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2018年8月28日 (火)

山口2歳男児・奇跡の救出劇にマタギも驚いた 命運分けた運と力量

 示唆に富む記事を何本か採録。

 

山口2歳男児・奇跡の救出劇にマタギも驚いた 命運分けた運と力量
2018年08月16日 17時00分
https://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/1096192/

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山を知る鈴木氏

 山口県東南部の周防大島町で12日から不明になっていた藤本理稀(よしき)ちゃん(2)が15日、3日ぶりに無事に発見され、日本中をホッとさせた。13日で2歳になったばかりの男の子が山で生き延びていたことも奇跡的だが、わずか30分で発見した「神ボランティア」の男性の勘と経験も驚きを呼んだ。山で迷ったとき、遭難者はどうするべきか、また捜索者が取るべき行動は? 山のプロである秋田のマタギ(狩猟に携わる人々)が語った。

 曽祖父宅に帰省中の理稀ちゃんは12日午前、祖父と兄と散歩中に1人で家に引き返して行方不明となった。同日から捜索が開始されたが、見つからない。手詰まりと思えたが、15日にボランティアの尾畠春夫氏(78)が「子供は上に行く」習性を考えて家の北側にある山を登ると、沢の岩の上に座っている理稀ちゃんを見つけた。30分ほどで1人で見つけた尾畠さんの超人ぶりには驚くしかないが、2歳の理稀ちゃんもよく頑張った。ただ、取材に応じた母親(37)が「駄目かなと思っていた」と語るように、この生還劇は奇跡に近い。

 山で遭難したときに、生き延びるための方法と捜索する方法を山のプロに聞いた

 秋田県の北秋田市阿仁地区猟友会の会長で、打当(うっとう)マタギのシカリ(リーダー)、鈴木英雄氏(71)は、何度も遭難者のために山に入り、見つけてきた。山の厳しさを知るだけに「2歳の子が見つかるとは奇跡だ」と話す。

 人が遭難するのは単独行動を取ったときと、疲労やケガで動けなくなったときの2パターンがある。阿仁の森吉山に登った20代女性が行方不明になったケースでも、家族に「先に下りる」と言って、そのまま遭難した。翌日、捜索隊として入った鈴木氏が見つけた。

「1人で行動してはいけない。この娘さんは空腹で、渡したバター餠(秋田名物)をパクパク食べていた」。普通の人は3日間でもダウンしてしまう。

 生存確率を高める方法は「沢を下りると、滝つぼが出て危険。尾根を1本間違えると見当違いの場所に出る。焦ってると歩きたくなるが、あまり歩き回らずに寒さをしのげる場所でジッとする。遭難の翌日は明るくなったら捜索隊がヘリを飛ばすから、空から見通せる場所にいること」だ。

 また、移動する際には「手の届く木の枝をちぎらずにポキポキ折ると、葉っぱが裏返しになる。葉の表は緑で裏は白。台風の後に山を見ると、枝が折れて山が白く見えるほど。多少離れていても、自分の歩いた道の目印になる」という。

 山に入るときの最低限の持ち物リストにはまず、火をつけるライター、LEDライト、そして塩だ

「福島でバイク事故を起こした若者が山に逃げて、飢えてヘビを食べていたが、どうしても塩辛いものが食べたくて警察に自首した。自首したくなるほど人間には塩が必要だ」

 一方、捜索する側の注意は「警察や消防が指揮しても駄目だ。山は図面を広げても分からないことだらけ。地元の人の判断と、山のプロの判断を優先して」と鈴木氏。

 数年前、秋田・玉川温泉近くの山にタケノコを採りにいった75歳の男性が遭難した。残された軽トラックの周辺には「芝を払っていた(草や枝をかき分けた)」跡があった。捜索隊が探す方向は定まった。

 鈴木氏は「みんなに『勝手にワーワー、名前を言うな』と注意した」と話す。「私だけが声を出し、他は叫ばない。静かにして山の反応を待つ。みんなでワーワー言ってると、遭難した人の声を確認できない

 このとき、かすかに聞こえた返答を鈴木氏がキャッチし、男性を見つけた。遭難した男性はタケノコ欲しさに沢を渡って疲れて動けなくなっていた。「疲れてると人は3度も叫ぶ体力さえなくなる」。理稀ちゃんが尾畠氏の呼びかけに「ぼく、ここ」と言うことができたのは、大変なことだ。

