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2014年3月 5日 (水)

辺見庸さんの、2011年4月22日放送「こころの時代 瓦礫の中から言葉を」が4日真夜中再放送されたのでpodcastします。

 後の方で、『【時流自流】作家・辺見庸さん「現在は戦時」(神奈川新聞)』の記事も採録しておきました。(←頁内ジャンプ)

 

 音だけの放送になりますがpodcastしておきます。2011年4月24日放送時のと比べ、番組表題を変えていますが同じものの再放送です。見たい聞きたいと言う人もいると思いますが、動画が見つからなかったのでせめてもと言うことで音声だけのネット放送です(※)。
※元映像の8分48秒〜18分52秒までの動画が見つかったのでアップしておきます

2014年3月4日(火)再放送
こころの時代~宗教・人生~選 私にとっての3.11「作家・辺見庸」
2011年4 月24日(日)放送
こころの時代 瓦礫の中から言葉を ~作家・辺見庸~
(↓podcast、ネット放送です)

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追記(2016/03/11):MediaFireに保存。MediaFireはPCでは使い辛くなったので、ipadを推奨。ipadでリンクをクリックするとSafariの別頁が開き、「ファイル名」と「Download(…MB)」のボタンが出るのでタップする。黒い画面に変わるので20秒から40秒待つと再生開始(時間帯による、夜間は回線が混んでいて駄目)

PCで4sharedならクリックし頁が変わり待つと自動的に再生(PCの場合、ポインタカーソルを映像画面に持って行くと右下にフルスクリーン切り換えマークが出る。ipadの場合は最初からフルスクリーン)。ipadならタップするだけで4sharedが開き再生(ただし、初めて4sharedを使う人の場合、「購入」と出るけれど、4sharedは無料Appなのでここでの購入はipad用語で単にダウンロード)。

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 ↑↓以下、マスコミに心して読んで欲しい、39分38秒の所からをメモしておきます。

 今流されているテレビのニュースの言葉、あそこに事態の本質に迫る、本質に近づこうとする言葉はあるでしょうか。今表現されている新聞の言葉の中に、この巨大な悲劇の深みに入っていこうとする言葉があるだろうか。

 物化(ものか)された人間、つまり人が一体としての身体の形を留めおかないものが多数あったわけだけれども、部位としての人間しかなかったわけだけれども、それを無いことのように写してしまう。それは私は、人を救っているようで、どうなんだろう、というふうに思うんです。それはひょっとしたら違うんではないか、というふうにも思うんです。人は、ある日突然まったく縁なく(ゆくりなく)物化(ものか)してしまう、という哲理をメディアは無視する。それは僕は逆に畏れ多いことではないか。死者に対する敬意が逆に無いのではないか、とさえ思うんです。

 ↑↓以下、放送の全文テキスト起こしです。こちらの頁 を参考にするも、放送に忠実に校正しました。※
※例えば参考にしたこちらの頁では、放送で14分41秒からの下記箇所のような明らかな間違った部分をかなり多数見つけました。

放送のと違う(参考にしたこちらの頁
辺見:僕は、ほとんどは石巻出身の僕の高校の後輩がベタで送ってきた映像で見ているわけね。テレビの映像はいつの間にか、凄いんだけれども、事態が棄却されている

放送に忠実(校正 by SOBA)
辺見:僕はほとんどは、石巻出身の僕の高校の後輩が送ってきた、データで送ってきた映像で見ているわけね。テレビの映像はいつの間にか、凄いんだけれども、事態を希釈されている。

 

(以下、放送の全文テキスト起こし始め)

ナレーター: 太平洋に注ぐ北上川の河口に開けた町、宮城県石巻市は作家辺見庸さんの故郷です。黒潮と親潮が交わる世界有数の漁場で知られた故郷。その大地が揺れ、津波に飲まれたのは、三月十一日のことでした。

(三月二十六日、この日、被災地からの電話でホスピスにいる母と地震後初めて話す)
 
辺見: もしもし、揺れるから心配だろうけど、大丈夫だから、余震だからね。あんまりテレビなんか見ないで。テレビ見ていると聞いたけどさ、テレビなんか見ないで。なんか好きな音楽でも聞いた方がいいって・・・そうそうそう・・・大丈夫、ちゃんと犬いるから・・・お母さんも頑張って、さっちゃんによろしくね。どうも有り難う。電話有り難う。声聞けて安心したよ。有り難う、有り難う。

ナレーター: 通信社の特派員として、中国、ベトナムを巡り活躍した辺見さんは、1991年、小説『自動起床装置 』で芥川賞を受賞。以後チェルノブイリ原発汚染地帯など、世界各地に取材し、極限状況の人間を見つめた『もの食う人びと 』など、数多くの作品を発表してきました。脳出血による半身麻痺、癌の発病と闘いながら、今も筆を執り続けています。

