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2014年8月23日 (土)

辺見庸 (日録1)私事片々 2013/10/21〜と、(日録2)から全保存 雑談日記Archive

(↓クリックすると拡大します)スクロールして見るなら
0822__  アクセス解析を見ていて「ん?」と気がついたのが、8月22日(金)夕方でした。辺見庸さん関連は、息長くアクセスがありましたが、それほど多くはなかったです。それが普段と違うアクセス数。「参照元/検索キーワード」を見ると「ブログ 削除 辺見庸」と言うのがあり、グーグル検索結果に行くと僕のエントリーが1頁の10番目に辛うじて出てました。そして、辺見さんのブログに行くとブログはあれど、ことごとくエントリーリンクなどが「0」になってます。これは保存した方がいいなと、夕食後しばらくしてから保存作業を開始しました。キャッシュで拾ったり、Internet Archiveで拾ったりと、二つのやり方で作業しました。エアコンが壊れ(※)うだるような暑さの中、熱中症になりそうになりながら一段落したのが日替わり23日(土)早朝の4時頃でした。Internet Archiveは昔と違い何時まで保存か不安があるので、個人アーカイブと言う事でアップしておきます。
※7月31日に故障。ONにしても3分ほどすると終了してしまいます。1991年4月設置なので、もう23年ちょっと使っていて寿命なのかも、。今年の夏はエアコンなしです。

 辺見さんの日録は、私事片々(不稽日録)が2013年7月16日(memo1)~2013年8月18(memo4)まであった後、2013年10月21日から(日録1)私事片々が始まり、2013年12月21日の(日録8)私事片々で一旦終わってます。さらに、今年の2014年01月14日から(日録1)私事片々が始まり、2014年08月13日の(日録30)私事片々まで続いていました(2013年7月16日の不稽日録から写真と時事評論を載せるスタイルが始まりました。今回のアーカイブでほぼ保存出来ました)

関連:辺見庸 (日録1)私事片々 2013/12/28~と、(日録2)から全保存 雑談日記Archive

追記(2018年2月17日):辺見庸 私事片々(不稽日録)2013/07/16~07/31と(不稽日録)2013.8.1〜8.7全保存 雑談日記Archive

追記(2014年12月24日):辺見庸 (日録1―1)私事片々 2014/08/30~と、(日録1ー2)から全保存 雑談日記Archive

追記(2015年5月16日):辺見庸 (日録1―1)私事片々 2014/12/30~と、(日録1―2)から全保存 雑談日記Archive

追記(2015年10月3日):辺見庸 (日録1)私事片々 2015/09/15~から全保存 雑談日記Archive

追記(2016年1月11日):辺見庸 (日録1)私事片々 2015/11/10~と、(日録2)から全保存 雑談日記Archive

追記(2016年4月18日):辺見庸 (日録)私事片々2016/03/25~から全保存 雑談日記Archive

追記(2016年6月8日):辺見庸 (日録)私事片々2016/05/28〜から全保存 雑談日記Archive

追記(2016年7月16日):辺見庸 (日録)私事片々 2016/07/05~から全保存 雑談日記Archive

追記(2016年8月14日):辺見庸 私事片々(08/09)汝アホ臣民ニ告ク 2016/08/08〜全保存 雑談日記Archive

追記(2016年11月6日):辺見庸 (09/07)日録 私事片々 2016/09/07~と、(10/31)日録から全保存 雑談日記Archive

追記(2016年12月1日):辺見庸 (11/20)日録 私事片々 2016/11/20~から全保存 雑談日記Archive

追記(2017年1月1日):辺見庸 (12/28)日録 私事片々 2016/12/28〜から全保存 雑談日記Archive

追記(2017年1月25日):辺見庸 (01/07)日録 私事片々 2017/01/07~から全保存 雑談日記Archive

追記(2017年6月18日):(辺見庸 私事片々 番外編)最近の記事 2017年(03/17)対談〜から(06/17)共謀罪とパンダの出産まで全保存 雑談日記Archive

 

 以下、辺見庸ブログ2013年10月21日からの(日録)私事片々をすべてアーカイブ保存しておきます。写真が多いので、2エントリーずつアップします(表示順は元ブログと同じく上から降順です)。なお、辺見さんがよく言う「エベレスト」についてはこちらで。同じくよく出てくる「コビト」ですがそのなど。辺見さんの「わたしの勘と切ない願望」。新宿焼身自殺に言及している「私事片々」(2014/12/12)

 

 以下、日録の2と1。

2013年10月28日
(日録2)

