« 【必見】福島原発で再臨界の疑いが濃厚に、小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教) | トップページ | 1万5千人参加、素人の乱主催の高円寺・原発やめろデモYouTube全採録。カネ太鼓、チンドン屋さんが素晴らしい。 »

2011年4月11日 (月)

検証・大震災:3家族の3.11、陸前高田・河野さん、名取・佐藤さん、石巻・木村さん。

 防災の教訓として、記事の資料保存です(他の防災関連エントリーリンク紹介は末尾)。

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。

陸前高田市民体育館正門前は標高約5m(正門前の緯度経度 +39 0 46.515",+141 38 0.781" )、
陸前高田市役所は標高約7m(市役所入り口前の緯度経度 +39 0 53.421",+141 37 46.718" )
陸前高田駅出入口前は標高約6m(駅前の緯度経度 +39 0 47.468",+141 37 32.562" )
陸前高田駅の南西方向にある高田病院は標高約5m(正門前の緯度経度 +39 0 44.187",+141 37 22.500" )

検証・大震災:3家族の3.11(1)陸前高田・河野さん(1/2ページ)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20110410mog00m040015000c.html
Internet Archive

 東日本大震災の発生から1カ月。あの日、無数の家族の日常が容赦なく引き裂かれた。過去にも大きな地震や津波を経験した東北沿岸部の人たちは、備えていたはずだった。生死を分けたものは何だったのか。想像を絶する津波の実像とは。3組の家族を追った。【震災検証取材班】

20110410mog00m040006000p_size6
河野さん家族

 ◇81歳の母、避難用リュック背負って流され

 携帯電話のワンセグに岩手県の大船渡港が映る。「大津波警報発令」。古里の陸前高田市も近い。3月11日午後2時46分、福島大2年の河野義希(こうのよしき)さん(20)は福島県大熊町の総合スポーツセンターでソフトボール部の合宿中だった。

 家族に何度電話してもつながらない。約190キロの距離がもどかしい。翌朝、車で出発した。間もなくカーラジオから「陸前高田市は壊滅状態」と流れた。両親が営む食堂「くっく亭」は浜から200メートルほどしか離れていない。

 「生きていてくれ」。泣きながらハンドルを握った。宮城県気仙沼市でガソリンは尽きる。車を乗り捨て、がれきを歩いた。

     ◆

 「くっく亭」は、名勝・高田松原が続く海沿いにある。3月11日午後2時46分。経営者の河野(こうの)義典さん(47)がランチタイムを終え、サケの切り身を焼いて一口食べた時だった。

 停電でテレビが消えた。震源地はどこか、大津波警報が出ているのか分からない。地震には慣れているつもりだったが、今度は違う。店から北西約500メートルの実家で暮らす両親が気がかりだ。

 認知症の父(83)はこの日、デイサービスで宮城県気仙沼市の介護施設にいた。河野さんは傍らの妻(46)に母綾子さん(81)の様子を見てくるよう頼んだ。

 海辺から約1キロの実家には河野さんの兄でタクシー運転手の勝典さん(51)が先に駆けつけていた。綾子さんは避難用のリュックを背負い、家を出るところだった。タクシーで高台に避難させてくれるだろうと安心した河野さんの妻はすぐに食堂へ戻る。

 勝典さんが「ばあちゃん、どこに避難すんの?」と聞いた。「この地区は体育館なんでな」。市民体育館までは約220メートル。ゆっくり歩いても4分ほどだ。昨年のチリ地震津波でも綾子さんはここに行った。

 昨年2月28日、気象庁は東北地方の三陸沿岸に高さ3メートル以上の津波が押し寄せる恐れがあるとして、17年ぶりに大津波警報を発した。陸前高田市も沿岸全域に避難指示が出たが、高さは予想よりはるかに低かった。

 「ばあちゃんもあそこなら大丈夫か」。勝典さんは自分の職場に車を走らせた。

 食堂の河野さん夫婦は店から2キロ離れた高台に建つ市立第一中学へ車で向かう。市民体育館への避難も頭をよぎったが、第一中に通う3年生の長女(15)が心配だった。

20110410mog00m040007000p_size6
陸前高田市

 地震から約30分。外では「津波だ。逃げろ」と絶叫する防災無線が鳴り響いていた。しかし、車の窓を閉め切っていたため、聞こえなかった。

 車が体育館のそばを通ると、外階段2階の踊り場は住民であふれ返っているのが見えた。河野さんは、中に母がいるとは思いも寄らなかった。

(2/2ページ)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20110410mog00m040015000c2.html
Internet Archive

 ◇遺品に孫名義の通帳

 第一中は卒業式のリハーサル中だった。「地震だ。地震だ」。河野さんの長女留美さんは他の生徒たちとグラウンドに飛び出した。しばらくして木々の間から、街のいたるところで煙が上がっているのが見えた。

 間もなく捜しに来た両親の顔を見て驚いた。昨年のチリ地震津波でも食堂を閉めただけで逃げなかった。「どうしてここに。とんでもないことが起きたんじゃ……」。察する間もなく、街ごと津波にのみ込まれていく。家も食堂もやられた。

20110410mog00m040008000p_size6
母綾子さんの遺影と遺品を前に思い出を語る河野勝典さん=岩手県陸前高田市で2011年4月5日、石井諭撮影

 長女の無事を確認した河野さんは、母が身を寄せたはずの兄勝典さんの家へ歩き出した。「お袋の顔見てくっから」。高台にある兄の家に着いたのは午後5時ごろ。兄はすでに帰宅していた。

 兄に河野さんが尋ねた。「お袋はもう部屋にいんの?」

 「体育館さ行った」

 「ああ、だめだべ」

 「だめか」

 「なんで連れて来なかったべか……」

 母綾子さんは市内の病院で看護婦をしていた1960年、チリ地震大津波を経験した。市内で1414世帯が被災し、306棟が全半壊。8人が亡くなった。「地震が来たら大事なバイクだのなんだの心配しねえでとにかく逃げろ」。それが口癖だった。「津波に備えて、子どもとどこで待ち合わせるか決めておけ」

 市はマグニチュード(M)7・5前後の宮城県沖地震津波の想定をもとに浸水予想区域や避難場所を記した防災マップを住民に配ってきた。比較的海から遠い場所や高台にある1次避難場所にまず逃げてもらう。さらに危険が増せば、体育館などの2次避難場所に移動させるはずだった。

 しかし、市が1次・2次に指定した87カ所のうち39カ所が浸水した。市民体育館は1次と2次を兼ねていたが、住民を守ることはできなかった。戸羽太市長は「体育館なら安全という安心感はどこかにあったかもしれない。津波の到達も想定より早かった」と言う。

 市街地の約7割が壊滅した。市民体育館に集まった住民は約200人との情報もあるが、助かったのは3人だけだ。

     ◆

 河野さんは第一中で炊き出しのボランティアをしながら避難所を回り、母を捜していた。福島県で大学合宿中だった長男義希さんが13日、車とヒッチハイクでたどり着く。「ばあちゃんは?」

 20日夕、母は市内の遺体安置所にいた。体育館から流されたのだろう。約700メートル西の崩壊した信用金庫の中で、避難用リュックを背負ったまま発見されたと聞かされた。穏やかな顔をしていた。家族みんなで泣いた。

