがみ、小さい揺れのときに急ぎ足で逃げた。揺れが止まるのを待っていたら波にのまれたかもしれない」と振り返る。

 大きな揺れに泣きだす子もいたが、昨年整備した県道との連絡通路などを使って避難。校舎を破壊する津波の猛威に危険を感じ、南区公民館からさらに背後の山に登らせた。

 遠藤耕生副校長は「津波到達まで30分ないと想定すると、揺れが収まってからでは間に合わないと思った。校舎が壊れることも考えた」と説明する。

 大船渡小は学校が近所の住民も逃げてくる避難場所。11日も地震発生後、児童はマニュアル通り校庭へと避難した。

 ところが、津波が街をのみ込みながら、迫るのが校庭から見えた。柏崎校長はさらに高台にある大船渡中への移動を決断。児童は校門より山手のフェンスをよじ登り、1、2年生は教職員が持ち上げた。全児童が避難後、津波は校庭をのみ込み校舎1階に浸入した。

 柏崎校長は「まさか地域の避難所であるここまで津波が押し寄せるとは。それでも児童は冷静に行動した」と語る。

【写真=津波で校舎が3階まで破壊された越喜来小。避難開始の判断が児童の命を救った=大船渡市三陸町越喜来】

(2011/03/23)

SOBA追加関連画像:
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←右上の大船渡市立大船渡小と、南南東方向にある市立大船渡中の周辺地図。


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←大船渡市立大船渡小学校の正門、標高約12m(正門前の緯度経度 +39 03 25.656",+141 43 07.312" )


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←大船渡小避難所の大船渡市立大船渡中学校北門、標高約63m(正門前の緯度経度 +39 03 13.430",+141 43 02.940" )


 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

岩手県岩泉町立小本小学校は 標高10m(正門前の緯度経度 +39 50 35.218",+141 58 06.875" )で、
校舎(体育館)裏から南へ伸びる、国道45号へ続く避難階段(登り口の緯度経度 +39 50 30.850",+141 58 06.060" )を登り切った国道45号は標高40m。国道45号を南に150mの右側に高台の広場があり標高が55m。

【東日本大震災】児童88人を救った「運命の避難階段」 岩手県岩泉町(産経)
2011.3.20 20:08 (1/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110320/dst11032020090083-n1.htm
Internet Archive

Dst11032020090083p1 小本小学校の校舎(体育館)裏から伸びる国道45号へ続く避難階段=岩手県岩泉町

 東日本大震災による津波は、岩手県岩泉町小本地区にある高さ12メートルの防潮堤を乗り越えて川をさかのぼり、家屋をのみ込みながら小学校まで迫った。間一髪で児童88人の危機を救ったのは、2年前に設置された130段の避難階段だった。(原圭介)

 太平洋に臨む岩泉町小本地区は、小本川沿いに半農半漁の住民158世帯、428人が暮らしている。小本小学校は同地区の奥に位置し、背後には国道45号が横切っているが、高さ十数メートルの切り立ったがけに阻まれ、逃げ場がなかった。

 同小の避難ルートは以前は別だった。数年前の避難訓練の際、伊達勝身町長が「児童が津波に向かって逃げるのはおかしい」と国土交通省三陸国道事務所に掛け合って変更。平成21年3月に国道45号に上がる130段、長さ約30メートルの避難階段が完成した。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110320/dst11032020090083-n2.htm
Internet Archive
 今回の巨大津波は小本地区と川を挟んだ中野地区(175世帯、422人)を直撃。130棟の家屋をのみ込み、校舎手前の民家もなぎ倒した。児童は予想外のスピードで迫る津波から逃れるため、避難階段を必死に駆け上り、高台の広場に逃げ込んだ。校舎と体育館は水に浸かり、今も使えない。

 高橋渉副校長(51)によれば、階段のおかげで避難時間が5~7分短縮できたという。広場の倉庫には毛布やテントも用意してあった。児童88人を救った130段の階段、高橋副校長は「あと10分、避難が遅れていたらどうなっていたか分からない。少なくとも何人はけがをしていたかもしれない」と胸をなで下ろした。

 卒業式と入学式・始業式は延期した上で町役場近くの町民会館で実施する。校舎での授業にはめどがたっていないという。

SOBA追加関連画像:
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←岩泉町立小本小学校の正門。校舎は一見きれいですが記事中にあるように水に浸かったようです。(正門前の緯度経度 +39 50 35.218",+141 58 06.875" )


 

日本テレビ ズームイン!!SUPER2011-03-24(木) 05:20~08:00
岩手 小本小学校 子どもたちの命救った階段
http://6mj.tv/episode_32D070EDDF309CB57CD4EF46D45BCF9B.html

    岩手県岩泉町の小学校には校舎裏側に高台への避難階段が設置されていた。これにより、児童らはスムーズに高台に避難することができた。また、小学校でもこの階段を使った避難訓練を行っていて、今回の地震では落ち着いて避難することができた。

 

 古人の教え「津波てんでんこ」を実践した、鵜住居小と釜石東中学校の関連記事です

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。(鵜住居関連の画像と動画はこちら←頁内ジャンプ)

釜石東中学校正門は標高約4m(正門前の緯度経度 +39 19 38.687",+141 53 33.968" 釜石市鵜住居町第19地割28-3)※

鵜住居(うのすまい)小学校正門は標高約5m(正門前の緯度経度 +39 19 38.859",+141 53 32.656" 釜石市鵜住居町第18地割5-1, 0193-28-3705,)※

※釜石東中学校正門と鵜住居(うのすまい)小学校正門は道路を挟んで向かい合わせで、ほぼ同位置(以下、両校正門前と略記)

最初の避難場所、ございしょの里は標高約11m(入口前緯度経度 +39 19 21.170",+141 53 15.700" )両校正門前から約860m。
次の避難場所、やまざき 機能訓練デイサービスホームは標高約20m(入口前緯度経度 +39 19 13.290",+141 53 07.690" )両校正門前から約1170m
更に次の避難場所、仲野石材店鵜住居展示場は標高約63m(入口前緯度経度 +39 18 58.210",+141 53 02.360" )両校正門前から約1680m
屋内の避難場所を求め、釜石山田道路(縦貫道)を南下し、
旧釜石第一中学校体育館は標高約11m(入口前緯度経度 +39 16 35.950",+141 53 06.400" )
最終的な避難場所、
釜石市立 甲子小学校は標高約61m(正門前の緯度経度 +39 15 19.890",+141 47 51.000" )
釜石市立 甲子中学校は標高約55m(正門前の緯度経度 +39 15 15.546",+141 47 48.875" )

以下サイトが参考になります。
群馬大学広域首都圏防災研究センターHP
http://www.ce.gunma-u.ac.jp/bousai/research02_3.html
Internet Archive

 

防災の教え、命救った 釜石「津波てんでんこ」生かす 小中学生、高台へ一目散
 (2011/03/27 06:55)
http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/earthquake0327/124759.html
魚拓

5363_1 避難の様子を話す釜石東中の3年生たち。一帯では津波で学校や多くの家屋が流された

 東日本大震災で1200人を超す死者と行方不明者を出した岩手県釜石市では、3千人近い小中学生のほとんどが無事に避難した。背景には、古くから津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝え「津波てんでんこ」(自分の責任で早く高台に逃げろの意味)に基づいた防災教育がある。想定外の大津波が押し寄せる中、防災の教えが子供たちの命を救った。(報道本部 枝川敏実、写真も)

 釜石市北部の大槌湾を望む釜石東中学校(生徒数222人)は、同湾に流れ出る鵜住居(うのすまい)川から数十メートルしか離れていない。11日午後の地震発生時は、各教室で下校前のホームルームが行われていた。

 立っていられないほどの横揺れが生徒たちを襲った。1階にいた3年生の栗沢正太君(15)は避難口を確保しようと、とっさに窓を開け、机の下へ。揺れが一段落すると、担任教師が「逃げろ」と叫び、栗沢君が校庭に出ると、2、3階にいた1、2年生も非常階段を下りてきた。

 校庭に出た生徒たちは教師の指示を待たず、高台に向かって走りだした。途中、同校に隣接した鵜住居小学校(児童数361人)の児童も合流。小学生の手を引く中学生の姿も目立ったという。

 子供たちは普段の防災訓練で使っている高台に集まろうとしたが、だれかが「まだ危ない」と言いだし、さらに高い場所にある老人施設まで移動。学校から1キロも走っていた。

 教師たちが点呼を取ったところ、登校していた両校の児童生徒計562人全員の無事が確認できた。その5分後、両校の校舎は津波にのみ込まれた。

 津波は地震発生後、いつ来るか分からない。教師の指示が遅れると、逃げ遅れることになる。釜石市内の小中学校は指示されなくても「とにかく早く、自分の判断でできるだけ高いところ」に逃げるよう指導してきた。

 釜石市は昭和三陸地震(1933年=昭和8年)やチリ地震(60年)などの津波で大きな被害を受けた。市内の各小中学校は津波を経験した高齢者の講演会などを開いたり、当時の映像を見せたりして津波の恐ろしさを教えてきた。釜石東中の場合、平均して週1時間を防災教育に充て、年3回避難訓練を行っている。

 市教委などによると、今回の震災で、釜石市内の小中学生2923人のうち、死者と行方不明者は5人。ほとんどが学校を休んでいた子供で、学校からの避難がほぼうまくいったことを裏付ける。

 一方、釜石港沖には2009年、マグニチュード(M)8・5の地震を想定し、高さ約6メートル、全長約1・6キロの防波堤が建設された。耐震性を増すなど最新の技術が駆使されたが、10メートル以上とされる今回の津波であっけなく破壊された。

 船や家を失い、避難所に身を寄せる漁業者からは「防波堤があるから、(津波対策は)万全だと思っていた」との声が多く聞かれた。釜石市の幹部は「津波対策は防波堤の建設などのハード面と、津波の恐ろしさを啓発するなどのソフト面があるが、今回の震災でソフト面の大切さを痛感した」と話している。 〈津波てんでんこ〉 岩手県大船渡市の津波災害史研究家山下文男さん(87)が、幼少時に父母が語っていた言葉を講演で紹介したことなどがきっかけで広がったとされる。「てんでんこ」は「てんでんばらばらに」の意。もともとは自分だけでも高台に逃げろという考え方を示すが、現在の三陸地方では自分の命は自分の責任で守れという教訓として使われている。

 

SOBA追加関連画像:お勧め記録映像
Photo スクロールして見るなら

←釜石東中学校と鵜住居小学校周辺地図。矢印の所が釜石東中正門。道路を挟み東南に広がる鵜住居小。なお、左下に最初の避難場所で危ないと通過した、ございしょの里が見えます(標高約11mなるも津波被災)。鵜住居駅北西「146」表示の左にある建物が下の動画で紹介する防災センター。


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←釜石市立釜石東中学校正門の所、標高約4m(正門前の緯度経度 +39 19 38.687",+141 53 33.968" )


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←鵜住居小学校正門は標高約5m(正門前の緯度経度 +39 19 38.859",+141 53 32.656" 釜石市鵜住居町第18地割5-1, 0193-28-3705,)グーグルのストリートビューで見ると正門の所が土砂の山になっており校舎が見えないので鵜住居川の向かい側からの画像です。


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←子どもたちが難を逃れた、釜石山田道路(震災伝承館より


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←釜石東中と鵜住居小から仲野石材店鵜住居展示場までの避難ルート。


20131015_152734 スクロールして見るなら

←屋内の避難場所を求め、釜石山田道路(縦貫道)を南下し、旧釜石第一中学校体育館にたどり着くまでの避難ルート。なお、仲野石材店鵜住居展示場横の釜石山田道路(縦貫道)から旧釜石第一中学校体育館までは輸送に協力したトラックなどでのピストン輸送。


「三陸の奇跡」と「命の道」~東日本大震災から学びました~
http://www.youtube.com/watch?v=6Gph1MM9lrQ

公開日: 2012/02/29

 念の為mp4 

↑↓両校正門前から標高63mの仲野石材店鵜住居展示場までのルートをたどっている動画です。

津波てんでんこ(釜石市鵜住居)
Pon Boko
http://youtu.be/pbgU9Ad97wU

2011/10/22 にアップロード

1分58秒の所から、ございしょの里。2分58秒から、やまざき 機能訓練デイサービスホーム。3分57秒から、仲野石材店鵜住居展示場(ここの字幕「国道45号まで距離約1560m」と言う表現は拙劣。本来なら「両校正門前から約1560m」とすべき。国道45号は車が走っている目の前の道路です。両校生徒が取りあえずの最終避難先までたどった釜石山田道路は仲野石材店鵜住居展示場の奥、土手を少し上った所の道路。)

 

SOBA:↓下記動画で、鵜住居地区の惨状を見ると、鵜住居小学校と釜石東中学校の生徒が全員助かったのが、どんなに幸運だったか分かります。

釜石市 鵜住居地区の津波被害
yoyoino4141
http://youtu.be/ARv_4a_8FBA

2012/03/14 に公開

 念の為mp4 

関連:〈 「鵜住居防災センター」の悲劇 〉 防災施設への避難で多数の犠牲――調査報告

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

宮城県山元町立中浜小学校は標高2m(正門前の緯度経度 +37 54 57.440",+140 55 1.760" )で、
北西方向の高台にある避難所の坂元中学校は標高約12m(正門前の緯度経度 +37 55 20.046",+140 54 18.562" )だったが、そこまで約2km。ラジオで津波到達10分と聞き、児童の足では坂元中まで間に合わないと判断し学校屋上に避難し全員助かった。

頑丈な校舎、児童救う 宮城・中浜小
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110330k0000e040023000c.html
Internet Archive

20110330k0000e040025000p_size5 海岸のすぐそばに建つ中浜小学校=宮城県山元町で2011年3月18日、津久井達撮影 


20110330k0000e040048000p_size5荒れ果てた校舎内でランドセルを拾う岩崎教諭=宮城県山元町で2011年3月18日午後3時49分、津久井達撮影 


 大地震の際、宮城県山元町立中浜小学校の児童らは「徒歩での避難では間に合わない」との井上剛校長(53)の判断で、校舎の屋上に避難した。周囲は家屋が押し流され多数の犠牲者が出たが、児童52人は全員無事だった。井上校長の判断の背景には、津波対策が施された校舎への信頼があった。

 がれきの中にぽつんと残った中浜小は、海岸から200メートルしか離れていない。津波を想定した避難計画では高台にある町立坂元中学校に徒歩で逃げることになっていた。しかし今回、実際に中学に向かった多くの住民が途中で津波にのまれた。

 「予想到達時間10分」の大津波警報を聞いた井上校長は町教委に相談する時間もなかった。「避難しても間に合わない」と判断し、校庭で遊んでいた1、2年生を急いで校舎に呼び戻した。児童や教諭、住民ら計90人で屋上に向かった。

 2階建ての同校は、周囲より約3メートル高く盛られた土地にあり、屋上は海抜10メートル以上になる。校舎は細長く海岸に垂直に建ち、他の学校より多くのドアや窓が設けられているなど、津波の威力を逃がすための構造が施されていた。

 第2波の波しぶきは屋上に達した。続く第3波は更に高かったが、引き波と打ち消し合い、次第に引いていった。子供たちは訓練通りに配布されている防災頭巾をかぶり、泣くこともなく静かに耐えていたという。

 井上校長は「子供たちの命を預かる責任は重い。校舎が頑丈と知っていたから、残す決断ができた。今後の参考になると思う」と語った。

 地震から1週間後、笹森泰弘教頭(50)と岩崎信教諭(50)が校舎を点検した。原形はとどめていたものの、教室の天井ははがれ落ち、図書館の本が校内に散らばっていた。校舎にはランドセルが二つだけ残されていた。岩崎教諭は「閉校になるかもしれないと思うとため息が出るが、何より子供たちが無事でよかった」と話した。2人は「子どもたちが喜ぶと思う」とランドセルを持ち帰った。【津久井達】

英訳

    【東北に届け】魂のゴール、カズダンス 慈善試合の写真と詳報
    【写真ドキュメント】3月30日 被災地の表情
    【被災地のために】義援金の主な受け付け窓口
    【写真ドキュメント】津波 静寂 街消えた=釜石市・沢田幸三さんが撮影
    【東日本大震災 図説集】各地の被災状況、原発の仕組みや避難区域など
    【安否やサポート情報】被災地の内外をつなぐ「希望新聞」ウェブ版

毎日新聞 2011年3月30日 10時43分(最終更新 3月30日 17時40分)

SOBA追加関連画像:
(↓クリックすると拡大します)
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←山元町立中浜小学校(A)と、北西方向の高台にある避難所の坂元中学校(高度が上がるようにルートをとった経路をグーグルアースで計測すると約2kmの距離)


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←中浜小学校正門は標高約2m(正門前の緯度経度 +37 54 57.340",+140 55 01.920" )


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←中浜小学校の校舎裏側から海の方向を望む。記事中の「周囲より約3メートル高く盛られた土地にあり」がうかがえる写真です。


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←中浜小学校が避難場所に予定していた山元町立坂元中学校の正門 標高約12m(正門前の緯度経度 +37 55 20.046",+140 54 18.562" )。中浜小から約2kmの所にあり、間に合わないと判断し行かなかった。


 

Quick-thinking principle saves students from tsunami
http://mdn.mainichi.jp/mdnnews/national/news/20110330p2a00m0na020000c.html
Internet Archive

20110330k0000e040025000p_size5 Nakahama Elementary School stands by the sea in Yamamoto, Miyagi Prefecture, in this March 18 photo. (Mainichi) 



YAMAMOTO, Miyagi -- An elementary school principal's quick thinking saved his students' lives here after March 11's colossal tsunami hit their school building.

Takeshi Inoue, 53, principal of the Nakahama Elementary School, led his students to the roof of the school building shortly after the Great East Japan Earthquake hit the region.

"We won't make it if we walk to a designated evacuation site," Inoue thought, and his swift decision saved the lives of all 52 students at the school, located only 200 meters from the coast. Many houses nearby were swept away by the tsunami, taking the lives of many residents, and the school building is surrounded by rubble.

Inoue had faith in the tsunami-proof schoolhouse, which has many windows and doors that are meant to redirect the power of a tsunami out of the building. Though the students were supposed to be evacuated to Sakamoto Junior High School up on a hill under the town's tsunami evacuation plan, many of the residents who headed to the school on foot were engulfed by the wave.

20110330k0000e040048000p_size5Makoto Iwasaki, a teacher at Nakahama Elementary School, picks up two school bags from the tsunami-ravaged building in Yamamoto, Miyagi Prefecture, on March 18. (Mainichi)


When Inoue heard the alert that a major tsunami would hit the area in just 10 minutes, he had no time to consult with the municipal board of education. He immediately called the first- and second-graders who were playing outside into the school before guiding a total of 90 people -- students, teachers and residents -- onto the top of the two-story school building.

The school stands on a three-meter-high mound, making its rooftop more than 10 meters above sea level. The building's narrowest side faces the coastline, so the structure can avoid being hit by the full brunt of the waves.

After the second surge of the tsunami splashed the rooftop, the third surge -- even higher than the previous two -- had threatened to swamp the rooftop before the waters finally began to pull back.

Students, clad in anti-disaster hoods, remained calm during the ordeal just as they were instructed to during past tsunami drills.

"We have the grave responsibility of protecting the lives of our children. I was able to make the decision to keep them at the school because I knew the building was firm," said Inoue.

A week after the catastrophic quake and tsunami, Vice Principal Yasuhiro Sasamori, 50, and teacher Makoto Iwasaki, 50, inspected the school building. Though the original structure of the building was intact, the ceiling panels in the classrooms had fallen off and the library's books had been scattered everywhere.

"We are sad to think that the school might be closed down, but we're glad our children are all safe," Iwasaki said.

The teachers found two school bags left behind in the ravaged school building and decided to bring them along, saying, "The children would be happy to have their bags back."

Click here for the original Japanese story

(Mainichi Japan) March 30, 2011

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

山元町立山下第二小は標高約2m(正門前の緯度経度 +37 57 49.984",+140 54 36.125" )で、
避難場所の山元町役場は標高約30m(玄関前の緯度経度 +37 57 44.520",+140 52 40.230" )

山下第二小から南に約5キロの山元町立中浜小は標高約2m(正門前の緯度経度 +37 54 57.440",+140 55 1.760" )で、避難場所は山元町立坂元中学校標高約12m(正門前の緯度経度 +37 55 20.046",+140 54 18.562" )だったが、距離が約2km※。ラジオで津波到達10分と聞き、児童の足では坂元中まで間に合わないと判断し学校屋上に避難し全員助かった。(※記事中、約1・5キロとあるも高度が上がるようにルートをとって、グーグルアースで計測すると約2kmの距離)

証言3・11:東日本大震災 宮城・山元の2小学校、素早い判断児童救う
毎日新聞 2011年04月26日 東京朝刊
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110426ddm041040099000c.html
魚拓

20110426dd0phj000008000p_size5 児童を車で避難させた山下第二小学校=宮城県山元町で2011年4月21日、本社ヘリから梅村直承撮影


 ◇「逃げろ」怒声に即決

 福島県境にある宮城県南部の山元町。津波は高さ約6・2メートルの防波堤を越え、美しい砂浜とのどかな田園が広がる町を襲った。いずれも海岸から約300メートルの低地にある町立の山下第二小(児童数202人)と中浜小(59人)は津波で校舎が壊れ、児童は25日からの新学期を別の学校で迎えた。あの日、山下第二小は先生が児童を車に乗せて逃げ、中浜小は全員が2階建て校舎の屋上に駆け上がった。それぞれの学校が誘導した児童は全員無事だった。子どもたちの命を守ったのは、判断の速さと、幸運だった。【遠藤浩二、澤木政輝】

 ◇確認作業打ち切り、車でピストン輸送−−山下第二小

 3月11日午後2時46分。激しい揺れに山下第二小の作間健教頭(55)は校内放送のマイクをつかんだ。「机の下にもぐりなさい」。テレビをつけたが、揺れがひどく見られない。教務主任の太田久二男教諭(52)は職員室を飛び出し、1年生の教室に走った。泣き声が聞こえる。

 揺れが収まり、訓練通り全員が校庭へ出た。巡視係の太田教諭は校舎を一巡し、全員の避難を確認して最後に校舎を出た。その直前、1年生の教室のテレビで大津波警報が出ているのを知った。

 午後3時10分。校庭に保護者が次々に駆け付けた。学校は身元を確認せずに子どもを引き渡せない。氏名や家族構成、連絡先を記載した「非常持ち出し簿」と照合して児童を引き渡した。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110426ddm041040099000c2.html
魚拓
 怒声が響いた。「何やってんだ。早く逃げろ。津波が来るぞ」。走ってきた男性が言った。太田教諭は振り返る。「こんなことやってる場合じゃないと気付いた。もしあの時、あの一声がなければ、逃げ遅れて全滅していたかもしれない」

 瓦ぶきの校舎で屋上避難はできない。渡辺孝男校長(52)は確認作業を打ち切り、即決した。「車を出せる先生は車で子どもを役場へ。他は残った子と歩いて役場へ」。役場は学校から約4キロの小高い場所にある。保護者の迎えがなく残った児童は約70人。太田教諭ら6人が車6台に子どもを乗れるだけ乗せ、残った30人ほどを作間教頭ら5人が連れて役場へ急いだ。

 PTA会長の岩佐政公さん(38)は学校に向かう途中、小走りの作間教頭と子どもたちに会った。「車が足りない。頼みます」。作間教頭の言葉に、自宅にワゴン車を取りに戻り、児童の列に追いつきドアを開けた。その瞬間「どでかい雷がずっと続くような音」を聞いた。津波だ。乗ったばかりの十数人の子どもたちが泣き始めた。

 教員の車6台は、役場と徒歩組の間を往復し、児童をピストン輸送した。学校の北西約500メートルのJR山下駅近くで、車に乗れた3年の渡辺志乃さん(9)は「乗車後、家をのむ青い波が見えた。『先生、早く早く』ってせかした」。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110426ddm041040099000c3.html
魚拓
 JR山下駅付近で徒歩組の最後に車に乗った作間教頭は「駅に津波が来たのはそれから5〜10分後だったと聞いている。全員が歩いていたら、とても間に合わなかった」。

 渡辺校長は一人で学校に残った。その後に来る保護者に児童の避難を伝えるためだ。校門で20人前後に対応し、振り返ると、約300メートル先の防波堤を越える津波が見えた。2階に走った。水は2階に届かなかったが、図書室の本棚から本を出した。「万が一の時はいかだにするつもりだった。でももっと波がきたらアウトだと覚悟していた」。翌朝、渡辺校長は自衛隊のヘリで救出された。

 ◇「低学年の足では間に合わぬ」屋上へ避難−−中浜小

 山下第二小から南に約5キロ。中浜小の井上剛校長(53)は、強い揺れに校長室を飛び出した。職員室のテレビは津波到達予想時刻を10分後と流している。

 中浜小の危機管理マニュアルは津波到達まで20分以上の場合、北西約1・5キロの町立坂元中への避難を定めている。しかし、時間は10分。「低学年の足では間に合わない」。井上校長は校内の全員に校舎の屋上に上がるよう指示した。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110426ddm041040099000c4.html
魚拓
 児童、教職員に近所の人たちも加わり、90人が屋上に。20分、30分……。津波は来ない。井上校長は「学年別に1列に座っていた子どもたちも保護者もおしゃべりしたり、海を見たりしていた。だが誰も『下りよう』とは言わなかった」と振り返る。井上校長は「必ず来る」と思っていた。既に到達した場所があると、テレビが伝えていたからだ。

 笹森泰弘教頭(50)は第1波が浜辺の松をなぎ倒したのを「午後3時40分」と記憶している。「キャー」「お母さん」。悲鳴が上がった。子どもたちと保護者を屋上にある約200平方メートルの屋根裏部屋に入れた。

 第1波は津波対策で高さ約2メートルにしていた校舎の土台がつかる程度。だが約1分後に来た第2波は2階に届いた。5年生の小林裕己さん(11)は「ガシャガシャ、ダーン、とガラスが割れたり机が倒れるものすごい音がした。耳をふさいでいる子も多かった」。

 緊張は極限に達する。沖合に第2波の倍以上ある巨大な波が見えた。「終わりだ」。見張っていた笹森教頭は誰かがつぶやくのを聞いた。「そのまま来たら屋上も丸ごとのまれる」。井上校長は、引き波が第3波を崩すことを祈った。

 次の瞬間、1〜2キロ沖で、第3波は引き波とぶつかり、波が小さくなった。それでも第3波は2階に達し、しぶきは屋上に降った。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110426ddm041040099000c5.html
魚拓
 翌12日朝、自衛隊のヘリに全員が救助された。日下泰憲教諭(37)はヘリから見た風景が忘れられない。「学校以外は何も残っていなかった。よく無事だったなと、今でも思う」(肩書と学年、年齢などは当時)

 

SOBA追加関連画像:中浜小の追加関連画像はこちらで
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←「A」の山元町立山下第二小学校正門は緑矢印の所で、標高約2m(正門の緯度経度 +37 57 49.984",+140 54 36.125" )、西に行った6号線沿いの避難先山元町役場が標高約30m(玄関入口前の緯度経度 +37 57 44.520",+140 52 40.230" )。


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←山元町立山下第二小から避難場所山元町役場への車ピストン輸送ルート(約4.1km)


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←山元町立山下第二小学校の正門あと。標高約2m


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←被災前の山元町立山下第二小学校の正門。

震災前後の画像を比較できるGoogle ストリートビューへのリンク(グーグル「未来へのキオク」)

 

Quick-thinking school staff saved children's lives from March 11 tsunami
http://mdn.mainichi.jp/mdnnews/news/20110506p2a00m0na022000c.html

20110426dd0phj000008000p_size5Yamashita Daini Elementary School, whose students were evacuated by car, is pictured on April 21. (Mainichi)

YAMAMOTO, Miyagi -- In this idyllic Miyagi Prefecture town on the border with Fukushima Prefecture, the decisions and actions of leaders at two coastal elementary schools saved the lives of students and staff from tsunamis that washed over breakwaters following the massive quake that struck northeast Japan on March 11.

When the school began to shake violently at 2:46 p.m. on March 11, the assistant principal at Yamashita Daini Elementary School grabbed a microphone linked to the school's public address system. "Take cover under your desks!" he said, and turned on the television. It shook too much, however, for him to decipher anything on the screen. Another teacher, Kunio Ota, dashed out of the teachers' office toward the first graders' classrooms. He could hear children's cries.

When the shaking stopped, the students and staff all gathered in the schoolyard, just as they'd practiced during their emergency drills. On his final walk-through of the school building to make sure there were no stragglers, Ota learned from a television in one of the first-grade classrooms that a major tsunami warning had been issued.

By 3:10 p.m., parents were arriving at school to collect their children. Since school policy dictates that students cannot be handed over to guardians without identity checks, teachers tediously checked names off a list of family members before handing off students.