私事片々 
2013/10/27〜2013/11/04 
http://yo-hemmi.net/article/378781541.html

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ハナミズキの赤い実.JPG

・新しい靴でエベレストに1回のぼった。なにほどのこともない。風は枯れ葉を舞わせるほどに吹いてはいたものの、雲ひとつなかった。静かである。じつに、なにほどのこともない。「ゆらら しだれては/うつつな白い花影をくぐる者よ、/こもらふ青葉のむらがりを/わくるものよ・・・」(壺田花子『喪服に挿す薔薇』)と、ぶつぶつなぞりながら歩いたのは、つい先だってだった気がするのだが、とおり道のハナミズキもサルスベリも、気がつけば、いますべて花を落として静まりかえっている。時と死者たちがすでにすべるように花影をくぐっていったのだ。わたしは花影のみを見るともなく見ていた。なにほどのこともない。だが、なにか、身まかる気配はいまもある。褥瘡(じょくそう)はさらに腐爛した牡丹のように、肉の奥までくずれているはずだ。痛いのに痛さも感じえない腐爛のきわみ。熟爛し、ついに潰(つ)えるまで、潰えた後まで、狂気も気づかれないだろう。ここいらのハナミズキの紅葉はなにも美しくはない。ただ、赤茶色の葉のむらがりの奥でけんめいに赤く純情に光ってみせるもの。かわいい。かわいいあれは複合果だ。花序がひとつの果実のようだけれど、じつは果実そのものではないので「偽果」だというのだが、疲れたわたしの目には、クララ、なにがニセでなにが本物なのかもうわかりはしない。枯れ落ちそうな葉むらの奥で、赤く純情そうに光っているものが見えるだけだ。ハナミズキの並木からもう少しばかり歩くとサルスベリの並木になる。さしもながく咲き狂った花がいつかすっかり消えている。いまは老婆の陰核のような、黒ずんだ�果(さっか)だらけではないか。婆ちゃんのクリちゃんだらけだ。でも、クララ、これらの種子には翼があるんだ。もう少し風がつよくなるころ、�果は翼をのばし空を飛ぶ。その下を、時と死者たちがあちらへあちらへとすべっていくのだ。

 わたしがエベレストにのぼっているころ、自衛隊の勇壮な観閲式がおこなわれていた。安倍首相が、力による現状変更は許さない「確固たる国家意思」をしめすと、なんだかすごくいきんで訓示し、「『防衛力は、その存在だけで抑止力になる』という従来の発想は、完全に捨てさってもらわないといけない」と強調した。いつもとやはりなにかがちがう。どうするというのだ。安倍も防衛大臣も顔がかんぜんにイッちゃっているではないか。安倍ちゃん、おまへはスカスカのそのオツムでどうしたひといふのだ。中韓と戦争するといふのか。OMG!(2013/10/27)

