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2018年9月11日 (火)

今日は9月11日、2011年3・11東日本大震災から7年半で、9月の月命日。なかでも思い浮かぶのは大川小学校のこと。

 大川小と言うと対比して思い浮かべ考えるのは、教師たちの機転・素早い判断で裏山に逃げ、全児童92人が助かった陸前高田市気仙小のケース。学校の規模も同じなら、学校敷地が川沿いなのも同じで(気仙川)、校庭のすぐ隣に裏山があるのも同じ。違うのは津波が学校の敷地に到達した時間が気仙小の方が遥かに早く条件的には悪かったこと。にもかかわらず気仙小ではなく大川小の方が遥かに多い犠牲者を出してしまった。大川小学校のケースは「人災」と言うしかない。大川小教師達の普段からの意思疎通がどうだったのかも知りたいところです。(なお、陸前高田市気仙小の記事は雑談日記でも採録してます)。

 大川小学校のケースは教訓として決して忘れてはならないはず。校舎保存は必ずやるべきです。

 

東日本大震災7年半 旧大川小で「忘れないでいたい」
岡本進
2018年9月11日11時52分
https://www.asahi.com/articles/ASL9C33HML9CUTIL005.html

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今も献花が絶えない大川小の旧校舎前で手を合わせるスタディーツアーで訪れた大学生ら=2018年9月11日午前10時、宮城県石巻市、福留庸友撮影

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今も献花が絶えない大川小の旧校舎前で静かに手を合わせる宮城県石巻市内の男性。近くを通る際には立ち寄るという=2018年9月11日午前9時21分、同市、福留庸友撮影

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大川小の校歌を作詞した富田博さんのひ孫、三島汐里さん(左)。この日は祖父に連れられて同小の旧校舎を初めて訪れ、居合わせた遺族の只野英昭さんに案内してもらった=2018年9月11日午前11時23分、宮城県石巻市、福留庸友撮影

 東日本大震災から7年半となった11日、児童74人、教職員10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の旧大川小学校には、犠牲者を悼む人たちが朝から次々と訪れた。

 災害時の要援護者の支援方法を学ぶため、石巻市に来ていた東北公益文科大(山形県酒田市)3年の竹田汐里(しおり)さん(22)は、同じゼミの学生5人と校舎に手を合わせた。震災時は中学2年だった。「校舎を初めて見て悲惨さを実感した。北海道の地震を含め、次々と大きな災害が続いているが、東日本大震災の被害を忘れないでいたい」

 小学3年の長女を同小で亡くした只野英昭さん(47)は「大災害はいつ身近に起きてもおかしくない。身を守る備えの大切さを多くの人に知ってもらいたい」と話した。(岡本進)

 

旧校舎保存 いち早く訴え 大川小生存者の1人、18歳の覚悟
2018年3月12日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201803/CK2018031202000122.html

Pk2018031202100066_size0被災した大川小の校舎前で語り部活動をする只野哲也さん=宮城県石巻市で


 宮城県石巻市の大川小学校では、児童七十四人、教職員十人が津波の犠牲になった。当時小学五年だった只野哲也さん(18)は校庭からの避難中に津波に流され、生き残った四人の児童のうちの一人。大川小の旧校舎を残してほしいと声を上げ、高校卒業を控えた昨年末からは語り部活動を始めた。「死ぬまでずっと伝えていく」。それが生きている自分の責任だと思っている。 (小沢慧一)

 「七十四人って簡単に言うけど、一人一人に未来があった。大切なかけがえのないものを奪われたという気持ちで、自分も生きていかなきゃいけない」。大きな背中を丸め、校舎を見つめる。

 あの日、列になって校庭から避難する途中「ゴーッ」という地鳴りが響いた。津波にのまれた民家が爆発したように砕け散り、土煙が上がった。

 「やばい」。裏山の急斜面に逃げた。指を地面に突き刺し必死で登った。後ろを振り向くと波は見えなかった。「助かる」。再び前を向いた瞬間、背中に何人もがのしかかったような圧力がかかり、気を失った。

 妹の未捺(みな)さん=当時(9つ)、母しろえさん=同(41)、祖父弘さん=同(67)=を津波で失った。みんな家族みたいな地域の中で、友達の葬儀が何十回も続き、泣き崩れる遺族の姿を見た。

