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2014年8月26日 (火)

こんな世だから、魯迅の「水に落ちた犬を打つ」を説く、『「フェアプレイ」はまだ早い』をWebテキストに、。

 昔、竹内好さんの雑誌『中国』(1963〜1972)の何号だったか、終わり頃の号を読んだ事があります。魯迅の——「フェアプレイ」はまだ早い——を紹介していて「水に落ちた犬を打つ」のフレーズが頭に残りました。もとの魯迅自身の評論を読みたいと調べたら、文庫本の『魯迅評論集 竹内好編訳 』に評論として所収されていました。一度は図書館で借りたのですが、手元に置いてじっくり読みたくなり結局AMAZON(配送料込みで447円)で購入。実はこの本、絶版になってます。全集は別として、在庫が売り切れたら文庫版では手に入らないってことでしょうか。ネットで検索しても竹内好さんの訳文のが出て来ないので、テキスト起こしをしてみました。

 辺見庸ブログでも、「日録12 私事片々2014/04/03~2014/04/13」で魯迅について言及しています。こんな世だからこそ、今、魯迅を読みたいと思います。

 

Xin_360103261449890209223_2←牛込の日本語学校・弘文学院時代の魯迅。


Img245292790←魯迅。日本的“鲁迅学”(组图) より。


 

 『魯迅評論集 竹内好編訳』(岩波文庫)より

最初に竹内好さんの「はじめに」。そのあとで、魯迅評論集第三部から『「フェアプレイ」はまだ早い』。そのあと訳註と、竹内好さんの「解説」です。

※竹内好さんが人名にカタカナのルビを振っている箇所では何カ所か拼音(ピンイン)をふっておきました。また、訳註(数字)の箇所は、頁内リンクをはっています。

※参考:(中日大辞典 第三版<愛知大学/大修館書店, 2010-2013>)
〔落水〕luòshuǐ 
1, 水中に落ちる. 〔落水擒qín水泡shuǐpào〕〈諺〉おぼれるものはわらをもつかむ.
2,〈喩〉堕落する. 〔落水狗gǒu〕水に落ちた犬. 〈喩〉力を失った悪人. 〔痛tòng打落水狗〕落ちぶれた敵に追い打ちをかける.

 

はじめに

 魯迅をよみたい、という人がふえている。知的な興味、というより、もっと生活に即して、生きてゆく上の糧になるものを求めて、魯迅にたどりついた、という種類の人がたくさんいる。
 いまのところ、魯迅をよみたい人の多くは、インテリである。作家とか、学者とか、教員などである。しかし、労働者の間からも、ぽつぽつそういう要求が出ている。今後はますます多く出てくるにちがいない。本国でそうであったように、日本でも、魯迅の影響は時がたつにつれて、ますます深く民衆の間にしみてゆくだろうと思う。
 外国の一人の文学者、という以上の親しいつながりが、魯迅と私たちとの間に、うまれつつある。それは根本には、魯迅の生きた時代、魯迅が生き、そしてその中で抵抗した環境に、今日の私たちのそれが本質的に似てきたからだ。私たちがなやみ、おそれ、ともすれば勇気を失いそうになるとき、それとおなじなやみをかつてなやみ、おそれに直面し、しかも勇気を失わなかった一人の人間がいたことを発見したとすれば、その人間はもはや、私たちにとって他人ではなくなるだろう。古人でもなく、外国人でもないだろう。私たちの血縁であり、私たち自身であるだろう。
 苦しくなると、とかく救いを外に求めたがる私たちの弱い心を、彼はむち打って、自力で立ちあがるようにはげましてくれる。彼がとり組んだ困難にくらべれば、今日の私たちの困難はまだまだ物の数ではないのだ。これしきの困難に心くじけてはならない。ますます知慧をみがいて、運命を打開しなければならない。魯迅は何ひとつ、既成の救済策を私たちに与えてくれはしない。それを与えないことで、それを待ちのぞむ弱者に平手打ちを食わせるのだが、これ以上あたたかい激励がまたとあるだろうか。

 この本は、魯迅について予備知識のない人でも、魯迅文学の核心が理解できるように、いわば魯迅入門書のつもりで編んだ。おびただしい数のエッセイの中から、数篇をえらんで、いくらか配列を工夫して、気がるによめるように註なども省いて、しかし時代のはばとスタイルの多様さには注意をはらって、一冊とした。魯迅評論集、というにはあまりに小さすぎるが、入門の階段にはなるだろう。この本をよんで魯迅に興味をもたれた読者は、さらに他の作品なり評論なりに進んでいただきたい。研究書にも目を通していただきたい。そのような読者がふえて、その力で魯迅研究が前へ進むことを、私は切にねがう。それが私たちの共同の運命の打開に必要な力の結集を助けることを確信するからである。(一九五三年二月)

 

「フェアプレイ」はまだ早い

一 解題

 『語絲』の五十七号に林語堂(Línyǔtáng)氏(1)が「フェアプレイ」を説き、この精神は中国にはごく少いから、われわれは勧奨に努めなければならぬ、と述べ、さらに「水に落ちた犬を打」たぬことを「フェアプレイ」の意義の補足的説明としている。私は英語にうといから、この語のふくむ意味がどうなのか、よくわからないが、もし「水に落ちた犬を打」たぬのが、その精神のあらわれだとすると、私には大いに言い分がある。もっとも、表題に直接「水に落ちた犬を打つ」と書かなかったのは、人目に立つのを避けるためであり、つまり、ことさら頭上に「にせの角(2)」を装う必要がないからである。私の言いたいのは、要するに「水に落ちた犬」は、必ずしも打つべからざるものではなく、否、むしろ大いに打つべし、というだけのことだ。