SOBA:「�果(さっか)」の所は「蒴果(さっか)」の文字化けか。

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・けふ、エベレストに2回のぼった。シダレヤナギの枝の先が口に入った。苦い。麓のベンチは、空がこんなに贅沢に晴れているというのに、別世界のような日陰だった。わざわざ寒い日陰をえらんだのか(きっとそうだろう)、若い女がすこし猫背にして座り、ひとりポソポソと弁当を食べていた。じぶんでつくった弁当だろう。ご飯が冷えているのではないか。日陰のベンチに座って、女がひとり弁当を食べている風景は、なにか落ち着きと高尚な決意のようなものも感じられたが、高尚かどうかなどどうでもいい。そのベンチには以前、「ナメクジつかい」の女が座って朝から缶ビールを飲んでいた。ナメクジたちはビールのにおいに反応して目ざめ、ムクゲの葉裏をうごめきだした。その朝、絞首刑があり73の男が殺された。サルスベリの種子に翼が生えてクルクルと舞い落ちるころ、絞首刑はまたあるにちがいない。ペロッとした顔の法務省の若い皮っかぶり官僚が、なんの痛みもなく、淡々と死刑執行の「日程調整」をし、いささかもおもいわずらうこともなく、吊すべき対象者を選抜しているのだろう。いや、日程も人選も、もう済んでいることだろう。「人間であるがゆえの恥辱」。こうした恥辱が集まって、プリーモ・レーヴィの言う「グレー・ゾーン」になる、とジル・ドゥルーズは1990年に語った。「あまりにも凡俗な考え方に直面したり、テレビのバラエティー番組を見たり、あるいは大臣の演説や『楽天家』のおしゃべりを聞いたりするとき、そうした恥辱が頭をもたげてくる」「資本主義には普遍的なものがひとつしかない。市場である。普遍的な国家が存在しないのは普遍的な市場が存在するからにほかならない。すべての国家はこうした市場が集中する焦点であり、その証券取引所であるにすぎない。そして市場とは、普遍化や均質化をおこなうものではなく、富と貧困を産みだす途方もない工房である」「人類の貧困を生産する作業に加担して、骨の髄まで腐っていないような民主主義国家は存在しない」「集団がどのようにして変質し、どのようにして歴史にのみこまれてしまうのか、という問題が、不断の『気づかい』を強いてくる。従来はプロレタリアが自覚しさえすればよかった。しかしいまの私たちには、そんなプロレタリア像は無縁なものになってしまった」・・・。ベルナ−ル・スティグレールも『象徴の貧困』でほぼおなじ箇所を引用している。しかし、ドゥルーズを写経したとてどうなるものでもない。「われわれ」は崩壊してしまっている・・・とスティグレールは言う。「われわれ」の恥ずべき心性はもはや対象化されない。「われわれ」はひとりの例外もなく「罪のない恥知らず」になってしまった。ただし、われわれ人間はいまとてつもない恥とともに存在し、どうじに、われわれ人間はいまどこにも恥とともに存在しはしない。消えかかる恥の薄ら陽は、だから、わたしの奥のみを照らせ。(2013/10/28)
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・雨。宇野弘蔵流に言うならば、資本は自己増殖する価値の運動体である。ひたぶるにゼニモウケをしたがる、それ以外にはいかなる目的ももたない、悲しいが悲しいとも、すさんでいるがすさんでいるとも感じえない、絶対的空無の運動体だ。それが主役となった社会では、ひととそのいっさいのかんけいは、資本の自己増殖のたんなる一手段に吸収されていくほかない。新聞およびテレビの記者らは、結果、社会の襞々に付着するチンカスまたはマンカスとなりはてて、「芝海老」と表示しながらバナメイエビをつかったメニューの問題とかについて、天下の一大事とばかりに騒ぎまくり、憲法の崩壊、戦争前的兆候などの諸現象にはなんらおもいがおよばない。それでもチンカスまたはマンカスはだんじて自己を恥じない。なぜなら、かれらはチンカスないしマンカスだからである。
 左手に傘をさしてカフェ・ダフネにいったら、老いた女の客がひとりでズルズルと音たててナポリタンを食っていた。どうしたことだらう。女は口にパスタを放りこむだけ放りこみ、さっぱり噛むということをしない。両の頬がぱんぱんにふくれていく。音楽がいつもとちがう。これはマンボみたいだ。「別れ風だよ やませの風だ/俺をうらむな 風うらめ/忘れまいぞと あとふりむいて/ダンチョ うたえばサ/また涙 ダンチョネ・・・」。「アキラのダンチョネ節」ではないか。難曲だが、うまいものだ。高音域のすばらしくのびる声。こんなふうに楽にうたえる者はもういない。女が口に詰めこんだパスタをぐえーっと皿に吐きだし、またフォークで口にもどし、こんどはゆっくりと噛みながら食いはじめた。曲は「アキラのズンドコ節」にかわっている。いつもは低くダミアを流している店なのに、どうしたのだらう。
 小雨がつづく。「不快が俺の原理だ」とは、まあ、よくもいったものだ。キザったらしい。傘さしてあるく。「おお、私は私である、という表白は、如何に怖ろしく忌まわしい不快に支えられていることだろう!」。うう、なんてキザなんだらう。歯がうく。なんかちがうんだよな。「あの娘をペットにしたくって/ニッサンするのは パッカード/骨のずいまで シボレーで/あとでひじてつ クラウンさ/ジャガジャガのむのも フォドフォドに・・・」が、耳についてはなれない。足どりが「自動車ショー歌」になっちゃう。少し風がきた。傘さしてエベレストにのぼる。アキラが消える。あるく。ハナミズキの赤い実が道に点々、ウサギの目のやうに落ちている。あるく。あっ、また風がきた。ボトボトと傘になにかがあたる。サルスベリの�果にちがひなひ。婆ちゃんおサネがぱらぱらと降っている。羽も生やさずに、黒いおサネちゃんが空から降ってくる。ひなさきちゃんがぱらぱらと。おサネの雨をあるくしかない。(2013/10/29)
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・晴れ。しかし風邪。エベレスト登頂を早々とあきらめる。さてしも、国家安全保障会議(J-NSC)をつくるというからには、米国がCIAをその指揮下につくったように、ニッポンもなんだかんだ言ったって、いずれ対外諜報機関(J-CIAのやうなもの)を設立し、スパイを組織的に養成する気だろう。特定秘密保護法案はそのための布石だったわけだし。ファシストたちはかならずファルス (phallus)をほしがる。実体的にも象徴的にも。ファルスは発生学的には、男のペニスだけでなくおサネちゃんも指したらしいから、小池百合子という女性が「核」を容認しJ-NSCのはたふりをやったのもむべなるかな。ほんとうにこのひとたちはヤル気なのだ。あれよあれよ、だ。ひとはもうまったき絶望という最後の自由さえもたされていない。世界とは、万一それが現実に存在するにせよ、終わりない虚無と偽装のゲームの謂にすぎない。戦争は、遅かれ早かれ、大なり小なり、なんの終末的イメージも描かれぬまま、ある日あるとき、ひきおこされるだろう。たくさんひとが死ぬだろう。美しい歌がうたわれるだろう。全体的シナリオを知っている者は(たぶん資本以外には)いはしない。人間はしだいにこのまま人間でありつづけるのに嫌気がさしているらしい。でも、けだし、おのずから変わる以上には世界を変えることなどできはしない。ここでは、さしあたり、なにも意味がないのに、意味があるかのようなふりをし、望むことなどなにもなくても、いちおうなにか望んでいることにしなくてはならない。煢然(けいぜん)としてひとりその間に老いて消えるのみ。パキラをしばらく玄関においてみろという。陽をきらうのか。(2013/10/30)
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・風邪をおしてエベレスト登頂。1回つまずいたが倒れなかった。そのとき、落ちた樹影にからだがすっぽりとかくされ、影のなかから、陽にさらされた残りの世界を見ている気になった。このあたりは時間がずっととどこおっている。界がはっきりしない。路もわからない。10年のまどろみからまださめず、けふもまどろみつつ見知らぬ街をあるいている。微睡からさめたら、そのときは死んでいるのだらう。そうおもってあるいている。明日もエベレストにのぼるだらう。(2013/10/31)
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・犬とエベレストにのぼった。犬はむこうの尾根に駆けていく。踏みあらされたこちらの尾根には草があまり生えていないが、むこうには芝生があり、蒼く光っている。麓をしばらくあるくと、街路のサルスベリの幹もてらてらと光っているのが見えてくる。目をしばたたき見あげると、あんなにたくさんあったはずの�花がいつの間にかほどんど消えていた。�花は成熟すると果皮が乾燥し、縦に開裂して羽をだして飛ぶのだと読んで、その飛ぶところを見たいとおもっていたのだが、見そびれた。数日前の雨と風に吹き飛ばされたのだろう。あきらめて足下に目を落としてびっくりした。サルスベリの根方の窪みに、濃い葡萄色や焦げ茶色になった�花たちがびっしりと落ちていて、にぎやかにわいわいがやがや押しあいへしあいしているではないか。すでに開裂して種子が飛びでたのも、�花にまだ種子をおさめたままのもある。わずかに地中から緑の芽をだしているのもあるが、これは雑草であり、まさかサルスベリの芽ではなからう。そうそう、サルスベリの�花を「おサネちゃん」だとか「ババクリ」だとか喩えたのを読んだ知人の老婦人がメールをよこした。怒っているのではないらしひ。「畏れながら、貴方様は所謂ババクリなるものを間近にご覧になったことがおありになるのでせうか。ババクリとはいへ、なかには、ちさき桜桃のような色のものだって無きにしも非ずなのですよ・・・」。きっとさうだらうな、とおもふ。べつにさうでなくてもよひ。サクランボのやうなおサネちゃんなどわたしは見たくもなひ。皺は皺、黒ずみは黒ずみでよひのである。次元はややことなるが、「公共世界」という概念をわたしはたいへんうたがわしくおもってきた。しかしながら、「暴力の使用は世界を変えるが、いちばん起こりそうな変化は、より暴力的な世界である」といふハンナ・アレントの予言(「暴力について」)は正しかった。まぎれもなくいまは新たな「暗い時代」である。必死に明るいふりをする「無力さに慣らされた者たち」をぶあつい下地とする「暗い時代」であり、いまふたたびの戦前か戦中が、今日ただいまなのである。まぎらわしいので、安倍、麻生、石破、小池百合子、小野寺五典・・・ら、「国士幻想」に酔ひしれる好戦人士は、どうぞ常時、軍服を着用し、率先垂範、島嶼防衛にでむいて撃たれるがよからう。J-CIAができたら、これを美化、英雄視するテレビドラマがいくらでもできて、志願者殺到がかくじつなよし。DJポリスどうように、この国は明るく、すこぶるショーキである。パキラを暗く寒い玄関においた。(2013/11/01)