 中学二年の時、旧校舎を震災遺構として残すかどうかの議論の場でいち早く保存を訴えた。がれきや松の木、車を巻き込んだ泥の塊が猛烈な勢いで押し寄せ、鉄骨がむき出しになった校舎。目にするのも、思い出すのもつらい。解体を訴える周囲の反応は怖かったが「残さなきゃ。伝えないと」と覚悟を決めていた。

 はじめて語り部活動をしたのは昨年十二月。児童の遺族らでつくる会に誘われた。

 見学に来た高校生から「自分が先生だったら、ちゃんと誘導できたか」と尋ねられた。「判断できなかったと思う」。一瞬たじろいだが、素直に言葉が出た。「災害は避けて通れない。だからこそ、その土地に合った避難方法を考え、訓練することが必要」と今は思える。

 四月からは県内の大学で機械工学を学び、しばらくは語り部を休む。ただ、震災を知らない次の世代につないでいけるのは、若い自分しかいないと思う。

 一輪車や鬼ごっこ、キックベースに夢中な仲間たちが跳ね回った休み時間の校庭。友達とふざけ合って先生によく怒られた。楽しい思い出がよみがえるたびに、強く思う。「何げない瞬間がどれだけ大切か、なくす前に気付いてほしい。そのことを伝えたい」

Pk2018031202100067_size0 <大川小学校の津波被害> 地震で津波が近くの北上川を遡上(そじょう)し、児童と教職員計84人が犠牲になった。大川小は4月から市内の別の小学校と統合。津波で破壊された旧校舎は震災遺構として保存される。地震後、教諭の指示で児童を校庭に待機させたことが適切だったかどうかなどを争った裁判で、仙台地裁は学校側の過失を認め、石巻市と宮城県に賠償を命じたが双方が控訴。高裁判決は4月26日の予定。


 

2014年04月14日 17時45分 JST | 更新 2014年04月15日 12時20分 JST
「大川小学校の校舎を残して」卒業生5人が意見表明【発言全文】
The Huffington Post
https://www.huffingtonpost.jp/2014/04/12/okawa-sho-graduates_n_5140512.html

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加藤順子
子どもたちがいなくなった校舎は、スズメたちの住処になっているのか、たくさんのさえずりが聞こえた(2012年7月10日)

 

東日本大震災の大津波で、多数の友人や恩師を亡くした宮城県石巻市の大川小学校の卒業生達が4月6日、仙台市で「母校の校舎を遺して」と意見表明を行った。子どもたちの学習支援を通じて心のケアを行ってきたNPOが主催した。

石巻市では震災伝承検討委員会を設置し、2013年11月から3回の会議で、震災の記憶を後世に伝える施設を検討しているが、大川小は事故検証が続いていたことから、検討の対象から除外されていた。市の復興政策課によると、今年3月に一部遺族から市や県を訴訟した動きに絡み、引き続き同委員会では扱わず、「状況を見守りながら、別途検討する」としている。

大川地区は被災の程度が大きく、感情が複雑に絡み合い、大川小学校の被災の話題を地域で口にすることは、大人でも難しい。今回意見表明を行った卒業生5人のなかには、初めて公に出て思いを話した子もいる。全文を紹介したい。

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大川小卒業生による意見表明会には、50人あまりの保護者、支援者、メディアが集まった

トップバッターは、津波をかぶり、意識を失いながらも、奇跡的に助かった只野哲也君。当時大川小の3年生だった妹を亡くした。只野君は、震災直後から周囲に校舎保存を訴えてきた。今回の意見表明会の実現は、こうした只野君の思いに、4人が「私も同じ」と応えたことがきっかけとなっている。

<只野哲也君 14才>

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当時5年生だった只野哲也君。被災直後に学校を見た時から、「ここは遺すべき」と思いメディアを通じて伝え続けてきた

震災当時の学年は5年生でした。今は中学校3年生です。当時の住まいは、自然に囲まれた、周りが田んぼでいっぱいの谷地中(やちなか)という所に住んでいました。

震災のことについては、「僕の人生が変わった日」だと思っています。そして、それと同じくらい「たくさんの人との出会いがあった日」というのでもあります。

学校については、これからも校舎を残していって欲しいと思っています。

僕はいままで、新聞やテレビなどを通じて、たくさんの人に自分の体験を伝えてきました。これからのことについては、写真を通じて大川のことを伝えていきたいと思っています。

次に、自分なりに大川地区のことをまとめてみました。

大川地区はとても緑豊かで、大川地区に住んでいると、景色で自然を感じることができるほど、とてもいい所です。すぐ近くには北上川が流れ、そこではハゼやスズキ、サクラマスなどの魚が生息していて、釣りに来る人も多くいました。