It was then that someone bellowed, "What are you doing?! Get out of here! There's going to be a tsunami!" It was a local resident who had come running to the school.

"I realized then that we didn't have time to be doing what we were doing," Ota recalled. "If that man hadn't yelled at us at that moment, we might all have died."

Going up to the roof was not an option, because it was tiled. The principal, Takao Watanabe, quickly decided to start transporting the students to safety.

"Teachers who have cars here, take as many children as you can and drive them to the town office," he said. "Other teachers, take the remaining children with you on foot in the same direction."

The town office was located on a hill, some four kilometers from the school. Around 70 students whose parents had not come for them were left in the care of the school staff. Six teachers took as many children as they could in their cars, and the vice principal and four other staff left the school on foot with the remaining children.

Seiko Iwasa, who chairs the PTA, was heading toward the school when he ran into the vice principal with a group of children rushing for higher ground. At the vice principal's request, Iwasa returned home to get his minivan. When he caught up with the last of the students with his car and opened the sliding door, he heard what sounded like huge thunderclaps that went on forever -- the sound of an approaching tsunami. The dozen or so children who had just climbed into the car began to cry.

The six teachers continued to shuttle back and forth in their cars, carrying students to higher ground. Third grader Shino Watanabe, who was among a group of students picked up by one of the teachers near the train station located about 500 meters northwest of the school, said, "After I got in the car, I saw blue waves swallowing up houses. I told the teacher to hurry."

As it turned out, it had been a particularly close call for the vice principal, who was bringing up the rear with the last group of students. He, too, was picked up near the train station. "I found out afterwards that the tsunami reached the station only five or 10 minutes later," he said. "If we'd all tried to walk to town hall on foot, there's no way we would've made it."

Meanwhile, Watanabe, the principal, had stayed behind at the school by himself to let parents who might come looking for their children know that they had been evacuated. After dealing with 20 or so parents at the school gate, he turned around to see waves surging over the 6.2-meter-high breakwater just 300 meters away. He ran to the second floor of the school and grabbed a book from the library, hoping it would help him stay afloat when the wave hit. Luckily, the water never got to the second floor.

"I was going to use the book as a raft if it ever came to that," he said. "But I knew that if more waves were to come, I stood no chance."

Watanabe was rescued the next morning by a Self-Defense Forces (SDF) helicopter.

Located five kilometers south of Yamashita Daini Elementary School is Nakahama Elementary School. When the temblor hit, principal Takeshi Inoue rushed out of his office. The television in the teachers' office warned that a tsunami was expected to reach nearby shores in 10 minutes.

According to the school's emergency manual, students are to be evacuated to a junior high school located 1.5 kilometers northeast of Nakahama Elementary if tsunamis are not expected to strike for 20 minutes or longer. On March 11, however, they had only half that time. Judging that it would be impossible for the younger students to make it in time, the principal instructed everyone to go up to the school roof.

About 90 people, including students, staff and local residents, filled the roof of the school. Twenty minutes went by with no tsunami, then 30. Looking back, the principal said that as time passed and tensions waned, students and parents who had joined them became chatty or looked out toward the ocean. But, he said, "No one suggested that we go back downstairs." He, for one, was certain that the waves would come, as there had been television reports that tsunamis were already reaching other areas.

The vice principal, Yasuhiro Sasamori, remembers that it was 3:40 p.m. when the first round of tsunamis knocked down the pine trees on the beach. Cries went up from the group on the roof, and students and parents were then led into a 200-square-meter attic space. The first wave barely soaked the foundations of the building, which were raised about two meters from ground level as an anti-tsunami measure. The second surge, however, which arrived a minute later, came up all the way to the second floor.

"I heard terrible sounds of glass breaking and desks flipping over," said Hiroki Kobayashi, a fifth grader at the school. "A lot of kids were covering their ears."

Tension reached its peak as some members of the group caught sight of an enormous wave that was easily twice the size of the last one. Sasamori overheard someone whisper, "This is the end." It was clear that if the wave reached the school without breaking, it would swallow it whole. Inoue prayed that the undertow of the last surge would break the one approaching.

In the next instant, the third tsunami hit the backwash of the preceding one, and the waves shrank. Still, the tsunami reached the second floor and sprayed water onto the roof.

The following morning, everyone on the roof was taken to safety by SDF helicopters. Teacher Yasunori Kusaka said he'd never forget what he saw when he looked down from the helicopter. "There was nothing left, except for our school. Even now, I'm surprised that we made it."

Click here for the original Japanese story

(Mainichi Japan) May 6, 2011

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

岩手県 大槌町の大槌保育園は標高約3m(緯度経度 +39 21 21.080",+141 53 31.840" )

園児をおんぶ「山に逃げろ」 大槌保育園、30人救う(岩手日報)
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110403_8
Internet Archive

 女性保育士とスーパーの従業員らは、四つんばいでしかはい上がれない急斜面を園児30人を背負って夢中で駆け上がった—。東日本大震災で壊滅的な被害を受けた大槌町の大槌保育園。園舎も避難場所も津波に襲われたが、必死の避難で園児を守った。

 八木沢弓美子園長(45)によると、地震発生時は昼寝が終わったばかり。園児約100人はパジャマのまま防災ずきんをかぶり外に。向かったのは国道沿いの小高い丘にあるコンビニ。町の指定避難所は空き地で寒さをしのぐ建物がない。保育園は、津波浸水想定区域のぎりぎり外にあるこのコンビニを独自の避難場所と決めていた。

 八木沢さんはコンビニ店内で、迎えに来た親に園児のうち約70人を引き渡し、外を見た。「家の屋根をたくさん浮かべた高い波」が迫ってきた。「怖い、怖い」と泣きじゃくる園児ら。覚悟を決めた。「山に逃げよう。先生のそばにいれば大丈夫」

 国道は市街地から逃げる人や車で大渋滞。八木沢さんらは、1歳から年長まで残っていた園児30人を散歩用の台車に乗せて車道を駆け上がり約300メートル先の山のふもとへ。近くのスーパー従業員約30人も避難していた。

 さらに津波が迫ってきた。もう考えているひまはなかった。目の前には30度を超えるような急斜面。でも登るしかない。八木沢さんら女性保育士20人と男性保育士1人、さらにスーパー従業員の男女が手分けして園児をおんぶし、斜面に張り付くように四つんばいになって、切り株や木に手をかけて登り始めた。上へ、上へ。

 必死だった。登りながら振り返った。大槌湾から押し寄せる波が、コンビニと園舎、指定避難所の空き地に向かう道路をのみこんでいった。

 山頂は雪。眼下で火事も起きていた。山頂まで何分かかったか覚えていない。20分だったか、30分だったか…。

 気持ちが落ち着いたら、山頂からふもとにつながる細い山道があることに気付いた。歩いてふもとに下りたのは真夜中だった。

 コンビニで親に引き渡した園児のうち9人が、死亡または行方不明になっていた。最後に引き渡した女児は、乗用車の中で防災ずきんをかぶった姿のまま遺体で見つかった。

 「あそこで引き渡さなければ、あの子は助かったんだろうか」。八木沢さんは保育士を辞めようと思い詰めたが、保護者の声に支えられ保育園再開のために汗を流そうと決めた。亡くなった子どもや親の分まで、自分にできることを精いっぱいやるつもりだ。

(2011/04/03)

平成24年度受賞者:社会福祉法人 大槌福祉会 大槌保育園
fescojp
http://youtu.be/aRUHiFQ7Fds

SOBA追加関連画像:
20131015_205659 スクロールして見るなら

←岩手県大槌町の大槌保育園周辺地図。南にある山に登ったと思われるも、どのあたりかルートは不明。大槌保育園は標高約3m(緯度経度 +39 21 21.080",+141 53 31.840" )


 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

陸前高田市立 気仙小学校は標高約10m(正門前の緯度経度 +39 0 24.630",+141 36 54.700" 岩手県陸前高田市気仙町字愛宕下64 029-2204)

津波から命救った教師の機転 陸前高田の気仙小(岩手日報)
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110409_15
Internet Archive

 先生に命をもらった—。東日本大震災で被災した陸前高田市の気仙小の全児童92人が、教師たちの機転で津波から逃れた。命を救った瞬時の判断に保護者や児童からは感謝の声が上がっている。

 3月11日午後、激しい揺れが教室を襲った。児童たちは避難訓練通りに机の下に身を隠した後、上履きのまま校庭に整列した。海岸から約2キロ離れ、地域の一時避難所に指定されている気仙小。地域住民も集まり、避難は無事終わったかのようだった。

 教師たちが一安心して児童の点呼などをしている時だった。普段は静かにしていないと聞こえない防災無線から、かすかな音が響いた。「津波が堤防を越えました」。学校は堤防から約500メートルの地点。

 「まずい…。逃げろ」。非常事態を察し、すぐさま学校の裏山に児童を誘導した。山には竹やぶが茂っていたため、比較的体格がいい高学年を先に登らせて低学年のための道をつくらせた。

 何が起きたか分からずに目を赤くして登る児童の後ろから、「振り向くな」「上がれ」と叫び続けた。大谷蓮斗君(当時5年)は「怖かったけど先生が『大丈夫だ』って背中を押してくれた。とても心強かった」と振り返る。

 校庭から12メートルほど高台に移って約1分後、ごう音と共に「茶色の水壁」が姿を現した。3階建ての校舎はのみ込まれ、逃げ遅れた人や家は流された。

 佐々木歩実さん(当時3年)は「上がれと言われ、夢中で逃げた。お母さんに会えて良かった」、母の光代さん(50)は「先生に守ってもらった命。感謝してもしきれない」と頭を下げた。

 教師たちは震災後も数日間、被災した自宅にも戻らず、児童の健康管理や精神状態を考えて避難所で過ごしたという。

 当時6年の担任だった菅野一孝教諭(44)は「とにかく何も考えず行動した。児童が助かって本当によかった」と胸をなで下ろした。

 今春退職した菅野祥一郎前校長(60)は「少しでも声掛けが遅れていたら駄目だった。先生も児童もみんな頑張った」と目を細めた。

(2011/04/09)

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←陸前高田市立気仙小学校周辺地図。矢印の所が正門。


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←同じく航空画像で。西南に広がる小山に避難した。


 

防災関連エントリー:
3・11東日本大震災「学校最多の犠牲者、石巻市立大川小」検証のために関連記事採録。 

3・11:東日本大震災 宮城・山元町の自動車学校、送迎手間取り25人死亡 

検証・大震災:3家族の3.11、陸前高田・河野さん、名取・佐藤さん、石巻・木村さん。 

災害:巨大地震や原発被災、「毎日小学生新聞」が画像表示などあり分かりやすいので資料保存。 

3月11日〜3月28日のNYT写真集を全採録。直視し忘れないことが犠牲者への弔い。事実を伝えない日本のマスゴミは糞。 

 

 「防災必需品+体験談」←グーグル検索です。普段からの備えが大事、参考にして下さい。以下、僕自身が用意している基本グッズのAMAZONリンクをはっておきます。

 ※をつけたグッズは、小さな子は別にして家族全員個人装備でも良いと思います。特にヘッドライトは明かりの欲しい作業の時などに使って重宝しています。夜、自転車の前照灯が球切れした時にも使い助かりました。雨具は傘以外に、即行で着脱できて両手が使えるポンチョもお勧めします。

ホイッスル 笛 ※(救出要請SOS、その他)

ヘッドライト ※

LED懐中電灯 ※

SONYポケットラジオ ※

SONY防災ラジオ ←スマホ手回し充電可能タイプの

LEDランタン 

・火を熾すもの(チャッカマン西洋火打ち石

卓上カセットコンロ 

VICTORINOX多機能ナイフ ※

ポンチョ(アウトドア雨具) (←お勧め)※

 ロープは万能道具、普段から慣れておくことが大事。

決定版 ひもとロープの結び方 便利手帳 

使えるロープワーク―必ず役立つ「結び」の完璧テクニック (OUT DOOR)←アウトドア好きの方が書いた本。

アウトドア用のロープ ←リンクをはりましたが、一番良いのは登山用品店に行って説明を聞き、自分でも手にとって選ぶ事です(太さの感じが分かります)。通常、メジャーを使って1m単位で量り売りしてくれます。僕自身は、径3.5㎜と4.5㎜のでそれぞれ2m、3m、5mのを適宜本数組み合わせて普段からザックの隅に入れてます。また車にはそれに加え径8㎜で10mのを2本積んでます。細いロープは長いのだとうまく使えません。短いのを準備して使うのがロープに慣れるコツ。長さが足りなければつないで使えばよいのです。

 着るものを含め、防災グッズはアウトドアグッズを転用出来るわけですが、ザッグを例に取ると、防災用と比べアウトドア用のザッグは作りも頑丈ですし、使い勝手もはるかに良いです。

リュックサック ※

ザック ※

 意外と忘れるのがマスクとゴーグル。特にマスクは瓦礫の粉じん対策として必需品(特に肺がんを引き起こす石綿:アスベストに要注意)、避難場所での風邪の集団感染予防にもなります。またゴーグルは震災での粉じん対策だけでなく富士山が噴火した場合、大量の降灰に対する備えとしても必要。マスクとゴーグルは花粉症対策としても使え、何もしないよりは放射能降灰への備えとしても有用と思います。

山本光学のN95マスク  ※

山本光学の浮遊粉塵用セーフティゴーグル ※

 薬や救急用品など。これは個人それぞれ違うはず。以下は僕が用意しているもの。消毒用ジェルは避難所で用意しているはずですが、万一に備え感染症防御でこまめな手洗い用。スキンクリームはウォシュレットが使えない避難所で拭く時に使う切れ痔予防。裏技用途で、ジェルやワセリンはたき火が必要な時に火口(ほくち)に少し使うと火を熾しやすくできます。手ぬぐいはバンダナ代わりや鉢巻きにも使え、いざという時には包帯にもなる必需品。

消毒用ジェル救急絆創膏テーピング用テープけが等の軟膏ワセリンスキンクリームソンバーユなら)、とげ抜き手ぬぐい

始めに戻る


 以下追記、資料として採録。

阪神・淡路復旧作業石綿禍 東日本被災地にも暗い影
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/18/201208/0005483567.shtml
魚拓 

B_05483568 重機で解体される被災ビル。粉じんが舞う=1995年2月、神戸市兵庫区

 発生から17年半となる阪神・淡路大震災の被災地で、建物の復旧作業に伴うアスベスト(石綿)被害が新たに確認された。牙をむき始めた大震災の石綿禍。しかし、当時の環境庁(現・環境省)などによる石綿の飛散調査は「おおむね問題なし」との結果だった。時をへて相次ぐ中皮腫の発症は、実態把握の不十分さを浮き彫りにするとともに、東日本大震災の被災地にも暗い影を落としている。

 家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。阪神・淡路大震災の被災地では、倒壊した建物からすさまじい量の粉じんが発生した。日本では石綿消費量の約8割が建材に使われてきた。吹き付け材、屋根材、内装材、吸音材、外装材、耐火被覆材(たいかひふくざい)などだ。震災で崩れた建物のがれきには、命を脅かす「死の棘(とげ)」が含まれていた。

 当時の環境庁の調査によると、解体現場周辺で空気1リットル中の石綿繊維量は平均3~5・4本、大気汚染防止法の基準(10本)を下回った。一方、民間研究機関「環境監視研究所」(大阪市)の測定では、解体現場周辺で1リットル中160~250本が検出された。基準値をはるかに上回る。

 官民でデータに隔たりがあるが、中皮腫が増えているのは「飛散防止に有効な手を打てなかったことを示している」(専門医)とみる人は多い。

 解体が急ピッチで進む中、行政が現場に本格的な粉じん対策を指示したのは、発生から1カ月あまりたってからだ。復旧工事が急がれる中、石綿対策が後手に回ったことがうかがえる。

 発生から間もなく1年半になる東日本大震災の被災地でも、石綿の飛散に不安が高まっている。

 環境省の飛散調査では、約350地点のうち95・4%で「問題なし」との結果だった。しかし、現地調査をした森裕之・立命館大教授(公共政策)は「極めて不十分」と疑問を投げ掛ける。「建材は解体作業で細かく砕かれており、風向きによって測定値が大きく異なる。東北の被災範囲は広大で、阪神・淡路の教訓を踏まえて丁寧に測定すべきだ」と話す。

 被災地ではがれきの集積場が点在している。原発事故に伴う放射能汚染に目を奪われがちだが、宮城県石巻市の石巻赤十字病院の矢内勝・呼吸器内科部長は「がれきが身近にある以上、石綿の吸引を避けるために万全を尽くす必要がある」としている。(加藤正文)

【発症時期迎え被害拡大か】
 中皮腫で亡くなった宝塚市の男性=当時(65)=が阪神・淡路の復旧作業に携わったのは、わずか2カ月だった。震災アスベストの危険性を訴えてきたNPO法人ひょうご労働安全衛生センターは「十分な飛散対策がないまま、復旧解体が街中で繰り広げられた。労働者だけでなく、住民やボランティアへの被害も懸念される」と指摘する。

 石綿が肺の中に入り、中皮腫や肺がんといった石綿疾患を引き起こすまでの潜伏期間は、十数年から40年とされる。阪神・淡路大震災から17年半、同センターの西山和宏事務局長(50)は「発症時期に入ったのではないか」と警戒感を強める。

 近年、復旧に携わった労働者の石綿疾患が相次ぐ。2008年、解体にかかわった兵庫県内の男性の中皮腫発症が判明。その後、解体作業の現場監督を務めた芦屋市の男性、がれきを収集した明石市職員の発症が確認された。

 しかし、いずれも発症と震災時の石綿飛散との明確な因果関係は証明されておらず、兵庫県の井戸敏三知事は「原因が阪神・淡路大震災だとはなかなかなりにくいのではないか」などと繰り返し発言している。

 これに対し、今回の宝塚市の男性のケースでは、石綿に触れる機会が震災後の復旧作業に限定される。男性の妻(67)は「夫と同じような作業をしていた人は多いはず」との思いで、夫の病状の公表を決心した。

 被害拡大や不安解消に向け、行政の速やかな対応が求められる。(中部 剛)

2012/8/24

 

論壇
アスベスト禍の衝撃 史上最悪の産業災害
命に突き刺さる棘、震災復興でも深刻な被害が

http://gendainoriron.jp/vol.03/rostrum/ro03.php
魚拓 
Internet Archive 

神戸新聞編集委員 加藤 正文


国賠勝訴 
複合型ストック災害 
クボタショック 
震災アスベストの脅威 
相次ぐ発症 
異常事態の中で 
繰り返される過ち 
課題を示す窓 


 原発事故とアスベスト(石綿)禍には被害の構図が共通している。過去に地震や津波が繰り返し発生した地に原発を起き、研究者が再三、その危険性を警告していたにもかかわらず、虚構の「安全神話」の中で稼働を続けた。一方、石綿も戦前から有害だと分かっていながらも、その有用性、経済性から「管理して使えば安全」と国は十分な規制を行わず、約1千万トンを消費した。使用禁止は北欧に遅れること20年、ヨーロッパ諸国に遅れること10年以上たった実に2006年だ。

 原発事故は「史上最大・最悪の公害」(宮本憲一・大阪市立大名誉教授)であり、石綿禍もまた「史上最大の産業災害」(同)である。筆者は2005年6月末、兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場内外で深刻な被害が発覚した、いわゆる「クボタショック」以降、各地で取材を重ねてきた。その成果を『死の棘・アスベスト』(中央公論新社、2014年)として刊行した。石綿はその使用状況の広がりを反映して、被害状況も多様だ。本稿では、①石綿産業の原点としての大阪・泉南②アジア最悪の被害を出した兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場③今後、深刻な被害が懸念される震災アスベスト-の3点で被害と不作為の構図を描いていく。


国賠勝訴

 「勝訴」「最高裁、国を断罪」。原告側の弁護士の旗が出ると、最高裁前に詰めかけた被害者らから拍手がわいた。2014年10月9日、石綿を吸って肺がんや中皮腫などを患った大阪・泉南地域の元工場労働者らによる国家賠償請求訴訟で、最高裁は国の賠償責任を初めて認める判決を言い渡した。

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知られざる地場産業だった大阪・泉南の石綿紡織産業。100年の時をへて最高裁が国の不作為を認定した(大阪アスベスト弁護団提供)

 「労働環境を整備し、生命、身体に対する危害を防止するために、国は技術の進歩や医学知識に合うように適時適切に規制権限を行使すべきだ」。この「適時適切」という理念を盛り込んだ判決が確定するまでに、どれほどの苦難があったことだろう。病気に斃れた無数の声なき声が、100年もの長い時を超えて重い扉をこじあけたのだ。

 関西空港の対岸、大阪府泉南市、阪南市を中心とする泉南地区は、日本の石綿紡織産業の原点の地だ。中小零細の工場が集積し、戦前は軍需産業、戦後は自動車や船舶、機械などの基幹産業を支えた。最盛期には約200社が稼働し、約2千人が就労したという。戦前から石綿紡織工場の全国一の集積地として発展した。

 主な製品は、石綿を主原料に綿花などを混紡した糸、そして、この糸を布状やひも状に加工したものだ。耐熱性、絶縁性にすぐれ、各種パッキング、蒸気機関車などの防熱ふとん、自動車の摩擦材などに幅広く使われた。「小はランプの芯から、大は重化学工業の発熱部を覆う断熱材として欠かせなかった」(柚岡一禎・泉南地域の石綿被害と市民の会代表)。あちこちに工場が点在し、「街全体が石綿工場のようだった」といわれるが、今の街並みからは想像もつかない。高度成長期をピークに生産は次第に先細り、産地は消えた。長年、数多く労働者や住民が石綿による肺の病気で苦しんできたが、2006年、石綿対策の不備について国の責任を問う集団訴訟が提起されるまで知る人は少なかった。「国は石綿の危険性を知っていた、対策を取ることもできた、でも、やらなかった」。長い間、隠されてきた被害が表に出た瞬間だった。

 戦前の調査がある。国は1937(昭和12)年、泉南地区の被害をつかんでいた。旧内務省保険院の調査で、労働者の石綿肺罹患率が12・3%に上ることが判明した。担当医師らの「有害工業に属し法規的取り締まりを要する」との警告が残る。だが、国はこれに対して不十分な症例調査にすぎないとの立場をとった。その後も罹患率は10%を下回らず、労働基準監督署が調査を重ねた。しかし、「被害は深刻ではなかった」という見解を譲らなかった。 クボタのような大企業と違い、泉南はほとんどが零細企業で対策も不十分だ。「だからこそ国に被害拡大を防ぐ責任があった」。石綿問題に詳しい立命館大の森裕之教授(公共政策論)は国の不作為を指摘する。

 訴訟は2陣あり、1陣の地裁、高裁、2陣の地裁、高裁。そして今回の最高裁、過去5回の判決が投げ掛けるのは、一体、何のために労働関係の法規はあるのか、という根本的な命題だ。いくつもの曲折があったが、最高裁判決は、人間の命と健康を守るため、という基本原則を明確に示した。

 不断の努力で最新の知見に合わせて健康被害を予防する。被害が発生しているのならば、根絶まで対策を取る。これは法律や規則以前の行政の当然の責務だが、縦割りの官僚機構の中でその意識はかなり薄れている。あえてこの原則を厳しく指摘したところにこの判決の最大の意義がある。


複合型ストック災害

 手元にアスベスト(石綿)の原石がある。白く毛羽だった繊維のついた蛇紋岩。カナダ・ケベック州の鉱山都市セッドフォード・マインズの取材時にもらったものだ。

 壮大な露天掘りの鉱山に立ったとき、上流から下流へ流れる川のように、採掘された石綿が輸出され、港から工場に運ばれ、加工され製品となり、最後に瓦礫として廃棄される様子がまざまざと脳裏に浮かんだ。 熱や引っ張りに強く、燃えない。そして何より安い。産業革命とともに本格利用が始まり、各国の経済成長を支えた。その用途は建材、水道管、パッキング、シール材、ブレーキ材など実に3千種類に及んだ。

 かつては「奇跡の素材」と喧伝され、有害な「悪魔の素材」にもかかわらず、大量に使われた。日本は1千万㌧を消費した。1970年代にWHO(世界保健機関)やILO(国際労働機関)が発がん性を指摘したのに、日本が使用禁止にしたのは前述のとおり2006年。建物など社会のあちこちに蓄積(ストック)された石綿。髪の毛の5千分の1の微細な繊維は吸引すると長い潜伏期間をへて中皮腫や石綿肺などの病気を引き起こす。「生産・流通・消費・廃棄の経済活動の全局面で複合的に影響を与えるストック災害」(宮本・大阪市大名誉教授)とされる。近代化の初期に大量使用され、経済成長が一段落するころに「死の棘」の本性をみせる。これが複合型ストック災害の恐怖だ。

 日本で中皮腫による死者は2006年から毎年千人を超え、10年は1209人、11年1258人、12年は1400人、13年は1410人と増加。兵庫、大阪、東京、神奈川で多い。石綿を扱う工場などで働いたことがないのに病気になった人の数は中皮腫と肺がんで8千人を超え、その半数が亡くなっている。

 一方、労働災害として認定される人の数は毎年千人を超えている。高度成長期に起きた四大公害事件よりも被害者が多くなるのは間違いない。規制の決定的に遅れを踏まえると、被害のピークは2030年と予測される。


クボタショック

 アスベスト問題が労災を超えた公害であることを明確に示したのは、2005年6月に起きた「クボタショック」である。ショックたるゆえんは、工場の元従業員のみならず周辺住民の間で中皮腫が多発していることが発覚したからだ。中皮腫は石綿に起因する極めて予後の悪い特異性疾患だ。それが工場の周辺に広がっていた。発症状況を地図に落とすと、この特異な病気が工場の半径4キロにわたって広がっている状況が浮き彫りになる。

 2014年9月末時点で周辺住民と元従業員の死者は435人となり、アジア最悪の被害となっている。住民の被害者は263人で、元従業員(172人)を上回る。「俺、何か悪いことしたか」「1億円もらったってこんな病気、嫌」「クボタによる陰湿な殺人」「健康な体を返してほしい」―。不条理に命を奪われた患者たちの言葉はあまりに重い。

 クボタの社長は道義的責任から謝罪し、原則半径1キロの発症については救済金を支払ってきたが、肝心の因果関係についてはいまだに認めようとしない。「お見舞い金の延長」(首脳)という見解にとどまる。


震災アスベストの脅威

 重機がうなりをあげて建物を壊していく。むき出しの鉄筋、破砕された建材、積み上がる膨大ながれき、舞い上がる粉じん…。東日本大震災の被災地で続いた光景は、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災の状況と重なる。当時、全国から駆けつけた労働者たちは、復旧復興のためにひたすら解体作業に打ち込んだ。すぐそばではごく当たり前の日常生活が営まれていた。あたりを舞う粉じんに潜む「死の棘」の存在を、気に留めることはほとんどなかった。

 来年1月で丸20年となる。神戸の街に震災のつめあとは感じられなくなった。順調に「復興」したかのように見えるこの街で、肺の奥に突き刺さった微細な繊維、アスベスト(石綿)が牙をむき始めている。がれき処理に関わった人が相次いで、石綿に起因するがん、中皮腫を発症しているのだ。吸引後、10数年から40年たって発症するのが石綿のリスクだ。

 「チュウヒシュ? 俺が?」。2012年5月、兵庫県明石市にある県立がんセンターで思わず問い返した。医師の診断は「腹膜中皮腫」。高濃度のアスベスト(石綿)暴露で起きる病気だ。明石市環境部の男性=当時(48)=の仕事はゴミの収集業務だが、石綿との関連を考えるうちに、1995年の阪神・淡路大震災時に思い至った。

 男性は当時、がれきの処理業務に奔走した。ブロックやスレート、木材など震災で全半壊した住宅のがれきをパッカー車に積んで、処分場に運んだ。波形スレートは半分に割って車に押し込んだ。2、3トン積みの車だったが、可燃であろうが、不燃であろうがお構いなしだったので「5、6トンは載せていた」。

 処分場にがれきを投入する。荷重が重すぎて油圧で荷台が上がらないのでパッカー車の中に入ってがれきをかきだした。狭いパッカーの中はすさまじい粉じんだった。「使い捨ての紙マスクを2重にして使っていたけど、鼻の中まで真っ黒になった」。当時、焼却場は壊れていたのですべてのゴミを埋め立て処分場へ。破砕してブルドーザーでならした。舞い上がる粉じんとともにがれきはうずたかく積み上がった。

 時は流れ、2011年暮れ、下腹部にできたしこりに気づいた。それが見る間に大きくなった。「当時、俺よりもたくさんアスベストを吸い込んだ人がいた。神戸に来ていたボランティアの人もそうだ。俺が病気になるというとは、これからもっと多くの人が発症するということ。入念な検査をみんなにしてほしい」。男性の病状は悪化し、2013年10月に亡くなった。