SOBA:「�花」の所は「萼花」の文字化けか。意味的には「蒴果」とほぼ同じ。

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・まだ夜中なのである。ふいにエベレストにのぼりたひとおもふ。が、夜中にはのぼることができない。身体的にできないだけでなく、あたまのイカれた老人自警団の目が怖ひ。やつらは不眠症なので徘徊かたがた夜中にご近所を警邏していて、もうろくしているものだから、そのうちじぶんが警官にでもなった気になる。かれらに見つかったら、下手すると警察にひきわたされる。なぜあれが、エベレストなのか、夜中になぜのぼるのか、詰問されるはずだ。いちいち説明するのが面倒くさい。説明の義務などない。夜が明けたらのぼろう。カルヴィーノはわたしが考えているのとはまったくちがう文脈で「時間のディメンションは細分され、われわれはそれぞれの弾道に沿って遠ざかっていってはたちまち消えるシリンダー爆弾のように断片的な時間しか生き、考えることができないのだ」と、よくわけのわからぬことを箴言っぽく書いている。カルヴィーノは好きだが、「シリンダー爆弾のように」といふのが、どうにもわかりかねる。細分的、断片的時間に、細分的、断片的にしか生きることができない・・・といふことか。そうした時間のちっぽけな溜まりで、たとえば、羞恥心あるいは恥をかんじるとはどういうことなのか。「われわれ」なる集合は恥をかんじうるのか。たとえばフランス語のvergogneとはなにか。恥とは錯覚なのか。遠い記憶のなかの、毛くずのやうな赤いにじみにすぎなひなにかか。ようするに、いま恥は可能なのか。「恥辱」という言葉がなにを指示するか、いまははっきりしない。聞けば、vergogneは現在、単独でもちいられることはなくなり、sans vergogne(ぬけぬけと、恥知らずにも・・・)といった用法に変化しているというが、ほんとうなのか。忘れえぬベルイマンの傑作映画「恥」にはShameの英題がついている。ある夫婦がいる。夫が言う。「戦争がはじまったのは、なにもぼくのせいじゃない・・・」。午後、わたしはエベレストに2度のぼった。山頂から下界を見おろすと、駐輪場の端から黄緑のベストをつけた防犯監視員の爺さんがじっとこちらを見ている。レーヴィはナチズムと強制収容所という時空間から「人間であるがゆえの恥辱」をあぶりだした。不正に妥協し、暴力に屈する恥辱。屈辱。余儀なかったのだ、生きのびるためにはだれでもそうしただろう、と自己を正当化するときに走る恥。卑劣。卑怯。それらを多少なりともかんじることのできた時代はまだしもさいわいであった。Schande honte vergognaは語の内実がとうに変質しているはずだ。日本語の「恥辱」には、個にしか感じえない恥といふもののすぐれて知的な内層がうすれ、国家主義の地平からの「国の恥」「国辱」を含意するひびきがもたされるだろう。資本と市場にはないものがない。ただし「恥」だけがない。卑劣もヘチマもあったものではなひ。恥辱を個として感覚する感官がすりきれている。「恥辱」が集団的に、または国家的に語られるとき、それは言葉の正しい意味での恥辱ではなく、暴力発動の前兆であるかもしれない。「戦争がはじまったのは、なにもぼくのせいじゃない・・・」の、まことにもっともらしい口吻こそが「恥」であることを、いつか知る日があるであろうか。暗く寒い玄関におかれたパキラは、ますますしおれてきている。(2013/11/02)