僕のおじいさんはシジミ漁をしていました。海水と真水の混じる汽水域で生息するベッコウシジミは、アサリと同じくらい大きくて、とても美味しいシジミです。他にもたくさんの、田んぼで取れた米や地元でとれた野菜などで、自給自足ができるほど恵まれた地域でした。そんな地域にあったのが、大川小学校です。

大川小はいつも地域の中心でした。学校行事があるたびに地域の方々が集まって、地域全体で盛り上げていました。「僕はここに生まれてきて本当に幸せだ」と、いつも思っていました。

しかし2011年3月11日。東日本大震災により、私たちの故郷、友達、先生方、大好きだった地域の方々が、たくさん亡くなってしまいました。

僕はこんな思いを、もう二度と他の人に味わって欲しくない。そう思い、僕は新聞やテレビを通じて多くの人に伝えようと、活動してきました。そして今日、このような場所をお借りして、皆さんに伝えることができています。最後に、私たちの思い出がこれ以上壊されることのないように願っています。

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自宅のあった場所を指し、北上川で遊んだ思い出を語る只野哲也君

司会:どうですか? この場で話をしてみて。

只野哲也:僕が思っているのは、 10年後……ま、もっと経つかもしれないんですけれども、登米市の明治村(「みやぎの明治村」)っていうところがあるんです。明治時代の校舎だったり交番があって、行けば当時のことがそのままわかる、歴史や文化がわかるような、簡単でわかりやすく理解できるように伝えられるような街になっています。そういう風に、大川小も、行けば地域の文化をわかるように、初めて来た人でも「大川はこういう所だ」っていうのを知ってもらえるような所になっていけばいいなと思っています。

参考記事:大川小学校の生還児童、校舎保存を訴える「僕の先輩や後輩が、ここで生きていたという証」(The Huffington Post2013年11月24日)

只野哲也が撮影した大川小の風景(2012年10月1日) 全18枚
https://www.huffingtonpost.jp/2014/04/12/okawa-sho-graduates_n_5140512.html#gallery/326646/1

次の3人は、当時卒業式を控えた6年生だった。進学した中学校が、2012年度で閉校・他校に合併となったことも、辛い事実として語られている。思いの詰まった場面で、言葉が所々途切れそうになりながらも、丁寧に言葉をつないだ姿が印象的だった。

<成田涼花(すずか)さん 15才>

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当時6年生だった成田涼花さん。初めて人前で母校への思いを話した

震災当時の学年は、大川小学校の 6年生でした。現在は、高校1年生になります。当時の住まいは、長面(ながつら)という海のすぐ近くにある地域です。現在は、仮設住宅に住んでいます。

震災で大事な人を失って、つらいなか、大川中学生として入学はできたけれど、校舎は他の中学校の校舎を間借りしての生活でした。大川中学校が閉校になって、河北中に統合して、慣れない生活で、すごくつらい時期もあって……。それでもいろんな人と出会って、前向きに物事を捉えるようになりました。

震災前の大川小学校は、海や川、山などの自然に囲まれた学校でした。春から冬にかけて草木を地域に植えたり、秋の校庭にはヒメユリが揺れていました。

このように、大川小学校があることで みんなと楽しく過ごした場所、思い出が蘇ってきます。

そして、広島の原爆ドームみたいに、見るだけで震災の辛さを伝えられると思います。

また、5年後10年後には、大川小学校の中庭に、元々卒業制作で作る予定だったもの(筆者注:ビオトープと、照明や維持管理のためのソーラーや風力発電の装置)を作りたいです。

司会:5年後、20歳になっていますが、どんな大川小学校をイメージしていますか?

成田涼花:自然が……桜とか、いっぱい戻って、自然があふれる大川小学校になってるといいなと思います。

<三條こころさん 15才>

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三條こころさんも、当時6年生だった。「大川小がなくなったら、みんなと過ごしてきた思い出もなくなってしまう」と話した

震災当時は、大川小学校6年生で、現在は高校1年生になります。当時の住まいは、涼花さんと一緒で、長面に住んでいました。

震災は私にとって、友達、家族を失って、毎日生きることで精一杯で、つらくて毎日泣いている時もあり、生きるのに必死でした。でも、家族や友達と会って喋ることで、生きる実感が湧きました。いろんなボランティアや支援で前に進めました。