辺見: 石巻のことを、この震災の前に、僕は直接的にはあまり触れていないんだね。で今度ね、本当にそれは恥ずかしいけれども、ビックリするくらい、ある種の衝撃として気付かされたんです。失われてみてその記憶の大きさがいかに自分の中で、その記憶が大事だったのかと、自分の表現を支えてきた土台に、あの魚臭い街があったのか、ということを思い知らされたわけです。堤防があって、そこに行って、時には妹と、あるいは近所の子どもと一緒に、あるいは犬と一緒に行って、海岸で遊ばない日はなかった。いつも、潮騒、耳鳴りのような幻聴のような潮騒と海鳴りを不思議に思ってきた。いつも謎めいていた。僕にとっては、あの荒れ狂った海が、世界への入口だったし、ずっと校舎の、授業中に校舎の窓からも海が見えた。いつかあの海の向こうに行くんだというふうに、自分で決めていた。中国とベトナムの戦場を見た。ボスニアの紛争を見た。ソマリアの内戦も見た。飢えて死んで逝く人たちも見てきた。私はいつもそこで自分はコスモポリタン(cosmopolitan:一国に定住せず、さすらい歩く人)みたいなものだ。根無し草だというふうに思っていた。僕にはルーツがないんだと思っていた。記憶の根拠になるものは、ほんとはないんだ、というふうに思ってきたけれども、今度という今度は、ほんとに思い知らされた。慌てている。自分には立つ瀬がないとさえ思えるようになっているわけです。2011年3月11日の午後に、いったい何が起きたのか。僕らはまだ3・11(3月11日)から、それほど時間が経過していないんで、正直茫然自失(ぼうぜんじしつ)しているというふうに思うんです。茫然自失している理由は、その大きさ、破壊の大きさと、あのダイナミズムを表す言葉を誰ももっていなかったと言うことだというふうに思うんです。それを言い表す言葉が数字以外にないということは、こんな実は寂しいことはない。みなさんが待ち望んでいるのは、水であり、食料であり、願望かも知れない。と同時に、胸の底に届く言葉でもあるような気がしているわけです。それは決して、通り一遍の「頑張れ」とか、あるいは「復興」とか、「団結」とかを、スローガン的にいうことではない。私が死ぬまでの間に、精々出来ること、それはこの度の出来事を、しっかりと深く考えて、考え抜いて、それから創造して、それらを言葉として打ち立てて、そしてこの打ち立てた言葉を、未完成であれ、死者たち、それから今失意の底に沈んでいる人々に、僕自身の痛みというのかな、痛みの念とともに届ける。それが私に残された使命なのではないか、というふうに思うんです。

↓以下、元映像の8分48秒から18分52秒部分の動画です。8分48秒〜のテキスト起こしの前に貼りつけておきます。(関連動画を採録

瓦礫の中から言葉を 辺見庸
ricepaddy01
http://www.dailymotion.com/video/x1tbi5v

瓦礫の中から言葉を 辺見庸 投稿者 ricepaddy01
公開日: 2014年05月06日
期間: 10:10(←動画の時間)

↑↓動画部分のテキスト(元動画の8分48秒〜18分52秒

(↓クリックすると拡大します)
019_ ナレーター: 辺見さんが紡ぎ出す言葉は、詩の世界に広がっています。2010年に発表した最初の詩集『生首(なまくび) 』。大震災の一ヶ月前に中原中也賞を受賞しました。そこには故郷石巻で、幼い頃から肌で感じ取っていたある予感が刻まれています。


043_ 「入江」
 
入江はガーネット色によどんでいた
疲れた血の色だった


058_ 父を誘ったときには
半透明の胆礬(たんばん)色だったのに
いかにもあつらえたみたいな
青空の色だったから
かえって怪しかったのだ

ぼくは葦の原にもぐった
うずくまって身を隠した
入江にはなにもなかった

太陽に暈(かさ)がかかった
鼓膜がどうにかなったと錯覚するほど
音が死んでいた
入江がゆっくりと兆(きざ)していた
葦は影絵だった

入江は孕(はら)んでいた
入江は疲れを孕んでいた
入江は疲労であった
疲れの底に、
ふとどきな気配もあった

だが、だめかもしれなかった
もうだめかもしれなかった
それでも油断はできなかった

ぼくは葦にひそみ
葦と葦の間から
入江を見つづけた

入江の中央に
銀色の水柱がそばだつのを
ざわと聳(そび)えるのを

じっと待ちつづけた

431_ 辺見: あの入江は、いつも何かを兆していたわけね。いつも何かを孕んでいたわけ。それは優しさでもあったけれども、殺意のようなものでもあった。とてつもない性的なものであると同時に、とてつもなく清いものでもあった。血のように赤くなる時もあった。どこからくるのか赤錆のようなものがわいてくる時もあったし、そこに僕がしゃがんでいるのがとっても好きだった。そこで私が感じていたのは、何かとんでもないことが、いつか起きるのではないか、というふうな脅えとおそれなんです。それは「おそれ」っていうのは、文字で書くとしたら、恐怖の字ではなくて、「畏怖(いふ)」の「畏(い)」の「おそれ」なんです。畏怖なんです。それは単に怖がることではない。もっと畏れかしこまる。もっと尊厳なもの。我々が太刀打ちできないもの、あるいは太刀打ちしてはいけないようなもの、このようなものを感じてきたわけです。甚大な被害を受けた石巻及び三陸の沿岸都市。今、常に気配、兆しというものが孕んでいたし満ちていたに違いないというふうに思うんです。(通しのPodcastでは13分18秒から15秒ほど無音状態。見つかったこの動画で確認すると4分32秒から4分47秒までですが、見ると石巻及び三陸の沿岸都市と思われる田園と、幹線道路を襲う津波の航空映像箇所です。辺見さんの語りが重なる部分も含めて、津波が襲う映像は5分11秒まで。パソコンの全画面で見ると津波の凄まじさが分かります)