SOBA:上記辺見さんが紹介しているイングマール・ベルイマン監督の『恥』(原題:Skammen)を末尾でアップ

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・シオランをめくっていた。「神? 容認された、公認の精神錯乱」「あるオラトリオを、カンタータを、あるいは〈受難曲〉を聴いたあとでは、神は存在しなければならぬ」——。で、カール・リヒターの「マタイ受難曲」を聴きたくなり、YouTubeをしらべていたら、「コテコテ大阪弁訳『マタイ受難曲』」をまちがってクリックしてしまい、しばらく視聴し、ゲラゲラ大笑いした。犬があきれて見ていた。
 ひとがかつてもいまも抱懐している幻想のなかで、「アメリカ」という名のそれは、もっとも実用的でもあればもっとも危険で、またもっとも滑稽で醜悪なものでもある。無人航空機をさす英語Unmanned Aerial Vehicle や Unmanned Air Vehicle のUnmannedが「男女差別的」なため、米国の一部人権派は「人がのっていない」という意味のUninhabited Aerial (Air)Vehicleという「民主的で公正な表記」をかんがえだした、という記事をなにかで読んだことがある。だが、無人航空機は日々、増産・改良され、他国の領空を好き勝手に侵犯し、ローコストでおてがるな偵察・暗殺・誤爆行動をくりかえしているいっぽうで、Uninhabited Aerial Vehicleという「民主的で公正な表記」はあまり普及はしていないという。米国式民主主義という表象は、じつは徹底したトークニズム (tokenism)にあり、現実はあまりに酷薄である。どうように無人暗殺航空機は気味がわるい。ノーベル平和賞受賞のオバマという男も、Uninhabited Aerial Vehicleというもののもつ不気味さとそのままかさなり、薄気味がわるい。E.M.シオランは「神という観念は、かつて抱懐された観念のなかでもっとも実用的でもあれば、またもっとも危険なものでもある。この観念によって、人類は救われもし破滅もするのである」と書いたのであった。コテコテ大阪弁訳『マタイ受難曲』どころではない。けふ、エベレストにのぼらなかった。足をひきずってナナカマドを見にいった。
(2013/11/03)

SOBA:辺見さんが上記言及しているコテコテ大阪弁訳「マタイ受難曲」と、カール・リヒターの「マタイ受難曲」を末尾でアップ。また、米大統領オバマのUninhabited Aerial Vehicleについての動画も末尾でアップ

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ナナカマドの闇.JPG

・けふはエベレストに1回のぼった。濡れたシダレヤナギにじゃまされて、2度まではのぼる気がしなかった。これまでエベレストをうとましくおもったことはないが、シダレヤナギがわたしとエベレストを離間すべく、そしらぬふりをしながら、じつはわざとこちらむきに重く垂れていることは疑いない。Hippity wippity, ・・・。ナナカマドがあそこにあったとは・・・。知らなかったではすまされないが、知らなかったのだから、知らんかったと言うほかない。わたしはナナカマドのなにを知っていたのか。知ろうともしていなかった。子どものころはナナカマドがなんとなく嫌いだった。赤すぎたからだろうか。苦そうにみえたからか。きのふはそうでもなかった。ただ、ナナカマドのはげしい赤のはざまに、闇といくつかの死が、うごいているのがほの見えた。いつか、わたしもナナカマドの赤の隙間からこちらを覗くのだろうか。連絡があった。「オババはまだ生きています。眠そうな顔をしていました。赤いダウンジャケットを着て、陸橋のたもとでタバコをふかしていました。オババには段ボールハウスがありません。どこで寝ているかは不明です。とにかく生きています」。オババは生きろ。オバマはナナカマドの赤の奥に失せよ。こういふことは言ひたくなひが、文化勲章だか文化功労者だかの顔が、まんなかに座した首相のそれとともに、これほどまでに痴れた、いたたまれぬほど醜穢なものに見えたことはことはかつてない。事実そうなのか、わたしの目が老いたか、これが歴史というものなのか。関知せぬことだ。G.Dは言う。「哲学以外の諸力は私たちの外にあるだけでは満足せず、私たちの内部にまで侵入してくる」。だから「自分自身を敵に回してゲリラ戦をくりひろげること」は、いかに老いようとも避けられない。夜7時ごろ、エベレストにまたのぼった。ざっと見まわしたかぎり、だれも見ていなかった、とおもふ。かくべつの感慨もなひ。(2013/11/04)

 

2013年10月21日
(日録1)