大川の同級生と一緒に泣いてつらい時もあったけれど、いっぱい笑って頑張ってこれました。これからは、震災の時、ボランティアや支援されたことをいろいろな形で、恩返しして、いろんなことに感謝していきたいと思っています。

そして、大川小学校を残して欲しいのは、大川中がなくなり、大川小しかないので、大川小がちゃんと残って欲しいからです。大川小はみんなと過ごした母校だし、大川小がなくなったら、みんなと過ごしてきた思い出もなくなってしまうので、残して欲しいです。大川小に行くと、亡くなった友達も思い出します。だから、大川小を残して欲しいです。

<浮津天音さん 15才>

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6年生だった浮津天音さんは、大川小で起きた出来事を「背負っていく」という表現で、覚悟を語った

当時の学年は小学校6年生でした。今は高校1年生になります。当時の住まいは、大川小学校から2キロほど離れた場所にある、谷地というところに住んでいました。

 

震災当時、卒業をあと1週間に控えた最高学年の6年生でした。私を含め、3人(筆者注:成田さんと三條さん、浮津さん)は、学校で被災しました。私は校庭に避難後、母の迎えで学校を後にしました。

一旦家に帰りましたが、堤防を津波が越えてきたので、車で津波に追われながら、大川の針岡という山側の地区で一時避難しました。そこから夜が明けてみると、瓦礫と海水で、家は流されていて、避難することができませんでした。

自力で(北上川の)堤防まで船で地域の人と行って、そこから消防の救助で河北総合センターまで避難しました。そこから避難所生活が始まりました。

ライフラインの寸断があったり、食べ物や飲み物も十分ではなかったんですが、一緒に避難してきた人と協力したり分かち合ったりすることで、なんとかすることができました。

その中で、私はずっと大川小学校と大川のことが気がかりでした。情報が全く入ってこなかったからです。針岡に避難したときに、「大川が全滅だ」と聞いて以来、何も情報が入ってきませんでした。

河北総合センターへ入ってすぐに、友達の両親を見つけました。廊下の角で泣く姿や、掲示板で必死に友達の名前を探す姿、長靴にリュックで子供を探しにいく姿を見て、私は何も言えませんでした。

3、4日経って情報が入ってきましたが、それは全て悲しいお知らせでした。何も言えなくて、遺族の方々の前では素直に泣けない、どうしようもない喪失感のなか、避難所生活をずっとしていました。

1週間が過ぎても、友達や恩師が亡くなったという実感が湧かない日々でした。そんな時に、大川小学校の卒業式を開いてくれました。行ってみると3人で、その時に友達が亡くなった現実を感じました。

1ヵ月が経ちました。いまだに大川だけが気がかりで……避難してからまだ1度も見ていなかったからです。何とかして大川に行けるということなので、大川に行きました。

そこで見たのは灰色の風景でした。瓦礫や海水で、道もない。田んぼもない。ここはどこなんだろう? って、大川はもうないんだ……って、心にぽっかり穴が開きました。

そこから、自分がどこにいるのかわかんなくなっちゃって、いつの間にか中学校に入学して、もう卒業してしまいました。

学校も間借りや統合できつい状態でした。避難所にも、仮設住宅にも、学校にも馴染めることができませんでした。休めないし、みんなギリギリの状態でいました。ですが、そんななか、いろんな人の支えがあって今まで何とかやってこれました。

そんな学校生活の中で、よくみんなと話すのは「if」話でした。「もしもこの場所に○○ちゃんがいたら」「○○くんがいたら、こうなっていたんだろう」っていう話をしました。その話はすっごい楽しくて、でも、友達を思い出すのでつらいこともありました。

いつも思い出すのは、みんなのことだし、大川のこと。海や川、山、田んぼ……いろんな色に囲まれた大川のことずっと思い出していました。

そして、3年が経ちました。今回、大川小学校を「遺すか、遺さないか」という話になりました。私はすぐに「遺したい」と思いました。大川小学校は、大川で残った唯一の形ある場所であって、唯一私たちの心が休まる場所だからです。ちゃんと手を合わせることもできます。いわば、私たちの唯一の「心の居場所」なのです。

大川小学校がなくなったら、どこに行けばいいのかわからないです。私たちは今までそれぞれ、いろんな状況の中を頑張ってきました。これからも背負っていきます。だからせめて、大川小学校という居場所が残っていたらいいなと思いました。卒業制作の話や残したい場所、いろんな思い出がたくさんあるので、私たちの心の居場所としてずっと残っていてくれたらいいなと思いました。