 リュックには、誰も知らない預金通帳や証書があった。いつか、家族が津波ですべてを失うかもしれないことを分かっていた。

 名義は息子2人の嫁や孫たちだった。【沢田勇】

    <続きを読む>3家族の3.11(2)名取・佐藤さん

2011年4月10日

 

SOBA追加関連画像
12484989637 スクロールして見るなら

←被災前の陸前高田市民体育館と中央公民館。時計塔をはさみ右側が市民体育館、左側が中央公民館。(陸前高田市探訪さんより)市民体育館正門前は標高約5m(正門前の緯度経度 +39 0 46.515",+141 38 0.781" )


Photo_8 スクロールして見るなら

←被災後の正門前方向から陸前高田市民体育館(右)と中央公民館(左)。

未来へのキオクより


12490555222 スクロールして見るなら

←被災前の陸前高田市役所。市政の中心部で、回りには「市民会館」「ふれあいセンター」。(陸前高田市探訪さんより


Rikuzentakatacityhall スクロールして見るなら

←被災前の陸前高田市役所(南東方向から、Wikipediaより)高田市役所は標高約7m(市役所入り口前の緯度経度 +39 0 53.421",+141 37 46.718" )


Rikuzentakata_city_hall_after_tsuna スクロールして見るなら

←被災後の陸前高田市役所。(Wikipediaより


Photo_7 スクロールして見るなら

←被災後の左陸前高田市役所と右市民会館

未来へのキオクより


12501487230 スクロールして見るなら

←被災前の陸前高田駅前ロータリー。右に時計塔、左に石のモニュメント。その先に見えるのが陸前高田駅。駅前にはタクシーの待合場所と駅前駐車場。(陸前高田市探訪さんより


Photo_3←駅へアップ、陸前高田駅前は標高約6m(駅前の緯度経度 +39 0 47.468",+141 37 32.562" )Wikipediaより


12501487256 スクロールして見るなら

←陸前高田駅から振り返り、駅前通を望む。(陸前高田市探訪さんより


Photo_4 スクロールして見るなら

←被災後の陸前高田駅前ロータリー。わずかに残る右に時計塔、左に石のモニュメントの残骸。駅舎は完全に流されてます。遠く右に見えるのは鉄路をはさんで駅の裏側にある高田病院。未来へのキオクより


Dscf1453 ←被災後2011年4月28日、(鉄道おやじの写真日記)さんによれば「駅舎はなくホームと津波で曲がった線路が残っているだけ」の惨状。


Dscf1450 ←(鉄道おやじの写真日記)さんがやっと見つけた陸前高田駅名の看板。 


Photo_6 スクロールして見るなら

←被災後の陸前高田駅前から駅前通方向を望む。駅前駐車場の先に残る左に時計塔と右に石のモニュメントの残骸。その先に見える駅前通は被災前の街並みが消滅してます。右手遠くに見える緑看板の建物は唯一の大型スーパーのマイヤ(MAIYA)。未来へのキオクより


Photo_5 スクロールして見るなら

←被災後に残った高田病院。4階まで浸水し27人が亡くなった。高田病院は標高約5m(正門前の緯度経度 +39 0 44.187",+141 37 22.500" )

未来へのキオクより


 

 岩手県が3・11の震災でどんなひどい思いをしたか動画を2本

【東日本大震災】陸前高田市 悲劇の階段 生死を分けたもの
mikel311a
https://www.youtube.com/watch?v=8Xb0cASakf0

アップロード日: 2012/01/27

岩手県陸前高田市は、避難指定場所68か所の内、35か所が津波によって流された。 市民体育館は約100人以上の人々が避難したが、生き残った人はわずかに3人だった。

高台の避難場所にも津波は押し寄せた。地元の人が「一番かわいそうな場所」という公民­館にも津波が押し寄せて来た。 そこに居た約40人ほどの避難者は慌てて近くの階段をかけ登った。

しかし、その小さな階段の先にあったものは崖だった。津波はそこまで到達して30人近­くが流された。 生き残ったのは崖の上まで必死によじ登った10人程だった。

 

大きな被害を受けた陸前高田市[震災翌日]
FNN311
https://www.youtube.com/watch?v=1XkSk0WA8Jg

公開日: 2012/08/31

Rikuzentakata city suffering great damage (Day following the earthquake)
The Japanese text is followed by an English translation.
津波の被害を受けた陸前高田市(震災翌日 : 朝7時ごろ)
津波によって、家やビルのほとんどが破壊され、以前の街の姿を想像することすら難しい­。
360度見渡すかぎりのがれきの山。
家があったはずの場所は、基礎だけが残っている。
横向きに倒れた家。押しつぶされたような家。倒壊したおびただしい数の家屋。
校舎の入り口に突っ込んでいる車も見える(市立高田小学校)。
スタッフが、がれきの中をかき分けながら進んでいく。
消防隊員に救助された市役所の職員たちが、危険ながれきの上を歩いていた。
今にも崩れ落ちそうな建物の屋上には、取り残された人たちが救助を求めている。
津波に耐えたビル。その屋上から顔を出す流木は、高さ2階建てのビルを優に超えていた­ことがわかる。

[映像中に登場するレポーターは、岩手めんこいテレビ 高橋裕二 アナウンサー]

Rikuzentakata city suffering damages by tsunami. (Day of the earthquake, around 7 a.m.) Most houses and buildings are destroyed by the tsunami, and even trying to imagine what the city looked like before is proving difficult. Piles of debris fill the view 360 degrees. Where houses used to be, there are only foundations. There are innumerable houses that have collapsed, some that fell sideways and some that were squashed. There is a car that crashed into the entrance of Takada Municipal elementary school. Staff make their way pushing their way through debris. Employees of the city office are walking over the dangerous debris, having been rescued by firemen. On top of the building that looks ready to collapse are those people left behind looking for help. Although the building withstood the tsunami, the driftwood sticks out from its rooftop, implying its existence that stands higher than the two story building.

-The reporter appearing in the footage is Yuji Takahashi of Iwate Menkoi TV-

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。
名取市立閖上小学校は標高約1m(正門前の緯度経度 +38 10 41.560",+140 56 29.430" 宮城県名取市閖上字鶴塚52番地)
名取市立閖上中学校は標高約2m(正門前の緯度経度 +38 10 39.328",+140 56 43.437" 宮城県名取市閖上字五十刈1番地)
名取市役所閖上公民館は標高2m (緯度経度 +38 10 36.180",+140 56 58.430" 宮城県名取市閖上2丁目19)

検証・大震災:3家族の3.11(2)名取・佐藤さん(1/2ページ)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20110410mog00m040016000c.html
Internet Archive

 ◇車濁流に…駐在所の壁でストップ

 海の方角に高々と上がる砂煙が見えた。その直後、人を巻き込みながら大津波が迫ってきた。宮城県名取市閖上(ゆりあげ)のケアマネジャー、佐藤研さん(35)は妻真希さん(33)、次女果穂ちゃん(6)と車で近くの市立閖上中学に逃げる途中だった。