二 「水に落ちた犬」に三種類あり、いずれも打つべきものであること

 今日の批評家は、しばしば「死んだ虎を打つ」と「水に落ちた犬を打つ」とを、ならべて取りあげ、いずれも卑怯に近いとしている。私の考えでは「死んだ虎を打つ」のは、臆病者が勇者のまねをすることで、すこぶる滑稽味があり、卑怯のきらいはないわけではないが、むしろ憎めない卑怯である。ところが「水に落ちた犬を打つ」ほうは、それほど簡単ではない。犬はどんな犬なのか、どうして水に落ちたか、それを見てからでないと決められない。思うに、落ちた原因はほぼ三つである。(一)犬が自分で足をすべらせて落ちた場合。(二)ほかのものが打ち落とした場合。(三)自分が打ち落とした場合。もし前の二者に遭遇して、人の尻馬に乗って打つならば、それはあまりに曲のない話であることは申すまでもないし、あるいは卑怯にさえ近いかもしれない。しかし、もし犬と奮戦して、みずから水中に打ち落としたのであれば、たとい落ちた後から竹竿でめった打ちにしようとも、決して非道ではない。前二者の場合と同日には論じられない。
 話に聞くと、勇敢な拳闘士は、すでに地に倒れた敵には決して手を加えぬそうである。これはまことに、吾人の模範とすべきことである。ただし、それにはもうひとつ条件がいる、と私は思う。すなわち、敵もまた勇敢な闘士であること、一敗した後は、みずから恥じ悔いて、再び手向かいしないか、あるいは堂々と復讐に立ち向かってくること。これなら、むろん、どちらでも悪くない。しかるに犬は、この例を当てはめて、対等の敵と見なすことができない。何となれば、犬は、いかに狂い吠えようとも、実際は「道義」などを絶対に解さぬのだから。まして、犬は泳ぎができる。かならず岸へはい上がって、油断していると、まずからだをブルブルっと振って、しずくを人のからだといわず顔といわず一面にはねかけ、しっぽを巻いて逃げ去るにちがいないのである。しかも、その後になっても、性情は依然として変わらない。愚直な人は、犬が水へ落ちたのを見て、洗礼を受けたものと認め、きっと懺悔するだろう、もう出てきて人に咬みつくことはあるまいと思うのは、とんでもないまちがいである。
 要するに、もし人を咬む犬なら、たとい岸にいようとも、あるいは水中にいようとも、すべて打つべき部類だと私は考える。

三 狆(ちん)はことに水中に打ち落として さらに追い打たねばならぬこと

 狆は「叭児狗(パルコウ)」とも「哈吧狗(ハパコウ)」ともいうが、南方ではこれを西洋犬と呼んでいる。だが、じつはこれは中国の特産だそうで、万国品評会ではしばしば金牌を受領するということだ。『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の犬の写真のなかには、わが中国の狆が何匹もいる。これまた国の誉でもあるわけだ。ところで、犬と猫では仇同士ではないか。しかるに、かれは犬でありながら、猫に酷似している。折衷、公正、調和、平衡の状掬(きく)すべく、悠然として、ほかのものはみな過激で、自分だけが「中庸の道」を得たといいたげな顔である。これによって富豪、宦官、夫人、令嬢たちに鐘愛せられ、その種は綿々として絶えない。かれの仕事といえば、こざかしい皮毛をもって貴人の飼育を獲得し、内外の女人たちが町へ出かけるおりに、首を細い鎖で結ばれて靴のかかとについてゆくだけのことである。
 この手合いは、まず水のなかへ打ち落とし、さらに追いかけて打つべきである。もし自分で水へ落ちたにしても、追い打ちしていっこう差支えない。ただし、あまりにもお人よしならば、むろん打たなくてもかまわぬが、気の毒がる必要はない。狆にして許せるものなら、ほかの犬は大いに打たぬがよろしい。なぜなら、かれらはいかにも権勢にこびるが、まだ何といっても狼に近いだけに野性を帯び、これほど二股膏薬にはなりきっていないからである。
 以上は、ついでに述べただけであって、本題とはいささか関係が薄いかもしれない。

四 「水に落ちた犬を打」たぬは 人の子弟を誤るということ

 要するに、水に落ちた犬を打つべきかどうかは、第一には、かれが岸へ上がってからの態度によってきまる。
 犬の性は、概してあまり変化するものではない。かりに一万年もたてば、現在と変わってくるかもしれないが、私がいま問題とするのは現在のことである。もし水へ落ちた後が可憐だというなら、人を害する動物で、可憐なものはいくらでもある。たとえば、コレラ菌などにしても、繁殖は早いが、その性格はじつに真率である。だが医者は、それを決して見放してはおかない。
 いまの官僚と、国産型紳士あるいは西洋型紳士は、自分の気に食わぬものをすべて赤だとか、共産党にしてしまう。民国元年以前はいくらかちがっていた。はじめは康有為(Kāngyǒuwéi)党だといい、のちには革命党だといって、ひどいときは役所へ密告さえした。むろん、それによって自分の尊栄を保全するためだが、また一面、当時のいわゆる「人血をもって官帽の玉を赤く染める(3)」意味がないわけでもなかった。しかるに、革命はついに勃発した。いばりくさっていた一群の紳士どもは、たちまち喪家の犬のようにしょぼんとなって、辮髪を頭のてっぺんに巻きあげた。そして革命党は、新しい気風ーー紳士たちが以前深刻に憎悪した新しい気風を発揮して、すこぶる「文明」になった。「咸与維新(みなともにこれあらた)」なんだ。われわれは水に落ちた犬は打たぬ、勝手に上がってこい、というわけである。そこで、かれらは上がってきた。民国二年の後半期までひそんでいて、第二革命の際、突如あらわれて袁世凱(Yuánshìkǎi)(4)を助け、多くの革命家を咬み殺した。中国はまた一日一日と暗黒に沈み、今に至るまで、遺老はいうに及ばず遺少さえ、うじゃうじゃしている。これすなわち、革命の烈士たちの人のよさ、鬼畜にたいする慈悲が、かれらを繁殖させたのであって、そのため目ざめた青年は、暗黒に反抗するためには、ますます多くの気力と生命とを犠牲に供さねばならなくなったのである。
 秋瑾(Qiū jǐn)女史(5)は、密告によって殺されたのだ。革命後しばらくは「女俠」とたたえられたが、今ではもうその名を口にするものも少なくなった。革命が起こったとき、かの女の郷里には都督ーーいまいう督軍とおなじものーーが乗り込んできた。それはかの女の同志でもあった。王金発(Wáng jīn fā)(6)だ。かれは、かの女を殺害した首謀者をとらえ、密告事件の証拠書類を集めて、その仇を報じようとした。だが結局は、その首謀者を釈放してしまった。というのは、民国になったのだから、おたがいに昔のうらみを洗い立てるべきではない、というのが理由だったらしい。ところが、第二革命の失敗後になって、王金発は袁世凱の走狗のために銃殺された。その有力な関係者に、かれが釈放してやった秋瑾殺害の首謀者があった。
 この男も、いまでは「天寿を全うし」た。しかし、そこに引きつづき跋扈出没するものは、やはりこういった手合いばかりである。だから秋瑾の郷里は、いまでも昔のままで、一年また一年、いささかの進歩もない。この点から見れば、中国の模範とされる都市(7)に人となった楊蔭楡(Yángyīnyú)女史と陳西瀅(Chénxīyíng)氏とは、まことに天下の幸運児である。