浮津さんは、司会者から、「大川小学校のイメージの色は緑色?」と聞かれると、何度も大きく頷いて、笑顔を見せた。

<佐藤そのみさん 17才>

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当時6年生の妹を大川小で亡くした佐藤そのみさん。意見表明のために、大川小を遺すために伝えたいことを考えていたら止まらなくなり、気がついたら明け方になっていたという

震災当時は、大川中学校の2年生でした。一学年上の先輩たちの卒業式を午前中に終えて、午後から自宅にいました。地震が来た時は、趣味のギターを弾いていた時でした。現在、石巻市内の高校に通っています。今月から3年生になります。

震災では、当時大川小学校の6年生だった2歳下の妹を亡くしました。妹は1週間後に卒業式を控えていました。

震災があってから、本当に実感がわかなくて、何にも向き合う気力がなかったんですけど、たくさんのボランティアの人と出会って、いろんな話をして、次第に勉強とか自分の好きなことに向き合えるようになって。

間借りの中学校の校舎では、勝手にラジオ番組を作って流したりとか、高校に入ってからは、友達を巻き込んで石巻市内で今映画を作ったりとか、好きなことをやって、自分で回復していったなぁ、という感じです。

大川小のこととしっかり向き合えるようになったのはけっこう最近で、私が今回、「大川小学校を遺したい」って思ったのには、2つの理由があります。

ひとつは、「自分たちの大切な居場所である母校を失いたくない」ということからです。もうひとつは、「大川小学校で起きたことをこれからも伝え続けていきたい」から。この2つの理由があります。

まず「自分たちの大切な居場所である母校を残したいから」ということについてなんですけれど、大川小は、私が6年間通った母校で、本当にいい思い出ばかりで、中学生になってからもみんなで放課後に遊びに行ったり、行事に参加したりしていました。

全校児童が少ない分、どの学年のどの子も、名前も顔も分かっていて、本当に仲良しの学校でした。先生方も大好きで、尊敬できる人たちばっかりでした。

今でもあの校舎に入ると、「ここでこんなことがあったなぁ」とか、6年間のことが思い出されます。私のように、校舎に思い入れのある卒業生がたくさんいるはずです。もちろん、犠牲になった子たちを含む当時の在校生のみんなも、この校舎で授業を受けて、たくさん遊んで、笑ったり泣いたり、他の何にも変えられない時間を過ごしてきたと思います。

たくさんの人が大川小に持つイメージカラーは、砂ぼこりの色だったり、空の灰色だったり、決して良い色ではないと思います。だけど、私が持っている大川小のイメージカラーっていうのは、校舎の屋根の赤色と、空の青と、豊かな自然の緑と、子供たちの笑顔と明るい声の黄色。本当にカラフルで、たくさんの色があって素敵な学校でした。

大川地区が大好きで、小学校の頃、友達と遊ぶときはいつもデジカメを持っていたんですけど、ちょっとその写真をいくつか紹介したいと思います。

(小学生の頃に自ら撮りためた、校舎や校庭、学校のあった釜谷地区や自宅近くの写真20枚程を見せて説明:スライドショー参照)

只野哲也が撮影した大川小の風景(2012年10月1日) 全18枚
https://www.huffingtonpost.jp/2014/04/12/okawa-sho-graduates_n_5140512.html#gallery/326646/1

このように大川小学校には桜がいっぱいあって、桜並木が綺麗にあったんですけれども、もし大川小を残せるのなら、このように桜の木を植えて、かつての様子を少しでも取り戻せたらいいなって思っています。

そしてもう一つの理由、「大川小で起きたことを伝えていきたい」っていう思いなんですけれども、震災でたくさんの児童や先生方が犠牲になったからこそ、この学校伝え続けていく意味があると思います。

写真や映像で語り継いでいくことはいくらでも可能なんですけど、それでも校舎があるのとないのとでは、伝わりかたが全然違うと思います。校舎を壊してしまったら、本当にあそこはただの更地になってしまうと思います。

大川は本当に素敵な地区で、震災の1年くらい前、中1の時に、「将来は大川を舞台に映画を撮ろう」って勝手に思ったりしていました。あの校舎は、そんな美しい大川のシンボルでもあり、同時に大川小の子供たちが生きた証でもあると思います。