20110410mog00m040009000p_size6
佐藤さん家族

 わずかな隙間(すきま)から水が流れ込んで車体が傾く。「もうだめか」と思ったとき、閖上駐在所の壁に車がひっかかって止まった。「逃げるなら今しかない」と後部の窓をひじでたたいて割り、車の上にはい出た。駐在所の屋根まで約50センチ。先に佐藤さんが飛び移り、2人を引っ張り上げた。

 雪が舞う中、3人はずぶぬれのまま屋根の上で待ち続けた。救助隊は来ない。水が腰の高さまで引き、ようやく屋根から下りられたのは、地震から9時間後のことだ。命を拾った。だが、もう一人の家族が見つからない。市立閖上小学校を下校したはずの長女吏都(りつ)ちゃん(8)は、どこにいるのか。

     ◆

 仙台平野南部の閖上地区には、高台と言えるような場所がない。あの日、次女果穂ちゃんの幼稚園の卒園式に出席し、自宅アパートにいた佐藤さんは地震の直後、果穂ちゃんと真希さんを車に乗せ、地区指定の避難所・閖上公民館に向かった。

 途中、閖上地区を南北に流れる貞山(ていざん)運河が目に入った。普段は1メートルを超える水量があるのに、川底があらわになっている。「大きな津波が来る」。そう直感した。津波は、いったん水が引いてから来ることを佐藤さんは知っていた。

 公民館に着いたのは午後3時過ぎ。この時佐藤さんは、まさか自分たちが生死のはざまをさまようとは思ってもみなかった。長女吏都(りつ)ちゃん(8)を迎えに行こうと、真希さん、果穂ちゃんを公民館に残し、市立閖上小学校へ急いだ。しかし、そこに吏都ちゃんはいなかった。

     ◆

 地震が起きた時、閖上小学校では全学年が授業を終え、低学年から下校が始まっていた。2年生の吏都ちゃんは学校から300メートル離れた歩道橋を歩いていた。

 強烈な揺れに思わずすくみ、座り込んでいると、小学校から走ってきた5年生の男子児童が「家に帰っちゃダメ。中学校に避難しよう」と声をかけてくれた。歩道橋の周辺にいた数十人の児童はその声に従い、目の前の市立閖上中学に移動し始めた。吏都ちゃんも続いた。

20110410mog00m040010000p_size6
名取市閖上

 教務主任教諭の洞口日出輝さん(54)によると、海抜0メートルの閖上小学校では毎年1回、地震と津波の訓練をし、校内にいるときは3階に、校外にいるときは学校から300メートル離れた閖上中学などの高い建物に避難せよと子どもたちに徹底していた。

 今回の震災では、親が小学校に子供を迎えに行き、親子で帰る途中に津波に巻き込まれるケースが多数報告されている。事件や災害の際にいち早く親に子供を帰すという「引き渡しルール」が裏目に出た形だ。

 閖上小では、迎えに来た親にも子供を渡さなかった。防災マニュアルで「津波が懸念される時には子供を引き渡さない」と決めていたからだ。「なぜ子供を渡さない」と詰め寄る親もいたが、学校側は「親御さんも学校にとどまってください」と説得した。

 同校の298人の児童は病気で自宅にいた1人を除き全員無事だった。

(2/2ページ)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20110410mog00m040016000c2.html
Internet Archive

 ◇「もう少し」声掛け合い

 真希さんと果穂ちゃんがいた公民館では「女川町に6~7メートルの津波が来ている」との情報が伝わった。誰ともなく「この2階建ての公民館は危ない」と言い出し、多くが3階建ての閖上中を目指して車で移動し始めた。中学への距離はわずか500メートル。真希さんも車に乗った。公民館を出たところで、閖上小から戻ってきた佐藤さんと合流し、中学を目指した。

 公民館長の恵美雅信さん(63)によると、閖上地区の住民は年1回、避難訓練を行い、地震と津波に備えていた。しかし、津波は予想を超える速さで来た。閖上中に向かう途中で多くの車が津波にのまれてしまった。

 佐藤さんの車も濁流に流されたが、たまたま閖上駐在所の壁にひっかかり、家族3人は高さ7メートルほどの屋根に上ることができた。周囲を見回すと、黒い水が町を覆い、電柱が倒れ、家が燃えていた。がれきにつかまった若い女性がこちらを見て「助けて」と叫んだ。しかし、なすすべもなく流れに消えていった。

20110410mog00m040011000p_size6
津波から逃れるためによじ登った駐在所の屋根(左)を見上げる佐藤研さん。自動車後部のガラス(右)を打ち破り、家族で逃げた=宮城県名取市で2011年4月2日、丸山博撮影

 暗くなり、雪が降り始めた。ずぶぬれの3人は震えだした。上空をヘリが通過したが、救助にくる気配はない。果穂ちゃんが「パパ、眠い」とつぶやいた。眠ると危ないと思った佐藤さんは、抱き寄せて話しかけた。「あったかいとこ行ったら、なに食べたい?」。果穂ちゃんは笑顔で「焼き肉」と答えた。真希さんと励まし続けた。「もう少し、もう少しだから」

 屋根から下りられたのは深夜になってからだった。あちこちでプロパンガスのボンベが爆発する音が響いていた。長女の吏都ちゃんは閖上中学に避難しているかもしれない。3人は中学へ向かった。

     ◆

 午前0時の時報が鳴り、ラジオが震災被害の様子を刻々と伝えている。避難所になった閖上中学。「佐藤さんいますか?」。教室にいた吏都ちゃんは女性教諭に呼ばれ、2階の職員室へ行った。

 そこに、毛布にくるまった3人がいた。お父さんとお母さん、それに妹。吏都ちゃんは真希さんに飛びついた。

 あまりに長い一日だった。佐藤さんには、家族みんながこうして無事に会えたことが奇跡に思えた。【杉本修作】

    <続きを読む>3家族の3.11(3止)石巻・木村さん

    <最初から読む>3家族の3.11(1)陸前高田・河野さん

2011年4月10日

 

検証・大震災:3家族の3.11(3止)石巻・木村さん(1/2ページ)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20110410mog00m040017000c.html
Internet Archive

 ◇大渋滞の国道、黒い波一気に

 宮城県石巻市・牡鹿半島の浜辺に暮らす漁師、木村美輝(よしてる)さん(41)は約500メートル沖合の船上で突き上げるような衝撃を感じた。カキ養殖のいかだを沖合に移動させる作業中だった。4・9トンの小型漁船は上下に大きく揺れた。

20110410mog00m040012000p_size6
木村さん家族

 20分後、先に帰港した僚船から無線で連絡が入った。「大きな津波が来るから気をつけろ」。港に急いだ。岸壁が目の前に見えるのにたどり着けない。急速に潮が引いていく「引き波」で漁船が次々と沖に押し戻されていく。接岸をあきらめ、携帯電話をつかんだ。「高いところさ逃げろ」。妻の弘美さん(40)にそう伝えたかったが、つながらなかった。

 日暮れとともに風が吹き、雪がちらつく。洋上でひとり震えながら、夜空を赤く照らし燃え上がる石巻市街をぼうぜんと眺めた。仙台方面では石油コンビナートが爆発炎上し、高い火柱が上がっていた。家族一人ひとりの顔が浮かんだ。「無事でいてくれ」。そう祈るしかなかった。