SOBA:田園の家屋を襲い、火災を発生させ、幹線道路を走る車を押し流し、乗り越え、更に逃げる車を追うように迫る津波。
510_

↑↓辺見さんの「こころの時代 瓦礫の中から言葉を」の上記動画中、同じ部分の動画を見つけました。下記動画で1分37秒から2分16秒のところです。

(動画挿入始め)
【東北地方太平洋沖地震】 走行中の車が濁流に飲み込まれる
pg3di5
http://youtu.be/P0q3Q7Igy2E

2011/03/18 にアップロード

概要:
白い車がバックで逃げるも津波による濁流に飲み込まれてしまう (2:03 付近)
2011年3月11日 午後4時頃/宮城県名取市 市立閖上小学校付近
位置 38.17647,140.938453
(動画挿入終わり)

決して水の仕業とは思えないんだ、津波が。もっと金属的な、酷く重いものが一気に押し付けてくる。違うんだ、今度のは。突進してくるんだ。だから鉄とかコンクリートが、そういうどでかいものが爆撃受けたみたいに破断するというのかね、そうしたら容易に想像つくと思うんだよ。人間の身体はどうなるのか。もう一発でねじ切れてしまうわけだ。それは僕の友人は、そういう大袈裟な酷い言葉を言わない人間だけれども、「地獄だ!」と言った。

540_ナレーター: 障害を抱え、被災地に身を投じることができない辺見さんが、故郷の今を知る窓としてきたのは、友人が撮影し送ってくる現地の写真です。


554_辺見: 僕はほとんどは、石巻出身の僕の高校の後輩が送ってきた、データで送ってきた映像で見ているわけね。テレビの映像はいつの間にか、凄いんだけれども、事態を希釈されている。私が見ている映像と違うんです。

例えば車が何台も折り重なって、中に人がいるまま黒こげになって、私のいた小学校が焼け爛(ただ)れている。
625_

636_
その絶大な風景を表す言葉がない。ただ慟哭(どうこく)するしかない。ただ泣き叫ぶしかない。実は3・11の事柄の経験したこともない巨大さから、色々な、私の眼から見れば危ない事象が今芽を出し始めていないではない、というふうに思っているんです。それは一つは、物事を、今回の物事を宗教的な預言のように、あるいは誰かが言ったかも知れないんですけれども、「天罰がきた」とかという形で、今度の我々の経験というものを改修していく。こういう思考のプロセスは、きわめて危険だ、というふうに、私は断言したいというふうに思うんです。そうではない。これは天罰では断じてあり得ない、というふうに、私は考えています。私が思い付いたのは、新約聖書の最後に配置された「ヨハネの黙示録」第六章で出てくる
 
神と子羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか

908_ 怒りの大いなる日がきたからである。人間の王国が滅びて、神の完全な支配が実現していく過程の中で表現された、いわばキリスト教的な黙示文学ですね。先人たちがもったイメージの手掛かりとして、このことを私は想起したわけです。イメージすることは、別に罪ではないし、悪いことではない。ただこれに拝跪(はいき)していく。跪(ひざまづ)いてしまうのは、私は違うのではないか、というふうに思っているんです。そこからは、立ち上がる術はない。人としての希望があり得ない。3・11が、は、我々に根源的な認識論上の修正を迫っている、というふうに、僕は今感じているわけです。世界認識上、あるいは宇宙認識上、僕たちにあの未曾有の出来事は改変を迫っている。物事には、あるいは世界の事象には、

一、あり得ないこと(the impossible)
二、あるかも知れないこと(the provable)
三、避けられないこと(the inevitable)
 
の三つに大別できるのではないか、というふうに、長じて私は自然に思うようになっていた、と思うんです。で、差し当たり私が考えているのは、一番目は、impossibleはこういうふうに修正しなければいけないというふうに思っている訳です。一番目は、impossibleは、あり得ないことはあり得ない。かつてあり得ないとされたことはあり得ない、ということです。つまりすべての可能性は、可能性の二と三の方に収斂されていくであろう、という認識論上の修正であります。つまり起こり得る(provable)か、あるいは避けられない(inevitable)であろう、というふうに、私は修正せざるを得ない、というふうに思うんです。あの光景とは、尺度を変えて考えて見れば、宇宙的な規模で考えてみるとしたら、喩えに語弊があるかも知れないけれども、それを恐れずにいうとすれば、「宇宙の一瞬のくしゃみ」のようなことかも知れない。かつて地震というものは、最大級でもこの程度までしかなかった。従ってそれ以上は想定しないで済む、というのは、データ主義からきた私は不遜な行為ではないか、と言う風に思うんです。それは著しく反省しなければいけない。大自然はそんなものではない。宇宙の一瞬のくしゃみが、人間社会、人類社会の破滅に繋がるんだということを、我々は考えなければいかん。そうしたら、核というものを持ち得る発電というものが、本当に根源的に安全かどうか。それは宇宙の摂理というものに照らせば、どうなのか、ということを、もっと謙虚に考えるきっかけになるのではないか、というふうに、私は思うんです。私たちのいのちというものが、何て短いんだろう。何て予定されていないのであろう、ということに打ちのめされたわけです。そしてその小さないのちというものが、そしてかくも短いいのちというものが、簡単に物(もの)化されていくことと、そして宇宙の悠久のいのちというものが、実は重なり合っている。短い人間の人のいのちというものと、宇宙の悠久の歴史と言うものがいのちというものが交差し、重なり合い、肌と肌を合わせていること、その恐怖と恍惚を、法悦のようなものと畏怖の面の両方を、今度私は自覚したわけです。もう一つ見たこともない荒(あら)ぶる風景というのか、を見てですね、私が思い付いたのは、アドルノ(ユダヤ系ドイツ哲学者)が言った言葉なんです。
 