「捜索中は夢中になってザワザワしてしまうもの。必要なときにだけ声を出すのは、両隣の人との距離をはかる意味もある

 遭難したとき生存確率を上げるのは、遭難者と捜索者の運と力量だ。

「見つけた尾畠さんはすごいな。うちにも2歳の孫がいるけど、同じことをできるか…。男の子もすごい」とマタギのリーダーもうなった。

 

山口2歳児はなぜ奇跡生還できたのか 入山30分で発見ボランティア“おばたのおじいちゃん”
2018年8月16日6時0分  スポーツ報知
https://www.hochi.co.jp/topics/20180816-OHT1T50050.html

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藤本理稀ちゃんが見つかった現場付近に集まった報道陣

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発見現場で状況を説明するボランティアの尾畠春夫さん

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藤本理稀ちゃん(山口県警提供)

 山口県周防(すおう)大島町家房に母親らと帰省し12日午前から行方が分からなくなっていた同県防府市の藤本理稀(よしき)ちゃん(2)が15日午前6時半ごろ、近くの山中で見つかった。病院に搬送され、軽い脱水症状がみられるものの、健康状態に問題はない。発見したのは大分県からボランティアで駆けつけた尾畠春夫さん(78)。日本中が心配した2歳児は、3日ぶりに奇跡の生還を果たした。

 理稀ちゃんは、曽祖父宅から北東約560メートルの山中の沢に、はだしを浸しながら座り込んでいた。樹木で覆われた山中の沢の近くに座り込み、「ぼく、ここー」と、捜索していた尾畠さんに話し掛けた。尾畠さんが「よしくん?」と呼ぶと、「おじちゃん」とはっきりした声で応答したという

 12日に行方不明になってから、3日ぶりの奇跡の生還となった。泥だらけでダニに刺されたような痕があったが、外傷はほとんどなし。尾畠さんからアメを手渡されると、ぼりぼりと3個ほどかみくだいて食べた。不明時は水泳用ロングTシャツに海水パンツ、サンダル姿だったが、見つかった時はシャツのみ着用していた。

 尾畠さんは、そのまま理稀ちゃんをリュックサックに入れていたバスタオルにくるみ下山。警察官と合流し、祖父・正憲さん(66)に直接引き渡した。母の美緒さん(37)は「よっちゃん、よかったね。本当に生きて会えるなんて」と大粒の涙。理稀ちゃんの意識は、しっかりしていたという。

 搬送された山口県柳井市の周東総合病院で診察した竹ノ下由昌医師は「脱水症状があったので点滴したが、健康には問題ない。生命力が強いなと思った」と話した。診察時は「ヤダヤダ」と泣くなど元気な様子で、美緒さんにだっこをせがんでいたという。

 気象庁によると、12~14日は周防大島町は晴れの日が続き、最高気温は約34度で最低気温は約24度。平年より2度ほど高かった。降雨はなかったが、15日は朝から断続的に降っていた。

 理稀ちゃんは周防大島町の曽祖父宅に12日午前に帰省。曽祖父宅から約400メートル離れた海岸に海水浴に行くため、正憲さん、兄(3)と3人で出発した。曽祖父宅を出て約100メートルの地点で一人だけ引き返し、直後に行方不明に。8月13日に2歳の誕生日を、一人きりで迎えていたとみられる。

 県警などは連日、150人規模の態勢で捜索。14日午後には、美緒さんが公共用スピーカーで「よっちゃーん、お母さんだよ。早く出てきて」と何度も呼び掛けており、放送を聞いていた近所の農業・小村忠士さん(79)は「しょうすいしきったような声だった。お母さんの願いが届いた」とほっと胸をなで下ろしていた。

  *  *  *

 理稀ちゃんが3日ぶりに発見されたことに、専門家の間でも驚きが広がった。

 医療ジャーナリストの田中皓氏は「人は水さえ飲めれば、幼児であっても何日かは頑張れるもの。なぜなのかは分かりませんが、沢の周辺にいたのが最大ポイント」と指摘した。現地は最高気温34度の猛暑。「水の近くなら温度も下がるし、木陰もあったなら直射日光を浴びずにすむ」と、偶然山中に迷い込んだことの利点を強調した。