     ◆

 弘美さんと長男の将也さん(16)は石巻市中心部にいた。石巻民主商工会(民商)で確定申告の手続き中だった。弘美さんは応対していた職員(39)と机の下に隠れ、揺れが収まると駐車場の車内で待つ将也さんの元に向かった。

 運転席に座り、車のラジオを聞く弘美さんは冷静だったという。ラジオは牡鹿半島南端の鮎川地区で「10センチの津波が来た」と報じていた。「10センチならたいしたことないね。今は渋滞しているだろうから落ち着いたころに家に帰るよ」。窓越しに職員に語りかけ、ほほ笑んだ。午後3時15分ごろ、車を発進させた。自宅まで約20キロ。山側と海側の2ルートがあるが、選択したのは海側の国道だった。

20110410mog00m040013000p_size6
石巻市牡鹿半島

 海岸から約1キロの国道を津波が襲ったのは午後4時ごろ。片道1車線。大渋滞で車はまったく動かない。「車から降りてくれ。でかい津波が来るぞ」。国道沿いにある石巻消防署湊出張所の所長(58)は広報車のスピーカーで繰り返し叫んだ。

 側溝から「ブホッ、ブホッ」と空気が噴き出す音。道路の東側から車をひっくり返しながら真っ黒な波が押し寄せる。車から慌ててドライバーたちが飛び出す。1分後、ごう音とともに、辺りはがれきを運んできた波にのみ込まれた。

http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20110410mog00m040017000c2.html
Internet Archive
(2/2ページ)
 ◇「誰も責められない」

 台所でワカメのメカブを調理していた母の艶子さん(70)は、大型トラックがそばを通り過ぎるような大きな地鳴りが聞こえ、包丁を握っていた手を止めた。2階から下りてきた次男の友哉(ゆうや)さん(15)と一緒に庭へ飛び出し、車にしがみついて激しい揺れをこらえた。市立大原小から集団下校中だった次女の汐里(しおり)ちゃん(7)は同級生の父親が車で自宅まで送ってくれた。

 一家が暮らす小渕浜では、大きな揺れの後は、津波に備えて船で沖合に避難する習慣がある。艶子さんは船を手配するために200メートル先の岸壁に向かった。だが、船を出す漁師の姿がない。同じように船に乗ろうと集まった住民が立ち往生していた。

 その時、船を係留しているロープがピーンと一直線に引っ張られた。海面はみるみる遠ざかったかと思うと、真っ黒に変色していく。大津波の前触れの引き波だ。艶子さんは急いで引き返した。

 先に避難したのか自宅に2人はいない。沖合から壁のような波が迫る中、ひとり裏山に向け走り出した。バリバリバリとごう音を上げながら、津波は160世帯の集落をのみ込んだ。裏山からぼうぜんと見下ろした。

20110410mog00m040014000p_size6
父の木村美輝さん(左)の膝の上で笑顔を見せる長女美穂ちゃん(右)と次女汐里ちゃん。「子供たちがいるから頑張っていられる」=宮城県石巻市で2011年4月7日、丸山博撮影

 午後7時ごろ、艶子さんは地元で「てっぺん」と呼ばれ、浜から40メートルほどの高さにある民家を訪ねた。汐里ちゃんが泣きながら飛びついてきた。友哉さんは汐里ちゃんを連れ、自宅から約200メートル駆け上がった。そこでは30人ほどが暗闇の中で身を寄せ合っていた。友哉さんは友人と一枚の毛布に入り、寒さをしのいだ。兄の将也さんとは地震の10分前に携帯電話で「ゲーム機を貸して」と話していた。「きっとどこかに避難している」と信じた。

 同じころ、長女の美穂ちゃん(9)は大原小の体育館で教員や同級生と一緒に一夜を明かした。「おっとお、おっかあ。早く会いたい」。毛布にくるまったが、なかなか寝付けなかった。

     ◆

 沖合の漁船にいた木村さんが浜に戻ったのは2日後の13日朝。前日まで岸壁が水没し、接岸できなかった。15日、知人の目撃情報を頼りに妻弘美さんの車を見つけた。確定申告した民商から約4キロ先の地点だった。

 後部座席をのぞくと、長男将也さんが息を引き取っていた。運転席と助手席の窓ガラスが割れ、車内は泥まみれ。弘美さんの靴やジャンパーは見つかったが、今も行方が分からない。

 自宅は全壊し、一家は7人で同じ浜にある漁具の倉庫に身を寄せる。「あの時、こうしていれば、と考えても命は戻らない。誰も責めたくないし、考えないようにしてんだ」。木村さんは静かになった海を見つめた。【比嘉洋】

    <最初から読む>3家族の3.11(1)陸前高田・河野さん

2011年4月10日

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。
名取市立閖上小学校は標高約1m(正門前の緯度経度 +38 10 41.560",+140 56 29.430" 宮城県名取市閖上字鶴塚52番地)
名取市立閖上中学校は標高約2m(正門前の緯度経度 +38 10 39.328",+140 56 43.437" 宮城県名取市閖上字五十刈1番地)
名取市役所閖上公民館は標高2m (緯度経度 +38 10 36.180",+140 56 58.430" 宮城県名取市閖上2丁目19)

証言/避難者大混乱、名取・閖上公民館/誘導あだ 多数の犠牲者
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110803_01.htm
魚拓

20110803011jd_2
津波は車などを巻き込みながら押し寄せ、5差路をのみ込んだ=3月11日午後4時10分ごろ、名取市閖上

20110803_syougen_01
20110803_syougen_02

 東日本大震災で甚大な被害が出た名取市閖上地区では、指定避難場所の閖上中の目前で、津波にのまれた人が多数いた。閖上公民館に避難した人々が閖上中に誘導され、指示に従って移動していたところを津波が襲ったという。同公民館も指定避難場所で、避難誘導は市の防災計画の規定にない。周辺の主要道路は、事故と信号ダウンなどで渋滞が発生。近くに高台がない地域で、避難者は大混乱に陥っていた。
(小島直広、末永智弘、勅使河原奨治)

<渋滞>
 「あの時、公民館の2階に避難させてくれれば、娘は助かったはず…」
 長女ななみさん(14)=名取市閖上中2年=を亡くした漁業菊地篤也さん(49)=閖上2丁目=は悔しい思いを隠せない。ななみさんは3月11日の地震発生後、市の指定避難場所、閖上公民館に避難していた。
 ななみさんの兄佳祐さん(21)は同日午後3時半ごろ、公民館グラウンドで「地震怖い」と泣く妹をからかった。「何、泣いてんの?」
 佳祐さんが振り返る。「ここなら大丈夫だと思って、そのままその場を離れた。あれが最後だった」
 ななみさんはその日夕刻、公民館の北西約800メートルにある閖上大橋南側で、海水とがれきの中から発見され、救急搬送中に息を引き取った。
 3時45分ごろ公民館前。町内会長阿部文男さん(61)=閖上7丁目=は異様な光景を目撃する。公民館グラウンドに入った車や住民が、追い返されるようにぞろぞろと外に出て行く。
 「なぜ公民館に避難しないんだ、戻れ」。阿部さんは顔見知りの女性に強く注意した。
 女性は「公民館の人から、ここは津波の避難所じゃないので中学校へ移動するよう言われた」と答え、その場を後にした。
 公民館前グラウンドには車が約100台。阿部さんは「中学校へ向かおうとした車が、前の通りの渋滞に拍車を掛けた。そこを津波が直撃した。どれだけの犠牲者が出たことか」と嘆く。
 