五 失脚した政客を 「水に落ちた犬」と一律に論じてはならぬこと

 「犯さるるもあらがわず」は恕道だ。「眼には眼を、歯には歯を」は直道だ。ところが、中国にもっとも多いのは枉道、つまり、水に落ちた犬を打たずに、逆に犬に咬まれることである。もっともこれは、実直な人がすき好んでばかな目を見るだけのことだが。
 俗に「おとなしいは一名能なし」ということがある。少し薄情なようではあるが、よくよく考えてみると、それは人に悪事をそそのかすことばではなく、たくさん苦い経験をなめたはてに出てきた警句であることがわかる。たとえば、水に落ちた犬は打たぬという説にしても、その成因はふたつある。ひとつは、打つ力がないこと。もうひとつは、類比の錯誤である。前者はしばらく問題外として、後者の錯誤にも二種ある。ひとつは、失脚した政客を水へ落ちた犬と同様に見なす錯誤、もうひとつは、失脚した政客にも善玉と悪玉があるのを見分けられずに一律に見、そのためかえって悪をはびこらす錯誤である。そのことを今日の状態でいうと、政局の不安定のために、起きたかと思うと倒れ、倒れたかと思うとまた起き、まるで車の廻るように交代がはげしい。そして悪人は、権力のうしろ盾があるときには横暴のかぎりをつくすが、一旦失脚すると、たちまち人に憐れみを乞う。そうすると、その咬むところを実地に見るか、あるいは自分がじかに咬まれたことのある実直な人が、それを「水に落ちた犬」と同一視して、打つことをやめる。いや、打たぬばかりか、憐れみさえかけようとする。正義はついに勝った、いまこそ俠気を示してやろう、というわけだ。あに図らんや、相手はほんとに水に落ちたのではなくて、巣はとっくに設けてあるし、食料も十分蓄えてあるのだ。しかも、租界(8)のなかにだ。まれに負傷したように見えることがあっても、実際はそうではなく、びっこの風をよそおって人々の同情を引き、そのすきに悠々と雲隠れしようという寸法なのだ。いつかまた勢力を盛り返したときには、やっぱり前と同様、実直な人に咬みつくことを手はじめに、ありとあらゆる悪事をはたらくが、その原因は何かといえば、まさに実直な人が「水へ落ちた犬を打」たなかったことに一部はもとづくのだ。それゆえ、いささか苛酷な言い方をすれば、自分で墓穴を掘っただけのこと、天を怨み人をとがめるのは、まったくの見当ちがいである。

六 今はまだ「フェア」万能ではないこと

 仁人たちは問うかもしれない。では結局、われわれには「フェアプレイ」は一切無用なのか、と。私はただちに答えよう。もちろん必要だ。だが時期が早すぎる、と。これすなわち「言い出しっぺ」論法である。仁人たちはこの論法を採用したがらないかもしれないが、私のほうが筋が通っている。というのは、国産型紳士あるいは西洋型紳士たちは、中国には中国の事情があるから、外国の平等や、自由や、等々のものは中国には適用できぬと、口ぐせのように言っているではないか。この「フェアプレイ」もそのひとつだと私は思う。そうでないとすると、相手がきみに「フェア」でないのに、きみが相手に「フェア」にふるまう結果、自分だけがバカを見てしまって、これでは「フェア」をのぞんで「フェア」に失敗しただけでなく、かりに不「フェア」をのぞんだとしても不「フェア」に失敗したことになる。それゆえ「フェア」をのぞむならば、まず相手をよく見て、もし「フェア」を受ける資格のないものであれば、思い切って遠慮せぬほうがよろしい。相手も「フェア」になってから、はじめて「フェア」を問題にしてもおそくはない。
 これはすこぶる二重道徳を主張するきらいはあるが、やむを得ない。そうでもしなければ、中国には多少ともましな道がなくなってしまうからだ。中国には、今でもまだたくさんの二重道徳がある。主人と奴隷にしても、男と女にしても、道徳がみなちがっていて、統一されていない。もし「水に落ちた犬」と「水に落ちた人」だけを一視同仁にあつかったとしたら、それはあまりに偏した、あまりに早い処置であること、あたかも紳士たちのいわゆる、自由平等は悪いわけではないが、中国では早すぎるというのと同様である。それゆえ、「フェアプレイ」の精神をあまねく施行したいと思う人は、少なくとも前に述べた「水に落ちた犬」が人間の気を帯びるまで待つべきだと私は考える。むろん、今でも絶対におこなってはならない、というのではない。要するに、前に述べたように、相手を見きわめる必要があるのだ。のみならず、区別をつける必要があるのだ。「フェア」は相手次第で施す。どうして水に落ちたにしろ、相手が人ならば助けるし、犬ならば放っておくし、悪い犬ならば打つ。一言にしていえば「党同伐異(9)」あるのみだ。
 心はどこまでも「婆理(ポーリーPó lǐ)」、口はどこまでも「公理(コンリーGōnglǐ)(10)」の紳士諸君の卓論はここでは問題外として、誠実な人がよく口にする公理についてみても、それは今日の中国で、けっして善人を助けることにならず、かえって悪人を保護する結果になる。なぜなら、悪人が志を得て、善人を虐待するときは、たとい公理を叫ぶ人があろうとも、かれは絶対に耳に入れない。叫びはただ叫びだけにおわって、善人は依然として苦しめられる。ところが、なにかの拍子に善人が頭をもたげた場合には、悪人は本来なら水に落ちなければならぬのだが、そのとき、誠実な公理論者は「報復するな」とか「仁恕」とか「悪をもって悪に抗する勿れ」とか……をわめき出す。すると、この時ばかりは単なる叫びでなくて、実際の効果があらわれる。善人は、なるほどそうだと思い、そのため悪人は救われる。だが救われた後は、してやったりと思うだけで、悔悟などするものでない。のみならず、兔のように三つも穴を準備してあるし、人に取り入ることも得意だから、間もなく勢力を盛り返して、前と同様に悪事をはじめる。そのときになって公理論者はもちろん再び大声疾呼するであろうが、今度は耳も貸すものでない。
 もっとも「悪を疾むこと太だ厳」にして「之を操ること急に過ぐ」るのこそ、漢の清流と明の東林(11)とが失敗した原因だといって、批評家はよく非難を浴びせるが、そのくせ、相手のほうが「善を疾むこと仇のごと」くであったことは忘れているのだ。もしこれからも光明と暗黒とが徹底的にたたかうことをせず、実直な人が、悪を見のがすのを寛容と思い誤って、いい加減な態度をつづけてゆくならば、今日のような混沌状態は永久につづくだろう。