■ 相次ぐ発症

 時がたち、阪神・淡路大震災の生々しい記憶が遠ざかる中で、石綿関連疾患の発症が相次いでいる。2008年3月、震災時の解体作業で石綿を吸ったため、がんの一種、中皮腫になったと訴えた兵庫県内の30代の男性を、姫路労働基準監督署が労災認定した。震災時作業による労災認定は初のケースだった。石綿の被害は潜伏期間が十数年~40年とされる。「震災による石綿疾患はいずれ爆発的に発生する」と、かねて懸念されてきただけに、いよいよ来たのか、という覚悟を迫る発症の報告だった。

 2009年5月、芦屋市の男性=当時(80)=が労災認定された。中皮腫と診断されたのは2007年。元建設会社の営業マンで、震災後の95年10~11月、人手が足りず、解体作業で現場監督を務めた。重機の巨大なハサミが建物をつかむと、左右に10メートルほど粉じんが広がった。労災を申請すると、労働基準監督署は建設会社に勤務していた77~98年の約22年間に石綿に触れたと判断した。しかし、渾大防さんは「営業マン時代、建設現場に出ることはほとんどなかった。石綿を吸い込んだのは、震災時の現場監督時代しか思い当たらない」と話す。13年暮れ、男性は死去した。

 2012年8月には、宝塚市内の男性(11年に65歳で死去)も労災認定された。この男性は衣料品販売をしていたが、震災で仕事ができなくなり、1995年2月、作業服に着替えてアルバイトとして工務店で勤務した。民家からずり落ちた瓦を集め、屋根にブルーシートをかけた。マンションの改修工事にも立ち会った。マンションの室内では職人が壁や天井をはがしたり、電動のこぎりで建材を加工したりしたため、相当量の粉塵が部屋にたちこめた。妻(67)は今、夫のかぶっていた野球帽にほこりがたくさんついていたことを思い出す。工務店のアルバイトはわずか2カ月。この間に石綿を吸い込んだ。16年後に中皮腫を発症し、2011年10月に死去した。妻は悲しみを口にした。「がれきの中のアスベスト(石綿)のことなんて考えもしなかった。お父さんは悔しかったと思う。同じ哀しみを東北の被災地で決して繰り返さないでほしい」

 同じ月、兵庫県内に住む別の70歳代男性も神戸東労働基準監督署から労災認定されたことも判明。3年近く瓦礫処理作業に携わったという。労災認定などで表面化する被害だけで5人。その背後で、解体、瓦礫収集、運搬、処理などの復旧・復興に関わった数多くの労働者が次々と石綿禍に倒れている。これが阪神・淡路大震災の被災地の現実なのだ。


異常事態の中で

 死者6434人、家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。現場は異常事態であり、緊急事態だった。

 「最悪の労働環境だった」。解体や瓦礫処理に携わった労働者たちの証言だ。神戸市兵庫区で工務店を経営する男性(81)は振り返った。「マスクどころか、タオルもまかずに仕事した。石綿が危ないなんて考える余裕はなかった」「防護シートを張らずに解体した。飛散を防ぐために水をまこうにも、水道管が壊れて水は出なかった」

 発生約1カ月後から一斉解体が始まった。無数の業者が被災地に集まり、神戸だけでも100件、兵庫県内で200~300件の解体が同時に進行したという。住民への情報開示、飛散対策が積み残されたまま、混乱の中、大量解体が進んだ。一体、どれだけの粉じんが街中を舞ったのだろう。当時、がれきの街を取材で回りながら、のどがいつもいがらっぽく、目が痛かった記憶が残る。

 都市では高度成長期以降、郊外型の開発に力が注がれ、インナーシティーと呼ばれる中心部の再開発は遅れてきた。ニュータウン開発に力を入れた神戸では、とりわけインナーシティー問題は課題となっていた。そこには石綿を含む老朽建築物が数多く取り残されており、災害対策としても石綿に十分注意が払われてこなかった。震災時の兵庫県地域防災計画には環境保全の記述はなく、10年後の復興10年委員会の「総括検証・提言報告」にもアスベストの文字は一カ所もない。

 「これは単なるアスベスト対策の欠陥ではなく、日本の都市政策、災害対策、復興政策の欠陥と関連している」(宮本、森永、石原編『終わりなきアスベスト災害』岩波書店、2011)。この指摘が重くのしかかる。

 しかし、自治体の対応は鈍いといわざるを得ない。東日本大震災の起きる1年前の10年5~8月に掛けて立命館大は全国の自治体に地域防災計画に震災時アスベスト対策を盛り込んでいるかどうかを調査した。結果、72・5%が「現在、盛り込んでおらず、特に盛り込む予定はない」と回答。そのうち、環境省が07年に策定した災害時の石綿飛散防止マニュアルについても、「認識していない」「確認していない」としたのは5割超。

 これが日本の石綿対策の実情である。そこに東日本大震災が起きたのだ。


繰り返される過ち

 東北の被災地に点在する瓦礫の集積場で遊ぶ子どもたち。倒壊した建物の前で、マスクをつけずに普通に歩く中高生…。「目に見えないアスベストが飛散しているから、できるだけマスクを」。そんな思いが募る。阪神・淡路大震災の被災地であまりに無防備だったからだ。

Kato_asbestos2 積みあがる震災がれき。微細な石綿繊維の飛散が懸念された。阪神・淡路大震災の教訓は生かされたのだろうか=2012年、宮城県石巻市

 津波に根こそぎ奪われた東北の町は、当初は声を失う惨状だったが、その後、がれきの様子が気になった。宮城県石巻市。2012年秋に県立石巻商業高校(約580人)の隣に広がるがれきの集積場には驚いた。高い囲いが巡らされ、白い袋詰めされた膨大ながれきが積み上がっている。搬入された後、生徒から「喉が痛い」「目がかゆい」などの声が寄せられたため取られた措置だった。

 がれきは、撤去、運搬、仮置き、処分の全過程で粉じんが発生する。倒壊家屋や破損した船舶には、ふきつけられたり、練り込まれたりした石綿がたくさん含まれている。当初、環境省の担当者は「津波で塩水にぬれ、石綿の飛散が抑制されている」としたが、乾燥が進み、破砕や運搬作業が進む中で、当然、飛散する。

 がれきの総量は東日本2300万㌧、阪神・淡路2千万㌧だ。東日本大震災に特徴的なのは、沿岸には製紙業をはじめ、さまざまな工場があることだ。長期間、排水を流したことで、海底にはさまざまな物質が蓄積している。「津波は、海底に沈殿していたものを一気に陸に揚げた。産業廃棄物を含むヘドロは普通の泥ではない」と石巻赤十字病院の矢(や)内(ない)勝・呼吸器内科部長が警告する。発生2カ月後に訪れた際、海底にたい積したヘドロが津波で打ち上げられていた。臨海部にそびえる日本製紙石巻工場の周りを歩いていると、雨が降り出した。それまで白っぽかった泥が、雨にぬれると、どす黒く変色した。石綿、砒素、鉛…。危険物質は数多くある。

 東日本で阪神・淡路とは決定的に異なる点がある。犠牲者の9割が建物倒壊による「圧死」が阪神・淡路なのに対し、東日本では死因の9割が津波による「溺死」だ。これはそのまま石綿被害にもあてはまる。破損した建物が津波で流され、そして有害なヘドロが沿岸部に拡散している状況を踏まえると、粉じんの飛散に伴う健康被害は、阪神・淡路大震災よりもはるかに広域になる危険性がある。

 環境省は東北の被災地で11次にわたってモニタリング調査を行った。結果、1713地点のうち99・6%で問題がなかったという結果だった。「おおむね問題なし」と環境省の大気課長(当時)はいう。ここでも20年前の阪神・淡路大震災の当時と似ている。

 しかし、「調査はきわめて不十分」と森裕之・立命館大教授(公共政策)は言う。被災地ではがれきの量を減らすために成形板を破砕しているケースがあるといい、「破砕物は風向きで測定値が大きく異なる。被災のエリアは400㌔にわたる広大な地域だ。もっと丁寧な測定が要る」と話す。


課題を示す窓

 大震災の発生でどれだけの石綿が飛散したのか、完全な把握は難しい。とはいえ、できることはある。まず、アスベストを含んでいた建物の倒壊した地区を中心に、当時の住民や解体・撤去にかかわった労働者らを登録し、健康診断を継続しなければならない。土木工事に他府県から多くの労働者が神戸・阪神間にやってきた。これはボランティアも同じだ。アスベストに暴露したというリスクを本人に周知させ、健康診断を受けなければならない。

 もう一つ必要なのは、私たちの住む街にいったいどれぐらいの石綿が蓄積しているのか。神戸市は固定資産税台帳によって建物の建築年次を調べ、アスベストの飛散可能性のあるものをチェックしている。これは公表していないが、地図に落とし込んでいるので、アスベストマップとしても活用できる。

 「大震災の発生時、ふだんは見えない社会の課題を示す窓が開く。その窓はごく短い期間に閉じてしまう」。阪神・淡路大震災のちょうど1年前の1994年1月17日、米カリフォルニア州ロサンゼルス市ノースリッジで起きた大震災の報告書にはこんなフレーズがある。窓が開いているうちに、根本的な対策がとれるか。神戸で生かせなかった阪神・淡路の教訓を、東日本で生かさなければならない。これは石綿問題にとどまらず、私たちの社会の未来にかかわる問題である。

主要参考・引用文献

(1)中部剛、加藤正文『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』、かもがわ出版、2014年

(2)加藤正文『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』、中央公論新社、2014年

(3)立命館大学政策科学会編『別冊政策科学 アスベスト問題特集号』、2008、11、12年

※新聞、雑誌、インターネットサイトの記事、各種訴訟の訴状、判決文などを参考にした。


かとう・まさふみ

1964年西宮市生まれ。大阪市立大学卒。89年神戸新聞入社。経済部、北摂総局、阪神総局、論説委員などを経て、現在、経済部次長兼編集委員。著書に『工場を歩く-ものづくり再発見』(神戸新聞総合出版センター)、『工場は生きている-ものづくり探訪』(かもがわ出版)、『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』(共著、かもがわ出版)、『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』(中央公論新社)など。


   「いのちに突き刺さる」アスベストの悲惨―――
真正面から立ち向かった著者渾身の
「怒りと告発」の書に戦慄する。
――内橋克人氏(評論家)

これは“影の日本経済史”であり
世界的スケールで“白い肺の恐怖”を
描いた力作である。
――黒木亮氏(作家)

『死の棘・アスベスト』
加藤 正文著 中央公論新社 定価1700円(税別)

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2011年4月21日 (木)

3・11東日本大震災「学校最多の犠牲者、石巻市立大川小」検証のために関連記事採録。

 悲劇を繰り返さないために、参考記事です(他の防災関連エントリーリンク紹介は末尾)。

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。
大川小学校は標高約3m(正門前の緯度経度 +38 32 46.800",+141 25 40.150" )で、避難で向かった三角地帯は標高約8〜9m(緯度経度 +38 32 42.610",+141 25 34.080" )

 

 大川小学校のあった釜谷地区、きれいな街並や畑と北上川、程よい距離にあるなだらかな裏山は防災的には理想的な避難場所でした。同じく被災した、宮城県名取市閖上地区と比べれば明らかです。閖上地区は近くに避難に適当な髙地がありませんでした。大川小学校は好条件を活かせなかった悲劇と言わざるをえません。

(3・11被災の前々年、2009年11月のグーグル空撮画像)
↓クリックすると拡大します。スクロールして見るなら

20091104

 

よくまとめているサイト。
■大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻
http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_okawa.html

 

証言3・11:東日本大震災 児童、泣き叫び嘔吐 学校最多の犠牲者、石巻市立大川小
毎日新聞 2011年04月19日 東京朝刊
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110419ddm041040006000c.html
魚拓

 全校児童108人中死者64人、行方不明10人と、学校では東日本大震災最多の犠牲者が出た宮城県石巻市立大川小学校。追波湾(おっぱわん)から同市長面(ながつら)地区に上陸した津波は、湾奥部の北上川河口から約4キロにある大川小の2階建て校舎、そして校庭から避難し始めた子どもたちと先生の列をのんだ。住民や関係者の証言から、激しい揺れにパニックに陥った学校の惨劇が浮かび上がる。【百武信幸、堀江拓哉、遠藤拓】

20110419dd0phj000029000p

 ◇校舎のんだ津波「裏山に階段あれば…」

 ■その時

 「ありがとうって伝えたくて」。3月11日午後、2階の4年生の教室に、育ててくれた父母への感謝の気持ちを込めた児童の歌声が響いていた。10歳を祝う「2分の1成人式」の記念DVD用に、担任の佐々木芳樹先生(27)が録音していた。武山詩織さん(10)は振り返る。「(歌の)2番にいかないくらいだったかな」。激しい揺れに歌声が悲鳴に変わった。校内は停電。机の下に入った子どもたちは先生の指示で校庭の真ん中に集まった。

 先生たちは児童を座らせ、点呼を取った。近所の人たちも避難してきた。当日、娘の卒業式で市外にいた柏葉照幸校長(57)は「この時、恐怖と混乱から泣き叫んだり、嘔吐(おうと)したりする子どももいた」と後日、報告を受けた。学校は、混乱していた。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110419ddm041040006000c2.html
魚拓

 自宅から車で詩織さんを迎えに来た母久美さん(38)は学校到着を午後3時25分ごろと記憶する。「名簿を手に、迎えに来た保護者や避難住民に応対する先生たちもいた」。詩織さんを車に乗せ、アクセルを踏んだ。「津波はここまで来ない」と思いつつも、北上川より5メートルほど高い堤防近くの新北上大橋に向かい、さらに標高のある南を目指した。

 避難を呼びかけるため広報車で河口に向かった市職員、武山泰徳さん(53)は3時20分ごろ、学校から約1キロ海側の墓地近くにいた。「沿岸の松林の奥に水しぶきが見えた。津波だと思った」。Uターンして拡声機で繰り返した。「津波です。避難して」

 ■黒い波

20110419dd0phj000030000p_size5 多数の児童と教諭が津波の犠牲となった大川小(中央右)。左は裏山。奥に新北上大橋と北上川をのぞむ=宮城県石巻市で2011年4月17日、本社ヘリから小林努撮影

 大川小がある釜谷(かまや)地区の東隣、長面地区の農業、三條昭夫さん(75)は、妻喜久子さん(72)と車で釜谷地区に向かった。「80キロほど出ていたと思う。後ろから浮世絵に描かれた波を黒く塗ったような波が、縦にぐるぐる回転しながら迫ってきた。大川小前で校庭にいる子どもたちの姿が横目に見えた」

 学校では、体育館や校舎2階に避難できるか校内を見回った先生もいたが、避難住民とともに新北上大橋のたもとにある交差点に向かうことになった。その距離約200メートル。高さは堤防や校舎の屋根とほぼ同じだ。校庭から列になって釜谷交流会館の脇を通り、裏山沿いの裏道を歩いた。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110419ddm041040006000c3.html
魚拓

 同じ長面地区の永沼輝昭さん(70)と妻睦子さん(66)は6年の孫遼太君(12)、4年の和泉(いずみ)君(10)兄弟を迎えに車2台で学校に着いた。永沼さんは車外に出て兄弟を乗せた睦子さんと避難先を相談していた。校庭から先生と児童の列が出てきた。

 永沼さんは「列が裏道に進み出した時『バリバリ』という音とともに黒い水しぶきが来た」。睦子さんと兄弟を見失い、子どもたちに叫んだ。「山さ上がれ」。裏山の斜面に飛びついた。雪で滑り、波にのまれたが、押されるように斜面に上がった。3メートルほど先の水面に女の子がいた。そばの竹を左脇に抱えるようにして腕を伸ばし、手を握った。

 遼太君と和泉君は1週間後、遺体で見つかった。永沼さんは「近くにいたら、なんぼでも助けたんだけどな」。睦子さんは、見つかっていない。

 ■判断

 列の後方に、5年生の男の子がいた。津波の翌日、男の子を保護した顔見知りの男性によると、男の子は震災から1カ月が過ぎたころ、当時の状況をこう明かした。

 すごい音がして、津波が前から来た。腰を抜かし、その場に座り込んだ子もいた。自分で判断して、裏山に逃げた。竹林で他の男の子2人と大人十数人と一緒になり、一晩過ごした。大人が持っていたライターで火をおこした。「眠れば死ぬんだからな」と言われ、一睡もしなかった−−。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110419ddm041040006000c4.html
魚拓

 当時大川小にいた先生10人と事務員1人のうち、佐々木先生を含む9人が死亡し、1人は行方不明のままだ。助かったのは裏山を駆け上がった40代の男性教諭1人。この教諭は山を登る際、倒木で負傷しながら近くの男児1人を押し上げるように助けたという。

 ■その後

 なぜすぐに裏山に避難しなかったのか−−。大川小学校の惨劇への疑問は、この一点に集約される。

 石巻市は、大川小学校への津波到達を想定していなかった。市の「防災ガイド・ハザードマップ」は、同小を避難所として「利用可」としている。柏葉校長は「堤防を越える津波が来たらもたないので、山に避難場所をつくろうと職員で話はしていた。裏山は泥炭地でつるつる足が滑るので、階段をつくれるといいなと話していたが、そのまま震災になった」と明かす。

 校舎に残る三つの時計は、いずれも3時37分を指し止まっている。地震から津波到達まで、恐らく40〜50分あった。9日の保護者への説明会では、校庭で点呼を取るなどした対応に「なんですぐに逃げろって言わなかったのか」と非難の声も出た。だが一方「108人誰も欠けないように点呼し、先生はよくやってくれた。誰が悪いと思ったことはない」と話す保護者もいる。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110419ddm041040006000c5.html
魚拓

 狩野あけみさん(42)は避難所から学校周辺に通い、今も毎日、行方不明の三姉妹の末っ子、6年生の愛さん(12)を捜す。「あの日、自転車で『行ってきます』って出かけたままで。私はずっと待ってる。もう帰ってきてもいいころだよ」

※狩野あけみさん紹介の英文記事は下で

 

検証 石巻・大川小の惨事/保護者ら証言「学校前にバス待機」「全員が避難できた」
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110908_01.htm
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20110908001jd 亡くなった児童の保護者らが「ここに避難させてほしかった」と訴える学校近くの山道。校舎(奥)から歩いて数分の距離だ=8月28日、石巻市釜谷


Ookawa01k  東日本大震災の津波で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明になった石巻市大川小の惨事から、間もなく半年がたつ。河北新報社の取材に応じた児童や住民らの証言で、当時は現場にスクールバスが待機していたことや、高台への避難を相談していた状況が浮かび上がった。学校管理下で児童が犠牲になった事例として戦後最悪とされる今回の被害は、避けられた可能性もあると指摘する関係者もいる。(藤田杏奴、野内貴史)

 保護者らによると、地震が起きた午後2時46分は下校時間の直前で、スクールバスが待機していた。関係者は「バスで避難すれば助かった可能性もある」と指摘する。
 2年生の息子を迎えに来た父親(39)は午後3時10〜20分ごろ、学校前の県道に止まっているバスを目撃した。男性運転手に「何してるんですか」と尋ねたところ、落ち着いた様子で「待機だねえ」と応じたという。
 バス会社の関係者は同じころ、無線で運転手に避難を呼び掛けた。ラジオは「(宮城県)女川町で車が流されている」と伝えていた。運転手が「子どもたちが出てこないんだ」と話したのを最後に、交信は途絶えた。
 バスの定員は45人。関係者は「無理にでも詰め込めば、児童全員が避難できた」と言うが、バスが出発することはなく、運転手も津波の犠牲になった。
 証言では、避難をめぐるやりとりも断片的に浮かんできた。
 児童たちがとどまっていた校庭では午後2時52分、防災無線が大津波警報を知らせた。午後3時10分ごろ、子どもを迎えに来た母親によると、「この山に子どもを上がらせても大丈夫か」と裏山を指す教頭に、住民は「ここまで津波は来ない」などと答えた。
 同じころ、学校を訪れた別の保護者は教師から「学校の方が安全だから残った方がいい」と言われた。保護者は「どこかに避難する雰囲気ではなかった」と語る。
 5年生だった只野哲也君も、6年生の男子が担任に「山さ逃げた方がいい」と訴えた姿を覚えている。「どうして山に行かないのかなあ」と思ったという。

◎体育館裏は傾斜緩い山道/「低学年でも登れた」

 石巻市大川小の児童が避難誘導された新北上大橋たもとの堤防道路の先には、津波で水があふれた北上川があり、子どもたちは次々と濁流に巻き込まれた。学校に最も近い高台は裏山だった。「なぜ、山に避難させなかったのか」。遺族の疑問は今も解けない。
 児童らは避難の途中、県道付近で津波に襲われた。迫り来る濁流に追い込まれた裏山の斜面は急な上に滑りやすく、登れた子は少数だった。付近では30人以上の遺体が見つかった。
 同じ裏山でも、学校の体育館に近い所は傾斜がなだらかだ。実際に子どもの足でも大丈夫かどうか。わが子を亡くした父親3人とともに8月末、この斜面を登った。
 児童らが待機していた校庭から、体育館の脇を通って裏山に向かう。登り口の幅は広く、踏み固めた山道もあって歩きやすい。屋根まで冠水した2階建て校舎(約10メートル)を見下ろす場所まで数分でたどり着いた。
 校庭に避難してから津波が襲来するまで、40分以上あったとみられる。「低学年でも十分登れる。5分あれば、全員避難できたはずだ」。父親たちは口をそろえた。
 「子どもたちはここに避難したとばかり思っていた。こんな近くに安全な場所があったのに、なぜ川の方に向かったのか」。5年生だった次女千聖さんを亡くした紫桃(しとう)隆洋さん(47)は悔しさをにじませた。
 宮城県の調査では、海抜約1メートルの大川小付近に残る津波の痕跡は高さ7メートル以上。住民によると、付近にいて助かったのは裏山に登ったり流れ着いたりした約20人と、釜谷診療所屋上の塔屋部分に避難した数人などわずかだったという。
 石巻市教委は2010年2月、津波に備えた危機管理マニュアルを作るよう市内の小中学校に指示。大川小の10年度マニュアルは津波の避難場所を「近隣の空き地・公園等」と定め、高台を想定していなかった。
 学校と市教委は裏山に避難しなかった理由を「現場にいた教師が『山に倒木があったように見えた』と話している」と説明している。
 裏山に逃げて助かった住民の一人は「山裾に津波で流されたり、折れたりした木はあったが、地震で倒れた木は見ていない」と証言している。

2011年09月08日木曜日

 

検証 石巻・大川小の惨事/聴取方法、疑問の声/録音せずメモ廃棄
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110908_02.htm
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20110907019jd 石巻市教委が男性教師の聞き取り調査を基に作成した報告書

◎石巻市教委事故報告書 聞き取り調査9割が子ども

 東日本大震災の津波による宮城県石巻市大川小の惨事で、市教委が5月にまとめた事故報告書は、聞き取り調査対象者28人のうち子どもが25人と9割を占めた。大人と比べて記憶が曖昧になりがちな子どもへの聴取は、慎重に事実を引き出し、正確に記録することが求められる。市教委は聴取を録音せず、証言メモも報告書作成後に廃棄するなど、専門家からは調査の在り方に疑問の声も出ている。
 市教委によると、児童の聞き取りは市教委の職員と担任が分担した。「心理的な負担をかけない」(学校教育課)という理由で録音や録画は行わず、聴取中はメモもできるだけ控えたという。
 同課は「児童との信頼関係を重視した。その場でメモを取らなくても、報告書の中身がよければ問題ない」と説明するが、保護者の了承なしに聴取された児童もいた。
 報告書によると、高学年の児童2人は「『山に逃げた方がいい』と言う教頭と『津波がここまで来るはずがない』と言う住民が言い争いをしていた」、別の1人は「住民は堤防道路への避難を提案していた」という趣旨の証言をしたとされる。
 河北新報社が証言内容について児童側に確かめたところ、3人とも「自分は見ていない」「後で人から聞いた」としている。
 ただ、震災当日に学校を訪れた一部の保護者は、避難場所を話し合う教職員と住民のやりとりを耳にしていた。児童の親の一人は「避難をめぐり、さまざまな臆測が出ている。子どもは大人の会話を聞き、それを話したのかもしれない」と推測する。
 市教委によると、児童の証言や、当日学校にいて唯一生き残った男性教師の証言を記したメモも報告書作成後に全て廃棄され、検証作業を難しくしている。
 遺族の不満を受けて市教委は8月下旬、震災当日に子どもを迎えに来た保護者らを対象とする追加調査を始めた。「市教委の調査には限界がある」と懸念する遺族の中には、専門家ら第三者による調査を求める声も上がっている。

◎自分の記憶から自発的に説明を

<子どもに自発的に話してもらう質問法「司法面接」を研究、実践する仲真紀子北海道大教授(発達心理学)の話>
 子どもの記憶は見たことと聞いたこと、想像したことの区別が、大人より付きにくいのが特徴。質問するときのポイントは、できるだけ早い段階で自発的に自分の記憶と言葉で説明してもらうこと。質問の仕方も、限られた選択肢から答えさせたり、子どもの言葉を言い換えたりすると、記憶が汚染されてしまう。
 石巻市教委は録音、録画をしていないようだが、大人が注意深く事実を聞き取り、きちんと記録しないと信ぴょう性を損ねてしまい、子どものためにもならない。何十人もの子どもの話を聞いたが、丁寧に頼めば拒否されることはなかった。
 その場で記録を取らないと、場面、場面を聞き手が解釈しながら質問することになる。後で記録を作る際、大人の解釈が交ざってしまう危険性もある。聞き取りは専門知識のある第三者が担当するのが望ましかった。

2011年09月08日木曜日

 

検証 石巻・大川小の惨事/山と堤防、視界遮る
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110908_03.htm
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20110908013jd 大川小の校舎。2階まで壁が抜け、屋根には津波に運ばれたがれきや建材が打ち寄せた=3月29日、石巻市釜谷

 宮城県石巻市の指定避難所だった大川小は北上川河口から約4キロ、海抜1〜2メートルの釜谷地区にあった。津波への意識が比較的高い河口域と比べ、堤防と山に挟まれた独特の地形が避難を遅らせ、多数の犠牲者が出る一因となった可能性もある。

◎独特の地形が影響/避難遅れの一因か

 釜谷地区は1960年のチリ地震津波で被害がなく、市の津波ハザードマップでは、宮城県沖地震に伴う津波が到達する可能性は低いとされていた。
 市によると、東日本大震災に伴う釜谷地区の死者、行方不明者は計193人。地区人口(2月現在で497人)の4割近くに上る。
 北上川河口域の長面地区の死者・不明者は人口の2割で、尾崎地区は1割に満たない。地区外にいて被災したケースも含むため単純に比較はできないが、釜谷地区の被害は突出している。
 長面地区の男性(56)は「津波警報が出たら山に逃げる習慣があるわれわれと比べ、釜谷では津波を意識しにくかったと思う」と言う。
 釜谷地区と海の間には山が張り出し、北上川と、並行する富士川にはそれぞれ高さ4メートルの堤防があった。震災当日、釜谷地区で避難を呼び掛けた市河北総合支所職員の山田英一さん(56)は「津波襲来の歴史もなく、山と堤防に視界を遮られ、ぎりぎりまで津波に気付かない住民が多かったのではないか」と推測する。
 避難所として大川小の構造を疑問視する声もある。校舎は高さ約10メートルの2階建て。児童や住民が避難できるような屋上のスペースも階段もなく、屋根まで津波をかぶった。
 宮城県内の学校について震災当日の避難行動を調査している東北福祉大の数見隆生教授(学校保健学)は「山など高台への避難が大原則だが、防災の観点からはせめて一部でも3階建てにしておけば良かった。校舎3階に避難して助かった例もあり、学校建築の在り方を見直す必要がある」と問題提起する。

2011年09月08日木曜日

 

検証 石巻・大川小の惨事/証言でたどる51分間/黒い水、級友さらった
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110908_04.htm
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20110908014jd 津波で壊滅状態となった釜谷地区。残った建物は大川小の校舎(中央左)と、道路を挟んだ釜谷診療所だけだった=4月8日、石巻市釜谷

 3月11日の東日本大震災で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった石巻市大川小。あの日、あの時、学校と地域で何が起き、人々はどう行動したのか。河北新報社の取材に応じた児童や保護者、住民らのうち5人の証言で、地震発生から津波襲来までの51分間をたどる。

◎午後2時46分〜3時37分・5年只野君
震える脚、駆けだす/なぜ裏山に避難しないのだろう

 当時大川小5年生(現6年生)の只野哲也君たちの教室では、帰りの会が開かれていた。午後2時46分。声をそろえて「さようなら」と言いかけた時、揺れは襲ってきた。
 突き上げるような縦揺れに、横揺れが続いた。ガタン、ガタン。物が倒れる音が響く。「机の下に隠れろ。机の脚を持つんだ!」。先生の声に、哲也君は机の脚を自分の脚で押さえようとしたが、「体が回るようだった」。
 長い揺れが収まると、児童たちは校庭に避難し学年ごとに並んだ。靴下のままの子、上着を着ていない子。おびえて泣きだす低学年の女の子もいた。