 さらに「あまり動き回らなかったのでは。むやみに動くと体力低下を招きますから」と、理稀ちゃんの行動が命をつないだ可能性も示唆。発見された15日は朝から雨が降っていたが「雨を浴びると気化熱で低体温症になる可能性があった」とし、本格的に雨が降り出す前に救出されたことも評価した。

 一方、大阪市西成区で地域子育て支援をするNPO法人理事の保育士・西野伸一さん(44)は「2歳になったばかりの幼児が3日間も一人で過ごしていたとしたら、考えられないこと」と指摘。西野さんによると、2歳児は食べる、着替えるなどの日常の動作を自分で少しずつ意欲的に取り組み出すのが特徴。大人の手を借りないと難しい面も多いという。

 普通は一人では何もできない年ごろの子どもが、単独で3日間生き延びること自体が奇跡。西野さんは「子どもの生命力の驚異としか言いようがない」と話していた。

  *  *  *

 捜索隊が2日半にわたって発見できなかった理稀ちゃんを山中で救い出したのは、ボランティア“おばたのおじいちゃん”だった。尾畠さんは「小さな命が助かって、本当にうれしかった」と涙を流した。

 行方不明の報道を聞いて、大分県日出町(ひじちょう)から急きょ駆けつけた。町へ到着したのは14日午後。家族とも会い、自身の手で引き渡す決意を伝えた。「1分でも1秒でも早く見つけてあげたい」と、この日は午前6時に単身で裏山に入った。わずか30分後、山口県警などの捜索隊に先んじる形で理稀ちゃんを発見した

 尾畠さんは40歳で登山を始め、60歳前に由布岳登山道の整備ボランティアを始めてからボランティア歴約25年になる。60代半ばまでは、大分県内で鮮魚店を経営していた。各地で災害が起きるたびに足を運び、遺品探しや泥かきに汗を流してきた。11年の東日本大震災では発生当初から約2年、宮城で復興活動。16年の熊本地震や昨年7月の九州北部豪雨、今年の西日本豪雨が発生した際も被災地に駆けつけた。

 今回は、2016年12月に大分県佐伯市で2歳女児が行方不明になって無事保護された際、捜索に参加した経験が生きた。「子どもは上に上がるのが好き。下ることはない」と確信。経験と自身の勘で、山中の遭難現場へ一直線。発見後は約束どおり、自らの手でタオルにくるまれた理稀ちゃんを母に手渡した。報道陣には「(合流した)警察が『渡してください』と来たけど『イヤです』と言った。警察が来ようが、大臣が来ようが関係ない」と豪快に笑った

 「きょうは尊い命が助かってよかった。元気な間はボランティアを続けて恩返ししたい」と今後も人助けのために全国を走り回るつもりだ。

 柳井署の安永孝裕署長は、尾畠さんに感謝状を手渡した。

 ◆理稀ちゃん発見までの経過

 ▼12日 理稀ちゃんが母親・美緒さんらと山口県周防大島町の曽祖父宅に帰省。午前10時半ごろ、祖父らと海水浴に向かう途中で一人だけ引き返し、行方不明に。通報を受けた県警が捜索開始

 ▼13日 誕生日を迎え理稀ちゃんが2歳になる

 ▼14日 県警などが約150人態勢で捜索を続ける。母親も屋外の公共用スピーカーを通じ「早く出てきて」と連呼

 ▼15日 午前6時半ごろ、不明になった現場近くの山中で捜索ボランティアの男性に無事発見される

 

2018.8.16 05:01
不明2歳男児を“人助けのプロ”78歳ボランティアおじいちゃんが30分で発見!
https://www.sanspo.com/geino/news/20180816/tro18081605010002-n1.html

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理稀ちゃんの発見現場で、当時の状況を説明する尾畠さん=15日午後、山口県周防大島町【拡大】

Tro18081605010002p2 感謝状を受け取り笑顔の尾畠さん


Tro18081605010002p3 藤本理稀ちゃんが見つかった現場付近に集まった報道陣=山口県周防大島町


 山口県周防大島町に母親と帰省し12日午前から行方が分からなくなっていた、同県防府市の藤本理稀(よしき)ちゃん(2)が15日午前6時半ごろ、不明になった場所の近くの山中で無事に見つかった。捜索のボランティアに来ていた尾畠春夫さん(78)=大分県日出町=が発見した。