七 「相手のやり方を相手に適用する」ということ

 中国人は、あるものは漢方医を信じ、あるものは西洋医を信ずる。ちょっとした都市なら、今でもこの二種類の医者が看板をならべていて、すきなほうを選べる。これは、たしかによい方法だと私は考える。もしこれを拡充することができれば、きっと不平不満がへるにちがいないし、天下太平が実現するかもしれない。たとえば、民国の普通の礼法はお辞儀だが、もしそれではいけないという人がいたら、その人だけには土下座をさせる。民国の法律には笞刑はないが、もし体刑があったほうがいいという人がいたら、その人が罪を犯したときだけは特別に笞で尻をたたく。碗に箸に飯に菜、これが現代人の食事の習慣だが、もし燧人(すいじん)氏(12)以前の原始人になりたいという復古主義者がいたら、その人には生の肉を食ってもらう。さらに草でふいた家を数千軒建てて、いま大邸宅にいて堯舜を景慕している高士どもを引っぱり出して、そのなかに住まわせる。物質文明に反対する連中は、むろん、不平たらたら自動車に乗ってもらう必要はない。これこそ「仁を求めて仁を得たり、また何をか怨みん」で、そうなれば私たちの耳もすっかり洗い清められるだろう。
 だが残念なことに、多くの人はそれをしないで、ひたすら己をもって人を律したがる。そのため天下が多事になるのだ。ことに「フェアプレイ」にはその弊害が大きく、極端な場合は、むしろそれが弱点になって、逆に悪勢力にうまい汁を吸わせる結果にもなりかねない。たとえば、劉百昭が女子師範大学の学生を暴力で構内から追い出したときには、『現代評論』は屁もひらなかったが、ひとたび女子師範大学が再建されて後、今度は陳西瀅が反対派の女子大学の学生を扇動して校舎を占領させたときは、こういった。《もしかの女たちが頑張って出て行かないとしたら、どうなる?まさか諸君は、暴力でかの女たちの品物を運び出すわけにもいくまい》殴り、引きずり、そして品物を運び出したのは、劉百昭の先例があることだ。今度にかぎって「わけにもいくまい」なのはなぜか。それというのも、女子師範大学の側が多少とも「フェア」の気味があることを嗅ぎつけたからだ。しかしその「フェア」は、すでに弱点に変じて、逆に章士釗の「遺沢」を保護することに利用されているのだ。

八 結び

 以上に述べたことは、新と旧、またはその他ふたつの派閥間の争いを刺激し、悪感情を深め、もしくは対立を激化させる、などと懸念する人があるかもしれない。だが、私はあえて断言する。反改革者の改革者に対するあくどい攻撃は、これまで緩められたことはないし、そのやり方も、ますます陰険になって、ほとんど極限に達している。改革者だけがまだ夢を見ていて、いつも損をしているのだ。そのため中国は、いつになっても改革が実現できないのである。今後は、ぜひとも態度なりやり方なりを改めなくてはならない。
              一九二五年十二月二十九日

 

SOBA:画像を2枚ご紹介。

F_5492474_1←青年時代の魯迅。


魯迅(油彩画)
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訳註(表題下に*印のあるものが竹内好さんの付したもの。それ以外は補註)

「フェアプレイ」はまだ早い *
 原題は「論『費厄潑頼』応該緩行」はじめ『莽原(もうげん)』第一号(一九二六年一月十日)に発表された。『墳』に収める。

(1)林語堂(リンユータン 一八九五~一九七六)もとの名は玉堂、福建竜渓の人。アメリカとドイツに留学、言語学を専攻した。のち北京大学教授、語絲派に加盟、一九二六年の大弾圧で北京を脱出、厦門大学の文科主任となり、魯迅を教授に招いた。北伐のとき武漢政府に参加、このころから英文でも著作するようになった。一九三二年『論語』ついで『人間世』『宇宙風』などの雑誌を創刊、その主張にかかる小品文とよぶ中間領域と、語録体とよぶ折衷文体とは一世を風靡した。抗戦期にアメリカに渡って国民党系の海外スポークスマンとして活躍、戦後はユネスコ芸術部長になった。のち香港に隠棲した。

(2)「にせの角」原文は「義角」で、陳源(陳西瀅)が『現代評論』第三巻第五十三号(一九二五年十二月十二日)の「閑話」で用いた。陳は『現代評論』創刊一周年に当ってその功績を自讃し、暗に反対派を諷してこう書いたーー
 「本誌の第二の功績は、一切の批評が学理と事実の上に立ち、口から出まかせの慢罵でないことだ。これは『紳士の臭み芬々(ふんぷん)』かもしれないが。われわれの考えでは、事実の真相を究明せずに口から出まかせの慢罵を吐くぐらい、三尺の童子でもやれること、なにも莫大な精力と時間をついやして雑誌を出すことはない。花は人みな愛し、魔鬼は人みなきらう。だからといって大衆に迎合するために、わざわざ花弁に絵具を塗ったり、鬼の頭ににせの角をつけるのは、われわれから見ると、あらずもがなどころか、寒気さえする」

(3)「人血をもって……」原文は「以人血染紅頂子」清朝の制度で、官帽の頂につける飾り玉(頂子)は位階によって色と材が異なり、一品官はルビーに真珠、二品官は珊瑚にルビーだった。そのため反政府運動を弾圧することで官位が昇進したものを当時の民間でこうよんだ。

(4)袁世凱(一八五八~一九一六)は河南項城の人。軍籍を歴任し、李鴻章(リーホンチャン)のあとを継いで直隷総督兼北洋大臣になった。いわゆる北洋軍閥の首領である。辛亥革命のとき革命軍と取引して、清帝を退位させる代償として臨時大総統、ついで初代大総統となった。

(5)原文は秋瑾姑娘。秋瑾(一八七五~一九〇七)は女性革命家、紹興の人、鑑湖女俠と号する。一九〇四年、家を棄てて日本に渡り、翌年帰国して革命運動にたずさわる。徐錫麟(シューシーリン)、陶成章(タオチョンチャン)らと紹興に大通体育学堂を建てて蜂起にそなえた。徐錫麟が安慶での蜂起に失敗したあと、七月十三日(旧暦六月四日)逮捕され、翌未明、軒亭口で処刑された。官用語で前者を皖案、後者を浙案とよぶが(皖は安徽省の別名、案は事件の意)じつは一連の光復会系の革命運動である。失敗はしたが一世を震撼させた功績は大きく、辛亥革命の先声である。

(6)王金発(ワンチンファー)、名は逸、浙江嵊県(じょうけん)の人、もと洪門会系統の秘密結社(これを会党という)の一首領。光復会は革命運動のため会党を組織するのに熱心であり、かれも陶成章に説得されて入会した。辛亥革命のとき、手下の武装集団をひきいて紹興に乗り込み、旧官僚が看板だけ塗りかえた軍政府を追ってみずから都督(最高長官)と称した。一九一三年の第二革命(反袁闘争)の失敗後、袁世凱の手下の朱瑞(チュールイ)によって杭州で謀殺された。
 都督。古くからある官名だが、辛亥革命のとき、最初の独立府である湖北省軍政府が長官名を都督とし、新軍協統(旅団長に当たる)黎元洪(リーユアンホン)を拉致して都督に当てたので、他の各省もこれに見習った。中華民国の最初の官制では旧制の督撫を廃して都督を政軍両面を統轄する一省の長とした。のち将軍と改名、さらに督軍と改名し、その下位に民政担当の省長を設けた。この官制が整う以前、中華民国成立までは、各地方単位で勝手に都督を名のる一時期があり、上海だけで三都督が併立したこともあった。王金発が紹興で都督を称したのもそれに準ずる。