アウシュビッツ以後に、詩を書くことは野蛮である
テオドール・W. アドルノ『プリズメン―文化批判と社会』より)
 
ユダヤ人たちは、信じがたいほどの殺戮という苦難に遭いながら、アドルノが語ったのは、「詩を書くことは野蛮である」これはどういう意味なのか、という事を、前から私はこのアドルノの『文化批評と社会』という本を読んでおりましたけれども、僕はわかっていなかった、というふうに思うんです。今考えているわけです。3・11の途方もない風景を見ながら思っているわけです。我々のコミュニティ(community:共同社会、地域社会)やソサイエティー(society:社会)、社会やあるいは共同体ってものがもっている文化でしょうか、言語を含む文化というものを、アウシュビッツを前提しないで、それによってその苦難というものを、その残虐というものを、その殺戮というものを通さないで見た場合に、それを平気で、例えば美しい詩を書くことができるのか。世界がここまできてしまったのに、尚かつ美しい詩を書くのか。ただ美しい詩を書くのか。あるいはかつて我が国もそうであったように、社会とも世界とも世界のいかなる悲劇とも一切関係のない真綿でくるまれたような幸せを非とするのか、つまり私たちの文化、この一大悲劇を表す文化というのは、3・11以前にあった文化と、これからも同じであっていいのであろうか、ていうふうな設問なんです。それは「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という警句にどこかで導かれている気が私はするわけです。
 
ナレーター: 3月11日以後、震災は今も続いています。辺見さんは、かつて危機に瀕した人間たちが、その奥底で何を見出し、何を語ってきたのか、考えてきました。一つの手掛かりは、アルジェリヤ生まれの作家・アルベール・カミュの小説「ペスト」 です。伝染病に襲われ封鎖隔離された死の街を舞台に、逃げ場を失った市民や格闘する医師の姿が描かれています。

辺見: カミュが考えたペストの世界、オランという街の出来事は、こういう場面に立ち至った時に考える叩き台にはなるであろうというふうに、私は思うんです。ペストで何十人もが、何百人もが死んでいく中で、主人公の医者のベルナール・リゥー、彼はこの破綻に瀕した状態の中で、どうあるべきか、ということを問うた時に、あきれるほど単純なことをいうわけです。ベルナール・リゥーはこういったわけです。
 
人は人に対して誠実であること。これが大事なんだと。
 
このあらゆるレトリック(rhetoric:修辞)、あらゆる修辞というものを削ぎ落とした「誠実」という一語を、私は若い時にちょっとバカにしていました。私の胸には届いていなかった。けれども、今やっとわかったような気がするわけです。リゥーの言っていることは、こうなんです。「人は人にひたすら誠実であることの掛け替えのなさ」というのは、混乱の極みであるがゆえに、それに乗じるのではなくて、「他者に対して、いつもより優しく、それから誠実であること」。愛とか、あるいは誠実という。今までそれまでの安定の中で、安寧(あんねい)の中で、ある種の悠々として、我々は演ずることができたことが、果たして可能なのか。家もない、食料もない。ただ震えるだけの被災者の群れ、そして貧しい人たちと弱い人たちに、今私たちがもっている自らのものを分け与えて、ともに生きることができるのか。それぞれの職業にある人、あるいは職業に今ない人、もまたそれぞれの位置で、やるべき事柄を、やるべき仕事を誠実に追求できるのか。私たちが負わなければいけないものを、私たちが担わなければいけないもの、それは人の苦しみなんです。個人の苦しみなんです。私たちが問われているのは、国でもなければ、民族でもない。今真価が問われているのは、明らかに疑いもなく個人なんです。個なんです。かつての大震災の時も、以後もそうでした。そして戦争から立ち上がってくる以前もそうでした。「国難」という言葉が必ず登場する。国家存亡の時、大和魂、日本人としての精神、日本人としての団結。何故他民族はあってはいけないのか。たくさんの外国人も亡くなっている、ではないかというふうに私は思うんです。神は結局、人間は禍を制止得ないであろう。人は一度起きた悲劇を忘れるであろう。ペストはまたどこかで起き上がってくるであろう、というふうなことを示唆して、『ペスト』という小説を閉じていくわけですけれども、私はそういう予感を思いつつも、でも救いは、例外的な個人にあるというふうに思う。例外的な、常に個人は例外的でありますけれども、例外的な個人が悪魔しか見ていない破局の中で、誠実ということを実践していく。この壊された街、壊された大地、そしてあれだけ荒れ狂った海は、また時がくれば、カミュの『ペスト』でも同じように平らかになる。無かったことのように、海は青くなり、海は凪、大地は静まり、草が生えてくる。新しいいのちがたくさん出てくる。それでも私は痛み続けなければいけない、と思っているわけです。そして何よりも、私は私に課さなければいけないのは、もっともっと考えなければいけない。そして考えたことを、少しずつ言葉にしていかなければいけない、というふうに、私は思っています。(14秒ほど無音)放射線がかなり高いレベルであるところに留まって患者を診てるさ、医者、どうあってもそこを動かないでやるっていうふうな医者、あれだよ、あれベルナール・リゥーだよ。あれが「誠実さ」というもんだよ。あれが「救い」なんだよ。原発の放射能の前にさ、置いていかれて、老人ホームかなんかの人たちが大勢死んでた。で、これだけの数字が出てくると、そのようなほんとに哀切極まる死というものは軽く考えられてしまう。で、八十、九十の人だから、もういいだろうというふうなこと。そうではないんだよ。俺は思うんだよ。今生まれてきた人、これから生まれてくる子たち、それから自分の母親を含め、今ホスピスから電話があったんだけど、死ななきゃいかんと思ってるわけね。死ななきゃいかん、と。そういう人たちをね、こそやっぱり励ました方がいいんだよ。そういう人たちはね生きるべきなんだよ。助けてあげなきゃならないんだよ。「若いから、この人は有能だから、この人は社会に役に立つから、だから生きてもらう」ということであっては、「絶対違う!」。「この人は社会に何にも役にも立たない。もう放っといったって死ぬんだから」そういう人たちは生きてもらった方がいいんだよ。少なくともそういう精神を我々はもたなければ、もう人ではないよ。