 理稀ちゃんを無事に救出した尾畠さんは「尊い命が助かってよかった」と豪快に笑った。赤色のタオルでねじり鉢巻きをした78歳は、15日午前6時から単身、裏山へ。わずか30分ほどで沢沿いにいた理稀ちゃんを発見した。

 尾畠さんは町に着いた14日、理稀ちゃんの家族と会い「見つけたら必ず抱きしめ、じかにお渡しする」と決意を伝えた。その約束通り、無事な姿で家族に引き渡した。

 「子供は上に登りたがる習性がある。ぴたりと当たった」。尾畠さんは2016年12月、大分県佐伯市で2歳女児が行方不明になった際も捜索に参加。女児は無事に保護され、このときの経験が役に立ったという。

 65歳まで大分で鮮魚店を営んできたが、引退後はボランティアにいそしんでいる。西日本豪雨や東日本大震災など、災害が起きるたびに被災地で汗を流し「まだまだ世の中のために働きたい」。そう語る尾畠さんは15日、県警柳井署から感謝状を手渡された。

 

2歳児救出の尾畠春夫さん、テレビ出演依頼殺到
2018年8月17日6時13分  スポーツ報知
https://www.hochi.co.jp/topics/20180817-OHT1T50082.html

20180817oht1i50050t 15日の男児発見後に取材に応じる尾畠春夫さん


 山口・周防大島町の山中で行方不明だった藤本理稀(よしき)ちゃん(2)を15日に救出し、大きな注目を集めたボランティアの尾畠春夫さん(78)には16日朝からテレビの情報番組出演依頼が殺到した。

 尾畠さんは15日夜、車で山口を出発し、高速を使わず6時間半かけて大分・日出町(ひじまち)の自宅に帰宅したという。

 この日は自宅からの中継で、朝と午後に5番組に出演。朝はフジ系「とくダネ!」の間に、TBS系「ビビット」を挟む異例の態勢。午後はフジ系「グッディ!」の中継が長引き、午後2時35分から尾畠さんの出演を取り付けていた日テレ系「情報ライブ ミヤネ屋」が、放送中に待機する一幕も。「ミヤネ屋」の宮根誠司キャスター(55)が「前代未聞ですよ。安藤優子さん(グッディ!の司会)に、もう締めてって言って」と必死につなぎ、同41分にようやく尾畠さんが「ミヤネ屋」に出演した。

 「グッディ!」では頭に巻いたトレードマークの赤いタオルについて問われると「趣味が登山」と答え、遭難や動物対策の目的で習慣的に身につけるようになったことを明かした。

 65歳で鮮魚店をたたみ、ボランティアに専念する理由は「社会への恩返し」。被災地などで迷惑をかけないよう、水や食料などは全て持参するなどと語った。18日には豪雨被害を受けた広島・呉市へ向かうという。

 一方、理稀ちゃんはこの日朝、入院先の病院で出された朝食のおかゆやスイカを残さず食べた。起き上がって話すなど元気な様子で、1週間程度で退院できる見込みだという。

 

2歳男児が行方不明 海水浴に向かう途中 山口
2018年8月13日11時17分
https://www.asahi.com/articles/ASL8D71V6L8DTZNB003.html

As20180813001083_comm 藤本理稀ちゃん(山口県警提供)


 山口県周防大島町家房で、同県防府市の藤本理稀(よしき)ちゃん(2)が12日午前から行方不明になり、県警などが捜索を続けている。13日午前になっても見つかっていない。

 柳井署によると、理稀ちゃんは13日が2歳の誕生日。12日から母親、兄弟3人と一緒に同町内の曽祖父宅に帰省していた。

 理稀ちゃんは12日午前10時半ごろ、祖父(66)と兄(3)と海水浴に行こうと、歩いて約400メートル離れた海岸に向かったが、家を出て100メートルほどのところで1人で引き返した。祖父は家から20メートルほどのところまで歩く理稀ちゃんを確認したが、その5分ほど後に家を出た母親と他の子ども2人は理稀ちゃんと会わなかったという。

 理稀ちゃんは白地に袖が赤色の長袖シャツ、星柄の入った緑色の海水パンツを着て、水色のサンダルを履いていたという。

 