<無線は1回>
 「大津波警報が発令されました。早く高台へ逃げてください」。午後2時52分、石巻市河北総合支所の職員が防災無線で呼び掛けた。校庭のスピーカーからも聞こえた。哲也君の記憶では、スピーカーが鳴ったのはこの1回だけだ。
 先生や地域の人たちは輪になり、何かを話し合っていた。指示を待つ子どもたちの列は徐々に崩れ、それぞれ小さな輪になって話し始めた。
 哲也君たちの輪の中に、涙を流している男の子がいた。「大丈夫だぞ」「こんな所で死んでたまるか」。みんなで口々に強気な言葉で励ました。
 「山さ逃げた方がいいんじゃね」「早くしないと津波来るよ」。近くにいた6年生の男子は、担任に訴えていた。
 この間に、母しろえさん(41)が哲也君と3年生だった妹の未捺さんを車で迎えに来た。先生は児童と保護者の名前を照合し、引き渡していた。
 忘れ物があったのか、しろえさんはいったん自宅に戻ることになった。「おっかあ、ヘルメット持って行って」。母を案じた哲也君は自分のヘルメットを渡そうとした。しろえさんは「危ないから、自分でかぶっていなさい」と受け取ろうとしなかった。
 「すぐ戻るからね」。2人の最後の会話となった。

<遠回り経路>
 「整列して。これから三角地帯に避難します」。先生の指示で、児童は新北上大橋たもとの堤防道路(通称三角地帯)に歩き始めた。海抜約1メートルの校庭より6、7メートル高い場所だ。直線で約200メートル。なぜか釜谷交流会館の前を通り、住宅地を抜ける遠回りのルートが取られた。「山に登れるのに、何で三角地帯なのかな」と哲也君は思った。
 高学年を先頭に、低学年が続いた。「津波が来ているから急いで」。教頭の声をきっかけに、みんな小走りになった。住宅地を抜けて県道を曲がった時、新北上大橋に波しぶきがかかるのが見えた。黒い水が堤防を越えて来た。
 がくがくと脚が震えて動けない。「授業中に寝ちゃって、夢を見ているのかな。でも、こんな長い夢はないよな」。次の瞬間、右脚が動いた。振り向き、裏山を目指して駆けだした。
 低学年の児童は、哲也君たちが走ってきた理由が分からず、きょとんとしていた。腰を抜かしたり、四つんばいになったりしている友達や先生の姿も目に入った。その中に柔道仲間の6年生の男の子がいた。「行くべ」。襟を何度も引っ張ったが、立ち上がれない。水の塊が近づいてきた。
 懸命に裏山をはい上がった。3メートルぐらい登ったところで「後ろから誰かに押されているような感じがした」。津波だった。頭から水をかぶると同時に、必死で木につかまった。土の中に押し込められるような激しい衝撃とともに、気を失った。

<はって進む>
 「てっちゃん、大丈夫か」。同級生の男の子が土をかき分け、助けてくれた。男の子は左手を骨折していた。津波にのまれたが、浮かんでいた冷蔵庫の中に入って、裏山にたどり着いたという。
 「助けてください。公民館があった場所の後ろの山にいます、助けて」。哲也君は震えながら、声を張り上げた。同じ裏山に避難していた大人たちが声を聞きつけ、来てくれた。雪をしのぐため、竹やぶに移動することになった。
 この時、哲也君は、足に力が入らないことに気付いた。「はってでも歩かいん」。おじさんに励まされ、何とか竹やぶに着いた。その日は山で一夜を明かした。
 避難所で父英昭さん(40)と再会できたのは、3月13日だった。「いつも強いおっとう」の涙を初めて見た。
 大川小にいた児童で、助かったのは4人だけ。津波は友達だけでなく、母と妹、祖父弘さん(67)を奪った。
 哲也君は津波にのまれた時、顔に大けがをして、しばらく物が二重に見えた。でも、しろえさんが「かぶっていなさい」と言ったヘルメットに守られた頭は無事だった。「おっかあが守ってくれた」。そう信じている。

◎3時30分〜37分・住民高橋さん
避難の叫び届かず/「大丈夫」顔見知り、笑顔で手振る

 石巻市釜谷地区に住む高橋和夫さん(63)の自宅は北上川沿いを流れる富士川の堤防近くにあった。揺れの直後、外へ出ると、近くの畑からぶくぶく泥水が湧いていた。
 「宮城県沖地震の時と一緒だ」と思ったが、津波が来るという危機感はなかった。家に備え付けの防災無線は鳴らず、大津波警報は知らなかった。
 「おい、堤防から水越えてるぞ。津波じゃないか」。午後3時半ごろ、近所の人の叫び声が聞こえた。北上川からあふれた泥水が約4メートルの堤防を越え、並行する富士川に流れ込んでいた。みんな慌てて車に乗り、避難を始めた。高橋さんも軽乗用車で堤防沿いを飛ばした。「逃げるならあそこしかない」。目指したのは大川小の裏山だった。

<外で世間話>
 県道沿いの住宅地では、まだ多くの住民が外で世間話をしていた。「逃げろ! 津波が来るぞ!」。窓を開けて怒鳴る高橋さんに、顔見知りは「大丈夫」と笑顔で手を振った。「危険と受け止めてくれる人はほとんどいなかった。みんな、津波が来るなんて想像していなかったんだ」
 裏山まであと少しのところで、いとこ夫婦が釜谷交流会館の方から来た。「駄目だ、戻っちゃ駄目だ」と説得したが、「家におばあさんがいるんだ」と応じない。引き留められなかった。

<「何でまだ」>
 裏山に着く寸前、校庭に子どもたち数十人の姿を見た。釜谷交流会館の前にも10人ぐらいいる。「何でまだここに」。裏山のふもとに車を止めて降りた時、背後から「ドーン」と重い響きが聞こえた。振り向くと、家が壊れるバリバリという音と、煙のような黒い壁が迫ってきた。
 「上がれ、上がれー!」。山に向かって走りながら叫んだが、みんな次々と水にさらわれていった。高橋さんも後ろから、津波の気配を何度も感じた。追い付かれまいと、斜面をはい上がった。
 眼下には水にのまれた集落が広がっていた。2階建ての校舎も体育館も濁流にのまれ、辛うじて見えた校舎の屋根にはがれきが乗っていた。
 しばらくして、助けを求める声が聞こえた。声を頼りに山沿いを歩いていくと、がれきだらけの泥水の中、木の枝をつかんで懸命に耐える女性や子どもの姿があった。
 「今助けてやっからな」。まず小学校低学年の女の子に手を伸ばした。水に落ちながらもやっと手をつかみ、周囲のがれきでけがをしないよう、そっと引き寄せた。その後も5、6人は助けただろうか。校舎側の斜面でも、波に運ばれてけがをした中学生を救出した。
 雪は本降りになっていた。みんな唇は紫色で震えていた。「ここにいたら凍死する。竹やぶに移動しよう」。全員が高橋さんに従った。別の場所で助かった只野哲也君や石巻市職員らも合流した。
 救えない命もあった。川から内陸へ流されながら「助けてー」と叫ぶ子どもたちがいた。声の方向に目を凝らした。流れが急な上、がれきや建材に阻まれて姿が見えない。声は次第にか細くなり、遠ざかっていった。
 「自分一人ではどうしようもなかった。でも、助けたかった」。高橋さんは涙を浮かべた。

◎2時57分〜3時29分・児童の父親三條さん
校庭の妻から伝言/とんでもないことになっている

 携帯電話のボタンを何度押してもつながらない。北上川下流の石巻市長面に住む三條真一さん(44)は車で自宅方面に向かいながら、妻早苗さん(48)と高校1年の長男友輔君、大川小3年の次男皓聖(こうせい)君の無事を確かめたくて、やきもきしていた。
 「道路はほとんど地割れしているので気をつけてください」。午後2時57分、友輔君が携帯電話のメールで大川小付近の道路の状況を伝えてくれた。早苗さんの車で皓聖君のいる学校を目指していたとみられる。
 「大変だ。とんでもないことになっている」。午後3時11分、早苗さんは災害用伝言サービスにメッセージを残していた。三條さんは「やっとしゃべっているような、震えた声だった。大川小に到着し、校庭の混乱ぶりを伝えようとしたのではないか」と推し量る。
 学校まで5キロに迫った午後3時15〜20分ごろ、北上川をさかのぼる流れが見えた。津波の第1波で、「堤防を越えるかと思うくらいの勢いだった」。慌てて近くの山に避難した。
 三條さんは何度か下流に向かおうとしたが、通行止めで近づけなかった。大川小の被害を知ったのは2日後。妻と2人の息子は遺体で見つかった。
 震災から4、5日がたち、ようやくつながるようになった携帯に1通のメールが届いた。「友と皓と小学校にいます」。送り主は早苗さんだった。受信日時は3月11日午後3時29分。津波が襲来する直前に発した最後のメッセージとなった。

◎3時20分〜37分・市職員山田さん
まるで滝、堤防越す/濁流、駆け上がるように迫ってきた

 午後3時すぎ、石巻市河北総合支所職員の山田英一さん(56)は広報車に乗り、北上川下流を目指していた。海に面した長面・尾崎地区で水門の見回りや住民の避難誘導に当たるつもりだった。
 北上川の左岸沿いから新北上大橋を渡り、大川小のある釜谷地区を通過。海岸まで2キロ余りに迫った午後3時20〜25分ごろ、海に閃光(せんこう)が走った。
 「何だ、あれ」。次の瞬間、海岸沿いの松林を波しぶきが突き抜けた。間髪入れず、高さ20メートルはある松を超えた大波が迫ってきた。「のまれる」。ハンドルを切ってUターンし、アクセルを踏み込んだ。
 釜谷地区ではまだ多くの住民が避難していなかった。助手席の同僚はマイクを持ち、「高台に逃げろー。松林を津波が越えてきたぞー!」と叫び続けていた。
 市教委によると、大川小周辺にこの声が聞こえたのは午後3時25分ごろ。校庭に待機していた児童が新北上大橋の堤防道路に誘導されるきっかけになったとされる。
 家族の身を案じ、上流側から戻ってくる車も相次いでいた。午後3時半ごろ、山田さんは堤防道路で釜谷地区に入ろうとする車を止め、雄勝方面の峠につながる国道398号へと誘導し始めた。
 住民たちは「まだ家に家族がいるんだ!」「通してくれ!」と訴えた。「津波が来る」と説得するのに必死で、小学校の様子や川の水位を確かめる余裕はなかった。
 誘導が一段落し、ふと川を見た。目を疑うような光景が広がっていた。
 川の水位は表面張力で膨らんだように堤防を越え、漁船が堤防より高い位置を逆流してきた。橋桁には下流から運ばれた木やがれきがたまり、流れをせき止めていた。
 北上川からあふれた水が富士川に滝のように流れ込んでいた。堤防道路は富士川より5〜6メートル高かったが、「川に流れ込んだ水が駆け上がるように迫ってきた。本当に不気味だった」。
 山田さんはとっさに別の車で避難誘導していた同僚4人とともに、大川小の裏山に駆け上がった。山田さんの助手席で最後まで避難を呼び掛けていた同僚1人は波に巻き込まれた。
 津波は堤防道路をのみ込んだ。水の塊が向かった先には、子どもたちの列と大川小があった。

◎3時10分〜20分・児童の母親
教頭、住民に尋ねる/この山に子どもを登らせて大丈夫か

 学校につながる堤防道路は所々に亀裂が入り、その都度、車のスピードを緩めなければならなかった。大川小の児童の母親が、北上川上流にある自宅から学校の校庭に着いたのは午後3時10分ごろ。児童や住民ら100人以上がいた。
 「この山に子どもたちを上がらせるとしたら、大丈夫でしょうか」「崩れる山でしょうか」。教頭が学校の裏山を指さし、4、5人の住民に問い掛けていた。住民たちは「ここまで津波が来るはずがないよ」「大丈夫だから」と答えていたように記憶している。
 わが子を引き取り、車に乗せて学校を出た。午後3時20分ごろ、新北上大橋を通り過ぎた先で警官に止められ、「危ないから、釜谷に戻って」と指示された。バックするにも、後ろには長い車列ができていた。
 「お願いです。家に戻りたいんです」。制止する警官とやりとりが続いたが、結局押し通した。夢中で車を走らせ、自宅に着いた。「あの時は、本当に津波が来るなんて思わなかった」

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2011年09月08日木曜日

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「死にものぐるいで上に行け」津波被害の大川小 「あの日」教員は叫んだ
産経新聞 4月15日(金)7時56分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110415-00000113-san-soci
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一面のがれきと泥の中に残った大川小学校の門柱。女性が花を手向けた=宮城県石巻市(矢島康弘撮影)(写真:産経新聞)

 海抜ほぼ0メートルにその学校はあった。北上川のほとりに立つ宮城県石巻市立大川小学校は、全校児童108人のうち、津波で74人が死亡・行方不明となった。学校にいて生還した教員は教務主任の男性1人。石巻市教育委員会が聞き取りを行ったこの教諭や関係者の証言から当時の状況が明らかになりつつある。あの日、何があったのか。“その時”を検証する。(桜井紀雄、荒船清太)

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【写真】映像がとらえた大川小周辺を襲った津波

 ≪列の前から波来た≫

 5時間目を終えたとき、大きな揺れが襲った。子供たちは机の下にもぐり、校庭への避難が指示された。

 泣き出す子供もいたが、女性教諭らが付き添った。学校前に自宅があり、同校に通う2人の孫を亡くした阿部文子さん(59)は「校庭に子供たちが整列しているのが見えた。ヘルメットをかぶっている子もいた」。

 校庭には、離れた地域の児童を送るためのスクールバスが止まっていた。「今、校庭に並んだ子供の点呼を取っているところで、学校の指示待ちです」。男性運転手(63)は運営会社に無線で連絡した。これが最後の通信。男性運転手も津波で死亡した。会社側は「詰め込めば児童全員を乗せられただろう」としている。市教委は「津波の際、どこに避難するか特に決められていなかった」という。

 男性教諭は校舎内を確認しに向かった。ガラスが散らばり、児童が入れる状況ではなかった。校庭に戻ると、子供たちは他の教員に誘導され、裏山脇の細い農道を列を組んで歩き出していた。坂道を行くと校庭より7~8メートル高い新北上大橋のたもとに出る。教諭は列の最後尾についた。

 「ドンという地鳴りがあり、何がなんだか分からないうちに列の前から波が来た。逃げなきゃと思った」。教諭はその瞬間をこう証言したという。波は河口とは逆方向の橋のたもと側から児童の列の先頭めがけて襲いかかった。

 気づくと、裏山を登ろうとする児童が見えた。生い茂る杉で周囲は暗いが、ゴーという音で足元まで水が迫っているのが分かった。

 「上に行け。上へ。死にものぐるいで上に行け!」と叫んでいた。追いつくと3年の男児だった。くぼ地で震えながら身を寄せ合ったが、お互いずぶぬれ。「このままでは寒くて危ない」と男児の手を引き、山を越えた。車のライトが見えた。助けられた。

 ≪農道以外選択肢は≫

 被害を免れた大半は津波が来る前に車で親が連れ帰った子供だった。しかし、他の児童とともに農道を歩きながら助かった5年の男児も2人いる。

 「山の中で『おーい』と捜していると、弱々しい声で『おーい』と聞こえた。髪までぬれた男の子2人が斜面に横たわっていた」。裏山の反対側から駆け付けた石巻市河北総合支所の佐藤幸徳さん(51)は振り返る。

 「歩けるか」と声を掛けると、2人は「大丈夫です」と答えた。開けた場所まで行き、他の避難者たちとたき火をして一夜を過ごした。2人は「誰かに大声で『山に逃げろ』と言われた」と説明したが、言葉は少なく、ずっとうつむいていたという。

 行方不明の子供の捜索中、作業着姿の男性(44)が泥まみれの赤いランドセルを抱き、突っ伏してむせび泣いた。「見つかったんだ!」。不明の小1の長女(7)のもの。つぶれ、茶色く変色したノートが残されていた。

 小4の次男(10)も亡くした男性は強い思いを抱き、学校跡に通い続ける。「あの日、本当に何があったのか、知りたい」

 震災当時、学校を不在にして助かった柏葉照幸校長(57)も捜索を続ける。男性は裏山を指して柏葉校長に疑問をぶつけた。「ここに登れば助かったんじゃないですか」。男性によると、柏葉校長は「そうですね。現場にいたらそうしたかもしれません」と答えたという。

 市教委は「想定外の津波だった。山が崩れる危険がある中、農道を行く以外に方法があったかは分からない」としている。

 

2011/04/15 00:17
【東日本大震災】
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/502575/
Internet Archive

 宮城県石巻市立大川小学校周辺地域に津波が押し寄せる様子をカメラがとらえていた。

 映像は、津波の警戒に回っていた石巻市河北総合支所の職員が撮影した約3分の内容。木の陰に隠れ、学校の様子は写っていないが、大川小の児童らが避難に向かう予定だった新北上大橋が波をかぶり、橋につながる道路が津波にのみ込まれ、寸断される瞬間も収録されている。橋も倒壊した。

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記事本文の続き 橋に近い高台から被害状況を記録するため職員が持っていた動画機能付きデジタルカメラで撮影。映像は「学校大丈夫か、学校」という男性の声も拾っている。撮影後、職員らは児童の安否確認のため、大川小の方向に向かった。(動画は産経フォトとユーチューブの産経新聞チャンネルで)

↑↓

石巻市立大川小学校の近くに押し寄せた津波
SankeiNews
http://youtu.be/DW0dqWR4S7M

 念の為mp4 

 

北上川河口周辺の動画を一つ探しました。大川小学校からさらに下流の左岸、石巻市北上町あたりからの撮影です。山形新聞社チャンネルのYouTube映像。

【東日本大震災】宮城県石巻市に大津波
PressYamashin
http://youtu.be/S7Yp6LGanWk

2011/07/10 にアップロード

概要:
宮城県石巻市。北上川を逆流して押し寄せる津波。(東根市の高橋さん撮影、11日午後­3時30分ごろ)

 

“避難まで30分校庭に待機”
6月3日 21時0分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110603/k10013310671000.html
Internet Archive

K10033106711_1106040801_1106061436_ 巨大な津波によって全校児童のおよそ7割が亡くなったり、行方不明になったりしている宮城県石巻市の大川小学校で、児童らは教員に先導されて高台に避難を始めるまで、およそ30分、校庭で待機していたことが明らかになりました。津波に飲まれながら奇跡的に助かった児童がそのときの様子を語りました。
石巻市の大川小学校は2階建ての校舎を超える高さの津波に襲われ、全校児童108人のうち、68人が死亡、6人が行方不明になっており、学校や教育委員会は当時の様子について、助かった児童や教員などから聞き取り調査を進めています。これまでの調査で、地震が起きたあと、校舎内からグラウンドに出た児童らは、学校から200メートルほど離れた高台に避難を始めるまで、およそ30分待機していたことが分かりました。津波に飲まれながらも奇跡的に助かった現在6年生の只野哲也くんは、父親とともにNHKのインタビューに応じ、「先生たちはグラウンドの前でずっと話し合いをしていた。そのとき、先生は『大丈夫だからな』とか言っていた」と話しました。当時、学校には子どもを引き取るため保護者も大勢集まっていました。さらに学校は石巻市が指定する避難所になっていたため、近所の人たちが避難してきており、グラウンドではたき火の準備も始められたといいます。そして、児童らが高台に向かって移動を始めた直後に津波に襲われたということで、そのときの様子を「様子を見に行っていた教頭先生が堤防から走ってきて、もう津波来てるみたいだから早く逃げてくださいって。そこから小走りに逃げた」と話しています。このあと、津波にのまれた只野くんは学校裏の山の斜面に打ち上げられたところを、近所の人たちなどに助け出されたということです。只野くんは今回の地震で同じ学校に通っていた当時、3年生の妹と母親を亡くしています。父親の英昭さんは多くの子どもたちが犠牲になった原因を知りたいとして、ほかの保護者らとともに学校に対して地震が起きたあとの状況や学校の対応について説明を求めています。大川小学校では、4日の夕方、保護者を対象にした説明会を開いてこれまでの調査結果を説明する方針です。

NHKニュース 6月3日 21時0分

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なぜ大川小だけ多数被害…説明求め要望書
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110601-OYT1T01157.htm
Internet Archive

201106022777491l  東日本大震災の津波で全児童の7割近い74人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小の保護者有志が1日、同市教育委員会に対し、避難時の状況について検証し、改めて説明するよう要望書を提出した。

 要望書は、「このような惨事を二度と繰り返さないためにも、なぜ子供たちを救えなかったのかについてしっかり検証すべきだ」と訴え、津波到達までの対応や、避難場所として北上川そばの高台を選んだ経緯など5項目について説明を求めている。

 また、他の学校の例を挙げて、「校舎が津波にのみ込まれながらも安全な高台に避難させ、学校管理下の児童・生徒の命を守っている」とした。

 同小周辺には、津波が逆流した北上川に沿って、ほかにも小中学校が4校あり、計13人の児童・生徒が死亡・行方不明となった。各校や市教委によると、犠牲になったのはいずれも、学校から帰宅した後だったという。
(2011年6月2日03時03分  読売新聞)

 

避難より議論だった40分…犠牲者多数の大川小
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110613-OYT1T00508.htm
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201106134730971l多くの児童が犠牲になった大川小(12日午後0時2分、宮城県石巻市で、読売機から)


 

201106134731651l左:避難しようとした三角地帯。右:大川小学校の位置。


 

201106134731131l大川小学校での地震発生から津波到来までの経緯


 

201106134731351l大川小学校の児童・教職員の被災状況


 東日本大震災で全校児童の約7割にあたる74人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小学校で、地震発生から児童らが津波にのまれるまでの詳細な状況が13日、市教委や助かった児童の保護者らへの取材で明らかになった。

 学校側が、具体的な避難場所を決めていなかったことや、教諭らの危機意識の薄さから避難が遅れ、さらに避難先の判断も誤るなど、様々な〈ミスの連鎖〉が悲劇を招いた。

 市教委の調査などによると、3月11日午後2時46分の地震発生時は、児童は下校中か、「帰りの会」の途中だった。校舎内の児童は教師の指示で校庭に集合し、学年ごとに整列した。下校中の児童もほとんどが学校に戻った。

 午後3時頃、点呼を終えると、教頭と数人の教諭が桜の木の下で、「山へ逃げるか」「この揺れでは木が倒れるので駄目だ」などと話し合っていた。学校の津波の際の避難マニュアルは避難場所について「高台」としていただけで、具体的な場所を記していなかった。

 ただ、津波被害を受けた周辺の5小中学校のうち、1校には避難マニュアルがなく、作成していた4校のうち1校は避難場所を「校庭」としていた。

 一方、防災無線からは大津波警報が鳴り、避難を呼びかける声が響いていた。余震が続き、泣き出したり、嘔吐(おうと)したりする子もいた。保護者らが相次いで児童を迎えに訪れ、教諭は対応にも追われた。「ここって海岸沿いなの」と不安がる女子児童や、「死んでたまるか」と口にする男子児童もいて、騒然とした雰囲気になった。

 当時6年生の女児を連れ帰った母親(44)によると、母親が担任に「大津波が来る」と慌てて伝えた際、担任は「お母さん、落ち着いてください」と話した。しかし、すぐに避難する様子はなく、「危機感がないようだった」という。暖を取るため、たき火をしようとした教諭もいたとの証言もあったが、市教委は確認できなかったとしている。

 市教委の調査では、その後、市の広報車から「津波が松林を越えてきた。高台に避難してください」と呼びかける声が聞こえた。教諭と、この時も、集まった地域住民の間で「山へ逃げた方がいい」「山は崩れないのか」などのやり取りがあった。結局、約200メートル先の北上川堤防付近にあり、堤防とほぼ同じ高さ6~7メートルの高台に避難することになった。

 避難を始めたのは地震から約40分後の午後3時25分頃。約10分後の午後3時37分頃、6年生を先頭に、学校の裏手から北上川沿いの県道に出ようとしたところで波が襲い、高台ものまれた。
(2011年6月13日14時55分  読売新聞)

 

時論公論 「生死を分けた学校の避難経路」2011年08月16日 (火)
西川 龍一  解説委員
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/92413.html
魚拓

東日本大震災から5か月がたちました。これまでに死亡が確認された15000人を超える犠牲者の中には、多くの子どもたちも含まれています。被害を踏まえ、学校の施設をどう整備するべきなのか、文部科学省の検討会議が先月、提言をまとめ、公表しました。今夜は、この提言を踏まえ、学校が子どもたちの命を守るための工夫、特に大きな被害を出した津波への備えはどうあるべきなのかを考えます。

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文部科学省の検討会議は、東日本大震災で津波の被害を受けて建物自体が使えなくなった学校は、再建にあたって高台に移転することや、公民館などほかの公共施設と併設することで、津波避難ビルとなるよう高層化することなど盛り込んだ緊急提言をまとめ、先月公表しました。
地震や津波による学校の被害は、岩手、宮城、福島の3県の公立の学校施設だけで、2000校近くに上りました。被害を踏まえ、学校の施設をどう整備すべきかを示しました。
震災で犠牲になった小中学生と高校生は、岩手県で78人、宮城県で310人、福島県で72人。中には、本来安心していられる場所であるはずの学校で命を失った子どもたちもいます。その一方で、提言が取り上げた学校の中には、震災の直前に見直された避難経路によって、子どもたちを津波の被害から救ったケースがありました。

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沿岸部が潰滅的な被害を受けた宮城県石巻市は、179人の児童・生徒が死亡し、市内にあるすべての学校が被災しました。中でも、もっとも深刻な被害が出たのは、児童の7割が亡くなった大川小学校です。北上川の河口から4キロほどのところにあるこの小学校は、2階建ての校舎の屋根付近まで津波にのまれました。108人の児童のうち、学校に残っていた70人が死亡。4人が今も行方不明のままです。当時学校にいなかった校長を除く11人の教師のうち、助かったのは1人だけでした。

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大川小学校がある地区は、壊滅的な被害を受けましたが、同じように地域全体が津波の被害を受けたところでも、学校で、これほど多くの子どもが犠牲になったところはほかにありません。
11メートルを超える津波が観測された岩手県大船渡市。三陸鉄道の三陸駅に近い越喜来小学校は、被災したもののすべての児童が助かった学校の一つです。海岸から200メートルほどしか離れていないこの小学校を含む越喜来地区は、地震発生から10分後には津波の第1波が観測され、その後押し寄せた津波によっておよそ500世帯が被害を受け、79人が犠牲になりました。3階建ての校舎も屋上の一部を除いて水没しましたが、当時学校にいた71人の児童は、全員無事に近くの高台に避難することができました。

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同じ岩手県の岩泉町にある小本小学校も地区が津波にのまれて校舎が水に浸かり、校庭は流されてきた車やがれきで埋まりました。しかし、校舎や校庭にいた86人の児童は、混乱することなく高台に避難して無事でした。

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実は、3つの学校は、立地条件が極めてよく似ています。いずれも河口に近い川に隣接した場所にあり、校舎は堤防から200メートルほどのところに建てられていました。さらに、3校とも川と反対側には、津波が届かなかった裏山や高台があります。岩手県の2つの小学校の児童や教師たちは、いずれもこうした場所に避難して無事でした。

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何が生死をわけたのか。
越喜来小学校の裏側に通路が残っています。校舎の2階から海抜20メートルほどの避難所に続く県道に直接出られるようになっています。去年11月に完成したばかりのこの通路を使って、今回、子どもたちは避難しました。通路ができるまでは、全員がいったん一階にある昇降口まで降りて川の方向に回り込んでいたため、校舎から避難所までの距離は今の2倍以上ありましたが、昇降口を通ることで、わずか3分ほどで避難を終えることができ、地震発生から15分ほどで、さらに高台にある公民館まで全員が移動できたと言います。
小本小学校も、学校の脇に高台に直接避難できる階段がおととし整備されたばかりでした。この階段ができたおかげで、いったん海側に向かってから国道に抜ける避難ルートが見直されていたのです。
2つの学校の関係者は、いずれも新しい避難経路が決まっていたことで、緊急時に余裕を持って判断することが可能だったと話しています。

一方、多くの犠牲者が出た大川小学校で起きたことを改めて振り返ってみます。石巻市教育委員会によりますと、地震発生の後、教師たちは校庭に児童を集めてから、これからどうするべきか議論を始めたと言います。裏山は、避難先として想定すらしていませんでした。裏山が安全だという声もあったということですが、斜面が急で上りにくいなどという意見が出て、断念。地震から40分もたったあと、水が堤防を越えてくることはあり得ないという意見に従い、児童たちが向かったのは、津波が迫る川の堤防脇にある高台の広場だったと言います。
大川小学校があった地域は、宮城県沖地震を想定した石巻市のハザードマップでは、津波の浸水区域ではありませんでした。それでも川が近いこともあって、一部の保護者の間から、万一の場合裏山に避難できるように通路を整備したらどうかという意見が寄せられていたということです。しかし、学校側から教育委員会に設置を働きかけるといったことはありませんでした。校庭が水に浸かりそうな場合に児童をどこに誘導するべきかもはっきり決まっていませんでした。すぐ近くにある最適な避難場所をいかすことができなかったのです。

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岩手と石巻の違いは何だったのか。学校の設備としては、階段や通路があったかなかったかだけの違いです。しかし、そこには、日頃から津波に備えるという地域を含めた学校の意識の差が如実に表れています。越喜来小学校も小本小学校も津波の想定区域の中にあり、避難階段などは、もともと地域の人たちの強い要望で設置されました。巨額の費用をかけなくても通路一つで子どもたちの安全確保につなげていたのです。
こうした違いが、被災後の学校の取り組みにも現れています。
越喜来小学校が授業を再開するため間借りしている大船渡市立甫嶺小学校。今回、津波の被害はありませんでしたが、越喜来小学校側の提案で、すぐに避難経路を見直しました。これまで、校庭に集合して、海側にある正面の校門から避難することになっていましたが、児童の出口を裏の昇降口に改めました。そして裏山に上る山道を避難路にすることを決めたのです。子どもたちが上りやすいよう市の教育委員会に要請して、木製の枠を使った階段も整備しました。費用は100万円ほど。夏休み明けには、これを使って津波を想定した避難訓練を計画しています。

厳しい財政事情の中、今ある学校でも子どもたちを守らなければなりません。被災地以外の一部の学校でも、避難マニュアルの見直しが始まっています。最適な避難場所となりうるところをどうすれば最大限に活用できるのか。不幸にして多くの犠牲者を出した学校と、一人も出すことのなかった学校。その違いを考えるなかで得られた教訓を、子どもたちの命を守る方策としていかしていくことが求められています。

(西川龍一 解説委員)

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 以下、大川小学校の悲劇を伝える英文記事。最初は狩野あけみさん、次は狩野さんの娘、三姉妹の末っ子で行方不明の6年生愛さんの英文記事(日本語記事に戻る

Time has stopped for parents of dead and missing children
Closure next to impossible at school where 70 pupils were washed away
by Rob Gilhooly
Special To The Japan Times
http://www.japantimes.co.jp/news/2012/03/11/national/time-has-stopped-for-parents-of-dead-and-missing-children/#.UlAAXSSGrOc
魚拓
Internet Archive

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Searching for answers: Akemi Karino looks around the desolate landscape at Okawa Elementary School in Ishinomaki, Miyagi Prefecture, on Feb. 23. | ROB GILHOOLY

ISHINOMAKI, MIYAGI PREF. – On April 22 last year, Akemi Karino did exactly what she had done on the same day each year for more than a decade. She made a cake, sandwiches and some other of her daughter Ai’s favorite things for her birthday.