ナレーター:辺見 庸 新作詩(四月十八日脱稿)
「どれかひとつだけ教えてほしい」(『眼の海 』より)
 
わたしはまだ立っている
潜望鏡のように
三月の水は瞳孔のすぐ下まできている
さっきカヤネズミが
横倒しにながれていった
虹彩(こうさい)をかするようにして
ガラスビーズの眼が
わたしをちらりと見た
わたしはカヤネズミの眼に問うた
やつぎばやに
——洗われているのだろうか
——ながされているのだろうか
——壊されているのだろうか
——造られているのだろうか
——これは〈後〉なのだろうか
——これは〈前〉なのだろうか
カヤネズミはキキと笑って
角膜のむこうにながれていった
ガラス体が水でいっぱいになった
世界は滲出(しんしゅつ)させられていた
 
 
辺見: 私たちは、何を失ったのか。何を失っていないのか、と思う時に、人命と物を失った。けれども、その私たちが、人間の生というものを、六十、七十、八十年というふうに区切ってきた。疑いもしなかった人間の生っていうものが、ある日突然に、不意に、縁なく(ゆくりなく)部位(ぶい)になってしまう。部位、手は手、足は足、そういうふうにバラバラになって、一つは別の港に流れて行き、一つは津波で別の浜辺に打ち上げられる。そのようなことがあるんだ。この破壊。限りない破壊を表現する言葉を、私たちは失うも何も、最初からもっていなかった。用意していなかったのではないか、というふうに、私はハッと思い至るわけです。今流されているテレビのニュースの言葉、あそこに事態の本質に迫る、本質に近づこうとする言葉はあるでしょうか。今表現されている新聞の言葉の中に、この巨大な悲劇の深みに入っていこうとする言葉があるだろうか。物化(ものか)された人間、つまり人が一体としての身体の形を留めおかないものが多数あったわけだけれども、部位としての人間しかなかったわけだけれども、それを無いことのように写してしまう。それは私は、人を救っているようで、どうなんだろう、というふうに思うんです。それはひょっとしたら違うんではないか、というふうにも思うんです。人は、ある日突然まったく縁なく(ゆくりなく)物化(ものか)してしまう、という哲理をメディアは無視する。それは僕は逆に畏れ多いことではないか。死者に対する敬意が逆に無いのではないか、とさえ思うんです。私も四半世紀以上、メディアの世界にいたからよく知ってます。「オリンピック」「戦争」、メディアにいる人間は、個が個たり得なくなる。誰も異を唱えなくなる。まるで一緒に闘っているような顔付きをする。3月11日を境に、少なくとも数日間、一週間か十日、テレビからコマーシャルが消えた。政府広告のようなもの、「人に優しくしよう」みたいなキャッチフレーズが、気が狂わんばかりに、何度も何度も何度も何度も流されていく。今度は優しさを押し売りしてくる。あれは裏返して言えば、3・11以前の予感のない世界、表現世界と変わる所がない。みんなでとにかく人を出し抜いても「金儲けしようじゃないか」と言ってきたじゃないか、というふうに、僕は思う。そのことに、あなた方の表現世界は奉仕してきたじゃないか、と、僕は言いたい。「投資に乗り遅れるな」「ハイリスク、ハイリターンだ」と言ってきたじゃないか。そのための映像をあんた方は作ったじゃないか。そのための言葉を、詩人たちも無警戒に作ってきたではないか。誰がそれに異を称えたか、というふうに僕は言いたい。人は買い占めに走る。それを今頃になって、「醜い」という。でも既にその姿はあった。3・11の遙か以前からあった。そのような世界に我々はずっと本当は生きてきた。だから言ってるわけです。そこには持つべき予感というものを、むしろ排除するものがあった。破壊、に至った時に、それを予感しなかった責任は、誰が問われなければいけないか。それは私であり、文を綴るものたち、自称であれ、他称であれ、あるいは大家であれ、名もない者であれ、詩人たち、作家たちは、全員がその責めを負わなければいけない、というふうに、私は思っているんです。私たちはもっと予感すべきだった。書くべきであった。僕は今、勿論怒っているけれども、怒ることは無意味だ、と思ってる。書こうと思う。僕の誠実さは、それでもって証(あか)すしかできない。拙いけれども、これだけの出来事、あるいはそれ以降の出来事に、僕の筆力、僕の表現は追いつかないだろう。到底追いつかないことはわかってる。けれども、試みようと思う。それが亡くなった人たち、痛んでいる人たちに対して、僕ができるおそらく唯一のことではないか、というふうに、僕は思う。我々は、もともとあるかなきかの言葉をもっていたけれども、それでもこの瓦礫の山、焼け爛(ただ)れた汚水に沈んだ放射能の農村、水溜まりに浸けられた瓦礫の中に、我々が浪費した言葉たちの欠片(かけら)が落ちている。それを一つひとつ拾い集めて、水で洗って、もう一度丁寧に抱きしめるように丁寧にその言葉たちを組み立てていく。それが可能ではないかというふうに、私は今思っているし、そう思いたいと思うし。焼け爛れて撓んで(たわんで)水浸しになった言葉を一つひとつ屈(かが)んで拾い集めて、それを大事に組み立てていって、何か新しい言葉、それは取りも直さず人に対する関心であります。言葉というものは、単なる道具ではない。言葉というものは、人に対する関心の現れだと思う。自分たちが、あるいは失われたいのちが、世界のどういう位置にいるのか、ということを、わからせてくれる言葉を発することができれば、もっと人の魂、今生きている魂、そしてこの宙に浮かぶ亡くなった人たちの霊が、もっと安まるのではないか、というふうに思うんです。