2018.08.24 # 地震・原発・災害
スーパーボランティア・尾畠春夫さんが語った「壮絶なる我が人生」
私が被災地に行く理由【前編】

週刊現代, 齋藤 剛
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57170

お盆休みに、一躍注目を集めたスーパーボランティア・尾畠春夫さん。山口県周防大島町で行方不明となっていた2歳男児を発見し、連日ニュースに登場していた姿は記憶に新しい。現在、広島県呉市でボランティア活動を続ける尾畠さんに、週刊現代の齋藤剛記者が「被災地に行く理由」と「家族の話」を訊いた

自然に人が集まってくる

山口県周防大島町で行方不明となった藤本理稀ちゃん(2歳)を捜索開始から30分で発見して、「時の人」となった尾畠春夫さん(78歳)。

スーパーボランティアと呼ばれるようになった尾畠さんは休む間もなく西日本豪雨の被災地である広島県呉市の天応地区でボランティア活動をしている。8月20日(月)、本誌記者も尾畠さんを追って、現地に向かった。

ボランティアが活動する被災地域に向かうと、尾畠さんの姿はすぐに見つかった。真っ赤なつなぎに「絆」「朝は必ず来る」などと書かれたヘルメットをかぶり、汗を流していた。

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赤いつなぎと「絆」ヘルメット姿でインタビューに応える

尾畠さんの姿を見つけるや、住民や他のボランティアが駆け寄って写真撮影を求める。尾畠さんは「10枚ならいいよ」と冗談を交え笑顔で応じていた。実際、接すると実にチャーミングなおじいさんであった。

取材の旨を伝えると、「遠いところからごくろうさんです、おやっさん。まぁ座ってください」と応じながらも、「でもね、ただの変わったおっちゃんですよ。自分なんて取り上げたら売り上げが落ちるよ」と笑う。尾畠さんは成人した男性のことを「おやっさん」、女性のことを「ねえさん」と呼び、「来る者は拒まず、去る者は追わず」が信条だという。

作業を終えた17時すぎ、避難所になっている小学校の校庭の端にある尾畠さんの拠点で、話を聞いた。木陰スペースにシルバーの軽ワゴン車をとめ、そこで寝泊まりしているのだ。

ちなみに、ここは撮影スポットにもなっていた。尾畠さんが活動で不在している日中は、住民やボランティアが次々と訪れ、車の中を覗き込み、記念写真を撮っていた。

尾畠さんが一人で拠点に戻ってくると、年配の女性が現れて差し入れの焼きそばを渡す。

「今日もありがとうございました。私は体が悪くて作業ができない。本当に感謝しています」

こう頭を下げる女性に対し、尾畠さんは「あれ、今日は泊まりに来たの?」とジョークを交えながら軽妙にやりとりする。尾畠さんが言う。

善意を断るわけにもいかないでしょう。金銭は一切受け取りませんが、差し入れであればありがたくいただきます。ただ、どうお返ししていいのか。これが悩みです
ボランティア仲間、住民、そしてマスコミ。自然と人を引きつける人柄はどこからきたのだろうか。尾畠さんに自らの人生を振り返ってもらった。

NEXT 小学5年ですぐに奉公に出された
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57170?page=2

戦後の荒廃や復興、バブルも、すべて見てきた

生まれは1939年。78歳と8ヵ月です。戦前に生まれ、戦争を経験し、戦後の荒廃や復興、そしてバブルも経験した。いまとなってはあの時代に生まれたことに感謝しております。芋とカボチャばかり食う時期もありましたが、それも良き思い出です。

大分県の国東(くにさき)半島で生まれて、幼少時に現在の杵築(きつき)市に引っ越し、そこで育ちました。父は下駄職人で、主に桐の下駄を作って販売していました。商売は順調ではなかった。ちょうど履き物がゴム製品に変わる頃で、下駄の販売は下降線でした。

母は主婦です。実は母についての記憶は多くはありません。というのも、母は41歳で亡くなってしまった。私が小学5年生のときです。母の死は自分の人生にも大きく影響しました。父はもとより酒好きな人間でしたが、妻が逝き、何人もの子供を抱え、下駄は売れないという厳しい現実から逃れるためか、ヤケ酒に走ってしまった。