(7)江蘇省無錫(むしゃく)をさす。陳西瀅(チェンシーイン)がそのころ自分の故郷の無錫を中国の模範県と誇った(ただしシニカルな筆致で)。楊蔭楡(ヤンインユー)については註10参照

(8)租界とは居留地の中国名。旧中国にあった外国の特殊権益のひとつで、中国政府の行政権の及ばぬ地域をさす。アヘン戦争後の南京条約にもとづいて一八四五年にイギリスが上海に設定したのが最初。日清戦争後から急激にふえ、一時は全国で共同租界二、専管租界二十五、その設定国八を数えるまでになった。その後、次第に回収されて、第二次大戦で消滅した。租界は領土割譲や租借地とはちがうが、それに準ずるもので、侵略の根拠地である。中国政府が外国人の内地雑居をきらったために発生した。そこに住む中国人は当然差別を受けるが、生命財産は保障されるので、動乱のたびに人口流入がふえた。政客も政変のときよく租界に隠れて治外法権を盾とする。北方では天津、南方では上海の租界がよく使われた。

(9)「党同伐異」はもと学問上の派閥闘争、のち一切の派閥闘争の意に転化し、否定的な評価で使われるようになった。陳源は註2に引用した文のすぐ前でこの語を否定的に用いている。中国は十八世紀のヨーロッパとおなじで、党同伐異の社会だとかれは述べる。それを逆用して魯迅は肯定的な意味におきかえた。

(10)「公理」は、いわゆる女師大事件のさい陳源らの組織した「教育界公理維持会」を諷する。動物のオスを公、メスを母とよぶ。母を俗化したものが婆(妻のことを老婆とよぶ)で、婆理はシャレ。
 国立北京女子師範大学は、はじめ初級女子師範、のち高等女子師範となり、一九二四年に大学に昇格した。同年、校長の許寿裳(シューショウシャン)が辞職して楊蔭楡(ヤンインユー)が後任になった。楊は江蘇無錫の人、日本で女高師に学んでからアメリカに留学、コロンビア大学で学位をとった。女性として最初の大学学長である。しかし思想は古く、学校を家庭にたとえて学生に服従を強い、その態度が高圧的だった。そのため学生から排斥され、一九二五年一月には罷免運動がおこった。
 北京の政界は一九二四年十月、馮玉祥(フォンユーシアン)のクーデターのあと、十一月に段祺瑞(トアンチールイ)が臨時執政となり臨時政府の司法総長に章士釗(チャンシーチャオ)が就任した。二五年四月、章は教育総長を兼任し、頻発する大学紛争を抑えるべく教育粛清(整頓学風)方針を打ち出した(整頓学風令の公布は同年八月)。楊蔭楡はこれによって勢を得た。五月七日の国恥記念日(一九一五年、日本が二十一カ条を要求して最後通牒をつきつけた日、中国政府がそれを呑んだ五月九日と併せて国恥記念日)には学生団のデモが予定されていたが、楊は学生の参加を禁止し、代わりに学内で講演会を開いた。しかし楊は、参加した学生から一斉に非難を浴びて、退場を余儀なくされた。その日の午後、楊は自派の教員を宴席に招いて対策を協議し、五月九日、主謀者と目される学生自治会委員六名(許広平と劉和珍をふくむ)を評議会名義で退学処分にした。学生自治会は、それに抗議して、評議会あてに当日の実情報告をおこなった。
 一九二五年は全国的に革命機運の昂揚した年で(五・三〇事件)、反動の拠点である北京でも新旧の対立が激化した。女師大事件はその一環である。魯迅ははじめ消極的だったが、五月二十七日、学生処分に反対する七名の教員(魯迅は時間講師)の共同声明に名を連ね、のち否応なく渦中に引き込まれた。八月に入って教育総長章士釗は、女師大を閉鎖し、別に国立女子大学を新設する案を実行に移した(六日)。これに反対する学生は、教員(魯迅をふくむ)九名、学生十二名から成る校務維持会を成立させた(七日)。北京大学の評議会は教育部からの離脱を宣言(十八日)、このとき胡適や陳源らは反対した。章士釗はこの反対派十七名を「正人君子」とよんで賞賛した。国立女子大学開設の準備のため教育部専門教育司司長劉百昭(リウパイチャオ)は、女師大の構内にたてこもる女子学生を、女の暴力団をやとって追い出した(二十二日)。追放された学生は別の場所を借りて自主講座を開いた(二十二日)。十一月十日、章士釗は教育総長を辞職し、学生側が勝利して、十一月三十日、ようやく本校舎にもどった。十二月十四日、陳源らが教育界公理維持会を組織(のち国立女子大学後援会と名を変える)した。
 この間、魯迅は章士釗によって教育部僉事(せんじ)の職を罷免され(八月十三日)、平政院(行政裁判所)に提訴(同三十一日)、翌年一月十七日勝訴して復職した。女師大校務維持会は一九二六年一月十三日解散した。
 教育部の官制。南京臨時政府から北京政府にかけて、すなわち国民政府以前の中央政府官制は、国務院と九部(教育部はその一)が主体であり、大きな変動はなかった。いま教育部だけでいうと、その組織は総務庁、普通教育司、専門教育司、社会教育司、および各種直属機関から成り、司の下位に科と処がある。職員の定員は一九二五年ころは総長一、次長一、参事四、司長三、秘書八、視学十六、僉事二十四、主事四十二、技正一、技士二、雇員若干だった。官等は特任から九等まであり、僉事は四等または五等官である。魯迅はこのころ僉事、所属は一貫して社会教育司だった。

(11)清流は後漢末に宦官政治を批判して大弾圧を受けた学者グループ、党錮(とうこ)の乱ともよばれる。東林は明末の東林党、やはり政治批判によって宦官魏忠賢(ぎちゅうけん)から数百名殺された学者グループ。

(12)火食の法を教えたという伝説上の帝王。

 

SOBA:画像を1枚ご紹介。

1932年,北京の師範大学で、学生に講演する魯迅。(写真もとは文汇报)
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1932年,鲁迅在北京师范大学演讲

 