<判断>
 閖上中は公民館の西約500メートルにあり、大人の足でも6、7分はかかる。阿部さんが注意した女性も結局、途中で津波に巻き込まれ、犠牲になったことが判明した。
 公民館は海岸線から1キロ強の距離にある。市働く婦人の家と棟続きで、共に鉄筋コンクリート2階建て。両施設を管理する元公民館長(63)=6月末で退職=によると、地震発生当時、幼稚園や中学校の謝恩会などが開かれ、館内には100人以上がいたという。
 元館長が証言する。「余震が続いたため、全員を屋外に避難させた。電話も携帯も無線もつながらず、市役所と連絡がとれなかった。防災無線放送も鳴らなかった」
 情報が途絶する中、状況はこの後一変する。
 元館長によると、午後3時20分すぎ、ある消防関係者がやって来てこう告げたというのだ。
 「大津波が来るから2階の建物ではもたない。全員を3階がある中学校に避難させてほしい」
 元館長は「制服を着た人だったので従った。もっと高い所へ、という判断は正しいと思った。結果的に犠牲者を増やしたならば、その責任は私にある」と悔しがる。
 津波が襲来したのは3時50分すぎ。元館長は、阿部さんや住民ら数十人と公民館2階に逃れ、間一髪で命拾いした。津波は2階の床すれすれまで達した。
 
<なぜ>
 名取市消防本部によると、市の防災計画では公民館は地震や津波の避難場所で、たとえ大津波警報が発令されても他の場所へ移動させる規定はない。
 今野新一消防長は「公民館にとどまるのが避難の原則。当日、住民を中学校へ移動させる命令を署員や消防団に出してはいない。現地で勝手な判断をするはずはあり得ないのだが…」と、首をかしげる。
 市内では震災で約900人が犠牲となった。避難誘導に当たった消防署員3人と消防団員15人が殉職した。中学校への移動指示を、誰がどういう理由で出したのか、真相は今も不明だ。

◎大橋通行止め、信号消える/「5差路」で車滞留

 名取市閖上周辺の道路は巨大地震の直後、激しい混雑で車が身動きの取れない状態に陥っていた。閖上大橋は事故で通行止めになり、そのたもとの5差路は車が殺到、信号も機能しない。周囲に高台が少なく、車を使った避難者が多かったことに加え、道路の構造にも被害を拡大する要因が潜んでいた可能性がある。

 閖上地区から内陸部へ向かう場合、主に二つのルートがある。閖上中や閖上公民館の前を通る市道と、バス通りと呼ばれる名取川沿いの県道閖上港線だ。二つの道路は閖上大橋のたもとで県道塩釜亘理線と交わり、5差路を形成している。
 地震直後の3月11日午後3時前、5差路の先の閖上大橋でトレーラーの積み荷が落下し、対向車をつぶす事故が起き、橋は通行止めになった。複雑な車の流れを整理する信号は停電で消えた。
 「橋を通って仙台方面に向かおうとする車と、内陸へ避難する車が続々と来た。5差路と周辺で車が滞留し始めた」
 仙台市内の勤務先に向かっていた会社員吉田唯樹さん(34)=青葉区=は振り返る。吉田さんは車から降り、交通整理を始めた。
 橋の通行止めで仙台方面へのルートが閉ざされたため、ほとんどの車が内陸部に通じる県道閖上港線に向かい、車の流れが滞った。
 午後3時25分すぎ、5差路前の倉庫会社の従業員加藤千加子さん(56)=太白区=は渋滞にはまった。「早く帰宅したかったのにノロノロとしか進まず、焦った」
 午後3時50分。津波は閖上に迫っていたが、5差路よりも海に近い公民館や閖上中付近の道路でも渋滞は続いていた。
 閖上大橋の事故現場へ向かった岩沼署交通課の斎藤武志警部補(51)は「避難先の閖上中に入ろうとする車で、公民館前付近から前に進めなくなった。パトカーのサイレンを鳴らし、対向車線を走った」と語る。
 閖上4丁目の会社員小斎誠進さん(42)も同じころ、公民館前から車が数珠つなぎになっているのを目撃している。歩いて閖上中に移動する人も大勢いた。
 「名取川河口に迫る大津波が見えたので、自転車を必死にこいだ。『すごい津波だ。逃げて』と周囲に声を掛けまくったが、半信半疑の人が多かった」
 小斎さんはこう証言する。5差路まで到達した時には、名取川を逆流した津波が堤防を越えかかっていた。「間に合わない、車を降りて逃げろ」。小斎さんは付近の車に叫び、車列を縫って近くの閖上小に逃げ込んだ。
 5差路で交通整理をしていた吉田さん。白波が川をさかのぼり、住宅街から土煙が上がっていることに気付いた。
 「慌てて5差路をまたぐ歩道橋に駆け上がった。津波が車や船を巻き込んで一気に押し寄せ、間一髪だった。歩道橋には50人ほどが避難していた」

◎東洋大・関谷直也准教授/高台遠い平野部、避難道路整備を

 東洋大などが4月下旬に行った「避難所住民調査」では、東日本大震災の発生直後、名取市閖上地区では車での避難が6割に上るなど、車への依存度が高かった実態が浮き彫りになっている。東洋大の関谷直也准教授(災害情報)は「高台が遠い平野部では、車でなければ避難できない人が多かった。その事実をきちんと受け止め、教訓にしなければならない」と指摘する。
 関谷准教授は、閖上公民館から閖上中への避難誘導について「公民館、閖上中とも、津波ハザードマップは1階でも浸水しない想定だった。情報が少ない中でより高い、安全な場所へ移動させようとした現場の判断を、一概には非難できないだろう」と話す。
 その上で5差路交差点付近で津波にのまれた人が多数出たことについては「5差路という構造が渋滞を引き起こした。それが避難者が集中する地点にあったことが問題だった」と語る。
 関谷准教授は「これまで津波避難に車利用はタブー視されてきた。しかし、平野が続く閖上のような地域では有効な面も否定できない。5差路を解消し、早く安全に車で避難できる道路整備を、復興計画に盛り込む必要がある」と提案する。

2011年08月03日水曜日

 

関連記事:

東日本大震災:惨事招いた大渋滞 宮城県名取市閖上地区
http://mainichi.jp/select/today/news/20110731k0000e040026000c.html

Photo震災後も多くの車が行き交う閖上地区の五差路。津波は渋滞の車列ものみ込んだ=宮城県名取市で、安高晋撮影


Photo_2 閖上地区の五差路


 仙台湾沿いに平野が広がる宮城県名取市。3月11日の震災で、多くの住民は付近に高台がないため、避難に車を使った。海辺の閖上(ゆりあげ)地区では人口の1割を超える約600人が遺体で見つかった。助かった住民が津波の直前に見ていたのは、避難する車の大渋滞だった。多くの住民が車ごと波にのまれた惨事は、二つの要因が重なって広がった。【安高晋】