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取材当日もボランティア活動で汗を流す

そして、そんな父によって、自分は農家に奉公に出されることになります。自分は7人兄弟の4番目。ですが、兄弟のなかで自分だけが奉公に出されることになりました。父からの説明は「お前は大飯食らいだから」というものでしたが、納得できるわけがありません。

だから、両親に影響を受けた、なんて話がよくありますが、自分にかぎってはそんなものはありません。というのも、小学5年生で親元を離れ、それこそ毎日草刈りやら何やらで忙しかった。学校には行きたくてもまともに行けなかった状態です。

奉公に出されたのは、家が貧しくそれを助けるためでした。それはわかっていましたが、父を恨みました。なぜ兄弟のなかで俺だけが……。最初はものすごく悔しかった。

とはいえ、奉公に出された以上は腹をくくるしかない。世の中はなるようにしかなりません。「やるだけやってやろうじゃないか」と心を入れ替えたのです

以来、奉公に出された家のおやっさんとねえさんを親だと思って何でも言うことを聞きました。すべては飯を食うためです。恨みの対象だった父ですが、いつしか感謝するようになりました。奉公の経験がいまの宝になっていますからね。後ろ向きで得をすることなんてありません。だから自分はプラス思考という言葉が大好きなんです

NEXT 背中を押してくれた姉の存在
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57170?page=3

帰るところなんてなかった

私は昭和30年に中学校を卒業すると、卒業式の翌日に別府にある魚屋の小僧になりました。自分の意志ではありません。働くことになったきっかけは姉の紹介です。

「働きに出たい」と相談すると、姉から「あんたは元気がいいから魚屋になりなさい」と言われたんです。自分にとって姉の言葉は親の次に重い。もとより姉のことを信用していたので、それに従いました。

SL汽車で別府駅に向かう際、父から青い10円札を3枚持たされました。「珍しく大盤振る舞いだな」と喜んだのも束の間、すぐに30円は片道切符代だとわかりました。特攻隊と一緒です(笑)。自分には帰るという選択肢はありませんでした。

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地元住民との交流も

ただし、それまでが極貧でしたからね。魚屋に就職し、食事にあらの煮つけが出たのを見て驚きました。それまで毎日芋とカボチャでしたからね。こんなうまいものがあるのかと衝撃を受けました。

別府の魚屋で3年間修業した後、山口県下関市の魚屋で3年間ふぐの勉強をしました。さらに兵庫県神戸市の魚屋で関西風の魚の切り方やコミュニケーション術を4年間学んだ。私は10年修業した後に魚屋を開業するつもりでした。

ところが当時、貯金はゼロに近かった。というのも、魚屋の給料は安く、開業資金をまったく準備できなかったんです。

そこで、開業資金を短期間で用意するために上京しました。お世話になったのは、大田区大森にあった鳶と土木の会社です。もちろん、コネなんてありませんから、そこの親父さんに「俺には夢があります。3年間働かせてください。その代わり、絶対に『NO』と言いません。どんな仕事でもやります」と直談判しました。

鳶や土木の仕事の経験は、いまのボランティア活動に役立っているかもしれませんね。ありがたいことに、会社から「このまま残って頭(かしら)になれ」と熱心に誘っていただきましたが、自分は決めたことは必ず実行するのが信条。これはいまも昔も変わりません。その意味では、面倒な男かもしれません。 

結局、昭和43年、大分に戻り、4月にかみさんと結婚。そして、その年の11月に自分の魚屋を持ちました。名前は『魚春』です。二文字をくっつけると鰆(さわら)。もちろん、自分が一番好きな魚です(笑)。

NEXT 所帯を持つために必死に貯金した
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57170?page=4

かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め

振り返ると、繁盛した時期もあれば閉店危機もありました。とりわけ窮地に陥ったのは、大分でPCB(水銀)が社会問題になったときでした。それこそ客足がピタッと止まりました。仕入れの量を通常の10分の1程度に減らしましたが、それでも売れなかった。

このとき、助けになったのは妻の存在でした。かみさんは料理上手で、ポテトサラダやコロッケ、キンピラなど総菜を店で販売するようになった。これで危機を乗り切った。妻がなければいまの自分はないでしょう。

妻との出会いは別府の小僧時代にさかのぼります。修行していた魚屋の向かいの貝専門店の娘でした。うちのかみさんは3学年下。中学1年生でした。当時は混浴の共同風呂があり、自分も彼女も気兼ねなく利用していましたが、風呂に行くのが恥ずかしくなったことを覚えています。当時から「いつかあの子と結婚したい」と意識していました。