解説

 魯迅Lu Hsün(Lu Sin)は、本名を周樹人Chou Shu-jen 字を豫才Yü-tsai という。魯迅は彼の代表的ペンネームだが、ほかにもたくさんのペンネームがある。一八八一年旧暦八月三日[新暦九月二十五日]、浙江省紹興府にうまれ、一九三六年十月十九日未明、上海でなくなった。
 周作人、周建人の二人のそれぞれ四歳ちがいの弟がある。作人は、有名な文学者で、ながく北京大学教授をした。若いころは魯迅と共同の仕事をしていたが、のちに立場が分かれた。建人は生物学者である。
 魯迅のおさないころ、家が没落した。彼は官費の技術者養成の学校にはいり、そこから官費で日本へ留学した。日本には一九〇二年から一九〇九年までいた。はじめ仙台の医学専門学校にはいったが、思うところあって中途退学し、東京で文学活動をはじめた。一九一一年の民国革命のときは、郷里で教員をしていた。革命後、教育部の吏員になり、北京に移住した。一九一八年に文学生活を復活し、処女作『狂人日記』を発表した。その後、多くの小説と詩と評論を書き、多くの外国作品を訳した。代表作は『阿Q正伝』である。また、北京大学その他で文学史を教え、『中国小説史略』という本を出した。
 一九二六年、いわゆる三・一八事件がおこり、軍閥の圧迫がはげしくなったので、北京を脱出して、一時厦門(アモイ)にいたが、やがて広東に渡った。広東には一九二七年一月から九月までいた。当時の広東は、国民革命の発祥地として、自由の気がみなぎっていた。しかし、同年四月、蔣介石のクーデターを境として革命が反革命に転じ、自由が一掃された。そこで広東を脱出して上海の租界に逃れた。一九二七年十月から死ぬまで、短期の旅行のほかは、上海を離れなかった。
 魯迅には、留学時代から、名目上の妻があったが、愛情のない異性との同居を彼はこばんだ。上海定住以後は、むかし彼の学生であった許景宋(広平)が彼の妻になった。一九二九年に海嬰(かいえい)という男子がうまれた。
 魯迅には文学上の敵が多いが、とくに上海定住の前後は、いわゆるプロレタリア文学派から猛烈な攻撃を受けた。攻撃派は魯迅をプチ・ブルときめつけた。しかし魯迅からすれば、相手の公式主義の方がプチ・ブル的に見えた。そこで彼はあくまで応戦したが、その過程で彼の方もマルクス主義を学んだ。これ以後はほとんど創作がなく、彼の活動はもっぱら評論に集中された。当時の論敵の一人に郭沫若がいる。
 国民党支配の強化につれて、自由が抑圧され、左翼出版物が次々に消えていった。テロも横行した。とくに一九三一年の、柔石ら五人の青年作家をふくむ二十数名の不法投獄事件は、国民党のファッショ化をあきらかに示した。このころ魯迅はすでに、自由大同盟、左翼作家連盟など、自由防衛運動の中心に立っていた。彼自身が生命の危険を感じながら、あらゆる手段を講じて不法を攻撃することをやめなかった。
一九三一年の満州事変以後、日本の侵略が目にみえて露骨になり、それにともなって、民族主義の機運がおこった。中共は一九三五年に八・一宣言で民族統一戦線を全国民によびかけた。文学界でも、統一への動きがおこったが、このとき、統一戦線の組織問題をめぐって二つの意見が対立した。一方が文芸家協会、一方が文芸工作者である。魯迅は、少数派である後者の中心に立った。この論戦も、かつてのプロレタリア文学のときにおとらず、はげしかった。この論戦の最中に、かねての病状が悪化して、魯迅は死んだ。
 魯迅の死は、双方の陣営にショックを与えた。そしておのずから統一をもたらした。半年後に、蘆溝橋事件がおこった。
 魯迅の葬式は「民衆葬」の形でいとなまれた。すべての文学者、すべての文化人が参加し、学生、市民、労働者も参加した。「魯迅精神」は民衆全体のものになり、抗戦をはげます力になった。翌年、延安には魯迅を記念する学校と図書館が建てられた。これ以後、十月十九日には毎年、魯迅祭が行われ、年ごとにさかんになる。日本でも戦後、魯迅祭は年中行事になった。
 魯迅はおもに、日本語とドイツ語を通じて外国文化をとりいれた。日本文学には終始、深い関心をもっていた。日本人の交友も、死ぬまで絶えなかった。ことに晩年は、日本語で文章を書き、日本の刊行物に寄稿するようになった。
 魯迅の名は、国際的に知られているが、日本でも早くから、中国の代表的文学者として有名であった。今日までに、多くの翻訳と研究が出ている。そして魯迅研究は今後ますますさかんになろうとしている。

 この本の構成と内容のあらまし。
 魯迅のエッセイの中から代表的なものをえらんで、五部に分類した。それは次のような意図にもとづく。
 第一部におさめた「『墓』の後に記す」は、厦門時代に書いたものである。『墓』(原題は『墳』)という文集の後記である。これにはめずらしく、魯迅の現在的心境が、たくまずに素朴な形で出ている。そこで、全体の序という意味で、これを巻頭においた。
 第二部におさめた四つの文章は、二つの事件に関係して書かれたものである。一つは、一九二六年三月十八日のいわゆる三・一八事件。馮玉祥の国民軍と日本の軍艦との間に紛争が起こり、外交問題に発展したが、当時の北京政府が日本に屈服した。この軟弱外交をいきどおって北京で市民大会がもたれた。そのとき、軍警が市民に向かって発砲し、死傷者が出た。その中に魯迅の学生も含まれていた。当時、魯迅は、『現代評論』派の有閑文学にたいして筆陣を張っていたが、事件がおこると、ただちに筆鋒を政府の暴力に向けかえた。そして書かれたのが「花なきバラ」の連作である。ここにはその最初の二篇をおさめた。
 もう一つの事件は、一九三一年におこった国民党のテロである。そのギセイ者の中に、魯迅の若い友人の柔石らが含まれていた。しかも事件の当座は、魯迅自身、生命の危険があって逃げまわっていたほどなので、何も書くことはできなかった。年をへて、やがて痛憤の書が相ついであらわれた。「忘却のための記念」と「深夜に記す」の二篇はその代表的なものである。以上、あわせて四篇、いずれも具体的な事件とかかわりがある点で、魯迅の文章の発想法を知るのに便利なので、ここにおさめた。
 第三部では、魯迅の文章のさまざまのスタイルを、時代順にならべてみた。「随感録」は雑誌『新青年』にのったもので、初期の魯迅の思想を見ることができる。「『フェアプレイ』はまだ早い」は、林語堂との第一回の論争記録である。当時、魯迅と林語堂とは、『語絲』というグループを作って、共同して旧勢力に対抗していたが、同一陣営にいながらすでに林語堂コースには魯迅は批判的であったことがこの論文には示されている。後になるほどこの二人のコースには開きが加わった。
 「どう書くか——夜記の一——」は、広東時代の作品である。当時の魯迅は、左右の陣営から引っぱりっこにされていたが、魯迅自身は、このような軽薄な革命さわぎには疑いをもっていた。この事情は、第四部におさめた二つの講演「革命時代の文学」と「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」をあわせてみると、いっそうよくわかる。なお、この文章には魯迅の文学観が率直に述べられている点も、異例である。
 「小雑感」と「半夏小集」とは、年代がへだたっており、中間に魯迅自身の思想的成長がはさまっているにもかかわらず、本質的に類似していることが一目で見えるように、比較に便利な文体をならべたわけである。
 「徐懋庸に答え、あわせて抗日統一戦線の問題について」は、晩年の統一戦線の問題をめぐる論争の中からうまれたものである。魯迅の文章としても、有数の力のこもった論文である。死の直前に書かれていて、この論文を書いたために死期を早めたといわれている。徐懋庸(じょぼうよう)は、魯迅を師と仰いだことのある青年文学者だが、それを相手どっての一歩もひかぬこの痛烈な批判に、彼の生活態度の真率さと、論争態度の見事さがあらわれている。
 「死」は、晩年の心境のよく出た小品である。高い完成が示されている。
 第四部には、講演の中から興味のあるものをえらんだ。いずれも、内容がわかりやすいから、第三部までの文章の注釈としても、役に立つかと思う。とくに、「革命時代の文学」と「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」の二つの講演の中間には、国民党のクーデターという血なまぐさい事件がはさまっていることに注意していただきたい。
 第五部には、附録として、魯迅が日本語で書いた文章の中から代表的な一篇をえらんだ。私たちにとっても記念の意味が深い文章である。