子供たちの元気な姿や笑顔っていうのは、地域にとって最高の癒しだと思うし、元気をもらっていた人がたくさんいると思います。登校中は笑顔で地域の人に挨拶をして、休みの日には外を駆け回って友達と遊んで……っていう大川小の子どもたちは、大川地区の人たちにとっては宝物のようなものだったと思います。

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佐藤そのみさんは、大川小に在校時、友だちや地域の景色を撮りためていた。「大川小は本当に素敵なところ」と何度も話した

校舎を「見るだけでつらいから壊してほしい」って言う人や、報道関係の人や遠くから来る人がたくさんいて、「校舎が見せ物になっているのが嫌だから壊して欲しい」という人の気持ちもよくわかります。あの場所には悲しい気も記憶がたくさん詰まっているし、大川地区自体、たくさんの人が犠牲になっています。

私自身、震災後大川小に関わるさまざまな出来事に苦しんだこともあります。例えばいろいろな報道や、いろいろな人の声を聞いたり、ネットの掲示板で嫌な書き込みを見ちゃったりとか……すごい苦しいこともあったんですけれど、でも、むしろ校舎がなくなって慰霊碑だけという形になってしまったら、そういう光景を見たら、余計につらくなってしまうのではないかなと思っています。

遠くから来る人の中には、もしかしたら最初遊び感覚で来ている人もいるかもしれません。だとしても、あの校舎を実際に見れば、それまでの考えも意識も変わるのではないかと思います。私はむしろいろいろな場所のいろいろな立場の人に、大川小を知ってもらいたいです。

私はこの3年間、一瞬たりとも大川小の事を思い出したくない、忘れたい、などと感じたことはありません。

どうしても自分自身の気持ちにばかり寄り添った言い方になってしまうけれど、大川小で犠牲になった子供たち先生方のことは、忘れ去られてしまうのは本当に嫌です。

時間が止まらない限り、風化っていうのはどうしても避けることができないんですけれど、それでもその校舎があるだけでも、その風化をちょっとだけ妨げることができると思います。

最後に、“遺す・遺さない”について決定するまでには、長い時間が必要になると思うんですけれども、とりあえず今は、あの校舎を壊さないでそっとしておいて欲しいです。壊してからでは、何もかも手遅れだと思います。

校舎を遺していくにはお金がかかるし、やはり様々な意見は尽きないはずです。それらを承知の上で、私はこれからも、「大川小の校舎を遺したい」と言い続けていきたいと思います。

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当時6年生だった3人は、高校受験の学習会を通じて、自分のやりたいことに取り組む意欲を少しずつ取り戻してきたという

5人が語ったのは、「震災遺構」というよりは、あくまでも「母校」への思いだ。悲しい出来事のあった場所をして記憶していく覚悟を語る子もいた。それぞれの言葉からは、友だちや地域の人たちと過ごしたかけがえのない時間や美しい景色が、鮮やかによみがえった。

(ジャーナリスト・加藤順子)

市教委との説明会を中心としたやり取りや、検証委員会についての動きは、「大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~」 (ジャーナリスト池上正樹との共同連載)で紹介している。

只野哲也が撮影した大川小の風景(2012年10月1日) 全18枚
https://www.huffingtonpost.jp/2014/04/12/okawa-sho-graduates_n_5140512.html#gallery/326646/1

 

2015.3.11
大川小校舎保存を卒業生が強く望む理由
池上正樹:ジャーナリスト
https://diamond.jp/articles/-/68162

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被災した大川小学校の校舎。「保存」か「解体」かを語り合う場が初めて設けられた
Photo by Yoriko Kato

 4年前に起きた東日本大震災で、学校管理下にあった児童・教職員84人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校。津波で被災した校舎の保存か解体かを巡って、子どもたちや遺族らが、様々なしがらみの絡み合う地域の中で、初めて「賛成」や「反対」といったそれぞれの違いを語り合える場が設けられた。

 また、参加者にアンケートを行ったところ、校舎全体の保存を望む声が多数を占めたことから、今後、地域の中では、保存に向けた議論へと一歩前に踏み出すことになる。

被災校舎は「保存」か「解体」か
初の住民協議会に120人が参加


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地域住民の前で校舎保存のプレゼンテーションを行った卒業生たち
Photo by Y.K.