それを持ち合わせていないから、こんなにも不安で、切なくて、苦しくて、悲しくて、そして虚しいんだ。空漠としているんだというふうに、私は思う。その中には、もう戻りはしないであろう日常を、何日かすれば、何ヶ月かすれば、何年かすれば、戻るに違いないという暗黙の了解のようなものがある。しかし私はそうは思わない。私がまったく一個人の物書きの予感というものを、ここで誤解を怖れずに言えば、そのような日常は戻りはしない。私は不安を煽るために言っているのではないわけです。そのような規模ではなかった。もしかつての日常が、かつてと同じように戻って、また文章家たちが商品を売るために文を鬻ぐ(ひさぐ)魂を売る。万物を商品化していく。そのような日常にまた舞い戻るとしたら、私は舞い戻らないと思うけれども、舞い戻ることにはほとんど意味がないとさえ思う。絶望という事を、私は何度も考えました。こう思うんです。絶望というのは、人というものの一つの能力である。能力の一つである、というふうに思うんです。絶望できるということであります。そして今ある絶望をもっと深めていくというのも能力であり、それが弁証法的に言えばって言えば小難しくなりますけれども、新しい可能性への糸口になっていくのではないか、というふうに思っているわけです。私は絶望は浅い次元で、あるいは悲嘆というものを、浅いままに終わらせて、自分のエネルギーを燃え尽くしてしまうのは、違うかなあ、というふうに今思っているんです。何とかそこを一歩踏み出して、深めていく。悲しみをもっと深めていく。絶望をもう一段深めていく。自分の魂、自分の悲しみの質に合った言葉を、言語を捜して、それを一つながりの表現にしていく。それが絶望から這い上がる糸口になるのではないか、というふうに、私は思っているんです。ですから絶望と悲嘆は留め置かない。それをそれとして留め置くのではなくて、逆にむしろ深めつつ言語化していく、という作業が、私は若くても必要だ、と思う。我々は、それでも生き残ったわけです。あるいはこうも言えるかも知れない。生き残ってしまった、と。あの震災の破局の直中(ただなか)にいる人は、私の友人もそうだし、彼らからそう聞きもしましたけれども、「生きていることは偶然なんであって、あの光景に遭っては、死することが当然なんだ、と。生きていることがたまたまなんであって、死ぬることが普遍なんだ」というふうな、3・11以前とのまったく違うパラドキシカル(paradoxical:逆説的)なことをいう人もいた。でも私はこのひっくり返ったような言い方、表現は、一面どころか半面の真理を語っている、というふうに思うんです。我々は、それを少なくとも我々の思想の中に含みもってもいいんではないか、というふうに思うんです。やはり私は、「いつ、どうやって、どこに向かって歩き出せばいいか」というふうな設問をする時に思うんです。言葉は必要である、というふうに思うんです。私たちが見捨てた言葉を、我々がもう一度回復する、ということが必要である。それはどういうことかというと、廃墟にされた外部、外ですね、外の世界、これは廃墟であります。外部に対する内部を拵えなければならない。新しい内部を自分の手で掘り進まなければいけない。私の言葉で言えば、こうです。「著しく壊され、破壊され、暴力の限りを振るわれた我々の外部に対して、私たちは新しい内部を探(あなぐ)り、それを掘らなければいけない」。何を言っているのか、というふうに言われそうですけれども、わかってくださる方もいると思う。我々は、廃墟に佇(たたず)んで、立ちつくして、あるいはよろよろと歩き出しながら、新しい内面を拵(こしら)える必要がある。徒労(とろう)のような作業かも知れないけれども、それは意味のないことではない。新しい内面を、新しい内部を、我々は拵える。それは決していたずらに虚しい物理的な復興だけではない、をいうことだけではない。あるいはどこか虚しい、集団的な鼓舞を語るのではない。「日本人の精神」というふうな言葉だけを振り回すのではない。もっと私として、私という個的な実存、そこに見合う腑に落ちる内面というものを自分に拵える。ということは、私の言葉、私はあまりよう言わないわけですけれども、それが希望ではないか、というふうに、僕は思っているわけです。

(12秒間無音)
ナレーター:辺見 庸 新作詩(四月十八日脱稿)
「死者にことばをあてがえ」(『眼の海 』より)

わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ

死者の唇ひとつひとつに
他とことなる
それだけしかないことばを吸わせよ

類化しない 統(す)べない
かれやかのじょだけのことばを
百年かけて
海とその影から掬(すく)え

砂いっぱいの死者に
どうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者は
それまでどうか眠りにおちるな

石いっぱいの死者は
それまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ

浜菊(はまぎく)はまだ咲くな
畔唐菜(アゼトウナ)はまだ悼(いた)むな

わたしの死者
ひとりびとりの肺に
ことなる
それだけの
ふさわしいことばが
あてがわれるまで

(以上、放送の全文テキスト起こし終わり)