 ■渦を巻く車

 「歩道橋へ急げ」。閖上郵便局を飛び出した局長の小平利則さん(52)は周りの人に絶叫した。午後3時50分過ぎ。約1キロ離れた閖上港を襲った津波が迫っていた。歩道橋が架かる500メートル先の五差路へ夢中で走った。車道では車が渋滞。車を捨てて逃げようとする人たちが目に入る。子供を抱えて転倒する母親もいた。だが助けられなかった。歩道橋に上った2、3秒後、津波は五差路を一気にのみ込んだ。「まるで洗濯機だ」。渋滞は五差路の先にも延びていた。身動きできなかった多くの車が、歩道橋の真下にできた渦に巻き込まれていった。

 ■事故で封鎖

 「事故で人が亡くなった。救急車を呼んでほしい」。五差路脇の「橋浦精麦倉庫」事務所に男性が駆け込んできたのは地震直後だった。社員の庄司明さん(54)が現場へ向かうと、閖上大橋の中央でトレーラーから長さ20メートルのコンクリート製支柱5本が落ち、乗用車を押しつぶしていた。橋の入り口には約10台の車が立ち往生し、五差路の信号も停止。庄司さんは、車を身ぶり手ぶりで市街方向へ誘導した。地震から30分が経過。まだ渋滞はなかった。

 五差路では2本の県道が交差する。特に、仙台空港と仙台港を南北に結ぶ10号は大型トラックが昼夜を問わず行き交う主要道路だ。片側1車線で「普段からよく渋滞していた」(地元住民)という。

 市の津波ハザードマップは、避難で自動車を利用しないよう呼び掛けている。しかし、平たんで高台のない閖上地区は「車を使うしかない」(地元住民)。市も「地形的にやむを得ない」と認める。

 事故で橋が封鎖された後、渋滞が始まった。五差路から約1キロ離れた有料道路「仙台東部道路」の料金所入り口付近にいた人たちは、午後3時半ごろから「車が全く動かなくなった」と口をそろえる。渋滞はその後、五差路まで延びた。津波は有料道路の下を通る道をくぐり、その先まで達した。

 ■直前の指示

 渋滞を拡大した二つ目の要因は、ある呼び掛けが発端だった。「ここは危険です。閖上中学校へ向かってください」

 閖上公民館長の恵美雅信さん(63)が声を聞いたのは有料道路付近で渋滞が始まった午後3時半ごろだった。地震後、約45分が経過。50台以上の車が集まり、館内に多くの避難者がいた。呼び掛けたのは消防署員か団員だったと記憶する。

 公民館は中学校と同じく市の指定避難所。なぜ移動が必要なのか尋ねる恵美さんに「大津波が来たら公民館では対応できない」と答えたという。恵美さんも約500メートル離れた中学校への誘導を手伝った。出口は車で埋まり、中学校へ向かう道路はすぐ渋滞になった。

 多くの避難者がこの移動中、車ごと波にのまれた。公民館の2階から動かなかった人や、津波を見て引き返した人は、助かった。市は「ラジオは6メートル以上の津波が来ると伝えていた。移動を求めた判断は正しかった」と振り返る。

 市の落ち度もあった。昨年2月のチリ津波後、市は地域防災計画で想定した2.6メートルを大きく超える津波が予測される場合は3階以上に逃げるよう各町内会の避難訓練の際に要請したという。公民館は避難先に適さなかったことになる。しかし、閖上地区の複数の町内会長は、要請を「記憶にない」と反論する。市は「周知が甘かった」と認めた。

 妻や母ら家族4人を亡くした町内会長の一人、高橋善夫さん(68)。昨年9月の町内会の訓練でも、避難先を公民館にしていた。「公民館に逃げれば安全と思ってきた。きちんと説明があれば、最初から別の場所に逃げることもできた。もっと多くの命が助かった」

2011年7月31日 14時11分 更新:7月31日 14時36分

 

震災直後の閖上大橋死亡事故 運転手に罰金10万円
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201402/20140206_13014.html

 東日本大震災直後に宮城県名取市閖上の閖上大橋で起きた交通死亡事故をめぐり、仙台区検は5日までに、道路法違反の罪で、宮城県色麻町の大型トレーラーの男性運転手を略式起訴し、仙台簡裁は罰金10万円の略式命令を出して確定した。
 運転手は2011年3月11日午後2時48分ごろ、閖上大橋の県道で、コンクリートくいの積載方法に不備のあったトレーラーを運転。地震で車両を停止させた際、長引く揺れで荷台のくいが対向車線の乗用車に落下し、運転席の仙台市若林区の男性会社員=当時(60)=を死亡させたとして書類送検されていた。
 運転手と勤務先の運送会社(岩沼市)の男性従業員は業務上過失致死容疑でも書類送検されたが、仙台地検はともに不起訴とした。
 捜査関係者によると、くいは長さ約10メートルの円柱型。トレーラーの荷台に数本積んでおり、総重量は約28トン。くいは全て車の上や道路に落下したという。

2014年02月06日木曜日

 

震災の揺れでくい落下、死亡男性遺族が提訴 運転手と運送会社を
2014/04/02 【河北新報】
http://www.47news.jp/m/news/201404/SM0402_1034073.html

 東日本大震災の地震発生直後に名取市閖上の閖上大橋で、大型トレーラーの荷台からコンクリートくいが落下し、対向車線の男性=当時(60)=が死亡した事故で、宮城県内の男性の遺族が1日までに、トレーラーの運転手と勤務先の岩沼市の運送会社に対し、計4639万円の損害賠償を求める訴えを仙台地裁に起こした。
 訴えによると、2011年3月11日の地震後、運転手がトレーラーを停車中、揺れで荷台の固定用ワイヤロープが壊れてくいが落下。対向車線で停車していた乗用車に落下し、運転席の男性が死亡した。
 男性の遺族側は「運転手は貨物の荷崩れや落下を防止し、安全に輸送する注意義務を怠った」と主張している。運送会社の担当者は「話し合いを続けて円満に解決したい」と話している。
 運転手はくいの積載方法に不備のあったトレーラーを運転したとして、仙台簡裁がことし1月、道路法違反の罪で罰金10万円の略式命令を出し、確定している。

 

閖上関連動画:
大津波 宮城県 名取市 ゆりあげ小学校・・・4
12aaiauoi
https://www.youtube.com/watch?v=YI1BQhtvyVg

2011/05/09 にアップロード

3分8秒から、閖上小学校。
6分12秒から、閖上大橋での交通事故。

 

防災関連エントリー:
東日本大震災の記録 大津波悲劇の中の救い、防災の備えが命を救った、英字紙記事も。

3・11東日本大震災「学校最多の犠牲者、石巻市立大川小」検証のために関連記事採録。 

3・11:東日本大震災 宮城・山元町の自動車学校、送迎手間取り25人死亡 

災害:巨大地震や原発被災、「毎日小学生新聞」が画像表示などあり分かりやすいので資料保存。 

3月11日〜3月28日のNYT写真集を全採録。直視し忘れないことが犠牲者への弔い。事実を伝えない日本のマスゴミは糞。 

始めに戻る

 