On this occasion she decorated the cake with 12 candles, but there was a conspicuous absentee from Ai’s 12th birthday.

It was Ai herself.

“It was nothing elaborate, but everything was as it usually was — except there was no Ai,” says Karino, 43, tears flooding down cheeks paled by a biting wind blowing through the now-desolate district near the skeletal remains of the school her daughter once attended. “She loved parties and I thought if she could see this one she might come home.”

Ai Karino was one of the 70 children from Okawa Elementary School in Ishinomaki’s Kahoku district who, along with nine of their teachers, were swept to their deaths by the March 11 tsunami.

Indecisiveness by the staff as to where they should evacuate the children ultimately accounted for 80 lives — a surviving teacher later committed suicide — while a further five remain missing.

Her daughter’s body was found April 28, the news reaching Karino via a phone call just as she was leaving a “shijuku-nichi” (49th day) memorial ceremony, a Buddhist rite held to mark the passage of the dead to the afterworld.

Almost one year on from what was one of the most tragic episodes of the March 11 disasters, Karino is among many grieving parents for whom time has frozen.

This was highlighted during an address by Takeshi Takeyama, chairman of an association for the bereaved families, during a ceremony March 4 in Ishinomaki to mark the one-year anniversary of the disasters.

“The painful and bitter memories remain unhealed, and the days of suffering continue,” said Takeyama, who lost two children. “We must carry on living by supporting one another.”

Akemi Karino’s logical acceptance of her daughter’s death is tempered by “an irrational notion” that she will return from school any day. Her daughter’s room remains as it was a year ago. She often sits on her daughter’s bed and looks at photographs of Ai, her smiling face stirring in her a jumble of emotions from which she is unable to escape.

And on April 22 this year she will bake another cake.

“We found her, we cremated her, she has been laid to rest and I know that I should clear her room and move on,” says Karino, as she rubs the toes of her rubber boots into the muddy dirt on which less than a year ago stood a family’s home.

“But I just can’t seem to gather the strength to do it. I can’t help myself from looking up sometimes and expecting her to walk through the door.”

For the 49 days before the discovery of her daughter’s body, things had been easier. Each day she would visit the devastated area around the school and look for her daughter. She had something to cling on to, something to keep her going.

Now she can’t stop her mind from wandering. Her surviving children, Yu, 15, and Yui, 18, avoid mentioning their deceased sister’s name: “They know it will only make me weep.”

To keep her mind occupied, Karino has returned to work — though she admits to having frequent lapses. On her days off, she still goes back to the area around the school to join the search for the still-missing children.

She sometimes joins another mother, Naomi Hiratsuka, who operates a power shovel, the license for which she obtained in order to search for her own daughter, Koharu, 12, who also vanished.

Even though her daughter was found Aug. 8, some 3 km downstream in Naburi Bay, Hiratsuka continues to look for the missing children, her husband, Shinichiro, 45, helping on his days off work at a local school, and urging the authorities to continue cooperating in the parent-led searches.

“What’s a year?” asks Hiratsuka, 38, who has taken indefinite leave from her teaching post to continue plowing through the earth that now shows few signs of the community that once thrived on the banks of the Kitakami River.

“Nothing has changed, but everything has changed. Our children are still dead and others remain missing. What’s important now is we return them to their homes.”

Hiratsuka and other parents successfully lobbied to get the city to damn the Fujigawa River, a narrow tributary of the Kitakami that passes in front of the school.

On Feb. 14, searches subsequently began along a 1.5 km-stretch that had been inaccessible, with 11 power shovels, including one amphibious caterpillar, scouring the area.

Nothing was found in the allocated 10 days, but Hiratsuka vows to buy more time. “We can’t just give up on them,” she says before making a beeline for two uniformed officials in hard hats.

This is how Hiratsuka’s days are spent. In between preparing morning and evening meals for her two surviving children, Toma, 7 and Sae, 3, and shuttling them between schools and day care, she burrows through the soil, a woolly cap pulled tightly over her ears.

“This is my life now,” she says, her hands in fingerless gloves manipulating the yellow power shovel’s complex control instrumentation like a seasoned pro.

The surviving children have all gone back to school, many of them suffering posttraumatic stress disorder, she says. Attempts to help them have been slow and ineffective — official counseling arrived some nine months after the disasters, she says. “Like everything else, it was too little too late.”

Many parents and some children instead sought solace from spiritual leaders.

“Everyone says that the flow of time has completely changed, that the clocks have stopped,” says Buddhist priest Dairyu Ono, 35, as he carefully places flowers at an altar erected outside the school in memory of the children.

“After the disasters, parents of the children killed would say they don’t have the will to carry on. Now they say that while they have come to terms with their loss, they still suffer a huge sense of guilt at having survived while their children didn’t.”

Unable to reconcile themselves, some parents have moved from the area, he says. According to Hiratsuka, only 19 of the 34 surviving students remain at the temporary school in Ishinomaki.

On March 10 last year, 108 pupils had shouted and screamed as they ran around the mountain-backed playground, peeping their heads through the portholes of a concrete facade on which they had painted colorful images of children from around the globe. Today, the play area is a muddied mess of debris. The school building is a shell — nothing remains except a partially burned dictionary and a plastic sword lying on a desk.

Karino says she too contemplated relocating — though, ironically, that was before the disasters, at a time when she hankered for a faster-paced, convenience-packed lifestyle.

Yet, her loss has somehow adhered her to the area. “I wanted out, but she loved it here. She loved the school, she loved summers at the seaside, playing in the river,” says Karino, stopping abruptly to cover her eyes and mouth with her trembling hands.

“So I have to stay. As a priest told me recently, Ai is watching me. So I have to stay here and I have to smile. For her.”

 

Tsunami spared few at elementary school in Ishinomaki
April 25, 2011
http://ajw.asahi.com/article/0311disaster/life_and_death/AJ201104251259
魚拓
Internet Archive

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Okawa Elementary School in Ishinomaki, Miyagi Prefecture, is still covered with mud on April 9 after being devastated in the March 11 tsunami. (Photo by Shingo Kuzutani)

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A photo and a graduation certificate of Ai Karino, who was still missing as of April 24, in Ishinomaki, Miyagi Prefecture (Photo by Gen Hashimoto)


Lessons learned from the tsunami spawned by the March 11 Great East Japan Earthquake showed that even schools once thought to be safe havens were vulnerable, and some parents who could get their children to higher ground saved them.

In Ishinomaki, Miyagi Prefecture, Okawa Elementary stands along a prefectural road near Shin-Kitakamiohashi bridge, about five kilometers from the mouth of the Kitakamigawa river. The two-story school building, where 108 students were enrolled, was a modern structure and supposedly safe from tsunamis.

Ironically, part of the school song goes, "Taiheiyo no Aoi Nami, Yosetekuru Nami" (Blue waves of the Pacific, waves that approach).

On March 11 at 2:40 p.m., the students were preparing to go home. Of the school's 13 teachers and clerical staff members, 11 were present at that time.

Among the school's fifth-graders was the second son of Nobuhiro Kimura, 37, who operates a local iron factory.

At 2:46 p.m., Kimura was in his office talking to the chairman of a company that has done business with his factory.

Then, a violent impact shook the ground. After the initial tremor, the shaking continued for a while. Many iron frames fell with a crash. Surprised by the big tremors, Kimura immediately jumped in his car and sped to his house, located between the school and his factory.

While he was driving his car along the river, he heard a radio report saying that a major tsunami warning had been issued, and he also noticed that the water level of the river was lower than usual. As the radio reported that the first wave of the tsunami had hit the neighboring town of Onagawa, Kimura felt a strong sense of ominous foreboding.

At his house, his eldest son, a junior high school student, had already come home earlier than usual because a graduation ceremony had been held that day. Taking his son, Kimura drove hurriedly to his other son's elementary school. While he kept his engine on, his eldest son jumped out of the car, rushed into the elementary school and got his younger brother. Immediately after starting to drive, Kimura saw something flying in front of him. It was a house, which flew from the side of the river to the opposite side, being carried by the tsunami.

City government employees were waving their arms near the bridge to instruct cars to head to a hill. Kimura turned the steering wheel and pressed harder on the gas pedal.

Several minutes before that, one of the city employees, Toshinobu Oikawa, 57, had been about a kilometer from the elementary school in the direction of the mouth of the river. When he looked to the front, he saw waves in the distance that were higher than the rows of pine trees on the beach that were at least 20 meters high.

"(The waves are) big," Oikawa thought. While driving his car, he urged residents through a loudspeaker to evacuate. Near the bridge, he stopped cars that were trying to go to the elementary school, and instructed them to head to the hill and higher ground. When he glanced at the river, a surge of black water was coming up it and swelling as if it was about to explode.

A fishing boat of about three tons being carried by the tsunami was approaching at the height of the riverbank. It was sliding along the embankment, and crashed into the bridge in front of Oikawa. He heard a sound like the echo of a huge waterfall.

When the wave of black water came closer to him, Oikawa turned and ran up a slope to the hill. The water that overflowed from the river near the bridge filled the lower-lying areas.

Immediately after that, the waves that had hit pine trees on the beach also neared Okawa Elementary School.

A male teacher, who was the only teacher who survived the tsunami that struck the school, later told his story to parents in a meeting held April 9 between school officials and relatives. The teacher and a few others, including parents who went to the school to get their children, were the only adults who knew what had happened just before the tsunami hit.

According to the teacher, the teachers all had confirmed in the schoolyard that all of their students were safe. However, some of the children were weeping. Others were feeling cold as they ran out barefoot in the snow.

The male teacher went back to the classrooms to confirm that no students remained and returned to the schoolyard. Then, he found that the students and the other teachers were trying to evacuate to higher ground on an embankment.

Then, he suddenly heard a loud sound followed by a gust of wind. The tsunami was rushing toward them along a road. After that, it engulfed the students.

Setsuko Takahashi, 60, who lives near the elementary school, was heading toward the schoolyard and saw the students walking in rows on a back road on the side of a hill.

"Follow the rows of the elementary school pupils," she told her 31-year-old daughter and a 2-year-old grandson, who were with her.

Immediately after that, she was engulfed by the brown water and managed to grab onto floating trees and a board. She was washed into a backwater area. She found a girl nearby, who was clinging to a piece of wood. While telling the girl, "Don't let go (of the wood)," she managed to climb onto a slope. A man who had fled to safety on the slope rescued the girl.

The elementary school was swallowed by a swirling muddy stream of water, and Takahashi was only able to see the upper part of the second floor of the school above the high water level. She could see neither the rows of students nor her daughter and her grandchild anywhere.

Four children made it to safety in the backwater. They were a first-grade girl and two fifth-grade boys from Okawa Elementary School and a male junior high school student. A total of 12 adults, including Takahashi and employees of the branch office of the city government, were also there.

The male teacher also survived along with a third-year boy of the elementary school on a different part of the slope.

Parents of all the elementary school students spent an anxious night while waiting on word about their children, as roads and all means of communication were disrupted. A rumor spread that the children had been saved at the school and all were safe. Some parents' minds were eased thinking that their children were staying there overnight, which also serves as an evacuation center.

The next day, however, parents began to get the tragic news. Officials of the local volunteer firefighters went to the elementary school in boats and found that the school building had been reduced to ruins. They also confirmed small bodies in the rubble around the school.

Of the 108 students at the elementary school, 64 were found dead and 10 were still missing as of April 9. That means that about 70 percent of the students became victims of the tsunami.

Many of the 34 students who survived had been taken by their parents in their cars to safety.

In the meeting held April 9, parents expressed their anger. One asked, "What did teachers do during the time between the earthquake and the tsunami?" Another demanded, "Give me back my child!" Another asked, "Is this a natural disaster or a disaster caused by humans?"

Since the March 11 earthquake and tsunami, parents have been looking for their children's bodies around the school. The body of fifth-grader Chisato Shito, which was found March 12, was badly injured. As it was difficult to remove mud from the girl's eyes, nose and ears, her 45-year-old mother took it off by licking it with her tongue.

"I am not going to blame anyone. But my daughter was at the elementary school ... I am sad and I regret that," the mother said.

Miyuki Fukuda, 43, identified the body of her eldest daughter, Risa, a sixth-grader, three days after the quake. Her daughter's face was beautiful. The girl had been looking forward to wearing the traditional "hakama" pleated skirt at her graduation ceremony.

"She was smart and listened to other people's opinions well. Though she was my daughter, I often asked her for advice," Fukuda recalled.

Her eldest son, Masaaki, a third-grader, is still missing.

"He was handsome and was popular. He was my treasure. As he is small and frightens easily, I want to find him as soon as possible," she said.

Fukuda has been searching sites around the school each day searching for him, except for the day when Risa's body was cremated.

"Rather than looking for my son, I want to be with him. At that time (when he was hit by the tsunami,) was he weeping or was he strong? If I hear the answer, I may feel sad. But I want to know about his last moment," she said.

One after another, "randoseru," or school backpacks, covered with mud, were found around the school. They were for the moment lined up near the bridge. Sadly, they bear testimony to the tragedy of March 11, never to be carried again on the small backs of their owners.

Okawa Elementary School held its graduation ceremony on April 24, about a month later than usual, using a building of a different school, also located in Ishinomaki city.

About 50 family members of 16 six-graders who died or were still missing participated in the ceremony. Only five other six-graders survived and moved onto junior high school.

The graduation ceremony started at 10 a.m. in the Iinokawa Daiichi Elementary School, as participants observed a silent prayer for the dead children. Then, Okawa Elementary School Principal Teruyuki Kashiba read the names of the 16 students and handed their graduation certificates to their family members.

"We, teachers and clerical staff members, will make efforts so that such a sad thing like this will never take place again," Kashiba said.

(This story was written by Hajime Ueno, Chiaki Ogihara and Takuhei Minamide.)

 

防災関連エントリー:
東日本大震災の記録 大津波悲劇の中の救い、防災の備えが命を救った、英字紙記事も。

3・11:東日本大震災 宮城・山元町の自動車学校、送迎手間取り25人死亡 

検証・大震災:3家族の3.11、陸前高田・河野さん、名取・佐藤さん、石巻・木村さん。 

災害:巨大地震や原発被災、「毎日小学生新聞」が画像表示などあり分かりやすいので資料保存。 

3月11日〜3月28日のNYT写真集を全採録。直視し忘れないことが犠牲者への弔い。事実を伝えない日本のマスゴミは糞。 

 

 「防災必需品+体験談」←グーグル検索です。普段からの備えが大事、参考にして下さい。以下、僕自身が用意している基本グッズのAMAZONリンクをはっておきます。

 ※をつけたグッズは、小さな子は別にして家族全員個人装備でも良いと思います。特にヘッドライトは明かりの欲しい作業の時などに使って重宝しています。夜、自転車の前照灯が球切れした時にも使い助かりました。雨具は傘以外に、即行で着脱できて両手が使えるポンチョもお勧めします。

ホイッスル 笛 ※(救出要請SOS、その他)

ヘッドライト ※

LED懐中電灯 ※

SONYポケットラジオ ※

SONY防災ラジオ ←スマホ手回し充電可能タイプの

LEDランタン 

・火を熾すもの(チャッカマン西洋火打ち石

卓上カセットコンロ 

VICTORINOX多機能ナイフ ※

ポンチョ(アウトドア雨具) (←お勧め)※

 ロープは万能道具、普段から慣れておくことが大事。

決定版 ひもとロープの結び方 便利手帳 

使えるロープワーク―必ず役立つ「結び」の完璧テクニック (OUT DOOR)←アウトドア好きの方が書いた本。

アウトドア用のロープ ←リンクをはりましたが、一番良いのは登山用品店に行って説明を聞き、自分でも手にとって選ぶ事です(太さの感じが分かります)。通常、メジャーを使って1m単位で量り売りしてくれます。僕自身は、径3.5㎜と4.5㎜のでそれぞれ2m、3m、5mのを適宜本数組み合わせて普段からザックの隅に入れてます。また車にはそれに加え径8㎜で10mのを2本積んでます。細いロープは長いのだとうまく使えません。短いのを準備して使うのがロープに慣れるコツ。長さが足りなければつないで使えばよいのです。

 着るものを含め、防災グッズはアウトドアグッズを転用出来るわけですが、ザッグを例に取ると、防災用と比べアウトドア用のザッグは作りも頑丈ですし、使い勝手もはるかに良いです。

リュックサック ※

ザック ※

 意外と忘れるのがマスクとゴーグル。特にマスクは瓦礫の粉じん対策として必需品(特に肺がんを引き起こす石綿:アスベストに要注意)、避難場所での風邪の集団感染予防にもなります。またゴーグルは震災での粉じん対策だけでなく富士山が噴火した場合、大量の降灰に対する備えとしても必要。マスクとゴーグルは花粉症対策としても使え、何もしないよりは放射能降灰への備えとしても有用と思います。

山本光学のN95マスク  ※

山本光学の浮遊粉塵用セーフティゴーグル ※

 薬や救急用品など。これは個人それぞれ違うはず。以下は僕が用意しているもの。消毒用ジェルは避難所で用意しているはずですが、万一に備え感染症防御でこまめな手洗い用。スキンクリームはウォシュレットが使えない避難所で拭く時に使う切れ痔予防。裏技用途で、ジェルやワセリンはたき火が必要な時に火口(ほくち)に少し使うと火を熾しやすくできます。手ぬぐいはバンダナ代わりや鉢巻きにも使え、いざという時には包帯にもなる必需品。

消毒用ジェル救急絆創膏テーピング用テープけが等の軟膏ワセリンスキンクリームソンバーユなら)、とげ抜き手ぬぐい

始めに戻る


 以下追記、資料として採録。

阪神・淡路復旧作業石綿禍 東日本被災地にも暗い影
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/18/201208/0005483567.shtml
魚拓 

B_05483568 重機で解体される被災ビル。粉じんが舞う=1995年2月、神戸市兵庫区

 発生から17年半となる阪神・淡路大震災の被災地で、建物の復旧作業に伴うアスベスト(石綿)被害が新たに確認された。牙をむき始めた大震災の石綿禍。しかし、当時の環境庁(現・環境省)などによる石綿の飛散調査は「おおむね問題なし」との結果だった。時をへて相次ぐ中皮腫の発症は、実態把握の不十分さを浮き彫りにするとともに、東日本大震災の被災地にも暗い影を落としている。

 家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。阪神・淡路大震災の被災地では、倒壊した建物からすさまじい量の粉じんが発生した。日本では石綿消費量の約8割が建材に使われてきた。吹き付け材、屋根材、内装材、吸音材、外装材、耐火被覆材(たいかひふくざい)などだ。震災で崩れた建物のがれきには、命を脅かす「死の棘(とげ)」が含まれていた。

 当時の環境庁の調査によると、解体現場周辺で空気1リットル中の石綿繊維量は平均3~5・4本、大気汚染防止法の基準(10本)を下回った。一方、民間研究機関「環境監視研究所」(大阪市)の測定では、解体現場周辺で1リットル中160~250本が検出された。基準値をはるかに上回る。

 官民でデータに隔たりがあるが、中皮腫が増えているのは「飛散防止に有効な手を打てなかったことを示している」(専門医)とみる人は多い。

 解体が急ピッチで進む中、行政が現場に本格的な粉じん対策を指示したのは、発生から1カ月あまりたってからだ。復旧工事が急がれる中、石綿対策が後手に回ったことがうかがえる。

 発生から間もなく1年半になる東日本大震災の被災地でも、石綿の飛散に不安が高まっている。

 環境省の飛散調査では、約350地点のうち95・4%で「問題なし」との結果だった。しかし、現地調査をした森裕之・立命館大教授(公共政策)は「極めて不十分」と疑問を投げ掛ける。「建材は解体作業で細かく砕かれており、風向きによって測定値が大きく異なる。東北の被災範囲は広大で、阪神・淡路の教訓を踏まえて丁寧に測定すべきだ」と話す。

 被災地ではがれきの集積場が点在している。原発事故に伴う放射能汚染に目を奪われがちだが、宮城県石巻市の石巻赤十字病院の矢内勝・呼吸器内科部長は「がれきが身近にある以上、石綿の吸引を避けるために万全を尽くす必要がある」としている。(加藤正文)

【発症時期迎え被害拡大か】
 中皮腫で亡くなった宝塚市の男性=当時(65)=が阪神・淡路の復旧作業に携わったのは、わずか2カ月だった。震災アスベストの危険性を訴えてきたNPO法人ひょうご労働安全衛生センターは「十分な飛散対策がないまま、復旧解体が街中で繰り広げられた。労働者だけでなく、住民やボランティアへの被害も懸念される」と指摘する。

 石綿が肺の中に入り、中皮腫や肺がんといった石綿疾患を引き起こすまでの潜伏期間は、十数年から40年とされる。阪神・淡路大震災から17年半、同センターの西山和宏事務局長(50)は「発症時期に入ったのではないか」と警戒感を強める。

 近年、復旧に携わった労働者の石綿疾患が相次ぐ。2008年、解体にかかわった兵庫県内の男性の中皮腫発症が判明。その後、解体作業の現場監督を務めた芦屋市の男性、がれきを収集した明石市職員の発症が確認された。

 しかし、いずれも発症と震災時の石綿飛散との明確な因果関係は証明されておらず、兵庫県の井戸敏三知事は「原因が阪神・淡路大震災だとはなかなかなりにくいのではないか」などと繰り返し発言している。

 これに対し、今回の宝塚市の男性のケースでは、石綿に触れる機会が震災後の復旧作業に限定される。男性の妻(67)は「夫と同じような作業をしていた人は多いはず」との思いで、夫の病状の公表を決心した。

 被害拡大や不安解消に向け、行政の速やかな対応が求められる。(中部 剛)

2012/8/24

 

論壇
アスベスト禍の衝撃 史上最悪の産業災害
命に突き刺さる棘、震災復興でも深刻な被害が

http://gendainoriron.jp/vol.03/rostrum/ro03.php
魚拓 
Internet Archive 

神戸新聞編集委員 加藤 正文


国賠勝訴 
複合型ストック災害 
クボタショック 
震災アスベストの脅威 
相次ぐ発症 
異常事態の中で 
繰り返される過ち 
課題を示す窓 


 原発事故とアスベスト(石綿)禍には被害の構図が共通している。過去に地震や津波が繰り返し発生した地に原発を起き、研究者が再三、その危険性を警告していたにもかかわらず、虚構の「安全神話」の中で稼働を続けた。一方、石綿も戦前から有害だと分かっていながらも、その有用性、経済性から「管理して使えば安全」と国は十分な規制を行わず、約1千万トンを消費した。使用禁止は北欧に遅れること20年、ヨーロッパ諸国に遅れること10年以上たった実に2006年だ。

 原発事故は「史上最大・最悪の公害」(宮本憲一・大阪市立大名誉教授)であり、石綿禍もまた「史上最大の産業災害」(同)である。筆者は2005年6月末、兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場内外で深刻な被害が発覚した、いわゆる「クボタショック」以降、各地で取材を重ねてきた。その成果を『死の棘・アスベスト』(中央公論新社、2014年)として刊行した。石綿はその使用状況の広がりを反映して、被害状況も多様だ。本稿では、①石綿産業の原点としての大阪・泉南②アジア最悪の被害を出した兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場③今後、深刻な被害が懸念される震災アスベスト-の3点で被害と不作為の構図を描いていく。


国賠勝訴

 「勝訴」「最高裁、国を断罪」。原告側の弁護士の旗が出ると、最高裁前に詰めかけた被害者らから拍手がわいた。2014年10月9日、石綿を吸って肺がんや中皮腫などを患った大阪・泉南地域の元工場労働者らによる国家賠償請求訴訟で、最高裁は国の賠償責任を初めて認める判決を言い渡した。

Kato_asbestos1
知られざる地場産業だった大阪・泉南の石綿紡織産業。100年の時をへて最高裁が国の不作為を認定した(大阪アスベスト弁護団提供)

 「労働環境を整備し、生命、身体に対する危害を防止するために、国は技術の進歩や医学知識に合うように適時適切に規制権限を行使すべきだ」。この「適時適切」という理念を盛り込んだ判決が確定するまでに、どれほどの苦難があったことだろう。病気に斃れた無数の声なき声が、100年もの長い時を超えて重い扉をこじあけたのだ。

 関西空港の対岸、大阪府泉南市、阪南市を中心とする泉南地区は、日本の石綿紡織産業の原点の地だ。中小零細の工場が集積し、戦前は軍需産業、戦後は自動車や船舶、機械などの基幹産業を支えた。最盛期には約200社が稼働し、約2千人が就労したという。戦前から石綿紡織工場の全国一の集積地として発展した。

 主な製品は、石綿を主原料に綿花などを混紡した糸、そして、この糸を布状やひも状に加工したものだ。耐熱性、絶縁性にすぐれ、各種パッキング、蒸気機関車などの防熱ふとん、自動車の摩擦材などに幅広く使われた。「小はランプの芯から、大は重化学工業の発熱部を覆う断熱材として欠かせなかった」(柚岡一禎・泉南地域の石綿被害と市民の会代表)。あちこちに工場が点在し、「街全体が石綿工場のようだった」といわれるが、今の街並みからは想像もつかない。高度成長期をピークに生産は次第に先細り、産地は消えた。長年、数多く労働者や住民が石綿による肺の病気で苦しんできたが、2006年、石綿対策の不備について国の責任を問う集団訴訟が提起されるまで知る人は少なかった。「国は石綿の危険性を知っていた、対策を取ることもできた、でも、やらなかった」。長い間、隠されてきた被害が表に出た瞬間だった。