 

(以上、『魯迅評論集 竹内好編訳』(岩波文庫)からの転載紹介終わり)

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参考:
実直な人が、悪を見のがすのを寛容と思い誤って、いい加減な態度をつづけてゆくならば、今日のような混沌状態は永久につづくだろう
http://thomas-aquinas.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-a64d.html

 

以下魯迅の原文。

論「費厄潑賴」應該緩行
維基文庫,自由的圖書館
http://zh.wikisource.org/wiki/論「費厄潑賴」應該緩行

論「費厄潑賴」應該緩行
作者:魯迅
1926年1月10日

本作品收錄於:《莽原》和《墳》

一 解題

《語絲》五七期上語堂先生曾經講起“費厄潑賴”(fair play),以為此種精神在中國最不易得,我們只好努力鼓勵;又謂不“打落水狗”,即足以補充“費厄潑賴”的意義。我不懂英文,因此也不明這字的函義究竟怎樣,如果不“打落水狗”也即這種精神之一體,則我卻很想有所議論。但題目上不直書“打落水狗”者,乃為回避觸目起見,即並不一定要在頭上強裝“義角”之意。總而言之,不過說是“落水狗”未始不可打,或者簡直應該打而已。

二 論“落水狗”有三種,大都在可打之列

今之論者,常將“打死老虎”與“打落水狗”相提並論,以為都近於卑怯。我以為“打死老虎”者,裝怯作勇,頗含滑稽,雖然不免有卑怯之嫌,卻怯得令人可愛。至於“打落水狗”,則並不如此簡單,當看狗之怎樣,以及如何落水而定。考落水原因,大概可有三種:(1)狗自己失足落水者,(2)別人打落者,(3)親自打落者。倘遇前二種,便即附和去打,自然過於無聊,或者竟近於卑怯;但若與狗奮戰,親手打其落水,則雖用竹竿又在水中從而痛打之,似乎也非已甚,不得與前二者同論。

聽說剛勇的拳師,決不再打那已經倒地的敵手,這實足使我們奉為楷模。但我以為尚須附加一事,即敵手也須是剛勇的鬥士,一敗之後,或自愧自悔而不再來, 或尚須堂皇地來相報復,那當然都無不可。而於狗,卻不能引此為例,與對等的敵手齊觀,因為無論它怎樣狂嗥,其實並不解什麼“道義”;況且狗是能浮水的,一定仍要爬到岸上,倘不注意,它先就聳身一搖,將水點灑得人們一身一臉,於是夾著尾巴逃走了。但後來性情還是如此。老實人將它的落水認作受洗,以為必已懺悔,不再出而咬人,實在是大錯而特錯的事。

總之,倘是咬人之狗,我覺得都在可打之列,無論它在岸上或在水中。

三 論叭兒狗尤非打落水裡,又從而打之不可

叭兒狗一名哈吧狗,南方卻稱為西洋狗了,但是,聽說倒是中國的特產,在萬國賽狗會裡常常得到金獎牌,《大不列顛百科全書》的狗照相上,就很有幾匹是咱們中國的叭兒狗。這也是一種國光。但是,狗和貓不是仇敵麼?它卻雖然是狗,又很像貓,折中,公允,調和,平正之狀可掬,悠悠然擺出別個無不偏激,惟獨自己得了“中庸之道”似的臉來。因此也就為闊人,太監,太太,小姐們所鍾愛,種子綿綿不絕。它的事業,只是以伶俐的皮毛獲得貴人豢養,或者中外的娘兒們上街的時候,脖子上拴了細鏈於跟在腳後跟。

這些就應該先行打它落水,又從而打之;如果它自墜入水,其實也不妨又從而打之,但若是自己過於要好,自然不打亦可,然而也不必為之歎息。叭兒狗如可寬 容,別的狗也大可不必打了,因為它們雖然非常勢利,但究竟還有些像狼,帶著野性,不至於如此騎牆。

以上是順便說及的話,似乎和本題沒有大關係。

四 論不“打落水狗”是誤人子弟的

總之,落水狗的是否該打,第一是在看它爬上岸了之後的態度。

狗性總不大會改變的,假使一萬年之後,或者也許要和現在不同,但我現在要說的是現在。如果以為落水之後,十分可憐,則害人的動物,可憐者正多,便是霍亂病菌,雖然生殖得快,那性格卻何等地老實。然而醫生是決不肯放過它的。

現在的官僚和土紳士或洋紳士,只要不合自意的,便說是赤化,是共產;民國元年以前稍不同,先是說康黨,後是說革黨,甚至於到官裡去告密,一面固然在保全自己的尊榮,但也未始沒有那時所謂“以人血染紅頂子”之意。可是革命終於起來了,一群臭架子的紳士們,便立刻皇皇然若喪家之狗,將小辮子盤在頭頂上。革命黨也一派新氣,——紳士們先前所深惡痛絕的新氣,“文明”得可以;說是“咸與維新”了,我們是不打落水狗的,聽憑它們爬上來罷。於是它們爬上來了, 伏到民國二年下半年,二次革命的時候,就突出來幫著袁世凱咬死了許多革命人,中國又一天一天沉入黑暗裡,一直到現在,遺老不必說,連遺少也還是那麼多。這就因為先烈的好心,對於鬼蜮的慈悲,使它們繁殖起來,而此後的明白青年,為反抗黑暗計,也就要花費更多更多的氣力和生命。

秋瑾女士,就是死於告密的,革命後暫時稱為“女俠”,現在是不大聽見有人提起了。革命一起,她的故鄉就到了一個都督,——等於現在之所謂督軍,——也是她的同志:王金髮。他捉住了殺害她的謀主,調集了告密的案卷,要為她報仇。然而終於將那謀主釋放了,據說是因為已經成了民國,大家不應該再修舊怨罷。但等到二次革命失敗後,王金髮卻被袁世凱的走狗槍決了,與有力的是他所釋放的殺過秋瑾的謀主。