別府の小僧時代の1ヵ月の給料は200円でしたが、100円は自由に使い、残りは貯金した。それもこれも彼女の所帯を持つためでした。

女房の支えもあり、商売は順調でしたが、65歳の誕生日に店を畳みました。15歳のときから『俺は50年働く。そして、65歳になったらやりたいことをしよう』と決めていたんです。

私にはいま48歳の息子と45歳の娘がいて、孫も5人います。息子は大学に行くこともできた。それもこれもお客さんが魚を買ってくれたから。皆さんが温かく手を差し伸べてくれたからこそ、いまの生活がある。それに気づきました。

いただいた恩をお返しするのは当たり前。それが人の仁義です。どのような形で恩を返そうかと考えたとき、第二の人生をボランティア活動にささげようと決意しました。「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め」。好きな言葉です。ですから対価は一切求めません。

 

2018.08.25 # 地震・原発・災害
酒も飲まず、貯金もゼロ…スーパーボランティア尾畠春夫さんの生き様
私が被災地に行く理由【後編】

週刊現代, 齋藤 剛
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57178

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山口県周防大島町で行方不明となっていた2歳男児を発見し、大きな注目を集めたスーパーボランティア・尾畠春夫さん。現在、広島県呉市でボランティア活動を続ける尾畠さんに、週刊現代の齋藤剛記者が「被災地に行く理由」と「家族の話」を訊いた――

健康保険証は11年無使用

私は65歳から本格的にボランティア活動を開始して、最初は新潟の中越地震のときかな。災害があるとすぐ現地に向かいました。それこそ全国を回りましたね。

東日本大震災のときは、南三陸でがれきの中から思い出の写真などを見つけ、被災者に戻す「思い出探し隊」の一員として、約500日間ボランティア活動をしました。このとき、酒をやめました。それまで自分は浴びるほど飲むタイプでした。しかも、ストレートでしか飲まない。しかし、南三陸の光景を見て思うところがありました。

避難所のベイサイドアリーナには1800人もの避難者がいた。ぎゅうぎゅう詰めで身動きできない。にもかかわらず、誰も文句を言わない。同じ日本人でありながらこんな思いをしている人がいるんだと思った。酒なんか食らっている場合ではないと思ったんです。

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笑顔を絶やさない尾畠さん

それから7年5ヵ月一滴も飲んでいません。ただ、酒を断ったわけではありません。中断しているだけです。解禁するときは東北3県の仮設住宅がすべて取り除かれたときと決めています。そんな日が来ることを期待しています。

健康保険証は11年ほど使用していません。大きな病気は40歳の頃に腸捻転をやったことくらいかな。大分の自宅にいるときは毎日8㎞ほどジョギングしています。健康の最大の秘訣はとにかく体にいいものを食べる。これに尽きる。

具体的に言うと、野草を集め、茹でて酢醤油で食べます。桑の葉がうまいですね。あと、たんぽぽもうまい。オオバコ、ドクダミ、ヨモギ……。どれも体にいい。こうした食生活は登山を始めた40歳の頃から続けていますが、誰かにおすすめしません。実際、家族でも食べているのは自分だけです。

いまの食生活ですか? 被災地に負担をかけることがないよう、別府市内のディスカウントストアで約2週間分の食料を買い込みました。ボランティア中の主食は、持ち運びに便利なパックご飯とインスタントラーメンです。ご飯は3パックで198円。ラーメンは5パックで158円です。

パックご飯は温めるとガス代がかかるのでそのまま食べます。おかずなんていりません。梅干しがあれば十分です。寝泊まりするのは軽ワゴン車の後部座席です。被災地のどんな環境でも寝られるようにするため、普段からゴザの上で寝ています。この車は13年間乗っていますね。走行距離は約20万㎞。故障したことは一度もない。タフな相棒ですよ。

NEXT 家族はなんて言っているのか?
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57178?page=2

ボランティア活動中はお風呂にも入りませんし、シャワーも浴びません。大分に帰って温泉に入る。これは格別です。3時間も4時間も入ってしまいます。これはボランティアを終えた後の楽しみのひとつです。