 むき出しになった無数の梁や捻じ曲がった連絡通路などが、津波による水圧の威力と恐ろしさを、まざまざと訴えかけてくる。

 これまで手を付けてこなかった大川小学校の校舎の問題に対し、4年を迎えるにあたって地域の意見を集約しようと、この3月8日、地域住民でつくる「大川地区復興協議会」(大槻幹夫会長)は、「大川地区復興計画(案)全体説明会」を河北総合センターで開催した。

 この日、地区長を通じて呼びかけられた対象者は、旧大川村エリア内の釜谷、尾崎、長面、針岡、福地の5地区に住んでいた700世帯余り、約2400人。そのうちの120人余りが参加した。

 同協議会は、被災校舎の取り扱い、及び校舎周辺に慰霊公園をつくる「鎮魂の森整備計画(案)」を示したうえ、第1案「解体後、跡地に昔の校舎の写真・映像をスマホ等に映し出す」、第2案「低学年棟や野外音楽堂などの施設を一部残す」、第3案「全施設を残す」の3つの案を提示。これまで「予算を市役所に要望しても、返事が来なかった。早めに言っておかないと不安」だとして、「大川地区復興計画案」策定に至るまでの経緯を説明した。

 復興計画のあり方については、9回にわたって協議会が「オープン方式で」説明会を開いてきたほか、大川小の遺族会、父母教師会、学校が立地していた釜谷地区の住民にも説明会を行い、意見を受け止めてきたという。

 そして、大槻会長を進行役の議長に選出。3つの案についての意見交換を行った。

https://diamond.jp/articles/-/68162?page=2
大川小卒業生6人が意見表明
「原爆ドームのような存在にしたい」


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住民は初めてそれぞれの意見を交わした
Photo by Y.K.

 被災地の中でも、とりわけ被害の大きかった大川地区では、複雑な利害関係が絡み合って、大人でさえ声を上げることや行動することを躊躇し、思いを伝えられずにいる人たちが少なくない。そんな地域の大人たちに向かって、子どもたちが意見を表明することは、外に向かって発表するよりもはるかに勇気のいる行為だったろう。

 それでも、この日は、1年ほど前から定期的に話し合いを続けてきた大川小の卒業生6人が、「違う意見の人たちの話も聞きたい」からと意を決して、マイクを握った。

 その1人、現在高校3年生の佐藤そのみさんは、震災当時小学6年生だった妹のみずほさんを亡くした。彼女は先日、無事大学に合格し、4月から首都圏の大学に通う。

 そのみさんは「大川地区の皆さんの前で直接お話しするのは初めてで、緊張しています」と前置きして、こう口火を切った。

「被災後の置かれた立場はそれぞれ違うのですが、校舎をあのままの形で残してほしいと望む、2つの理由があります。あそこは、私たちの大切な母校であるということです。他の何物にも代えることのできない、すばらしい思い出が詰まっています。子どもたちをいつも見守っていてくれた地域の方も同じだと思います。大川地区のほとんどが被災に遭ってしまったいま、あの校舎を含め、これからの大川地区の復興について考えていくべきだと思います。

 もう1つは、子どもたちの死を無駄にしたくない。子どもたちがあそこで生きた証と、二度とあのような悲劇を繰り返さないために、校舎を通して伝えていくことが大切です。何十年先の未来を考えたときに、あの場所が更地になっていたら、子どもたちや大川地区のことがだんだんと忘れ去られていくような気がしてなりません」

 あの日、学校にいて津波から生還できた児童4人のうちの1人で、当時小学5年生だった只野哲也君は、当時小学3年生だった妹の未捺さんを亡くした。いまは中学3年生になり、先日高校を受験して、合格した。

「震災直後からメディアを通じて校舎を残してほしい思いを伝えてきました。今日は、直接、地域の方々に伝えられると聞き、この会に参加しました。どんな文章や写真や映像よりも、校舎を見ることで、とても強い印象を与えると思います。私も校舎を見ると、たくさんの思い出がよみがえります。どんなときも地域の中心にあった大川小が、いまでは周りに何もありません。校舎がなくなったら、亡くなった多くの地域の方々や子どもたちの生きていたという記憶が薄れていくのではないか。そうなれば、本当の意味で死んでしまうと強く思います。

 いま以上に多くの人々に、校舎を見てほしいと思っています。広島の原爆ドームが原爆や戦争の愚かさを伝えてきたように、あの校舎も地震や津波の恐ろしさや命の大切さを何十年、何百年と後世に伝えることのできるきっかけになればいいと願っています。私は、自分の言葉で伝えていきたい。みんなの生きた証を壊さないでください。またいつの日か、豊かない自然がいっぱいで笑顔の絶えない大川に帰れる日が来るまで、伝え続けます」

https://diamond.jp/articles/-/68162?page=3
 こうして6人の子どもたちが訴えるたびに、会場からは拍手が起こった。涙ぐむ参加者の姿もあった。