這人現在也已“壽終正寢”了,但在那裡繼續跋扈出沒著的也還是這一流人,所以秋瑾的故鄉也還是那樣的故鄉,年復一年,絲毫沒有長進。從這一點看起來,生長在可為中國模範的名城裡的楊蔭榆女士和陳西瀅先生,真是洪福齊天。

五 論塌台人物不當與“落水狗”相提並論

“犯而不校”是恕道,“以眼還眼以牙還牙”是直道。中國最多的卻是枉道:不打落水狗,反被狗咬了。但是,這其實是老實人自己討苦吃。

俗語說:“忠厚是無用的別名”,也許太刻薄一點罷,但仔細想來,卻也覺得並非唆人作惡之談,乃是歸納了許多苦楚的經歷之後的警句。譬如不打落水狗說,其成因大概有二:一是無力打;二是比例錯。前者且勿論;後者的大錯就又有二:一是誤將塌台人物和落水狗齊觀,二是不辨塌台人物又有好有壞,於是視同一律,結果反成為縱惡。即以現在而論,因為政局的不安定,真是此起彼伏如轉輪,壞人靠著冰山,恣行無忌,一旦失足,忽而乞憐,而曾經親見,或親受其噬齧的老實人,乃忽以“落水狗”視之,不但不打,甚至於還有哀矜之意,自以為公理已伸,俠義這時正在我這裡。殊不知它何嘗真是落水,巢窟是早已造好的了,食料是早經儲足的了,並且都在租界裡。雖然有時似乎受傷,其實並不,至多不過是假裝跛腳,聊以引起人們的惻隱之心,可以從容避匿罷了。他日複來,仍舊先咬老實人開手,“投石下井”,無所不為,尋起原因來,一部分就正因為老實人不“打落水狗”之故。所以,要是說得苛刻一點,也就是自家掘坑自家埋,怨天尤人,全是錯誤的。

六 論現在還不能一味“費厄”

仁人們或者要問:那麼,我們竟不要“費厄潑賴”麼?我可以立刻回答:當然是要的,然而尚早。這就是“請君入甕”法。雖然仁人們未必肯用,但我還可以言之成理。土紳士或洋紳士們不是常常說,中國自有特別國情,外國的平等自由等等,不能適用麼?我以為這“費厄潑賴”也是其一。否則,他對你不“費厄”,你卻對他去“費厄”,結果總是自己吃虧,不但要“費厄”而不可得,並且連要不“費厄”而亦不可得。所以要“費厄”,最好是首先看清對手,倘是些不配承受“費厄”的,大可以老實不客氣;待到它也“費厄”了,然後再與它講“費厄”不遲。

這似乎很有主張二重道德之嫌,但是也出於不得已,因為倘不如此,中國將不能有較好的路。中國現在有許多二重道德,主與奴,男與女,都有不同的道德,還沒有劃一。要是對“落水狗”和“落水人”獨獨一視同仁,實在未免太偏,太早,正如紳士們之所謂自由平等並非不好,在中國卻微嫌太早一樣。所以倘有人要普遍施行“費厄潑賴”精神,我以為至少須俟所謂“落水狗”者帶有人氣之後。但現在自然也非絕不可行,就是,有如上文所說:要看清對手。而且還要有等差,即“費厄”必視對手之如何而施,無論其怎樣落水,為人也則幫之,為狗也則不管之,為壞狗也則打之。一言以蔽之:“黨同伐異”而已矣。滿心“婆理”而滿口“公理”的紳士們的名言暫且置之不論不議之列,即使真心人所大叫的公理,在現今的中國,也還不能救助好人,甚至於反而保護壞人。因為當壞人得志,虐待好人的時候,即使有人大叫公理,他決不聽從,叫喊僅止於叫喊,好人仍然受苦。然而偶有一時,好人或稍稍蹶起,則壞人本該落水了,可是,真心的公理論者又“勿報復”呀,“仁恕”呀,“勿以惡抗惡”呀……的大嚷起來。這一次卻發生實效,並非空嚷了:好人正以為然,而壞人於是得救。但他得救之後,無非以為占了便宜,何嘗改悔;並且因為是早已營就三窟,又善於鑽謀的,所以不多時,也就依然聲勢赫奕,作惡又如先前一樣。這時候,公理論者自然又要大叫,但這回他卻不聽你了。

但是,“疾惡太嚴”,“操之過急”,漢的清流和明的東林,卻正以這一點傾敗,論者也常常這樣責備他們。殊不知那一面,何嘗不“疾善如仇”呢?人們卻不說一句話。假使此後光明和黑暗還不能作徹底的戰鬥,老實人誤將縱惡當作寬容,一味姑息下去,則現在似的混沌狀態,是可以無窮無盡的。

七 論“即以其人之道還治其人之身”

中國人或信中醫或信西醫,現在較大的城市中往往並有兩種醫,使他們各得其所。我以為這確是極好的事。倘能推而廣之,怨聲一定還要少得多,或者天下竟可以臻於郅治。例如民國的通禮是鞠躬,但若有人以為不對的,就獨使他磕頭。民國的法律是沒有笞刑的,倘有人以為肉刑好,則這人犯罪時就特別打屁股。碗筷中菜,是為今人而設的,有願為燧人氏以前之民者,就請他吃生肉;再造幾千間茅屋,將在大宅子裡仰慕堯舜的高士都拉出來,給住在那裡面;反對物質文明的,自然更應該不使他銜冤坐汽車。這樣一辦,真所謂“求仁得仁又何怨”,我們的耳根也就可以清淨許多罷。

但可惜大家總不肯這樣辦,偏要以己律人,所以天下就多事。“費厄潑賴”尤其有流弊,甚至於可以變成弱點,反給惡勢力佔便宜。例如劉百昭毆曳女師大學生,《現代評論》上連屁也不放,一到女師大恢復,陳西瀅鼓動女大學生佔據校舍時,卻道“要是她們不肯走便怎樣呢?你們總不好意思用強力把她們的東西搬走了罷?”毆而且拉,而且搬,是有劉百昭的先例的,何以這一回獨獨“不好意思”?這就因為給他嗅到了女師大這一面有些“費厄”氣味之故。但這“費厄”卻又變成弱點,反而給人利用了來替章士釗的“遺澤”保鑣。

八 結末

或者要疑我上文所言,會激起新舊,或什麼兩派之爭,使惡感更深,或相持更烈罷。但我敢斷言,反改革者對於改革者的毒害,向來就並未放鬆過,手段的厲害也已經無以復加了。只有改革者卻還在睡夢裡,總是吃虧,因而中國也總是沒有改革,自此以後,是應該改換些態度和方法的。

一九二五年十二月二十九日。

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