日常生活はシンプルそのものです。テレビはNHKしか見ません。しかも、情報収集のため30分見るだけ。ただ、地元紙である大分合同新聞は定期購読しています。お気に入りはラジオ深夜便。懐かしの歌が好きですね。

カミさんは旅に出て5年帰ってこない

私は被災地に行ったら「暑い」とは絶対に言わない。もし自分が被災者であったならば、どう思うのか。ボランティアさせていただいているという立場を忘れてはいけません。

当然ですが、言動すべてに気をつける必要があります。赤い服を着ているのもこだわりです。背中には名前が大きく書いてあります。これには理由があり、被災している方は身元がわかるほうが安心するんです

さらによく話すこと。黙っていると怖いでしょう。赤い服もそうですが、すべては安心感をもってもらうためです。

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背中には大きく「尾畠春夫」の文字が

現在の貯金はゼロに等しいですね。年金は月約5万5000円。ここからボランティア活動費を捻出しています。私は商売人ですからカネには執着しています。それはいまも同じです。

ただし、ないものは追っても仕方ない。私は逃げるものは追いかけない主義です。そのときの状況に応じた生活をしているだけです。ここに来るだけでも往復で約1万円かかります。残りは4万円。それに合わせて生活するだけ。ない袖は振れぬ。これを心がけています。

家族の反応なんて気にしません。ただし、ボランティアに出かけるときは、自宅の玄関に『どこどこに行く』と息子と娘への伝言を残して出発しています。

カミさんは、いまは旅に出ている……。一人旅です。「自由にしたい」って。「旅に出たい」と言うから「はい、どうぞ」と。5年前に出かけて……まだ帰ってない。愛想を尽かされたらそれはそれで仕方ない。

そもそも、夫婦なんてもともと他人じゃから。ただ惚れて結婚した。憎いとかそんな気持ちはない。いまの家は妻とゆっくり老後を過ごすために購入したものです。カミさんも鍵を持っている。いつでも帰ってこられる状態にしてあります。

息子は公務員です。市役所に勤めています。自分とは真逆の人生を歩んでいる。「魚屋を継いだほうがいいかな」と聞かれたことがあります。そのとき、「お前には継がせないよ」と怒りました。

当たり前ですが、自分の人生は自分で歩むべき。私は子供に対してどうこうしろと言ったことはありません。国民の義務さえ果たしていれば何をしてもいい。

NEXT いつかは沖縄で遺骨収集を
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57178?page=3

小さくても長持ちする。そんな生き方をしたい

娘はいろいろと心配してくれます。携帯電話を持つように何度も言われていますが、携帯電話にしろ、パソコンにしろ、そうしたものに振り回されたくない。カーナビも一度も使ったことがありません。

孫といえば、忘れられない思い出があります。店をやめて1年後くらいかな。あるとき、一番年上の孫が突然うちに来た。当時、孫は高校生でしたが、真剣な顔で「話があるんだ。じいちゃん、タバコをやめろ」と言うんです。

65歳を過ぎると体力が急激に落ちるから絶対にやめろって。自分はヘビースモーカーで、ピースを2箱吸っていました。これはうれしかった。孫の言うことは天の声だと思い、その場ですべて燃やしました。ちなみに、この孫は登山をしています。私の影響だそうです(笑)。これ以上うれしいことはないですよ。

来る人は拒まず。もっとも、マスコミはすぐいなくなるでしょう。私なんて一過性のもの。日本は熱しやすく冷めやすい。自分のことなんてすぐ忘れるでしょう。僕は花火の中では線香花火が好きなんです。小さくても長持ちする。そんな生き方をしたい

いつかは沖縄で遺骨収集したいと思っています。ガマってわかりますか。沖縄にある自然の洞窟です。ここには相当な数の兵隊さんの骨が残っているようです。その捜索をしたい。本当は今年実行する予定で、道具など準備をしていました。ところが、災害が続発して断念しました。いまはこちらが優先です。ただ、来年の春にも実現したい。

ボランティア活動の現場では、経験豊かな尾畠さんの存在感はやはり大きい。暑さで具合を悪くしたスタッフを見つけると、すぐさま水を飲ませ、休ませる。積極的にコミュニケーションをとろうとしないメンバーがいると、笑顔で話しかける。

最後に尾畠さんと握手したが、握力は78歳のそれではなかった。そのバイタリティ、行動力には感服するしかなかった。

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