 戦前の調査がある。国は1937(昭和12)年、泉南地区の被害をつかんでいた。旧内務省保険院の調査で、労働者の石綿肺罹患率が12・3%に上ることが判明した。担当医師らの「有害工業に属し法規的取り締まりを要する」との警告が残る。だが、国はこれに対して不十分な症例調査にすぎないとの立場をとった。その後も罹患率は10%を下回らず、労働基準監督署が調査を重ねた。しかし、「被害は深刻ではなかった」という見解を譲らなかった。 クボタのような大企業と違い、泉南はほとんどが零細企業で対策も不十分だ。「だからこそ国に被害拡大を防ぐ責任があった」。石綿問題に詳しい立命館大の森裕之教授(公共政策論)は国の不作為を指摘する。

 訴訟は2陣あり、1陣の地裁、高裁、2陣の地裁、高裁。そして今回の最高裁、過去5回の判決が投げ掛けるのは、一体、何のために労働関係の法規はあるのか、という根本的な命題だ。いくつもの曲折があったが、最高裁判決は、人間の命と健康を守るため、という基本原則を明確に示した。

 不断の努力で最新の知見に合わせて健康被害を予防する。被害が発生しているのならば、根絶まで対策を取る。これは法律や規則以前の行政の当然の責務だが、縦割りの官僚機構の中でその意識はかなり薄れている。あえてこの原則を厳しく指摘したところにこの判決の最大の意義がある。


複合型ストック災害

 手元にアスベスト(石綿)の原石がある。白く毛羽だった繊維のついた蛇紋岩。カナダ・ケベック州の鉱山都市セッドフォード・マインズの取材時にもらったものだ。

 壮大な露天掘りの鉱山に立ったとき、上流から下流へ流れる川のように、採掘された石綿が輸出され、港から工場に運ばれ、加工され製品となり、最後に瓦礫として廃棄される様子がまざまざと脳裏に浮かんだ。 熱や引っ張りに強く、燃えない。そして何より安い。産業革命とともに本格利用が始まり、各国の経済成長を支えた。その用途は建材、水道管、パッキング、シール材、ブレーキ材など実に3千種類に及んだ。

 かつては「奇跡の素材」と喧伝され、有害な「悪魔の素材」にもかかわらず、大量に使われた。日本は1千万㌧を消費した。1970年代にWHO(世界保健機関)やILO(国際労働機関)が発がん性を指摘したのに、日本が使用禁止にしたのは前述のとおり2006年。建物など社会のあちこちに蓄積(ストック)された石綿。髪の毛の5千分の1の微細な繊維は吸引すると長い潜伏期間をへて中皮腫や石綿肺などの病気を引き起こす。「生産・流通・消費・廃棄の経済活動の全局面で複合的に影響を与えるストック災害」(宮本・大阪市大名誉教授)とされる。近代化の初期に大量使用され、経済成長が一段落するころに「死の棘」の本性をみせる。これが複合型ストック災害の恐怖だ。

 日本で中皮腫による死者は2006年から毎年千人を超え、10年は1209人、11年1258人、12年は1400人、13年は1410人と増加。兵庫、大阪、東京、神奈川で多い。石綿を扱う工場などで働いたことがないのに病気になった人の数は中皮腫と肺がんで8千人を超え、その半数が亡くなっている。

 一方、労働災害として認定される人の数は毎年千人を超えている。高度成長期に起きた四大公害事件よりも被害者が多くなるのは間違いない。規制の決定的に遅れを踏まえると、被害のピークは2030年と予測される。


クボタショック

 アスベスト問題が労災を超えた公害であることを明確に示したのは、2005年6月に起きた「クボタショック」である。ショックたるゆえんは、工場の元従業員のみならず周辺住民の間で中皮腫が多発していることが発覚したからだ。中皮腫は石綿に起因する極めて予後の悪い特異性疾患だ。それが工場の周辺に広がっていた。発症状況を地図に落とすと、この特異な病気が工場の半径4キロにわたって広がっている状況が浮き彫りになる。

 2014年9月末時点で周辺住民と元従業員の死者は435人となり、アジア最悪の被害となっている。住民の被害者は263人で、元従業員(172人)を上回る。「俺、何か悪いことしたか」「1億円もらったってこんな病気、嫌」「クボタによる陰湿な殺人」「健康な体を返してほしい」―。不条理に命を奪われた患者たちの言葉はあまりに重い。

 クボタの社長は道義的責任から謝罪し、原則半径1キロの発症については救済金を支払ってきたが、肝心の因果関係についてはいまだに認めようとしない。「お見舞い金の延長」(首脳)という見解にとどまる。


震災アスベストの脅威

 重機がうなりをあげて建物を壊していく。むき出しの鉄筋、破砕された建材、積み上がる膨大ながれき、舞い上がる粉じん…。東日本大震災の被災地で続いた光景は、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災の状況と重なる。当時、全国から駆けつけた労働者たちは、復旧復興のためにひたすら解体作業に打ち込んだ。すぐそばではごく当たり前の日常生活が営まれていた。あたりを舞う粉じんに潜む「死の棘」の存在を、気に留めることはほとんどなかった。

 来年1月で丸20年となる。神戸の街に震災のつめあとは感じられなくなった。順調に「復興」したかのように見えるこの街で、肺の奥に突き刺さった微細な繊維、アスベスト(石綿)が牙をむき始めている。がれき処理に関わった人が相次いで、石綿に起因するがん、中皮腫を発症しているのだ。吸引後、10数年から40年たって発症するのが石綿のリスクだ。

 「チュウヒシュ? 俺が?」。2012年5月、兵庫県明石市にある県立がんセンターで思わず問い返した。医師の診断は「腹膜中皮腫」。高濃度のアスベスト(石綿)暴露で起きる病気だ。明石市環境部の男性=当時(48)=の仕事はゴミの収集業務だが、石綿との関連を考えるうちに、1995年の阪神・淡路大震災時に思い至った。

 男性は当時、がれきの処理業務に奔走した。ブロックやスレート、木材など震災で全半壊した住宅のがれきをパッカー車に積んで、処分場に運んだ。波形スレートは半分に割って車に押し込んだ。2、3トン積みの車だったが、可燃であろうが、不燃であろうがお構いなしだったので「5、6トンは載せていた」。

 処分場にがれきを投入する。荷重が重すぎて油圧で荷台が上がらないのでパッカー車の中に入ってがれきをかきだした。狭いパッカーの中はすさまじい粉じんだった。「使い捨ての紙マスクを2重にして使っていたけど、鼻の中まで真っ黒になった」。当時、焼却場は壊れていたのですべてのゴミを埋め立て処分場へ。破砕してブルドーザーでならした。舞い上がる粉じんとともにがれきはうずたかく積み上がった。

 時は流れ、2011年暮れ、下腹部にできたしこりに気づいた。それが見る間に大きくなった。「当時、俺よりもたくさんアスベストを吸い込んだ人がいた。神戸に来ていたボランティアの人もそうだ。俺が病気になるというとは、これからもっと多くの人が発症するということ。入念な検査をみんなにしてほしい」。男性の病状は悪化し、2013年10月に亡くなった。


■ 相次ぐ発症

 時がたち、阪神・淡路大震災の生々しい記憶が遠ざかる中で、石綿関連疾患の発症が相次いでいる。2008年3月、震災時の解体作業で石綿を吸ったため、がんの一種、中皮腫になったと訴えた兵庫県内の30代の男性を、姫路労働基準監督署が労災認定した。震災時作業による労災認定は初のケースだった。石綿の被害は潜伏期間が十数年~40年とされる。「震災による石綿疾患はいずれ爆発的に発生する」と、かねて懸念されてきただけに、いよいよ来たのか、という覚悟を迫る発症の報告だった。

 2009年5月、芦屋市の男性=当時(80)=が労災認定された。中皮腫と診断されたのは2007年。元建設会社の営業マンで、震災後の95年10~11月、人手が足りず、解体作業で現場監督を務めた。重機の巨大なハサミが建物をつかむと、左右に10メートルほど粉じんが広がった。労災を申請すると、労働基準監督署は建設会社に勤務していた77~98年の約22年間に石綿に触れたと判断した。しかし、渾大防さんは「営業マン時代、建設現場に出ることはほとんどなかった。石綿を吸い込んだのは、震災時の現場監督時代しか思い当たらない」と話す。13年暮れ、男性は死去した。

 2012年8月には、宝塚市内の男性(11年に65歳で死去)も労災認定された。この男性は衣料品販売をしていたが、震災で仕事ができなくなり、1995年2月、作業服に着替えてアルバイトとして工務店で勤務した。民家からずり落ちた瓦を集め、屋根にブルーシートをかけた。マンションの改修工事にも立ち会った。マンションの室内では職人が壁や天井をはがしたり、電動のこぎりで建材を加工したりしたため、相当量の粉塵が部屋にたちこめた。妻(67)は今、夫のかぶっていた野球帽にほこりがたくさんついていたことを思い出す。工務店のアルバイトはわずか2カ月。この間に石綿を吸い込んだ。16年後に中皮腫を発症し、2011年10月に死去した。妻は悲しみを口にした。「がれきの中のアスベスト(石綿)のことなんて考えもしなかった。お父さんは悔しかったと思う。同じ哀しみを東北の被災地で決して繰り返さないでほしい」

 同じ月、兵庫県内に住む別の70歳代男性も神戸東労働基準監督署から労災認定されたことも判明。3年近く瓦礫処理作業に携わったという。労災認定などで表面化する被害だけで5人。その背後で、解体、瓦礫収集、運搬、処理などの復旧・復興に関わった数多くの労働者が次々と石綿禍に倒れている。これが阪神・淡路大震災の被災地の現実なのだ。


異常事態の中で

 死者6434人、家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。現場は異常事態であり、緊急事態だった。

 「最悪の労働環境だった」。解体や瓦礫処理に携わった労働者たちの証言だ。神戸市兵庫区で工務店を経営する男性(81)は振り返った。「マスクどころか、タオルもまかずに仕事した。石綿が危ないなんて考える余裕はなかった」「防護シートを張らずに解体した。飛散を防ぐために水をまこうにも、水道管が壊れて水は出なかった」

 発生約1カ月後から一斉解体が始まった。無数の業者が被災地に集まり、神戸だけでも100件、兵庫県内で200~300件の解体が同時に進行したという。住民への情報開示、飛散対策が積み残されたまま、混乱の中、大量解体が進んだ。一体、どれだけの粉じんが街中を舞ったのだろう。当時、がれきの街を取材で回りながら、のどがいつもいがらっぽく、目が痛かった記憶が残る。

 都市では高度成長期以降、郊外型の開発に力が注がれ、インナーシティーと呼ばれる中心部の再開発は遅れてきた。ニュータウン開発に力を入れた神戸では、とりわけインナーシティー問題は課題となっていた。そこには石綿を含む老朽建築物が数多く取り残されており、災害対策としても石綿に十分注意が払われてこなかった。震災時の兵庫県地域防災計画には環境保全の記述はなく、10年後の復興10年委員会の「総括検証・提言報告」にもアスベストの文字は一カ所もない。

 「これは単なるアスベスト対策の欠陥ではなく、日本の都市政策、災害対策、復興政策の欠陥と関連している」(宮本、森永、石原編『終わりなきアスベスト災害』岩波書店、2011)。この指摘が重くのしかかる。

 しかし、自治体の対応は鈍いといわざるを得ない。東日本大震災の起きる1年前の10年5~8月に掛けて立命館大は全国の自治体に地域防災計画に震災時アスベスト対策を盛り込んでいるかどうかを調査した。結果、72・5%が「現在、盛り込んでおらず、特に盛り込む予定はない」と回答。そのうち、環境省が07年に策定した災害時の石綿飛散防止マニュアルについても、「認識していない」「確認していない」としたのは5割超。

 これが日本の石綿対策の実情である。そこに東日本大震災が起きたのだ。


繰り返される過ち

 東北の被災地に点在する瓦礫の集積場で遊ぶ子どもたち。倒壊した建物の前で、マスクをつけずに普通に歩く中高生…。「目に見えないアスベストが飛散しているから、できるだけマスクを」。そんな思いが募る。阪神・淡路大震災の被災地であまりに無防備だったからだ。

Kato_asbestos2 積みあがる震災がれき。微細な石綿繊維の飛散が懸念された。阪神・淡路大震災の教訓は生かされたのだろうか=2012年、宮城県石巻市

 津波に根こそぎ奪われた東北の町は、当初は声を失う惨状だったが、その後、がれきの様子が気になった。宮城県石巻市。2012年秋に県立石巻商業高校(約580人)の隣に広がるがれきの集積場には驚いた。高い囲いが巡らされ、白い袋詰めされた膨大ながれきが積み上がっている。搬入された後、生徒から「喉が痛い」「目がかゆい」などの声が寄せられたため取られた措置だった。

 がれきは、撤去、運搬、仮置き、処分の全過程で粉じんが発生する。倒壊家屋や破損した船舶には、ふきつけられたり、練り込まれたりした石綿がたくさん含まれている。当初、環境省の担当者は「津波で塩水にぬれ、石綿の飛散が抑制されている」としたが、乾燥が進み、破砕や運搬作業が進む中で、当然、飛散する。

 がれきの総量は東日本2300万㌧、阪神・淡路2千万㌧だ。東日本大震災に特徴的なのは、沿岸には製紙業をはじめ、さまざまな工場があることだ。長期間、排水を流したことで、海底にはさまざまな物質が蓄積している。「津波は、海底に沈殿していたものを一気に陸に揚げた。産業廃棄物を含むヘドロは普通の泥ではない」と石巻赤十字病院の矢(や)内(ない)勝・呼吸器内科部長が警告する。発生2カ月後に訪れた際、海底にたい積したヘドロが津波で打ち上げられていた。臨海部にそびえる日本製紙石巻工場の周りを歩いていると、雨が降り出した。それまで白っぽかった泥が、雨にぬれると、どす黒く変色した。石綿、砒素、鉛…。危険物質は数多くある。

 東日本で阪神・淡路とは決定的に異なる点がある。犠牲者の9割が建物倒壊による「圧死」が阪神・淡路なのに対し、東日本では死因の9割が津波による「溺死」だ。これはそのまま石綿被害にもあてはまる。破損した建物が津波で流され、そして有害なヘドロが沿岸部に拡散している状況を踏まえると、粉じんの飛散に伴う健康被害は、阪神・淡路大震災よりもはるかに広域になる危険性がある。

 環境省は東北の被災地で11次にわたってモニタリング調査を行った。結果、1713地点のうち99・6%で問題がなかったという結果だった。「おおむね問題なし」と環境省の大気課長(当時)はいう。ここでも20年前の阪神・淡路大震災の当時と似ている。

 しかし、「調査はきわめて不十分」と森裕之・立命館大教授(公共政策)は言う。被災地ではがれきの量を減らすために成形板を破砕しているケースがあるといい、「破砕物は風向きで測定値が大きく異なる。被災のエリアは400㌔にわたる広大な地域だ。もっと丁寧な測定が要る」と話す。


課題を示す窓

 大震災の発生でどれだけの石綿が飛散したのか、完全な把握は難しい。とはいえ、できることはある。まず、アスベストを含んでいた建物の倒壊した地区を中心に、当時の住民や解体・撤去にかかわった労働者らを登録し、健康診断を継続しなければならない。土木工事に他府県から多くの労働者が神戸・阪神間にやってきた。これはボランティアも同じだ。アスベストに暴露したというリスクを本人に周知させ、健康診断を受けなければならない。

 もう一つ必要なのは、私たちの住む街にいったいどれぐらいの石綿が蓄積しているのか。神戸市は固定資産税台帳によって建物の建築年次を調べ、アスベストの飛散可能性のあるものをチェックしている。これは公表していないが、地図に落とし込んでいるので、アスベストマップとしても活用できる。

 「大震災の発生時、ふだんは見えない社会の課題を示す窓が開く。その窓はごく短い期間に閉じてしまう」。阪神・淡路大震災のちょうど1年前の1994年1月17日、米カリフォルニア州ロサンゼルス市ノースリッジで起きた大震災の報告書にはこんなフレーズがある。窓が開いているうちに、根本的な対策がとれるか。神戸で生かせなかった阪神・淡路の教訓を、東日本で生かさなければならない。これは石綿問題にとどまらず、私たちの社会の未来にかかわる問題である。

主要参考・引用文献

(1)中部剛、加藤正文『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』、かもがわ出版、2014年

(2)加藤正文『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』、中央公論新社、2014年

(3)立命館大学政策科学会編『別冊政策科学 アスベスト問題特集号』、2008、11、12年

※新聞、雑誌、インターネットサイトの記事、各種訴訟の訴状、判決文などを参考にした。


かとう・まさふみ

1964年西宮市生まれ。大阪市立大学卒。89年神戸新聞入社。経済部、北摂総局、阪神総局、論説委員などを経て、現在、経済部次長兼編集委員。著書に『工場を歩く-ものづくり再発見』(神戸新聞総合出版センター)、『工場は生きている-ものづくり探訪』(かもがわ出版)、『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』(共著、かもがわ出版)、『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』(中央公論新社)など。


   「いのちに突き刺さる」アスベストの悲惨―――
真正面から立ち向かった著者渾身の
「怒りと告発」の書に戦慄する。
――内橋克人氏(評論家)

これは“影の日本経済史”であり
世界的スケールで“白い肺の恐怖”を
描いた力作である。
――黒木亮氏(作家)

『死の棘・アスベスト』
加藤 正文著 中央公論新社 定価1700円(税別)

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2011年4月11日 (月)

検証・大震災:3家族の3.11、陸前高田・河野さん、名取・佐藤さん、石巻・木村さん。

 防災の教訓として、記事の資料保存です(他の防災関連エントリーリンク紹介は末尾)。

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

陸前高田市民体育館正門前は標高約5m(正門前の緯度経度 +39 0 46.515",+141 38 0.781" )、
陸前高田市役所は標高約7m(市役所入り口前の緯度経度 +39 0 53.421",+141 37 46.718" )
陸前高田駅出入口前は標高約6m(駅前の緯度経度 +39 0 47.468",+141 37 32.562" )
陸前高田駅の南西方向にある高田病院は標高約5m(正門前の緯度経度 +39 0 44.187",+141 37 22.500" )

検証・大震災:3家族の3.11(1)陸前高田・河野さん(1/2ページ)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20110410mog00m040015000c.html
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 東日本大震災の発生から1カ月。あの日、無数の家族の日常が容赦なく引き裂かれた。過去にも大きな地震や津波を経験した東北沿岸部の人たちは、備えていたはずだった。生死を分けたものは何だったのか。想像を絶する津波の実像とは。3組の家族を追った。【震災検証取材班】

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河野さん家族

 ◇81歳の母、避難用リュック背負って流され

 携帯電話のワンセグに岩手県の大船渡港が映る。「大津波警報発令」。古里の陸前高田市も近い。3月11日午後2時46分、福島大2年の河野義希(こうのよしき)さん(20)は福島県大熊町の総合スポーツセンターでソフトボール部の合宿中だった。

 家族に何度電話してもつながらない。約190キロの距離がもどかしい。翌朝、車で出発した。間もなくカーラジオから「陸前高田市は壊滅状態」と流れた。両親が営む食堂「くっく亭」は浜から200メートルほどしか離れていない。

 「生きていてくれ」。泣きながらハンドルを握った。宮城県気仙沼市でガソリンは尽きる。車を乗り捨て、がれきを歩いた。

     ◆

 「くっく亭」は、名勝・高田松原が続く海沿いにある。3月11日午後2時46分。経営者の河野(こうの)義典さん(47)がランチタイムを終え、サケの切り身を焼いて一口食べた時だった。

 停電でテレビが消えた。震源地はどこか、大津波警報が出ているのか分からない。地震には慣れているつもりだったが、今度は違う。店から北西約500メートルの実家で暮らす両親が気がかりだ。

 認知症の父(83)はこの日、デイサービスで宮城県気仙沼市の介護施設にいた。河野さんは傍らの妻(46)に母綾子さん(81)の様子を見てくるよう頼んだ。

 海辺から約1キロの実家には河野さんの兄でタクシー運転手の勝典さん(51)が先に駆けつけていた。綾子さんは避難用のリュックを背負い、家を出るところだった。タクシーで高台に避難させてくれるだろうと安心した河野さんの妻はすぐに食堂へ戻る。

 勝典さんが「ばあちゃん、どこに避難すんの?」と聞いた。「この地区は体育館なんでな」。市民体育館までは約220メートル。ゆっくり歩いても4分ほどだ。昨年のチリ地震津波でも綾子さんはここに行った。

 昨年2月28日、気象庁は東北地方の三陸沿岸に高さ3メートル以上の津波が押し寄せる恐れがあるとして、17年ぶりに大津波警報を発した。陸前高田市も沿岸全域に避難指示が出たが、高さは予想よりはるかに低かった。

 「ばあちゃんもあそこなら大丈夫か」。勝典さんは自分の職場に車を走らせた。

 食堂の河野さん夫婦は店から2キロ離れた高台に建つ市立第一中学へ車で向かう。市民体育館への避難も頭をよぎったが、第一中に通う3年生の長女(15)が心配だった。

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陸前高田市

 地震から約30分。外では「津波だ。逃げろ」と絶叫する防災無線が鳴り響いていた。しかし、車の窓を閉め切っていたため、聞こえなかった。

 車が体育館のそばを通ると、外階段2階の踊り場は住民であふれ返っているのが見えた。河野さんは、中に母がいるとは思いも寄らなかった。

(2/2ページ)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20110410mog00m040015000c2.html
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 ◇遺品に孫名義の通帳

 第一中は卒業式のリハーサル中だった。「地震だ。地震だ」。河野さんの長女留美さんは他の生徒たちとグラウンドに飛び出した。しばらくして木々の間から、街のいたるところで煙が上がっているのが見えた。

 間もなく捜しに来た両親の顔を見て驚いた。昨年のチリ地震津波でも食堂を閉めただけで逃げなかった。「どうしてここに。とんでもないことが起きたんじゃ……」。察する間もなく、街ごと津波にのみ込まれていく。家も食堂もやられた。

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母綾子さんの遺影と遺品を前に思い出を語る河野勝典さん=岩手県陸前高田市で2011年4月5日、石井諭撮影

 長女の無事を確認した河野さんは、母が身を寄せたはずの兄勝典さんの家へ歩き出した。「お袋の顔見てくっから」。高台にある兄の家に着いたのは午後5時ごろ。兄はすでに帰宅していた。

 兄に河野さんが尋ねた。「お袋はもう部屋にいんの?」

 「体育館さ行った」

 「ああ、だめだべ」

 「だめか」

 「なんで連れて来なかったべか……」

 母綾子さんは市内の病院で看護婦をしていた1960年、チリ地震大津波を経験した。市内で1414世帯が被災し、306棟が全半壊。8人が亡くなった。「地震が来たら大事なバイクだのなんだの心配しねえでとにかく逃げろ」。それが口癖だった。「津波に備えて、子どもとどこで待ち合わせるか決めておけ」

 市はマグニチュード(M)7・5前後の宮城県沖地震津波の想定をもとに浸水予想区域や避難場所を記した防災マップを住民に配ってきた。比較的海から遠い場所や高台にある1次避難場所にまず逃げてもらう。さらに危険が増せば、体育館などの2次避難場所に移動させるはずだった。

 しかし、市が1次・2次に指定した87カ所のうち39カ所が浸水した。市民体育館は1次と2次を兼ねていたが、住民を守ることはできなかった。戸羽太市長は「体育館なら安全という安心感はどこかにあったかもしれない。津波の到達も想定より早かった」と言う。

 市街地の約7割が壊滅した。市民体育館に集まった住民は約200人との情報もあるが、助かったのは3人だけだ。

     ◆

 河野さんは第一中で炊き出しのボランティアをしながら避難所を回り、母を捜していた。福島県で大学合宿中だった長男義希さんが13日、車とヒッチハイクでたどり着く。「ばあちゃんは?」

 20日夕、母は市内の遺体安置所にいた。体育館から流されたのだろう。約700メートル西の崩壊した信用金庫の中で、避難用リュックを背負ったまま発見されたと聞かされた。穏やかな顔をしていた。家族みんなで泣いた。

 リュックには、誰も知らない預金通帳や証書があった。いつか、家族が津波ですべてを失うかもしれないことを分かっていた。

 名義は息子2人の嫁や孫たちだった。【沢田勇】

    <続きを読む>3家族の3.11(2)名取・佐藤さん

2011年4月10日

 

SOBA追加関連画像
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←被災前の陸前高田市民体育館と中央公民館。時計塔をはさみ右側が市民体育館、左側が中央公民館。(陸前高田市探訪さんより)市民体育館正門前は標高約5m(正門前の緯度経度 +39 0 46.515",+141 38 0.781" )


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←被災後の正門前方向から陸前高田市民体育館(右)と中央公民館(左)。

未来へのキオクより


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←被災前の陸前高田市役所。市政の中心部で、回りには「市民会館」「ふれあいセンター」。(陸前高田市探訪さんより


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←被災前の陸前高田市役所(南東方向から、Wikipediaより)高田市役所は標高約7m(市役所入り口前の緯度経度 +39 0 53.421",+141 37 46.718" )


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←被災後の陸前高田市役所。(Wikipediaより


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←被災後の左陸前高田市役所と右市民会館

未来へのキオクより


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←被災前の陸前高田駅前ロータリー。右に時計塔、左に石のモニュメント。その先に見えるのが陸前高田駅。駅前にはタクシーの待合場所と駅前駐車場。(陸前高田市探訪さんより


Photo_3←駅へアップ、陸前高田駅前は標高約6m(駅前の緯度経度 +39 0 47.468",+141 37 32.562" )Wikipediaより


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←陸前高田駅から振り返り、駅前通を望む。(陸前高田市探訪さんより


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←被災後の陸前高田駅前ロータリー。わずかに残る右に時計塔、左に石のモニュメントの残骸。駅舎は完全に流されてます。遠く右に見えるのは鉄路をはさんで駅の裏側にある高田病院。未来へのキオクより


Dscf1453 ←被災後2011年4月28日、(鉄道おやじの写真日記)さんによれば「駅舎はなくホームと津波で曲がった線路が残っているだけ」の惨状。


Dscf1450 ←(鉄道おやじの写真日記)さんがやっと見つけた陸前高田駅名の看板。 


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←被災後の陸前高田駅前から駅前通方向を望む。駅前駐車場の先に残る左に時計塔と右に石のモニュメントの残骸。その先に見える駅前通は被災前の街並みが消滅してます。右手遠くに見える緑看板の建物は唯一の大型スーパーのマイヤ(MAIYA)。未来へのキオクより


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←被災後に残った高田病院。4階まで浸水し27人が亡くなった。高田病院は標高約5m(正門前の緯度経度 +39 0 44.187",+141 37 22.500" )

未来へのキオクより


 

 岩手県が3・11の震災でどんなひどい思いをしたか動画を2本

【東日本大震災】陸前高田市 悲劇の階段 生死を分けたもの
mikel311a
http://youtu.be/8Xb0cASakf0

アップロード日: 2012/01/27

岩手県陸前高田市は、避難指定場所68か所の内、35か所が津波によって流された。 市民体育館は約100人以上の人々が避難したが、生き残った人はわずかに3人だった。

高台の避難場所にも津波は押し寄せた。地元の人が「一番かわいそうな場所」という公民­館にも津波が押し寄せて来た。 そこに居た約40人ほどの避難者は慌てて近くの階段をかけ登った。

しかし、その小さな階段の先にあったものは崖だった。津波はそこまで到達して30人近­くが流された。 生き残ったのは崖の上まで必死によじ登った10人程だった。

 

大きな被害を受けた陸前高田市[震災翌日]
FNN311
http://youtu.be/1XkSk0WA8Jg

公開日: 2012/08/31

Rikuzentakata city suffering great damage (Day following the earthquake)
The Japanese text is followed by an English translation.
津波の被害を受けた陸前高田市(震災翌日 : 朝7時ごろ)
津波によって、家やビルのほとんどが破壊され、以前の街の姿を想像することすら難しい­。
360度見渡すかぎりのがれきの山。
家があったはずの場所は、基礎だけが残っている。
横向きに倒れた家。押しつぶされたような家。倒壊したおびただしい数の家屋。
校舎の入り口に突っ込んでいる車も見える(市立高田小学校)。
スタッフが、がれきの中をかき分けながら進んでいく。
消防隊員に救助された市役所の職員たちが、危険ながれきの上を歩いていた。
今にも崩れ落ちそうな建物の屋上には、取り残された人たちが救助を求めている。
津波に耐えたビル。その屋上から顔を出す流木は、高さ2階建てのビルを優に超えていた­ことがわかる。

[映像中に登場するレポーターは、岩手めんこいテレビ 高橋裕二 アナウンサー]

Rikuzentakata city suffering damages by tsunami. (Day of the earthquake, around 7 a.m.) Most houses and buildings are destroyed by the tsunami, and even trying to imagine what the city looked like before is proving difficult. Piles of debris fill the view 360 degrees. Where houses used to be, there are only foundations. There are innumerable houses that have collapsed, some that fell sideways and some that were squashed. There is a car that crashed into the entrance of Takada Municipal elementary school. Staff make their way pushing their way through debris. Employees of the city office are walking over the dangerous debris, having been rescued by firemen. On top of the building that looks ready to collapse are those people left behind looking for help. Although the building withstood the tsunami, the driftwood sticks out from its rooftop, implying its existence that stands higher than the two story building.