 地域の住民からも「犠牲になった74人の子どもたちは“助けて”と叫んだと思う。あの校舎には、そんな子どもたちの思いがぎっしり詰まっているはず。うやむやにしてはならない。校舎をなくしたら、いくら語り部が言っても実感がわかなくなる」などと、校舎の保存を訴える声があった。

解体に賛成する遺族からは
「通るたびつらい」「維持費用は?」の声も

スクロールして見るなら
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校舎を保存した場合の「釜谷地区(鎮魂の森)」計画図
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 一方、校舎の解体に賛成する立場からも、児童の遺族がこう意見を訴えた。

「あそこは亡くなった方々に手を合わせ、心安らかに思い出を語れるような場にしてほしいと思っています。自然豊かな大川を表すような公園にしていただきたい。決して、負の遺産として残してはいけないと、私は思います。現在、大川小の問題では、市も県も国も責任を取れていない状況です。そんなところに保存を依頼して大丈夫なのか。仮にお金を集めたとしても、100年後、200年後を考えたとき、これから大川を背負っていく子どもたちに、そのことを背負わせることはできない。亡くなった子たちが、あの校舎を見て苦しんでいる親の姿を見て喜ぶのかどうか。生きている人間が笑顔でいられるようにやることも大事なことなのではないか」

 また、家族が学校に逃げようとして、壁で命を絶ったという住民からは「いつもあそこを通るたび、家族が亡くなったかと思うと、とてもつらくてたまりません」という発言もあった。

 意見を表明しなかった参加者の中にも、

「校舎を震災遺構として残すにしても、ずっと先まで維持するための費用を寄付だけで賄えるのか?これから誰が遺構を支えていくのか?」

 と、将来を危惧しつつも、「解体を求める意見も聞けて、良かったと思う」といった感想が聞かれた。

https://diamond.jp/articles/-/68162?page=4
「全施設を残す」が多数に
さまざまな意見を聞き一歩前進か


Img_547a4f58d5f31d137445a11215e45e8 アンケートは、事実上の投票となった
Photo by Y.K.

 会の終了後、あらかじめ配布していた三者択一のアンケート用紙を回収。集計した結果、「鎮魂の森」整備計画案の被災校舎の取り扱いについて「解体後、跡地に平面図を復元」37人、「一部を残す」3人、「全施設を残す」57人、「その他」15人、白紙8人で、「全施設を残す」が多数を占めた。

 また、大川小学校移転新築計画についてもアンケートを実施したところ、「小学校を再建する」が66人。「小学校を再建しない(二俣小学校と統合する)が40人、「その他」が5人、白紙が9人だった。


 同協議会では、こうしたアンケートの結果を踏まえ、20日に協議会を開き地元の総意として取りまとめ、市に要望する方針だ。

Img_12e6cbc3a742e3eb18d5c148c77efd6 参加者の6割近くが「保存」「一部保存」の意向を回答
Photo by Y.K.

 学校の問題にとどまらず、地域の大半が被災した課題山積の大川地区の中で、子どもたちはもちろん、様々な状況や立場に置かれた人たちが、自分の感情を言葉にして語っていく作業は、並大抵のことではないだろう。

 アンケートの結果に関わらず、震災から4年を迎えたいま、これまで言葉を封じられてきた子どもたちをはじめ、こうしてそれぞれの人たちの違う意見を初めて聞く場を持てたことは、大きな意義があったといえる。

 被災校舎を残して慰霊公園を整備していくという地域の意向に、解体を望む思いにも配慮しながら、市や国がどのように向き合っていくのか、今後の対応に注目したい。

大川小学校関係者や地域の方、一般の皆さまからのお話をお聞きしたいと思っています。情報をお持ちの方は、下記までお寄せください。
teamikegami@gmail.com(送信の際は「@」を半角の「@」に変換してお送りください)


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<お知らせ>

当連載の著者 池上正樹と加藤順子による新刊本『石巻市立大川小学校事故検証委員会を検証する』が、ポプラ社から発売中です。

当連載の内容に加えて、最新の動向や、一般的な学校事件・事故の検証委員会を巡る問題点も取り上げています。同検証委員会が、形作られる前の段階から、最終報告書の提出までを追ったルポ。


 

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