私事片々 
2013/10/21〜2013/10/26 
http://yo-hemmi.net/article/378147577.html

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・よくもまああそこまで行ったものだ。中央線—三鷹—新宿—湘南快速—大船—横須賀線。死後の夢か、末期の眼にうつる、きれぎれの白っぽい景色だった。一昨日だから、10月19日(土)。偶然に入った天ぷら屋の油のにおいで、以前ここに来たことがあると気づいた。たぶん、高橋たか子さんにそこでごちそうになった。まちがいかもしれないし、まちがいでもいい。小町通りも八幡宮も蓮池も、みな記憶のサイズより二回りほど縮まっているようにおもえる。加納光於氏の作品を見てから、坂をのぼり、飯吉光夫先生のお話を聴きにいく。あまり聴きとれない。眼も耳も弱っている。断片的に聞こえる言葉をつなげたり、結んだりしているうち、飯吉先生は話をべつにうまくまとめる気もないのだとおもい、なんだか好感した。先生ご夫妻たちとお茶。帰りは冷たい雨。世界は爆発も揮発もせずに、一見それなりに機能しているようであった。しかし、どうせひとかわめくれば、見わたすかぎり廃墟なのだと、じぶんにしつこく言いつのる。昨日『子爵』読了。とてもおもしろかった。責任と鬼火だらけ・・・。(2013/10/21)

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・きのふもけふもエベレストにのぼった。一昨日はひどい雨でのぼらなかった。エベレストはいひ。とてもよひ。だいいち、まわりに広告がなんにもなひのがいひ。きょうびはなにをやっても満遍なくCMだ。どこに行っても広告だ。メ—ルを打っていても、やれ腋臭消し、口臭消し、やれ加齢臭消しの広告。パソコン開けば「Twitterを利用しませんか?」。「あなたにおすすめ商品があります。『ガセネタの荒野』1470円」。天然炭酸水の広告。愛犬のためのハッピ—ハロウィン・フ—ドのCM。「新入荷犬用鹿肉のバロティーヌあります!」「イタリアの獣医師たちが作ったFORZA—X(療法食)がリニューアルしました」「うつ病の『見える化』診断補助のご案内」「結婚に前向きなハンサム医師やエグゼクティブ(年収2000万円以上)多数ご紹介!」「最新のアルツハイマ—予防サプリ・今ならお試しセット3500円」「10秒で審査終了、即日融資OK!今日使えるカードです!」「ワンちゃんの糞食予防・効果てきめん!」「集団的自衛権めぐり応酬、衆院予算委2日目」「70代男性に朗報!夫婦生活完全フッカツ!」——。エベレストにはCMがない。いまのところなひ。監視カメラはどこかにあるのだろう。「そのかたわらの、脳髄の内部の、一発の残留弾丸の/まわりの、みちたりた/時の中庭。」...よく聞きとれなかった飯吉さんのお話を、ときどきおもいだす。かれもあまり聞こえていないようだった。聞き手はなんだかからかわれているようでもあった。夕べ、奥様からいただいたハロウィンのクッキーを食べた。甘くておいしかった。昨夜、犬は糞を食べなかった。一昨日の夜中には、わたしに尻をむけてうずくまりじぶんの糞を食っていた。ペチャペチャポソポソと食っていた。音と異臭で目ざめた。けふ、耳垢がたくさんとれた。大さじ一杯ほども。(2013/10/22)
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・けふはエベレストに1回だけのぼった。シダレヤナギの枝が目に入りそうになり、厭だった。そこにシダレヤナギの枝があるのは最初からわかりきっているのだから、あらかじめ回避の動作をすればいひやうなものなのに、毎回足下に目をおとして真剣にのぼり、おりるだんになって、ふと顔をあげると、シダレヤナギがもう額にかかっているといふ具合で、まるで下手な役者のくさひ演技みたひに、われながらいかにもわざとらしくハッとしてしまい、ハッとしたはずみでついよろけて自己嫌悪する。きのふの午後から犬が糞をしていない。どうかしてほしひとおもふ。じつは、ベランダにして、すぐに食べて痕跡を消しているのではないか。そう疑ひもするが、根拠は薄弱だ。憲法改悪反対の呼びかけに賛同する署名とカンパをしてくれ、といふ手紙がくる。大江健三郎ら、毎度おなじみの「ゼンダマ」ブンカジンたちの氏名と写真つき。アホか。署名とカンパとやつらのえっらそうな記者会見で、9条改悪、集団的自衛権容認、秘密保護法が阻止できるんやったら、さいしょっからこんなことになってないやろ。まずかれらのうす汚い急所を蹴上げよ、だ。(2013/10/23)
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・霧雨のなか、けふもエベレストにのぼった。2回。シダレヤナギは幽霊の手のようにダラリと下に垂れているものだけではない。枝の先が陰険なL字型になって、のぼりくる者の目をねらうものもある。ひどいじゃないか、と言ってもしかたがない。シダレヤナギはシダレヤナギなのだ。責任と鬼火のやうに、修辞とシダレヤナギにはかんけいがあるとどうじに、かんけいがなひ。犬がとつぜんパニックにおちいり全速力で駆けだした。必死で追いかけるものの、この足では追いつけない。呼んでもふりかえってくれない。姿が消えた。歩道にも車道にも植え込みにもいない。いなひ。わたしは大砲にうたれて片半身になったテッラルバのメダルドのやうに走った。きれぎれの薄い光のやうな、割れた板ガラスの反照のやうな犬の意識を想った。犬の意識がわたしの頭蓋で震えた。車にはねられた犬、自転車に轢かれた犬をさがした。鳴き声に耳を澄ました。腸をとび散らかし、からだに腸を巻きつけ、舌を地面に垂れるほどだして大きく口をあけた犬を目で追った。すると、補聴器屋の軒下でじっとわたしを見ている黒い犬がいた。目が合った。それは、物語のひとつのシーンとしても、特別の出来事としても、善とも悪とも、犬の意識に刻まれはすまい。憲法改悪反対アピールに賛同する署名とカンパの要請は、大江健三郎らをもちあげることの絵に描いたような偽善と、これにかかわるみずからの「責任と鬼火」を見つめようとしない点において、テッラルバのメダルドの「善半」に似て、鈍感で、押しつけがましく、うっとうしい。ウザいのだ。「こうして、彼らの話は漠然とした慈悲のことに落ち着き、いっさいの暴力といっさいの過激な行動とを否定する点で意見の一致をみた。・・・が、どことなくそらぞらしい気配も残った」。そう、クララ、集団的「善半」は「悪半」よりも手に負えない。いつか(すでに)ファシズムの怒濤にのまれる(のまれた)のは、悪ではなく、かれらの「善」である(あった)。(2013/10/24)
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残影.JPG