 「防災必需品+体験談」←グーグル検索です。普段からの備えが大事、参考にして下さい。以下、僕自身が用意している基本グッズのAMAZONリンクをはっておきます。

 ※をつけたグッズは、小さな子は別にして家族全員個人装備でも良いと思います。特にヘッドライトは明かりの欲しい作業の時などに使って重宝しています。夜、自転車の前照灯が球切れした時にも使い助かりました。雨具は傘以外に、即行で着脱できて両手が使えるポンチョもお勧めします。

ホイッスル 笛 ※(救出要請SOS、その他)

ヘッドライト ※

LED懐中電灯 ※

SONYポケットラジオ ※

SONY防災ラジオ←スマホ等 手回し充電可能タイプの

LEDランタン、お勧めは Colemanのランタン

・火を熾すもの(チャッカマン西洋 火打ち石

卓上カセットコンロ 

VICTORINOX多機能ナイフ ※

ポンチョ(アウトドア雨具) (←お勧め)※

 ロープは万能道具、普段から慣れておくことが大事。

決定版 ひもとロープの結び方 便利手帳 

使えるロープワーク―必ず役立つ「結び」の完璧テクニック (OUT DOOR)←アウトドア好きの方が書いた本。

アウトドア用のロープ ←リンクをはりましたが、一番良いのは登山用品店に行って説明を聞き、自分でも手にとって選ぶ事です(太さの感じが分かります)。通常、メジャーを使って1m単位で量り売りしてくれます。僕自身は、径3.5㎜と4.5㎜のでそれぞれ2m、3m、5mのを適宜本数組み合わせて普段からザックの隅に入れてます。また車にはそれに加え径8㎜で10mのを2本積んでます。細いロープは長いのだとうまく使えません。短いのを準備して使うのがロープに慣れるコツ。長さが足りなければつないで使えばよいのです。

 着るものを含め、防災グッズはアウトドアグッズを転用出来るわけですが、ザッグを例に取ると、防災用と比べアウトドア用のザッグは作りも頑丈ですし、使い勝手もはるかに良いです。

リュックサック ※

ザック ※

 意外と忘れるのがマスクとゴーグル。特にマスクは瓦礫の粉じん対策として必需品(特に肺がんを引き起こす石綿:アスベストに要注意)、避難場所での風邪の集団感染予防にもなります。またゴーグルは震災での粉じん対策だけでなく富士山が噴火した場合、大量の降灰に対する備えとしても必要。マスクとゴーグルは花粉症対策としても使え、何もしないよりは放射能降灰への備えとしても有用と思います。

山本光学のN95マスク  ※

山本光学の浮遊粉塵用セーフティゴーグル ※

 薬や救急用品など。これは個人それぞれ違うはず。以下は僕が用意しているもの。消毒用ジェルは避難所で用意しているはずですが、万一に備え感染症防御でこまめな手洗い用。スキンクリームはウォシュレットが使えない避難所で拭く時に使う切れ痔予防。裏技用途で、ジェルやワセリンはたき火が必要な時に火口(ほくち)に少し使うと火を熾しやすくできます。手ぬぐいはバンダナ代わりや鉢巻きにも使え、いざという時には包帯にもなる必需品。

消毒用ジェル救急絆創膏テーピング用テープけが等の軟膏ワセリンスキンクリームソンバーユなら)、とげ抜き手ぬぐい

始めに戻る


 以下追記、資料として採録。

阪神・淡路復旧作業石綿禍 東日本被災地にも暗い影
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/18/201208/0005483567.shtml
魚拓 

B_05483568 重機で解体される被災ビル。粉じんが舞う=1995年2月、神戸市兵庫区

 発生から17年半となる阪神・淡路大震災の被災地で、建物の復旧作業に伴うアスベスト(石綿)被害が新たに確認された。牙をむき始めた大震災の石綿禍。しかし、当時の環境庁(現・環境省)などによる石綿の飛散調査は「おおむね問題なし」との結果だった。時をへて相次ぐ中皮腫の発症は、実態把握の不十分さを浮き彫りにするとともに、東日本大震災の被災地にも暗い影を落としている。

 家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。阪神・淡路大震災の被災地では、倒壊した建物からすさまじい量の粉じんが発生した。日本では石綿消費量の約8割が建材に使われてきた。吹き付け材、屋根材、内装材、吸音材、外装材、耐火被覆材(たいかひふくざい)などだ。震災で崩れた建物のがれきには、命を脅かす「死の棘(とげ)」が含まれていた。

 当時の環境庁の調査によると、解体現場周辺で空気1リットル中の石綿繊維量は平均3~5・4本、大気汚染防止法の基準(10本)を下回った。一方、民間研究機関「環境監視研究所」(大阪市)の測定では、解体現場周辺で1リットル中160~250本が検出された。基準値をはるかに上回る。

 官民でデータに隔たりがあるが、中皮腫が増えているのは「飛散防止に有効な手を打てなかったことを示している」(専門医)とみる人は多い。

 解体が急ピッチで進む中、行政が現場に本格的な粉じん対策を指示したのは、発生から1カ月あまりたってからだ。復旧工事が急がれる中、石綿対策が後手に回ったことがうかがえる。

 発生から間もなく1年半になる東日本大震災の被災地でも、石綿の飛散に不安が高まっている。

 環境省の飛散調査では、約350地点のうち95・4%で「問題なし」との結果だった。しかし、現地調査をした森裕之・立命館大教授(公共政策)は「極めて不十分」と疑問を投げ掛ける。「建材は解体作業で細かく砕かれており、風向きによって測定値が大きく異なる。東北の被災範囲は広大で、阪神・淡路の教訓を踏まえて丁寧に測定すべきだ」と話す。

 被災地ではがれきの集積場が点在している。原発事故に伴う放射能汚染に目を奪われがちだが、宮城県石巻市の石巻赤十字病院の矢内勝・呼吸器内科部長は「がれきが身近にある以上、石綿の吸引を避けるために万全を尽くす必要がある」としている。(加藤正文)

【発症時期迎え被害拡大か】
 中皮腫で亡くなった宝塚市の男性=当時(65)=が阪神・淡路の復旧作業に携わったのは、わずか2カ月だった。震災アスベストの危険性を訴えてきたNPO法人ひょうご労働安全衛生センターは「十分な飛散対策がないまま、復旧解体が街中で繰り広げられた。労働者だけでなく、住民やボランティアへの被害も懸念される」と指摘する。

 石綿が肺の中に入り、中皮腫や肺がんといった石綿疾患を引き起こすまでの潜伏期間は、十数年から40年とされる。阪神・淡路大震災から17年半、同センターの西山和宏事務局長(50)は「発症時期に入ったのではないか」と警戒感を強める。

 近年、復旧に携わった労働者の石綿疾患が相次ぐ。2008年、解体にかかわった兵庫県内の男性の中皮腫発症が判明。その後、解体作業の現場監督を務めた芦屋市の男性、がれきを収集した明石市職員の発症が確認された。

 しかし、いずれも発症と震災時の石綿飛散との明確な因果関係は証明されておらず、兵庫県の井戸敏三知事は「原因が阪神・淡路大震災だとはなかなかなりにくいのではないか」などと繰り返し発言している。