-The reporter appearing in the footage is Yuji Takahashi of Iwate Menkoi TV-

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。
名取市立閖上小学校は標高約1m(正門前の緯度経度 +38 10 41.560",+140 56 29.430" 宮城県名取市閖上字鶴塚52番地)
名取市立閖上中学校は標高約2m(正門前の緯度経度 +38 10 39.328",+140 56 43.437" 宮城県名取市閖上字五十刈1番地)
名取市役所閖上公民館は標高2m (緯度経度 +38 10 36.180",+140 56 58.430" 宮城県名取市閖上2丁目19)

検証・大震災:3家族の3.11(2)名取・佐藤さん(1/2ページ)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20110410mog00m040016000c.html
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 ◇車濁流に…駐在所の壁でストップ

 海の方角に高々と上がる砂煙が見えた。その直後、人を巻き込みながら大津波が迫ってきた。宮城県名取市閖上(ゆりあげ)のケアマネジャー、佐藤研さん(35)は妻真希さん(33)、次女果穂ちゃん(6)と車で近くの市立閖上中学に逃げる途中だった。

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佐藤さん家族

 わずかな隙間(すきま)から水が流れ込んで車体が傾く。「もうだめか」と思ったとき、閖上駐在所の壁に車がひっかかって止まった。「逃げるなら今しかない」と後部の窓をひじでたたいて割り、車の上にはい出た。駐在所の屋根まで約50センチ。先に佐藤さんが飛び移り、2人を引っ張り上げた。

 雪が舞う中、3人はずぶぬれのまま屋根の上で待ち続けた。救助隊は来ない。水が腰の高さまで引き、ようやく屋根から下りられたのは、地震から9時間後のことだ。命を拾った。だが、もう一人の家族が見つからない。市立閖上小学校を下校したはずの長女吏都(りつ)ちゃん(8)は、どこにいるのか。

     ◆

 仙台平野南部の閖上地区には、高台と言えるような場所がない。あの日、次女果穂ちゃんの幼稚園の卒園式に出席し、自宅アパートにいた佐藤さんは地震の直後、果穂ちゃんと真希さんを車に乗せ、地区指定の避難所・閖上公民館に向かった。

 途中、閖上地区を南北に流れる貞山(ていざん)運河が目に入った。普段は1メートルを超える水量があるのに、川底があらわになっている。「大きな津波が来る」。そう直感した。津波は、いったん水が引いてから来ることを佐藤さんは知っていた。

 公民館に着いたのは午後3時過ぎ。この時佐藤さんは、まさか自分たちが生死のはざまをさまようとは思ってもみなかった。長女吏都(りつ)ちゃん(8)を迎えに行こうと、真希さん、果穂ちゃんを公民館に残し、市立閖上小学校へ急いだ。しかし、そこに吏都ちゃんはいなかった。

     ◆

 地震が起きた時、閖上小学校では全学年が授業を終え、低学年から下校が始まっていた。2年生の吏都ちゃんは学校から300メートル離れた歩道橋を歩いていた。

 強烈な揺れに思わずすくみ、座り込んでいると、小学校から走ってきた5年生の男子児童が「家に帰っちゃダメ。中学校に避難しよう」と声をかけてくれた。歩道橋の周辺にいた数十人の児童はその声に従い、目の前の市立閖上中学に移動し始めた。吏都ちゃんも続いた。

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名取市閖上

 教務主任教諭の洞口日出輝さん(54)によると、海抜0メートルの閖上小学校では毎年1回、地震と津波の訓練をし、校内にいるときは3階に、校外にいるときは学校から300メートル離れた閖上中学などの高い建物に避難せよと子どもたちに徹底していた。

 今回の震災では、親が小学校に子供を迎えに行き、親子で帰る途中に津波に巻き込まれるケースが多数報告されている。事件や災害の際にいち早く親に子供を帰すという「引き渡しルール」が裏目に出た形だ。

 閖上小では、迎えに来た親にも子供を渡さなかった。防災マニュアルで「津波が懸念される時には子供を引き渡さない」と決めていたからだ。「なぜ子供を渡さない」と詰め寄る親もいたが、学校側は「親御さんも学校にとどまってください」と説得した。

 同校の298人の児童は病気で自宅にいた1人を除き全員無事だった。

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 ◇「もう少し」声掛け合い

 真希さんと果穂ちゃんがいた公民館では「女川町に6~7メートルの津波が来ている」との情報が伝わった。誰ともなく「この2階建ての公民館は危ない」と言い出し、多くが3階建ての閖上中を目指して車で移動し始めた。中学への距離はわずか500メートル。真希さんも車に乗った。公民館を出たところで、閖上小から戻ってきた佐藤さんと合流し、中学を目指した。

 公民館長の恵美雅信さん(63)によると、閖上地区の住民は年1回、避難訓練を行い、地震と津波に備えていた。しかし、津波は予想を超える速さで来た。閖上中に向かう途中で多くの車が津波にのまれてしまった。

 佐藤さんの車も濁流に流されたが、たまたま閖上駐在所の壁にひっかかり、家族3人は高さ7メートルほどの屋根に上ることができた。周囲を見回すと、黒い水が町を覆い、電柱が倒れ、家が燃えていた。がれきにつかまった若い女性がこちらを見て「助けて」と叫んだ。しかし、なすすべもなく流れに消えていった。

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津波から逃れるためによじ登った駐在所の屋根(左)を見上げる佐藤研さん。自動車後部のガラス(右)を打ち破り、家族で逃げた=宮城県名取市で2011年4月2日、丸山博撮影

 暗くなり、雪が降り始めた。ずぶぬれの3人は震えだした。上空をヘリが通過したが、救助にくる気配はない。果穂ちゃんが「パパ、眠い」とつぶやいた。眠ると危ないと思った佐藤さんは、抱き寄せて話しかけた。「あったかいとこ行ったら、なに食べたい?」。果穂ちゃんは笑顔で「焼き肉」と答えた。真希さんと励まし続けた。「もう少し、もう少しだから」

 屋根から下りられたのは深夜になってからだった。あちこちでプロパンガスのボンベが爆発する音が響いていた。長女の吏都ちゃんは閖上中学に避難しているかもしれない。3人は中学へ向かった。

     ◆

 午前0時の時報が鳴り、ラジオが震災被害の様子を刻々と伝えている。避難所になった閖上中学。「佐藤さんいますか?」。教室にいた吏都ちゃんは女性教諭に呼ばれ、2階の職員室へ行った。

 そこに、毛布にくるまった3人がいた。お父さんとお母さん、それに妹。吏都ちゃんは真希さんに飛びついた。

 あまりに長い一日だった。佐藤さんには、家族みんながこうして無事に会えたことが奇跡に思えた。【杉本修作】

    <続きを読む>3家族の3.11(3止)石巻・木村さん

    <最初から読む>3家族の3.11(1)陸前高田・河野さん

2011年4月10日

 

検証・大震災:3家族の3.11(3止)石巻・木村さん(1/2ページ)
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 ◇大渋滞の国道、黒い波一気に

 宮城県石巻市・牡鹿半島の浜辺に暮らす漁師、木村美輝(よしてる)さん(41)は約500メートル沖合の船上で突き上げるような衝撃を感じた。カキ養殖のいかだを沖合に移動させる作業中だった。4・9トンの小型漁船は上下に大きく揺れた。

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木村さん家族

 20分後、先に帰港した僚船から無線で連絡が入った。「大きな津波が来るから気をつけろ」。港に急いだ。岸壁が目の前に見えるのにたどり着けない。急速に潮が引いていく「引き波」で漁船が次々と沖に押し戻されていく。接岸をあきらめ、携帯電話をつかんだ。「高いところさ逃げろ」。妻の弘美さん(40)にそう伝えたかったが、つながらなかった。

 日暮れとともに風が吹き、雪がちらつく。洋上でひとり震えながら、夜空を赤く照らし燃え上がる石巻市街をぼうぜんと眺めた。仙台方面では石油コンビナートが爆発炎上し、高い火柱が上がっていた。家族一人ひとりの顔が浮かんだ。「無事でいてくれ」。そう祈るしかなかった。

     ◆

 弘美さんと長男の将也さん(16)は石巻市中心部にいた。石巻民主商工会(民商)で確定申告の手続き中だった。弘美さんは応対していた職員(39)と机の下に隠れ、揺れが収まると駐車場の車内で待つ将也さんの元に向かった。

 運転席に座り、車のラジオを聞く弘美さんは冷静だったという。ラジオは牡鹿半島南端の鮎川地区で「10センチの津波が来た」と報じていた。「10センチならたいしたことないね。今は渋滞しているだろうから落ち着いたころに家に帰るよ」。窓越しに職員に語りかけ、ほほ笑んだ。午後3時15分ごろ、車を発進させた。自宅まで約20キロ。山側と海側の2ルートがあるが、選択したのは海側の国道だった。

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石巻市牡鹿半島

 海岸から約1キロの国道を津波が襲ったのは午後4時ごろ。片道1車線。大渋滞で車はまったく動かない。「車から降りてくれ。でかい津波が来るぞ」。国道沿いにある石巻消防署湊出張所の所長(58)は広報車のスピーカーで繰り返し叫んだ。

 側溝から「ブホッ、ブホッ」と空気が噴き出す音。道路の東側から車をひっくり返しながら真っ黒な波が押し寄せる。車から慌ててドライバーたちが飛び出す。1分後、ごう音とともに、辺りはがれきを運んできた波にのみ込まれた。

http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20110410mog00m040017000c2.html
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 ◇「誰も責められない」

 台所でワカメのメカブを調理していた母の艶子さん(70)は、大型トラックがそばを通り過ぎるような大きな地鳴りが聞こえ、包丁を握っていた手を止めた。2階から下りてきた次男の友哉(ゆうや)さん(15)と一緒に庭へ飛び出し、車にしがみついて激しい揺れをこらえた。市立大原小から集団下校中だった次女の汐里(しおり)ちゃん(7)は同級生の父親が車で自宅まで送ってくれた。

 一家が暮らす小渕浜では、大きな揺れの後は、津波に備えて船で沖合に避難する習慣がある。艶子さんは船を手配するために200メートル先の岸壁に向かった。だが、船を出す漁師の姿がない。同じように船に乗ろうと集まった住民が立ち往生していた。

 その時、船を係留しているロープがピーンと一直線に引っ張られた。海面はみるみる遠ざかったかと思うと、真っ黒に変色していく。大津波の前触れの引き波だ。艶子さんは急いで引き返した。

 先に避難したのか自宅に2人はいない。沖合から壁のような波が迫る中、ひとり裏山に向け走り出した。バリバリバリとごう音を上げながら、津波は160世帯の集落をのみ込んだ。裏山からぼうぜんと見下ろした。

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父の木村美輝さん(左)の膝の上で笑顔を見せる長女美穂ちゃん(右)と次女汐里ちゃん。「子供たちがいるから頑張っていられる」=宮城県石巻市で2011年4月7日、丸山博撮影

 午後7時ごろ、艶子さんは地元で「てっぺん」と呼ばれ、浜から40メートルほどの高さにある民家を訪ねた。汐里ちゃんが泣きながら飛びついてきた。友哉さんは汐里ちゃんを連れ、自宅から約200メートル駆け上がった。そこでは30人ほどが暗闇の中で身を寄せ合っていた。友哉さんは友人と一枚の毛布に入り、寒さをしのいだ。兄の将也さんとは地震の10分前に携帯電話で「ゲーム機を貸して」と話していた。「きっとどこかに避難している」と信じた。

 同じころ、長女の美穂ちゃん(9)は大原小の体育館で教員や同級生と一緒に一夜を明かした。「おっとお、おっかあ。早く会いたい」。毛布にくるまったが、なかなか寝付けなかった。

     ◆

 沖合の漁船にいた木村さんが浜に戻ったのは2日後の13日朝。前日まで岸壁が水没し、接岸できなかった。15日、知人の目撃情報を頼りに妻弘美さんの車を見つけた。確定申告した民商から約4キロ先の地点だった。

 後部座席をのぞくと、長男将也さんが息を引き取っていた。運転席と助手席の窓ガラスが割れ、車内は泥まみれ。弘美さんの靴やジャンパーは見つかったが、今も行方が分からない。

 自宅は全壊し、一家は7人で同じ浜にある漁具の倉庫に身を寄せる。「あの時、こうしていれば、と考えても命は戻らない。誰も責めたくないし、考えないようにしてんだ」。木村さんは静かになった海を見つめた。【比嘉洋】

    <最初から読む>3家族の3.11(1)陸前高田・河野さん

2011年4月10日

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。
名取市立閖上小学校は標高約1m(正門前の緯度経度 +38 10 41.560",+140 56 29.430" 宮城県名取市閖上字鶴塚52番地)
名取市立閖上中学校は標高約2m(正門前の緯度経度 +38 10 39.328",+140 56 43.437" 宮城県名取市閖上字五十刈1番地)
名取市役所閖上公民館は標高2m (緯度経度 +38 10 36.180",+140 56 58.430" 宮城県名取市閖上2丁目19)

証言/避難者大混乱、名取・閖上公民館/誘導あだ 多数の犠牲者
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110803_01.htm
魚拓

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津波は車などを巻き込みながら押し寄せ、5差路をのみ込んだ=3月11日午後4時10分ごろ、名取市閖上

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 東日本大震災で甚大な被害が出た名取市閖上地区では、指定避難場所の閖上中の目前で、津波にのまれた人が多数いた。閖上公民館に避難した人々が閖上中に誘導され、指示に従って移動していたところを津波が襲ったという。同公民館も指定避難場所で、避難誘導は市の防災計画の規定にない。周辺の主要道路は、事故と信号ダウンなどで渋滞が発生。近くに高台がない地域で、避難者は大混乱に陥っていた。
(小島直広、末永智弘、勅使河原奨治)

<渋滞>
 「あの時、公民館の2階に避難させてくれれば、娘は助かったはず…」
 長女ななみさん(14)=名取市閖上中2年=を亡くした漁業菊地篤也さん(49)=閖上2丁目=は悔しい思いを隠せない。ななみさんは3月11日の地震発生後、市の指定避難場所、閖上公民館に避難していた。
 ななみさんの兄佳祐さん(21)は同日午後3時半ごろ、公民館グラウンドで「地震怖い」と泣く妹をからかった。「何、泣いてんの?」
 佳祐さんが振り返る。「ここなら大丈夫だと思って、そのままその場を離れた。あれが最後だった」
 ななみさんはその日夕刻、公民館の北西約800メートルにある閖上大橋南側で、海水とがれきの中から発見され、救急搬送中に息を引き取った。
 3時45分ごろ公民館前。町内会長阿部文男さん(61)=閖上7丁目=は異様な光景を目撃する。公民館グラウンドに入った車や住民が、追い返されるようにぞろぞろと外に出て行く。
 「なぜ公民館に避難しないんだ、戻れ」。阿部さんは顔見知りの女性に強く注意した。
 女性は「公民館の人から、ここは津波の避難所じゃないので中学校へ移動するよう言われた」と答え、その場を後にした。
 公民館前グラウンドには車が約100台。阿部さんは「中学校へ向かおうとした車が、前の通りの渋滞に拍車を掛けた。そこを津波が直撃した。どれだけの犠牲者が出たことか」と嘆く。
 
<判断>
 閖上中は公民館の西約500メートルにあり、大人の足でも6、7分はかかる。阿部さんが注意した女性も結局、途中で津波に巻き込まれ、犠牲になったことが判明した。
 公民館は海岸線から1キロ強の距離にある。市働く婦人の家と棟続きで、共に鉄筋コンクリート2階建て。両施設を管理する元公民館長(63)=6月末で退職=によると、地震発生当時、幼稚園や中学校の謝恩会などが開かれ、館内には100人以上がいたという。
 元館長が証言する。「余震が続いたため、全員を屋外に避難させた。電話も携帯も無線もつながらず、市役所と連絡がとれなかった。防災無線放送も鳴らなかった」
 情報が途絶する中、状況はこの後一変する。
 元館長によると、午後3時20分すぎ、ある消防関係者がやって来てこう告げたというのだ。
 「大津波が来るから2階の建物ではもたない。全員を3階がある中学校に避難させてほしい」
 元館長は「制服を着た人だったので従った。もっと高い所へ、という判断は正しいと思った。結果的に犠牲者を増やしたならば、その責任は私にある」と悔しがる。
 津波が襲来したのは3時50分すぎ。元館長は、阿部さんや住民ら数十人と公民館2階に逃れ、間一髪で命拾いした。津波は2階の床すれすれまで達した。
 
<なぜ>
 名取市消防本部によると、市の防災計画では公民館は地震や津波の避難場所で、たとえ大津波警報が発令されても他の場所へ移動させる規定はない。
 今野新一消防長は「公民館にとどまるのが避難の原則。当日、住民を中学校へ移動させる命令を署員や消防団に出してはいない。現地で勝手な判断をするはずはあり得ないのだが…」と、首をかしげる。
 市内では震災で約900人が犠牲となった。避難誘導に当たった消防署員3人と消防団員15人が殉職した。中学校への移動指示を、誰がどういう理由で出したのか、真相は今も不明だ。

◎大橋通行止め、信号消える/「5差路」で車滞留

 名取市閖上周辺の道路は巨大地震の直後、激しい混雑で車が身動きの取れない状態に陥っていた。閖上大橋は事故で通行止めになり、そのたもとの5差路は車が殺到、信号も機能しない。周囲に高台が少なく、車を使った避難者が多かったことに加え、道路の構造にも被害を拡大する要因が潜んでいた可能性がある。

 閖上地区から内陸部へ向かう場合、主に二つのルートがある。閖上中や閖上公民館の前を通る市道と、バス通りと呼ばれる名取川沿いの県道閖上港線だ。二つの道路は閖上大橋のたもとで県道塩釜亘理線と交わり、5差路を形成している。
 地震直後の3月11日午後3時前、5差路の先の閖上大橋でトレーラーの積み荷が落下し、対向車をつぶす事故が起き、橋は通行止めになった。複雑な車の流れを整理する信号は停電で消えた。
 「橋を通って仙台方面に向かおうとする車と、内陸へ避難する車が続々と来た。5差路と周辺で車が滞留し始めた」
 仙台市内の勤務先に向かっていた会社員吉田唯樹さん(34)=青葉区=は振り返る。吉田さんは車から降り、交通整理を始めた。
 橋の通行止めで仙台方面へのルートが閉ざされたため、ほとんどの車が内陸部に通じる県道閖上港線に向かい、車の流れが滞った。
 午後3時25分すぎ、5差路前の倉庫会社の従業員加藤千加子さん(56)=太白区=は渋滞にはまった。「早く帰宅したかったのにノロノロとしか進まず、焦った」
 午後3時50分。津波は閖上に迫っていたが、5差路よりも海に近い公民館や閖上中付近の道路でも渋滞は続いていた。
 閖上大橋の事故現場へ向かった岩沼署交通課の斎藤武志警部補(51)は「避難先の閖上中に入ろうとする車で、公民館前付近から前に進めなくなった。パトカーのサイレンを鳴らし、対向車線を走った」と語る。
 閖上4丁目の会社員小斎誠進さん(42)も同じころ、公民館前から車が数珠つなぎになっているのを目撃している。歩いて閖上中に移動する人も大勢いた。
 「名取川河口に迫る大津波が見えたので、自転車を必死にこいだ。『すごい津波だ。逃げて』と周囲に声を掛けまくったが、半信半疑の人が多かった」
 小斎さんはこう証言する。5差路まで到達した時には、名取川を逆流した津波が堤防を越えかかっていた。「間に合わない、車を降りて逃げろ」。小斎さんは付近の車に叫び、車列を縫って近くの閖上小に逃げ込んだ。
 5差路で交通整理をしていた吉田さん。白波が川をさかのぼり、住宅街から土煙が上がっていることに気付いた。
 「慌てて5差路をまたぐ歩道橋に駆け上がった。津波が車や船を巻き込んで一気に押し寄せ、間一髪だった。歩道橋には50人ほどが避難していた」

◎東洋大・関谷直也准教授/高台遠い平野部、避難道路整備を

 東洋大などが4月下旬に行った「避難所住民調査」では、東日本大震災の発生直後、名取市閖上地区では車での避難が6割に上るなど、車への依存度が高かった実態が浮き彫りになっている。東洋大の関谷直也准教授(災害情報)は「高台が遠い平野部では、車でなければ避難できない人が多かった。その事実をきちんと受け止め、教訓にしなければならない」と指摘する。
 関谷准教授は、閖上公民館から閖上中への避難誘導について「公民館、閖上中とも、津波ハザードマップは1階でも浸水しない想定だった。情報が少ない中でより高い、安全な場所へ移動させようとした現場の判断を、一概には非難できないだろう」と話す。
 その上で5差路交差点付近で津波にのまれた人が多数出たことについては「5差路という構造が渋滞を引き起こした。それが避難者が集中する地点にあったことが問題だった」と語る。
 関谷准教授は「これまで津波避難に車利用はタブー視されてきた。しかし、平野が続く閖上のような地域では有効な面も否定できない。5差路を解消し、早く安全に車で避難できる道路整備を、復興計画に盛り込む必要がある」と提案する。

2011年08月03日水曜日

 

関連記事:

東日本大震災:惨事招いた大渋滞 宮城県名取市閖上地区
http://mainichi.jp/select/today/news/20110731k0000e040026000c.html

Photo震災後も多くの車が行き交う閖上地区の五差路。津波は渋滞の車列ものみ込んだ=宮城県名取市で、安高晋撮影


Photo_2 閖上地区の五差路


 仙台湾沿いに平野が広がる宮城県名取市。3月11日の震災で、多くの住民は付近に高台がないため、避難に車を使った。海辺の閖上(ゆりあげ)地区では人口の1割を超える約600人が遺体で見つかった。助かった住民が津波の直前に見ていたのは、避難する車の大渋滞だった。多くの住民が車ごと波にのまれた惨事は、二つの要因が重なって広がった。【安高晋】

 ■渦を巻く車

 「歩道橋へ急げ」。閖上郵便局を飛び出した局長の小平利則さん(52)は周りの人に絶叫した。午後3時50分過ぎ。約1キロ離れた閖上港を襲った津波が迫っていた。歩道橋が架かる500メートル先の五差路へ夢中で走った。車道では車が渋滞。車を捨てて逃げようとする人たちが目に入る。子供を抱えて転倒する母親もいた。だが助けられなかった。歩道橋に上った2、3秒後、津波は五差路を一気にのみ込んだ。「まるで洗濯機だ」。渋滞は五差路の先にも延びていた。身動きできなかった多くの車が、歩道橋の真下にできた渦に巻き込まれていった。

 ■事故で封鎖

 「事故で人が亡くなった。救急車を呼んでほしい」。五差路脇の「橋浦精麦倉庫」事務所に男性が駆け込んできたのは地震直後だった。社員の庄司明さん(54)が現場へ向かうと、閖上大橋の中央でトレーラーから長さ20メートルのコンクリート製支柱5本が落ち、乗用車を押しつぶしていた。橋の入り口には約10台の車が立ち往生し、五差路の信号も停止。庄司さんは、車を身ぶり手ぶりで市街方向へ誘導した。地震から30分が経過。まだ渋滞はなかった。

 五差路では2本の県道が交差する。特に、仙台空港と仙台港を南北に結ぶ10号は大型トラックが昼夜を問わず行き交う主要道路だ。片側1車線で「普段からよく渋滞していた」(地元住民)という。

 市の津波ハザードマップは、避難で自動車を利用しないよう呼び掛けている。しかし、平たんで高台のない閖上地区は「車を使うしかない」(地元住民)。市も「地形的にやむを得ない」と認める。

 事故で橋が封鎖された後、渋滞が始まった。五差路から約1キロ離れた有料道路「仙台東部道路」の料金所入り口付近にいた人たちは、午後3時半ごろから「車が全く動かなくなった」と口をそろえる。渋滞はその後、五差路まで延びた。津波は有料道路の下を通る道をくぐり、その先まで達した。

 ■直前の指示

 渋滞を拡大した二つ目の要因は、ある呼び掛けが発端だった。「ここは危険です。閖上中学校へ向かってください」

 閖上公民館長の恵美雅信さん(63)が声を聞いたのは有料道路付近で渋滞が始まった午後3時半ごろだった。地震後、約45分が経過。50台以上の車が集まり、館内に多くの避難者がいた。呼び掛けたのは消防署員か団員だったと記憶する。

 公民館は中学校と同じく市の指定避難所。なぜ移動が必要なのか尋ねる恵美さんに「大津波が来たら公民館では対応できない」と答えたという。恵美さんも約500メートル離れた中学校への誘導を手伝った。出口は車で埋まり、中学校へ向かう道路はすぐ渋滞になった。

 多くの避難者がこの移動中、車ごと波にのまれた。公民館の2階から動かなかった人や、津波を見て引き返した人は、助かった。市は「ラジオは6メートル以上の津波が来ると伝えていた。移動を求めた判断は正しかった」と振り返る。

 市の落ち度もあった。昨年2月のチリ津波後、市は地域防災計画で想定した2.6メートルを大きく超える津波が予測される場合は3階以上に逃げるよう各町内会の避難訓練の際に要請したという。公民館は避難先に適さなかったことになる。しかし、閖上地区の複数の町内会長は、要請を「記憶にない」と反論する。市は「周知が甘かった」と認めた。

 妻や母ら家族4人を亡くした町内会長の一人、高橋善夫さん(68)。昨年9月の町内会の訓練でも、避難先を公民館にしていた。「公民館に逃げれば安全と思ってきた。きちんと説明があれば、最初から別の場所に逃げることもできた。もっと多くの命が助かった」

2011年7月31日 14時11分 更新:7月31日 14時36分

 

震災直後の閖上大橋死亡事故 運転手に罰金10万円
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201402/20140206_13014.html

 東日本大震災直後に宮城県名取市閖上の閖上大橋で起きた交通死亡事故をめぐり、仙台区検は5日までに、道路法違反の罪で、宮城県色麻町の大型トレーラーの男性運転手を略式起訴し、仙台簡裁は罰金10万円の略式命令を出して確定した。
 運転手は2011年3月11日午後2時48分ごろ、閖上大橋の県道で、コンクリートくいの積載方法に不備のあったトレーラーを運転。地震で車両を停止させた際、長引く揺れで荷台のくいが対向車線の乗用車に落下し、運転席の仙台市若林区の男性会社員=当時(60)=を死亡させたとして書類送検されていた。
 運転手と勤務先の運送会社(岩沼市)の男性従業員は業務上過失致死容疑でも書類送検されたが、仙台地検はともに不起訴とした。
 捜査関係者によると、くいは長さ約10メートルの円柱型。トレーラーの荷台に数本積んでおり、総重量は約28トン。くいは全て車の上や道路に落下したという。

2014年02月06日木曜日

 

震災の揺れでくい落下、死亡男性遺族が提訴 運転手と運送会社を
2014/04/02 【河北新報】
http://www.47news.jp/m/news/201404/SM0402_1034073.html

 東日本大震災の地震発生直後に名取市閖上の閖上大橋で、大型トレーラーの荷台からコンクリートくいが落下し、対向車線の男性=当時(60)=が死亡した事故で、宮城県内の男性の遺族が1日までに、トレーラーの運転手と勤務先の岩沼市の運送会社に対し、計4639万円の損害賠償を求める訴えを仙台地裁に起こした。
 訴えによると、2011年3月11日の地震後、運転手がトレーラーを停車中、揺れで荷台の固定用ワイヤロープが壊れてくいが落下。対向車線で停車していた乗用車に落下し、運転席の男性が死亡した。
 男性の遺族側は「運転手は貨物の荷崩れや落下を防止し、安全に輸送する注意義務を怠った」と主張している。運送会社の担当者は「話し合いを続けて円満に解決したい」と話している。
 運転手はくいの積載方法に不備のあったトレーラーを運転したとして、仙台簡裁がことし1月、道路法違反の罪で罰金10万円の略式命令を出し、確定している。

 

閖上関連動画:
大津波 宮城県 名取市 ゆりあげ小学校・・・4
12aaiauoi
http://youtu.be/YI1BQhtvyVg

2011/05/09 にアップロード

3分8秒から、閖上小学校。
6分12秒から、閖上大橋での交通事故。

 

防災関連エントリー:
東日本大震災の記録 大津波悲劇の中の救い、防災の備えが命を救った、英字紙記事も。

3・11東日本大震災「学校最多の犠牲者、石巻市立大川小」検証のために関連記事採録。 

3・11:東日本大震災 宮城・山元町の自動車学校、送迎手間取り25人死亡 

災害:巨大地震や原発被災、「毎日小学生新聞」が画像表示などあり分かりやすいので資料保存。 

3月11日〜3月28日のNYT写真集を全採録。直視し忘れないことが犠牲者への弔い。事実を伝えない日本のマスゴミは糞。 

 