・雨中エベレスト登攀をこころみ、さいわいにも成功した。山頂ふきんのヤマモミジの枝がみな雨滴を負うておもく垂れている。葉の色にまだとくだんの変化はなひ。麓では、いつの間にかサザンカが咲き、花葉はすでに衰えてきている。気がついたときには、たいていはもう遅い。安倍や麻生らを、この最もおぞましい時代の「狂人」であるとは、いまはまだ、(かれらはまがうことなくそうなのだけれども)あからさまには言いにくかろう。ドイツが前ファシズム的徴候にあったとき、そしてナチズムのまっただなかにあってさえもそうであった。狂信者を狂信者とはみなさずに、われもわれもと狂信者になることで狂信者は消えて健常者となった。じぶんの意思をもたない夢遊病患者チェザーレと、かれを忠実なしもべとしてあやつり、つぎつぎにひとを殺させる狂った博士の関係性をえがいた『カリガリ博士』。これはワイマール共和国が生んだ悪魔的映画として、わたしの惛い記憶箱のなかで、ひとの影たちがいまだに謎めくうごめきをやめていない。カリガリ博士はおそらく、独裁者を象徴しており、独裁者にとっては、メディアをつかったプロパガンダによる夢遊病患者=市民の全的な支配とカオスの連続だけが権力維持のゆいいつの方法である・・・などと、若いころにはかんがえたものだが、『カリガリ博士』はそんな単純な映画ではない。ひととその集まりがおのずから生む病性のどうにもならないおぞましさが、『カリガリ博士』をなんども見るわたしの老いとともに、無限大の漏斗となって、いまも奥へ奥へと渦まきながら深まっていくばかりである。終盤、重要な登場人物のひとりフランシスの回想が妄想であったことが明らかにされ、狂人カリガリ博士はじつは精神病院の院長だった、というどんでん返しは、しかし、狂人と医師の境界をわれわれから消してくれる。先日、親しい友人が都内の某心療内科にいったら、あきれるほど強圧的な医師(50がらみの男)にいきなり「おまえ」呼ばわりされ、「おまえ、とっととゲロれよ!」と命じられて、あまりのことに気が動転して口をもぐもぐしていたら、「おまえのようなバカは2度とくるな。帰れ!」と大声で罵倒され追いかえされたのだという。「おまえ、とっととゲロれよ!」という、下卑た刑事のような言い方と独特の威圧療法?にはいちじるしい特徴があるので、この市井のカリガリ博士はいずれ特定されて、医師ではなく重篤な患者として、ひょっとしたら拘束衣を着せられ病棟に収容される可能性もあろう。首相から医者まで、ようするに、いまは(も)そのよふな「狂える時代」なのである。狂人たちがけふ、特定秘密保護法案を閣議決定した。国家安全保障会議(日本版NSC)設置法案は、けふの衆院本会議で審議入りした。キチガヒどもの祝祭だ!(2013/10/25)