 

関連動画:
災害ヘリ 映像は語る 知られざる大震災の記録20140301
Okura
http://www.dailymotion.com/video/x2fjiba

投稿者 okura1919

念の為Sサーバーにアップ ←MediaFireに保存。

 

関連:
辺見庸 (日録1)私事片々 2013/10/21〜と、(日録2)から全保存 雑談日記Archive 

 

データ:
2011年
こころの時代 瓦礫の中から言葉を ~作家・辺見庸~
放送:4 月24日(日)朝5:00~6:00 NHK教育テレビ(地上波)
再放送:4月25日(月)14:00~15:00 NHKデジタル教育チャンネル
再放送:4月30日(土)13:00~14:00 NHK教育テレビ(地上波)

再放送:6月5日(日)5:00-6:00 教育
再放送:6月6日(月)14:00-15:00 デジタル教育
再放送:6月11日(土)13:00-14:00 教育

2014年
再放送:3月4日(火)午前2時40分~午前3時40分NHK教育テレビ(地上波)

こころの時代~宗教・人生~選 私にとっての3.11「作家・辺見庸」
http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2014-03-03/21/23525/

作家・辺見庸は宮城県石巻で生まれ育った。津波で自らの記憶の土台が根こそぎにされたと感じながら、辺見は、この絶大な破壊を表す言葉を打ち立てようと思索を続けている。

津波に襲われ壊滅した宮城県石巻の海辺の町で、作家・辺見庸は育った。「失われてみて、自分の表現を支えていた土台に、あの魚臭い町があったことを思い知らされた」と辺見。記憶の根拠になるものが根こそぎにされてしまったという失意のなか、この震災を表現しようと詩を書き続ける。絶望を深め、自分の悲しみに見合った言葉を探し表現すること。それが、絶望からはい上がる糸口になるのではないかと語る辺見の言葉に耳を傾ける。

【ゲスト】芥川賞作家、元共同通信外信部次長…辺見庸,【語り】山田誠浩,【朗読】清水紘治

 

2014年02月17日
日録7 私事片々
2014/02/17~2014/02/25
http://yo-hemmi.net/article/388967344.html

(略)
大震災の翌月、2011年4月24日早朝に放送された「こころの時代 瓦礫の中から言葉を――作家・辺見庸」が、来月3月4日の午前2時40分から、NHK総合テレビで再放送されるという、噂というか情報がある。
NHKの放送予定表にも載ったようだ。
だが、このご時世である、にわかには信じがたいので、へえ、そうなの!?と反応するにとどめた。
皆が寝ている時間帯。
どうということはないと言えば、どうということはない。
(略)

 

参考:
2012.07.29 辺見庸の吉本隆明批判~「辺見庸氏インタビュー いま、なぜ「滅亡」なのか 『死と滅亡のパンセ』(毎日新聞社)が示す近未来図」(「週刊読書人」2012年7月13日号)から抜粋
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-452.html

 

【時流自流】作家・辺見庸さん「現在は戦時」(神奈川新聞)
2013年9月8日
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1309070012/
Internet Archive

9_230829 辺見庸さん

 喉がしきりに渇いた。喫茶店で向き合った辺見庸さんの問いに、即座に答えられずにいた。

 「現在は平時か。僕は戦時だと思っています。あなたが平時だと思うなら、反論してください。でないと議論はかみあわない」

 安倍晋三政権が集団的自衛権の行使に向け、憲法解釈を変えようとしている。なりふりかまわぬ手法をどう見るか、そう尋ねた後だった。

 「十年一日のようにマスメディアも同じような記事を書いている。大した危機意識はないはずですよ。見ている限りね」。いらだち混じりの口調。低くゆっくりとした声が耳の奥深くに重たく響く。

 「日中戦争の始まり、あるいは盧溝橋事件。われわれの親の世代はその時、日常生活が1センチでも変わったかどうか。変わっていないはずです。あれは歴史的瞬間だったが、誰もそれを深く考えようとしなかった。実時間の渦中に『日中戦争はいけない』と認められた人はいたか。当時の新聞が『その通りだ』といって取り上げたでしょうか

 ずっと以前に有事法制は通っている。そして集団的自衛権の憲法解釈の変更への傾斜、秘密保護法案…。「今が戦時という表現は僕は必要だと思う」。辺見さんは念を押した。


■堕落
 〈ファシズムとはいかなる精髄も単独の本質さえない〉
 イタリアの作家、ウンベルト・エーコの言葉を辺見さんは引く。

 「日本のファシズムは、必ずしも外部権力によって強制されたものじゃなく、内発的に求めていくことに非常に顕著な特徴がある。職場の日々の仕事がスムーズに進み、どこからもクレームがかからない。みんなで静かに。自分の方からね。別に政府や行政から圧力がかかるわけじゃないのに。メディア自身がそうなっている」

 ファシズムの話は、神奈川県教育委員会が「日の丸・君が代の公務員への強制」に触れた実教出版の日本史教科書を排除した問題に及んだ。

 「あれは県教委が高校に圧力をかけ、特定の教科書の不採用を押し付けているだけの話ではない。言いぐさがすごい。『強制』ではなく『責務』だ、と。その論法にあなた方はどれだけ反論しましたか。堕落してますよ。あいつらも、新聞も

 クラシックが静かに流れる店内に長い沈黙が続いた。「ガガーッ」というコーヒー豆をひく音に、記者はびくっとした。

 例外を認めず、従わぬ者を監視し、氏名を集め、報告する社会。「強制っていうのは身体的強要を伴う。起立させ、歌わせる。人の内面を著しく侵している。これがファシズムでなくてなんですか