 「防災必需品+体験談」←グーグル検索です。普段からの備えが大事、参考にして下さい。以下、僕自身が用意している基本グッズのAMAZONリンクをはっておきます。

 ※をつけたグッズは、小さな子は別にして家族全員個人装備でも良いと思います。特にヘッドライトは明かりの欲しい作業の時などに使って重宝しています。夜、自転車の前照灯が球切れした時にも使い助かりました。雨具は傘以外に、即行で着脱できて両手が使えるポンチョもお勧めします。

ホイッスル 笛 ※(救出要請SOS、その他)

ヘッドライト ※

LED懐中電灯 ※

SONYポケットラジオ ※

SONY防災ラジオ ←スマホ手回し充電可能タイプの

LEDランタン 

・火を熾すもの(チャッカマン西洋火打ち石

卓上カセットコンロ 

VICTORINOX多機能ナイフ ※

ポンチョ(アウトドア雨具) (←お勧め)※

 ロープは万能道具、普段から慣れておくことが大事。

決定版 ひもとロープの結び方 便利手帳 

使えるロープワーク―必ず役立つ「結び」の完璧テクニック (OUT DOOR)←アウトドア好きの方が書いた本。

アウトドア用のロープ ←リンクをはりましたが、一番良いのは登山用品店に行って説明を聞き、自分でも手にとって選ぶ事です(太さの感じが分かります)。通常、メジャーを使って1m単位で量り売りしてくれます。僕自身は、径3.5㎜と4.5㎜のでそれぞれ2m、3m、5mのを適宜本数組み合わせて普段からザックの隅に入れてます。また車にはそれに加え径8㎜で10mのを2本積んでます。細いロープは長いのだとうまく使えません。短いのを準備して使うのがロープに慣れるコツ。長さが足りなければつないで使えばよいのです。

 着るものを含め、防災グッズはアウトドアグッズを転用出来るわけですが、ザッグを例に取ると、防災用と比べアウトドア用のザッグは作りも頑丈ですし、使い勝手もはるかに良いです。

リュックサック ※

ザック ※

 意外と忘れるのがマスクとゴーグル。特にマスクは瓦礫の粉じん対策として必需品(特に肺がんを引き起こす石綿:アスベストに要注意)、避難場所での風邪の集団感染予防にもなります。またゴーグルは震災での粉じん対策だけでなく富士山が噴火した場合、大量の降灰に対する備えとしても必要。マスクとゴーグルは花粉症対策としても使え、何もしないよりは放射能降灰への備えとしても有用と思います。

山本光学のN95マスク  ※

山本光学の浮遊粉塵用セーフティゴーグル ※

 薬や救急用品など。これは個人それぞれ違うはず。以下は僕が用意しているもの。消毒用ジェルは避難所で用意しているはずですが、万一に備え感染症防御でこまめな手洗い用。スキンクリームはウォシュレットが使えない避難所で拭く時に使う切れ痔予防。裏技用途で、ジェルやワセリンはたき火が必要な時に火口(ほくち)に少し使うと火を熾しやすくできます。手ぬぐいはバンダナ代わりや鉢巻きにも使え、いざという時には包帯にもなる必需品。

消毒用ジェル救急絆創膏テーピング用テープけが等の軟膏ワセリンスキンクリームソンバーユなら)、とげ抜き手ぬぐい

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 以下追記、資料として採録。

阪神・淡路復旧作業石綿禍 東日本被災地にも暗い影
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/18/201208/0005483567.shtml
魚拓 

B_05483568 重機で解体される被災ビル。粉じんが舞う=1995年2月、神戸市兵庫区

 発生から17年半となる阪神・淡路大震災の被災地で、建物の復旧作業に伴うアスベスト(石綿)被害が新たに確認された。牙をむき始めた大震災の石綿禍。しかし、当時の環境庁(現・環境省)などによる石綿の飛散調査は「おおむね問題なし」との結果だった。時をへて相次ぐ中皮腫の発症は、実態把握の不十分さを浮き彫りにするとともに、東日本大震災の被災地にも暗い影を落としている。

 家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。阪神・淡路大震災の被災地では、倒壊した建物からすさまじい量の粉じんが発生した。日本では石綿消費量の約8割が建材に使われてきた。吹き付け材、屋根材、内装材、吸音材、外装材、耐火被覆材(たいかひふくざい)などだ。震災で崩れた建物のがれきには、命を脅かす「死の棘(とげ)」が含まれていた。

 当時の環境庁の調査によると、解体現場周辺で空気1リットル中の石綿繊維量は平均3~5・4本、大気汚染防止法の基準(10本)を下回った。一方、民間研究機関「環境監視研究所」(大阪市)の測定では、解体現場周辺で1リットル中160~250本が検出された。基準値をはるかに上回る。

 官民でデータに隔たりがあるが、中皮腫が増えているのは「飛散防止に有効な手を打てなかったことを示している」(専門医)とみる人は多い。

 解体が急ピッチで進む中、行政が現場に本格的な粉じん対策を指示したのは、発生から1カ月あまりたってからだ。復旧工事が急がれる中、石綿対策が後手に回ったことがうかがえる。

 発生から間もなく1年半になる東日本大震災の被災地でも、石綿の飛散に不安が高まっている。

 環境省の飛散調査では、約350地点のうち95・4%で「問題なし」との結果だった。しかし、現地調査をした森裕之・立命館大教授(公共政策)は「極めて不十分」と疑問を投げ掛ける。「建材は解体作業で細かく砕かれており、風向きによって測定値が大きく異なる。東北の被災範囲は広大で、阪神・淡路の教訓を踏まえて丁寧に測定すべきだ」と話す。

 被災地ではがれきの集積場が点在している。原発事故に伴う放射能汚染に目を奪われがちだが、宮城県石巻市の石巻赤十字病院の矢内勝・呼吸器内科部長は「がれきが身近にある以上、石綿の吸引を避けるために万全を尽くす必要がある」としている。(加藤正文)

【発症時期迎え被害拡大か】
 中皮腫で亡くなった宝塚市の男性=当時(65)=が阪神・淡路の復旧作業に携わったのは、わずか2カ月だった。震災アスベストの危険性を訴えてきたNPO法人ひょうご労働安全衛生センターは「十分な飛散対策がないまま、復旧解体が街中で繰り広げられた。労働者だけでなく、住民やボランティアへの被害も懸念される」と指摘する。

 石綿が肺の中に入り、中皮腫や肺がんといった石綿疾患を引き起こすまでの潜伏期間は、十数年から40年とされる。阪神・淡路大震災から17年半、同センターの西山和宏事務局長(50)は「発症時期に入ったのではないか」と警戒感を強める。

 近年、復旧に携わった労働者の石綿疾患が相次ぐ。2008年、解体にかかわった兵庫県内の男性の中皮腫発症が判明。その後、解体作業の現場監督を務めた芦屋市の男性、がれきを収集した明石市職員の発症が確認された。

 しかし、いずれも発症と震災時の石綿飛散との明確な因果関係は証明されておらず、兵庫県の井戸敏三知事は「原因が阪神・淡路大震災だとはなかなかなりにくいのではないか」などと繰り返し発言している。

 これに対し、今回の宝塚市の男性のケースでは、石綿に触れる機会が震災後の復旧作業に限定される。男性の妻(67)は「夫と同じような作業をしていた人は多いはず」との思いで、夫の病状の公表を決心した。

 被害拡大や不安解消に向け、行政の速やかな対応が求められる。(中部 剛)

2012/8/24

 

論壇
アスベスト禍の衝撃 史上最悪の産業災害
命に突き刺さる棘、震災復興でも深刻な被害が

http://gendainoriron.jp/vol.03/rostrum/ro03.php
魚拓 
Internet Archive 

神戸新聞編集委員 加藤 正文


国賠勝訴 
複合型ストック災害 
クボタショック 
震災アスベストの脅威 
相次ぐ発症 
異常事態の中で 
繰り返される過ち 
課題を示す窓 


 原発事故とアスベスト(石綿)禍には被害の構図が共通している。過去に地震や津波が繰り返し発生した地に原発を起き、研究者が再三、その危険性を警告していたにもかかわらず、虚構の「安全神話」の中で稼働を続けた。一方、石綿も戦前から有害だと分かっていながらも、その有用性、経済性から「管理して使えば安全」と国は十分な規制を行わず、約1千万トンを消費した。使用禁止は北欧に遅れること20年、ヨーロッパ諸国に遅れること10年以上たった実に2006年だ。

 原発事故は「史上最大・最悪の公害」(宮本憲一・大阪市立大名誉教授)であり、石綿禍もまた「史上最大の産業災害」(同)である。筆者は2005年6月末、兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場内外で深刻な被害が発覚した、いわゆる「クボタショック」以降、各地で取材を重ねてきた。その成果を『死の棘・アスベスト』(中央公論新社、2014年)として刊行した。石綿はその使用状況の広がりを反映して、被害状況も多様だ。本稿では、①石綿産業の原点としての大阪・泉南②アジア最悪の被害を出した兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場③今後、深刻な被害が懸念される震災アスベスト-の3点で被害と不作為の構図を描いていく。


国賠勝訴

 「勝訴」「最高裁、国を断罪」。原告側の弁護士の旗が出ると、最高裁前に詰めかけた被害者らから拍手がわいた。2014年10月9日、石綿を吸って肺がんや中皮腫などを患った大阪・泉南地域の元工場労働者らによる国家賠償請求訴訟で、最高裁は国の賠償責任を初めて認める判決を言い渡した。

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知られざる地場産業だった大阪・泉南の石綿紡織産業。100年の時をへて最高裁が国の不作為を認定した(大阪アスベスト弁護団提供)

 「労働環境を整備し、生命、身体に対する危害を防止するために、国は技術の進歩や医学知識に合うように適時適切に規制権限を行使すべきだ」。この「適時適切」という理念を盛り込んだ判決が確定するまでに、どれほどの苦難があったことだろう。病気に斃れた無数の声なき声が、100年もの長い時を超えて重い扉をこじあけたのだ。

 関西空港の対岸、大阪府泉南市、阪南市を中心とする泉南地区は、日本の石綿紡織産業の原点の地だ。中小零細の工場が集積し、戦前は軍需産業、戦後は自動車や船舶、機械などの基幹産業を支えた。最盛期には約200社が稼働し、約2千人が就労したという。戦前から石綿紡織工場の全国一の集積地として発展した。

 主な製品は、石綿を主原料に綿花などを混紡した糸、そして、この糸を布状やひも状に加工したものだ。耐熱性、絶縁性にすぐれ、各種パッキング、蒸気機関車などの防熱ふとん、自動車の摩擦材などに幅広く使われた。「小はランプの芯から、大は重化学工業の発熱部を覆う断熱材として欠かせなかった」(柚岡一禎・泉南地域の石綿被害と市民の会代表)。あちこちに工場が点在し、「街全体が石綿工場のようだった」といわれるが、今の街並みからは想像もつかない。高度成長期をピークに生産は次第に先細り、産地は消えた。長年、数多く労働者や住民が石綿による肺の病気で苦しんできたが、2006年、石綿対策の不備について国の責任を問う集団訴訟が提起されるまで知る人は少なかった。「国は石綿の危険性を知っていた、対策を取ることもできた、でも、やらなかった」。長い間、隠されてきた被害が表に出た瞬間だった。

 戦前の調査がある。国は1937(昭和12)年、泉南地区の被害をつかんでいた。旧内務省保険院の調査で、労働者の石綿肺罹患率が12・3%に上ることが判明した。担当医師らの「有害工業に属し法規的取り締まりを要する」との警告が残る。だが、国はこれに対して不十分な症例調査にすぎないとの立場をとった。その後も罹患率は10%を下回らず、労働基準監督署が調査を重ねた。しかし、「被害は深刻ではなかった」という見解を譲らなかった。 クボタのような大企業と違い、泉南はほとんどが零細企業で対策も不十分だ。「だからこそ国に被害拡大を防ぐ責任があった」。石綿問題に詳しい立命館大の森裕之教授(公共政策論)は国の不作為を指摘する。

 訴訟は2陣あり、1陣の地裁、高裁、2陣の地裁、高裁。そして今回の最高裁、過去5回の判決が投げ掛けるのは、一体、何のために労働関係の法規はあるのか、という根本的な命題だ。いくつもの曲折があったが、最高裁判決は、人間の命と健康を守るため、という基本原則を明確に示した。

 不断の努力で最新の知見に合わせて健康被害を予防する。被害が発生しているのならば、根絶まで対策を取る。これは法律や規則以前の行政の当然の責務だが、縦割りの官僚機構の中でその意識はかなり薄れている。あえてこの原則を厳しく指摘したところにこの判決の最大の意義がある。


複合型ストック災害

 手元にアスベスト(石綿)の原石がある。白く毛羽だった繊維のついた蛇紋岩。カナダ・ケベック州の鉱山都市セッドフォード・マインズの取材時にもらったものだ。

 壮大な露天掘りの鉱山に立ったとき、上流から下流へ流れる川のように、採掘された石綿が輸出され、港から工場に運ばれ、加工され製品となり、最後に瓦礫として廃棄される様子がまざまざと脳裏に浮かんだ。 熱や引っ張りに強く、燃えない。そして何より安い。産業革命とともに本格利用が始まり、各国の経済成長を支えた。その用途は建材、水道管、パッキング、シール材、ブレーキ材など実に3千種類に及んだ。

 かつては「奇跡の素材」と喧伝され、有害な「悪魔の素材」にもかかわらず、大量に使われた。日本は1千万㌧を消費した。1970年代にWHO(世界保健機関)やILO(国際労働機関)が発がん性を指摘したのに、日本が使用禁止にしたのは前述のとおり2006年。建物など社会のあちこちに蓄積(ストック)された石綿。髪の毛の5千分の1の微細な繊維は吸引すると長い潜伏期間をへて中皮腫や石綿肺などの病気を引き起こす。「生産・流通・消費・廃棄の経済活動の全局面で複合的に影響を与えるストック災害」(宮本・大阪市大名誉教授)とされる。近代化の初期に大量使用され、経済成長が一段落するころに「死の棘」の本性をみせる。これが複合型ストック災害の恐怖だ。

 日本で中皮腫による死者は2006年から毎年千人を超え、10年は1209人、11年1258人、12年は1400人、13年は1410人と増加。兵庫、大阪、東京、神奈川で多い。石綿を扱う工場などで働いたことがないのに病気になった人の数は中皮腫と肺がんで8千人を超え、その半数が亡くなっている。

 一方、労働災害として認定される人の数は毎年千人を超えている。高度成長期に起きた四大公害事件よりも被害者が多くなるのは間違いない。規制の決定的に遅れを踏まえると、被害のピークは2030年と予測される。


クボタショック

 アスベスト問題が労災を超えた公害であることを明確に示したのは、2005年6月に起きた「クボタショック」である。ショックたるゆえんは、工場の元従業員のみならず周辺住民の間で中皮腫が多発していることが発覚したからだ。中皮腫は石綿に起因する極めて予後の悪い特異性疾患だ。それが工場の周辺に広がっていた。発症状況を地図に落とすと、この特異な病気が工場の半径4キロにわたって広がっている状況が浮き彫りになる。

 2014年9月末時点で周辺住民と元従業員の死者は435人となり、アジア最悪の被害となっている。住民の被害者は263人で、元従業員(172人)を上回る。「俺、何か悪いことしたか」「1億円もらったってこんな病気、嫌」「クボタによる陰湿な殺人」「健康な体を返してほしい」―。不条理に命を奪われた患者たちの言葉はあまりに重い。

 クボタの社長は道義的責任から謝罪し、原則半径1キロの発症については救済金を支払ってきたが、肝心の因果関係についてはいまだに認めようとしない。「お見舞い金の延長」(首脳)という見解にとどまる。


震災アスベストの脅威

 重機がうなりをあげて建物を壊していく。むき出しの鉄筋、破砕された建材、積み上がる膨大ながれき、舞い上がる粉じん…。東日本大震災の被災地で続いた光景は、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災の状況と重なる。当時、全国から駆けつけた労働者たちは、復旧復興のためにひたすら解体作業に打ち込んだ。すぐそばではごく当たり前の日常生活が営まれていた。あたりを舞う粉じんに潜む「死の棘」の存在を、気に留めることはほとんどなかった。

 来年1月で丸20年となる。神戸の街に震災のつめあとは感じられなくなった。順調に「復興」したかのように見えるこの街で、肺の奥に突き刺さった微細な繊維、アスベスト(石綿)が牙をむき始めている。がれき処理に関わった人が相次いで、石綿に起因するがん、中皮腫を発症しているのだ。吸引後、10数年から40年たって発症するのが石綿のリスクだ。

 「チュウヒシュ? 俺が?」。2012年5月、兵庫県明石市にある県立がんセンターで思わず問い返した。医師の診断は「腹膜中皮腫」。高濃度のアスベスト(石綿)暴露で起きる病気だ。明石市環境部の男性=当時(48)=の仕事はゴミの収集業務だが、石綿との関連を考えるうちに、1995年の阪神・淡路大震災時に思い至った。

 男性は当時、がれきの処理業務に奔走した。ブロックやスレート、木材など震災で全半壊した住宅のがれきをパッカー車に積んで、処分場に運んだ。波形スレートは半分に割って車に押し込んだ。2、3トン積みの車だったが、可燃であろうが、不燃であろうがお構いなしだったので「5、6トンは載せていた」。

 処分場にがれきを投入する。荷重が重すぎて油圧で荷台が上がらないのでパッカー車の中に入ってがれきをかきだした。狭いパッカーの中はすさまじい粉じんだった。「使い捨ての紙マスクを2重にして使っていたけど、鼻の中まで真っ黒になった」。当時、焼却場は壊れていたのですべてのゴミを埋め立て処分場へ。破砕してブルドーザーでならした。舞い上がる粉じんとともにがれきはうずたかく積み上がった。

 時は流れ、2011年暮れ、下腹部にできたしこりに気づいた。それが見る間に大きくなった。「当時、俺よりもたくさんアスベストを吸い込んだ人がいた。神戸に来ていたボランティアの人もそうだ。俺が病気になるというとは、これからもっと多くの人が発症するということ。入念な検査をみんなにしてほしい」。男性の病状は悪化し、2013年10月に亡くなった。


■ 相次ぐ発症

 時がたち、阪神・淡路大震災の生々しい記憶が遠ざかる中で、石綿関連疾患の発症が相次いでいる。2008年3月、震災時の解体作業で石綿を吸ったため、がんの一種、中皮腫になったと訴えた兵庫県内の30代の男性を、姫路労働基準監督署が労災認定した。震災時作業による労災認定は初のケースだった。石綿の被害は潜伏期間が十数年~40年とされる。「震災による石綿疾患はいずれ爆発的に発生する」と、かねて懸念されてきただけに、いよいよ来たのか、という覚悟を迫る発症の報告だった。

 2009年5月、芦屋市の男性=当時(80)=が労災認定された。中皮腫と診断されたのは2007年。元建設会社の営業マンで、震災後の95年10~11月、人手が足りず、解体作業で現場監督を務めた。重機の巨大なハサミが建物をつかむと、左右に10メートルほど粉じんが広がった。労災を申請すると、労働基準監督署は建設会社に勤務していた77~98年の約22年間に石綿に触れたと判断した。しかし、渾大防さんは「営業マン時代、建設現場に出ることはほとんどなかった。石綿を吸い込んだのは、震災時の現場監督時代しか思い当たらない」と話す。13年暮れ、男性は死去した。

 2012年8月には、宝塚市内の男性(11年に65歳で死去)も労災認定された。この男性は衣料品販売をしていたが、震災で仕事ができなくなり、1995年2月、作業服に着替えてアルバイトとして工務店で勤務した。民家からずり落ちた瓦を集め、屋根にブルーシートをかけた。マンションの改修工事にも立ち会った。マンションの室内では職人が壁や天井をはがしたり、電動のこぎりで建材を加工したりしたため、相当量の粉塵が部屋にたちこめた。妻(67)は今、夫のかぶっていた野球帽にほこりがたくさんついていたことを思い出す。工務店のアルバイトはわずか2カ月。この間に石綿を吸い込んだ。16年後に中皮腫を発症し、2011年10月に死去した。妻は悲しみを口にした。「がれきの中のアスベスト(石綿)のことなんて考えもしなかった。お父さんは悔しかったと思う。同じ哀しみを東北の被災地で決して繰り返さないでほしい」

 同じ月、兵庫県内に住む別の70歳代男性も神戸東労働基準監督署から労災認定されたことも判明。3年近く瓦礫処理作業に携わったという。労災認定などで表面化する被害だけで5人。その背後で、解体、瓦礫収集、運搬、処理などの復旧・復興に関わった数多くの労働者が次々と石綿禍に倒れている。これが阪神・淡路大震災の被災地の現実なのだ。


異常事態の中で

 死者6434人、家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。現場は異常事態であり、緊急事態だった。

 「最悪の労働環境だった」。解体や瓦礫処理に携わった労働者たちの証言だ。神戸市兵庫区で工務店を経営する男性(81)は振り返った。「マスクどころか、タオルもまかずに仕事した。石綿が危ないなんて考える余裕はなかった」「防護シートを張らずに解体した。飛散を防ぐために水をまこうにも、水道管が壊れて水は出なかった」

 発生約1カ月後から一斉解体が始まった。無数の業者が被災地に集まり、神戸だけでも100件、兵庫県内で200~300件の解体が同時に進行したという。住民への情報開示、飛散対策が積み残されたまま、混乱の中、大量解体が進んだ。一体、どれだけの粉じんが街中を舞ったのだろう。当時、がれきの街を取材で回りながら、のどがいつもいがらっぽく、目が痛かった記憶が残る。

 都市では高度成長期以降、郊外型の開発に力が注がれ、インナーシティーと呼ばれる中心部の再開発は遅れてきた。ニュータウン開発に力を入れた神戸では、とりわけインナーシティー問題は課題となっていた。そこには石綿を含む老朽建築物が数多く取り残されており、災害対策としても石綿に十分注意が払われてこなかった。震災時の兵庫県地域防災計画には環境保全の記述はなく、10年後の復興10年委員会の「総括検証・提言報告」にもアスベストの文字は一カ所もない。

 「これは単なるアスベスト対策の欠陥ではなく、日本の都市政策、災害対策、復興政策の欠陥と関連している」(宮本、森永、石原編『終わりなきアスベスト災害』岩波書店、2011)。この指摘が重くのしかかる。

 しかし、自治体の対応は鈍いといわざるを得ない。東日本大震災の起きる1年前の10年5~8月に掛けて立命館大は全国の自治体に地域防災計画に震災時アスベスト対策を盛り込んでいるかどうかを調査した。結果、72・5%が「現在、盛り込んでおらず、特に盛り込む予定はない」と回答。そのうち、環境省が07年に策定した災害時の石綿飛散防止マニュアルについても、「認識していない」「確認していない」としたのは5割超。

 これが日本の石綿対策の実情である。そこに東日本大震災が起きたのだ。


繰り返される過ち

 東北の被災地に点在する瓦礫の集積場で遊ぶ子どもたち。倒壊した建物の前で、マスクをつけずに普通に歩く中高生…。「目に見えないアスベストが飛散しているから、できるだけマスクを」。そんな思いが募る。阪神・淡路大震災の被災地であまりに無防備だったからだ。

Kato_asbestos2 積みあがる震災がれき。微細な石綿繊維の飛散が懸念された。阪神・淡路大震災の教訓は生かされたのだろうか=2012年、宮城県石巻市

 津波に根こそぎ奪われた東北の町は、当初は声を失う惨状だったが、その後、がれきの様子が気になった。宮城県石巻市。2012年秋に県立石巻商業高校(約580人)の隣に広がるがれきの集積場には驚いた。高い囲いが巡らされ、白い袋詰めされた膨大ながれきが積み上がっている。搬入された後、生徒から「喉が痛い」「目がかゆい」などの声が寄せられたため取られた措置だった。

 がれきは、撤去、運搬、仮置き、処分の全過程で粉じんが発生する。倒壊家屋や破損した船舶には、ふきつけられたり、練り込まれたりした石綿がたくさん含まれている。当初、環境省の担当者は「津波で塩水にぬれ、石綿の飛散が抑制されている」としたが、乾燥が進み、破砕や運搬作業が進む中で、当然、飛散する。

 がれきの総量は東日本2300万㌧、阪神・淡路2千万㌧だ。東日本大震災に特徴的なのは、沿岸には製紙業をはじめ、さまざまな工場があることだ。長期間、排水を流したことで、海底にはさまざまな物質が蓄積している。「津波は、海底に沈殿していたものを一気に陸に揚げた。産業廃棄物を含むヘドロは普通の泥ではない」と石巻赤十字病院の矢(や)内(ない)勝・呼吸器内科部長が警告する。発生2カ月後に訪れた際、海底にたい積したヘドロが津波で打ち上げられていた。臨海部にそびえる日本製紙石巻工場の周りを歩いていると、雨が降り出した。それまで白っぽかった泥が、雨にぬれると、どす黒く変色した。石綿、砒素、鉛…。危険物質は数多くある。

 東日本で阪神・淡路とは決定的に異なる点がある。犠牲者の9割が建物倒壊による「圧死」が阪神・淡路なのに対し、東日本では死因の9割が津波による「溺死」だ。これはそのまま石綿被害にもあてはまる。破損した建物が津波で流され、そして有害なヘドロが沿岸部に拡散している状況を踏まえると、粉じんの飛散に伴う健康被害は、阪神・淡路大震災よりもはるかに広域になる危険性がある。

 環境省は東北の被災地で11次にわたってモニタリング調査を行った。結果、1713地点のうち99・6%で問題がなかったという結果だった。「おおむね問題なし」と環境省の大気課長(当時)はいう。ここでも20年前の阪神・淡路大震災の当時と似ている。

 しかし、「調査はきわめて不十分」と森裕之・立命館大教授(公共政策)は言う。被災地ではがれきの量を減らすために成形板を破砕しているケースがあるといい、「破砕物は風向きで測定値が大きく異なる。被災のエリアは400㌔にわたる広大な地域だ。もっと丁寧な測定が要る」と話す。


課題を示す窓

 大震災の発生でどれだけの石綿が飛散したのか、完全な把握は難しい。とはいえ、できることはある。まず、アスベストを含んでいた建物の倒壊した地区を中心に、当時の住民や解体・撤去にかかわった労働者らを登録し、健康診断を継続しなければならない。土木工事に他府県から多くの労働者が神戸・阪神間にやってきた。これはボランティアも同じだ。アスベストに暴露したというリスクを本人に周知させ、健康診断を受けなければならない。

 もう一つ必要なのは、私たちの住む街にいったいどれぐらいの石綿が蓄積しているのか。神戸市は固定資産税台帳によって建物の建築年次を調べ、アスベストの飛散可能性のあるものをチェックしている。これは公表していないが、地図に落とし込んでいるので、アスベストマップとしても活用できる。

 「大震災の発生時、ふだんは見えない社会の課題を示す窓が開く。その窓はごく短い期間に閉じてしまう」。阪神・淡路大震災のちょうど1年前の1994年1月17日、米カリフォルニア州ロサンゼルス市ノースリッジで起きた大震災の報告書にはこんなフレーズがある。窓が開いているうちに、根本的な対策がとれるか。神戸で生かせなかった阪神・淡路の教訓を、東日本で生かさなければならない。これは石綿問題にとどまらず、私たちの社会の未来にかかわる問題である。

主要参考・引用文献

(1)中部剛、加藤正文『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』、かもがわ出版、2014年

(2)加藤正文『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』、中央公論新社、2014年

(3)立命館大学政策科学会編『別冊政策科学 アスベスト問題特集号』、2008、11、12年

※新聞、雑誌、インターネットサイトの記事、各種訴訟の訴状、判決文などを参考にした。


かとう・まさふみ

1964年西宮市生まれ。大阪市立大学卒。89年神戸新聞入社。経済部、北摂総局、阪神総局、論説委員などを経て、現在、経済部次長兼編集委員。著書に『工場を歩く-ものづくり再発見』(神戸新聞総合出版センター)、『工場は生きている-ものづくり探訪』(かもがわ出版)、『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』(共著、かもがわ出版)、『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』(中央公論新社)など。


   「いのちに突き刺さる」アスベストの悲惨―――
真正面から立ち向かった著者渾身の
「怒りと告発」の書に戦慄する。
――内橋克人氏(評論家)

これは“影の日本経済史”であり
世界的スケールで“白い肺の恐怖”を
描いた力作である。
――黒木亮氏(作家)

『死の棘・アスベスト』
加藤 正文著 中央公論新社 定価1700円(税別)

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