SOBA:辺見さんが上記言及しているローベルト・ヴィーネ監督の『カリガリ博士』を末尾でアップ

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・風雨つよく、いったんは外出したものの、けふはエベレスト登頂をやむなく中止することにした。ところが、部屋にもどるや風雨がおさまり、鼻白んだ。気勢はもうそがれていて再びエベレストをめざす気にはなれず、他方、ぜんたいの経緯になにかいかがわしいものを感じてだろう、やや不機嫌になり、察知した犬に顔を見つめられる。当初の〈風雨つよく・・・エベレスト登頂をやむなく中止することにした〉の記述に若干の嘘があったことが、はしなくも明らかになったのだ。わたしはけふ、エベレスト登頂をやむなく中止したのではなく、じっさいには、風雨がつよかったのをこれさいわいと口実にして、アタック中止に踏みきったのだ。みかえりのないことをくりかえすことの空虚と倦怠と疲労。エベレスト登攀にはこれらがつきまとっていたのに、わたしは気づかぬふりをしてきたのだった。古典的論理学では、弁証法的判断は命題形式「SはPである」に形式化され、「SはPである」は、「SはPではない」のかもしれないにもかかわらず、いまでもあまり疑われていない。繋辞「である」は、しばしば疑いもなく「すべきである」ないし「すべきであるもの」と誤解され、S=Pと錯覚されたりする。而して、ひどくあやまった肯定的思惟が、これこのとほり、ニッポンには蔓延している。しかし、わたしはエベレスト登攀者でもエベレスト・フェチでもない。たんなる定言的叙述が定言的な命令に転化する危険のあることに、この時期、敏感であるべきではないか。〈わたしは毎日、エベレストにのぼる〉は〈わたしは毎日、エベレストにのぼるべきである〉と区別されなければならない。「である」と「すべきである」の間の存在論的緊張をもっと理解しような、とじぶんと犬に言いきかせる。存在論的緊張といえば、いつだったか「米国は例外的国家である」と語ったジェイ・カーニーとかいう米大統領報道官にときに目がいく。この兄ちゃんの言葉が「である」をこえて「米国は例外的国家であらねばならない」といふ定言的当為になっているアホくささが、いまさら気になったのではない。見た目、声変わりしたばかりのようなカーニーは、いはゆるひとつの「皮かぶり」=phimosisではなひのかと、ふひに、つよくおもわれたのである。いふまでもなく、わたしのいふ皮かぶりは、西洋絵画的ないし童話的イメージであるとどうじに、思想的断定である。ぶっちゃけていへば、こんなアホくさい皮っかぶりどもに世界は支配されてるんだなあ・・・といふこと。特定秘密保護法案を閣議決定し、国家安全保障会議(日本版NSC)設置法案を衆院本会議で審議入りさせてますます図にのる安倍という口の小さな男も、わたしの目には狭量なファシストである以前に、思想的には真性の皮っかぶりに見えてしようがない。「SはPである」(「SはPhimosisである」!)という命題形式は、しかし、もっと弁証法的に疑われなくてはならない。安倍によって次にどんな災厄がもたらされるのか、想像してみやう。とまれ、わたしは明日エベレストにのぼるつもりだ。(2013/10/26)

 

 辺見さんが(2013/11/02)で言及していたイングマール・ベルイマン監督の『恥』(原題:Skammen)です。僕は、字幕をオン、設定で字幕「英語」にし、字幕が読みやすいようにパソコン画面をフルにして見ました。ipadではPCよりももっと簡単。右下に3個のアイコン、漫画の吹き出しのような(形は角丸四角)の「字幕選択」「動画フロート」、斜め→←の「全画面」があるので、全画面にしてから字幕選択で(自動、スペイン語、フランス語、英語)選択する。

ipadの画面(↓クリックすると拡大)
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Skammen, 1968 [Multi Subs]
Wagner Sanford Channel
https://www.youtube.com/watch?v=bZv9X8Y-aD8

2014/02/09 に公開

Embedded subtitles in English, Português, Español & Français.
_____________________________________
Original title: Skammen
Movie director: Ingmar Bergman
Synopsis:
Ingmar Bergman's psychological study of how humans react in a situation of war. The film takes place on Gotland, where invasion forces arrives.

 

 辺見さんが私事片々(2013/11/03)で言及している、「コテコテ大阪弁訳『マタイ受難曲』」と、カール・リヒターの「マタイ受難曲」です。

【Bach】コテコテ大阪弁訳「マタイ受難曲」 第01曲
https://www.youtube.com/watch?v=EW63dWn88Tw

2010/08/03 にアップロード

 

J.S.バッハ《マタイ受難曲》第1部全曲 カール・リヒター(1958)
OperaTaiyaku
https://www.youtube.com/watch?v=ba9TMBUAmMc

2013/03/28 に公開

 

 辺見さんが私事片々(2013/11/03)で言及しているUnmanned Aerial Vehicle や Unmanned Air Vehicleについての動画。

BS世界のドキュメンタリー・シリーズ・行き惑うアメリカ

アメリカの“新たな戦争”? ~無人機攻撃の実態~(Drones, Obama's Dirty War)制作Premier's Lignes
pplyzc
中庸
http://www.dailymotion.com/video/x2j5ff3

pplyzc by mado0717
Publication date : 03/10/2015
Duration : 47:42

原題:Drones: Obama’s Dirty War?
制作:Premieres Lignes (フランス 2013年)

 

 辺見さんが私事片々(2013/10/25)で言及しているローベルト・ヴィーネ監督の『カリガリ博士』です。

【著作権切れ映画集】 カリガリ博士 (無声映画で日本語字幕
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13364774

ドイツ表現主義映画の最高傑作!原題:Das Cabinet des Doktor Caligari 1920年ドイツ 監督:ローベルト・ヴィーネ。

埋め込みタグがないので
Sサーバーにアップ ←4sharedに保存。PCで4sharedならクリックし頁が変わり待つと自動的に再生(PCの場合、ポインタカーソルを映像画面に持って行くと右下にフルスクリーン切り換えマークが出る。ipadの場合は最初からフルスクリーン)。ipadならタップするだけで4sharedが開き再生(ただし、初めて4sharedを使う人の場合、「購入」と出るけれど、4sharedは無料Appなのでここでの購入はipad用語で単にダウンロード)。

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完全版 1★9★3★7 イクミナ (上) (角川文庫)
完全版 1★9★3★7 イクミナ (下) (角川文庫)です。


 

辺見庸さんの『増補版1★9★3★7』と、
堀田善衛さんの『時間』(岩波現代文庫)です。 


 

辺見さんの『1★9★3★7』(イクミナ)です。 

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