■転覆 
 橋下徹大阪市長の従軍慰安婦発言、在日外国人への罵詈雑言、麻生太郎副総理のナチス発言。「無知」で「醜い」ことが立て続けに起きている。

 インタビューの最中、辺見さんは何度も「ディストピア」という言葉を口にした。ユートピアの反対語で「暗黒社会」だ。

 レイ・ブラッドベリの『華氏451度』、ジョージ・オーウェルの『1984年』などがディストピア小説として知られる。

 「華氏451度の世界では、本を読むことが禁止されている。そこで人間が記憶する歴史は数年だ。スポーツが奨励され、深く考えないことも奨励されている。まさに今です

 植民地支配と侵略の責任を認めた「村山談話」の継承を否定してみせた安倍首相の歴史認識。辺見さんは「歴史の修正ではなく、歴史の転覆だ」と言う

 「平和性を自己申告して、千数百万人から2千万人が殺されたアジアの人たちの誰が信用しますか。好戦的な国か、平和な国かは他の国が決めること。旭日旗に対する恐怖は彼らに焼き付いている。相手の恐怖に対する想像力を著しく欠いている」

 首相や閣僚、首長の歴史転覆発言。福島第1原発の汚染水が垂れ流される中でのオリンピック誘致の狂騒-。華氏451度の世界そのものだ。

SOBA:↑上記辺見さんが言及している映画化された『華氏451』を末尾で採録

■虚無
 ディストピア小説で予測されたのは全体主義だった。だが、誰も予測しなかった恐ろしいことが今、起きているのではないかと辺見さんは危ぶむ。「虚無社会です。人の内面も空虚になっているのではないか」。忖度、斟酌、皆一緒。言葉を脱臼させ、根腐れさせるシニシズムがはびこる。進んで不自由になろうとする社会に、どう抗えばいいのか

 個として、戦端を開いていくべきだ」。辺見さんは力を込めた。

 「違う」と声を荒らげることが、むなしいこと、かっこ悪いことという空気が醸される中で、一人で怒り、嫌な奴をぐっとにらむ。

 「自由であるためには孤立しなくちゃいけない。例外にならなくてはいけないんです」。例外を認めず、孤立者を許さない。それがファシズムだからだ


 インタビューを終え、横浜に戻る。右翼の街宣車が朝鮮学校への補助金を止めるよう、甲高い声でがなり立てる。野球観戦に向かう家族連れがその横を歩く。飲み屋の明かりに背を向け、痩せこけた白髪の路上生活者が段ボールの上でくの字に体を縮めている。

 見えて聞こえていたのに、やりすごしていた日常が、突き刺す風景として立ち上ってきた。

 取材の2日前、辺見さんは都内で「死刑と新しいファシズム」と題した講演を行っていた。前売り券は売り切れ、聴くことができなかった。

 人でありながら人でなく、絶えず監視される死刑囚の状態を「禁中(宮中)と似ている」とし、その内側を知ろうとしないわれわれ。「日本はあらかじめファシズムの国」なのではないか-。

 辺見さんはそう語ったと、後日届いたメールで知った。


◆ファシズム
 広義には第1次世界大戦後、世界の資本主義体制が危機に陥ってからイタリア、ドイツ、日本などに出現した運動や支配体制を指す。全体主義的、権威主義的で議会政治の否認、一党独裁、市民的・政治的な自由の極度の抑圧、対外的には侵略政策をとるのが特色。合理的な思想体系を持たず、もっぱら感情に訴え、国粋的思想を宣伝する。

●へんみ・よう
 1944年宮城県生まれ。70年、共同通信入社。初任地は横浜。北京特派員、ハノイ支局長、編集委員などを務める。78年、中国報道で新聞協会賞。91年「自動起床装置」で芥川賞、94年「もの食う人びと」で講談社ノンフィクション賞。96年退社。2011年、詩文集「生首」で中原中也賞。近著に小説「青い花 」。

 

 辺見さんが言及していたブラッドベリの『華氏451度』をフランソワ・トリュフォー監督が映画化した『華氏451』です。リンク先の「dotsub」に行くと英語ですが字幕を出すように設定出来ます。文字が大きくて鮮明なので助かります。

Fahrenheit 451
https://dotsub.com/view/330d6fa0-5349-466b-85e1-a2c949f0393a

 

関連:
辺見庸 死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して(2013年8月31日講演記録 前半)

辺見庸 死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して(2013年8月31日講演記録 後半)

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 気象庁の震央分布図(→頁アーカイブ)、こんな所で原発なんて危険きわまりない(石橋克彦氏、地震学)。汚染水ダダ漏れだからオリンピック開催もふさわしくない。( Japan is situated in a volcanic zone on the Pacific Ring of Fire. It's also located near major tectonic plate boundaries, where's an un-wise place for 54 reactors. and now Osensui is not under control. So Japan and Tokyo is Unworthy of 2020 Olympic Games. )。震央分布図がある新頁

(Epicenter distribution map)
W

 

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2006/06 Japanese Chief Cabinet Secretary Shinzo Abe(2005/10/31 - 2006/9/26 ; Prime Minister 2006/9/26 - 2007/9/26, 2012/12/26 - )sent a message to Moonie's mass wedding blessing ceremony. Abe have appeared on cover page of cult Unification Church's monthly magazine "SEKAI SHISO". Moonie also support Shinzo Abe.

 

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