 これに対し、今回の宝塚市の男性のケースでは、石綿に触れる機会が震災後の復旧作業に限定される。男性の妻(67)は「夫と同じような作業をしていた人は多いはず」との思いで、夫の病状の公表を決心した。

 被害拡大や不安解消に向け、行政の速やかな対応が求められる。(中部 剛)

2012/8/24

 

論壇
アスベスト禍の衝撃 史上最悪の産業災害
命に突き刺さる棘、震災復興でも深刻な被害が

http://gendainoriron.jp/vol.03/rostrum/ro03.php
魚拓 
Internet Archive 

神戸新聞編集委員 加藤 正文


国賠勝訴 
複合型ストック災害 
クボタショック 
震災アスベストの脅威 
相次ぐ発症 
異常事態の中で 
繰り返される過ち 
課題を示す窓 


 原発事故とアスベスト(石綿)禍には被害の構図が共通している。過去に地震や津波が繰り返し発生した地に原発を起き、研究者が再三、その危険性を警告していたにもかかわらず、虚構の「安全神話」の中で稼働を続けた。一方、石綿も戦前から有害だと分かっていながらも、その有用性、経済性から「管理して使えば安全」と国は十分な規制を行わず、約1千万トンを消費した。使用禁止は北欧に遅れること20年、ヨーロッパ諸国に遅れること10年以上たった実に2006年だ。

 原発事故は「史上最大・最悪の公害」(宮本憲一・大阪市立大名誉教授)であり、石綿禍もまた「史上最大の産業災害」(同)である。筆者は2005年6月末、兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場内外で深刻な被害が発覚した、いわゆる「クボタショック」以降、各地で取材を重ねてきた。その成果を『死の棘・アスベスト』(中央公論新社、2014年)として刊行した。石綿はその使用状況の広がりを反映して、被害状況も多様だ。本稿では、①石綿産業の原点としての大阪・泉南②アジア最悪の被害を出した兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場③今後、深刻な被害が懸念される震災アスベスト-の3点で被害と不作為の構図を描いていく。


国賠勝訴

 「勝訴」「最高裁、国を断罪」。原告側の弁護士の旗が出ると、最高裁前に詰めかけた被害者らから拍手がわいた。2014年10月9日、石綿を吸って肺がんや中皮腫などを患った大阪・泉南地域の元工場労働者らによる国家賠償請求訴訟で、最高裁は国の賠償責任を初めて認める判決を言い渡した。

Kato_asbestos1
知られざる地場産業だった大阪・泉南の石綿紡織産業。100年の時をへて最高裁が国の不作為を認定した(大阪アスベスト弁護団提供)

 「労働環境を整備し、生命、身体に対する危害を防止するために、国は技術の進歩や医学知識に合うように適時適切に規制権限を行使すべきだ」。この「適時適切」という理念を盛り込んだ判決が確定するまでに、どれほどの苦難があったことだろう。病気に斃れた無数の声なき声が、100年もの長い時を超えて重い扉をこじあけたのだ。

 関西空港の対岸、大阪府泉南市、阪南市を中心とする泉南地区は、日本の石綿紡織産業の原点の地だ。中小零細の工場が集積し、戦前は軍需産業、戦後は自動車や船舶、機械などの基幹産業を支えた。最盛期には約200社が稼働し、約2千人が就労したという。戦前から石綿紡織工場の全国一の集積地として発展した。

 主な製品は、石綿を主原料に綿花などを混紡した糸、そして、この糸を布状やひも状に加工したものだ。耐熱性、絶縁性にすぐれ、各種パッキング、蒸気機関車などの防熱ふとん、自動車の摩擦材などに幅広く使われた。「小はランプの芯から、大は重化学工業の発熱部を覆う断熱材として欠かせなかった」(柚岡一禎・泉南地域の石綿被害と市民の会代表)。あちこちに工場が点在し、「街全体が石綿工場のようだった」といわれるが、今の街並みからは想像もつかない。高度成長期をピークに生産は次第に先細り、産地は消えた。長年、数多く労働者や住民が石綿による肺の病気で苦しんできたが、2006年、石綿対策の不備について国の責任を問う集団訴訟が提起されるまで知る人は少なかった。「国は石綿の危険性を知っていた、対策を取ることもできた、でも、やらなかった」。長い間、隠されてきた被害が表に出た瞬間だった。

 戦前の調査がある。国は1937(昭和12)年、泉南地区の被害をつかんでいた。旧内務省保険院の調査で、労働者の石綿肺罹患率が12・3%に上ることが判明した。担当医師らの「有害工業に属し法規的取り締まりを要する」との警告が残る。だが、国はこれに対して不十分な症例調査にすぎないとの立場をとった。その後も罹患率は10%を下回らず、労働基準監督署が調査を重ねた。しかし、「被害は深刻ではなかった」という見解を譲らなかった。 クボタのような大企業と違い、泉南はほとんどが零細企業で対策も不十分だ。「だからこそ国に被害拡大を防ぐ責任があった」。石綿問題に詳しい立命館大の森裕之教授(公共政策論)は国の不作為を指摘する。

 訴訟は2陣あり、1陣の地裁、高裁、2陣の地裁、高裁。そして今回の最高裁、過去5回の判決が投げ掛けるのは、一体、何のために労働関係の法規はあるのか、という根本的な命題だ。いくつもの曲折があったが、最高裁判決は、人間の命と健康を守るため、という基本原則を明確に示した。

 不断の努力で最新の知見に合わせて健康被害を予防する。被害が発生しているのならば、根絶まで対策を取る。これは法律や規則以前の行政の当然の責務だが、縦割りの官僚機構の中でその意識はかなり薄れている。あえてこの原則を厳しく指摘したところにこの判決の最大の意義がある。


複合型ストック災害

 手元にアスベスト(石綿)の原石がある。白く毛羽だった繊維のついた蛇紋岩。カナダ・ケベック州の鉱山都市セッドフォード・マインズの取材時にもらったものだ。

 壮大な露天掘りの鉱山に立ったとき、上流から下流へ流れる川のように、採掘された石綿が輸出され、港から工場に運ばれ、加工され製品となり、最後に瓦礫として廃棄される様子がまざまざと脳裏に浮かんだ。 熱や引っ張りに強く、燃えない。そして何より安い。産業革命とともに本格利用が始まり、各国の経済成長を支えた。その用途は建材、水道管、パッキング、シール材、ブレーキ材など実に3千種類に及んだ。

 かつては「奇跡の素材」と喧伝され、有害な「悪魔の素材」にもかかわらず、大量に使われた。日本は1千万㌧を消費した。1970年代にWHO(世界保健機関)やILO(国際労働機関)が発がん性を指摘したのに、日本が使用禁止にしたのは前述のとおり2006年。建物など社会のあちこちに蓄積(ストック)された石綿。髪の毛の5千分の1の微細な繊維は吸引すると長い潜伏期間をへて中皮腫や石綿肺などの病気を引き起こす。「生産・流通・消費・廃棄の経済活動の全局面で複合的に影響を与えるストック災害」(宮本・大阪市大名誉教授)とされる。近代化の初期に大量使用され、経済成長が一段落するころに「死の棘」の本性をみせる。これが複合型ストック災害の恐怖だ。

 日本で中皮腫による死者は2006年から毎年千人を超え、10年は1209人、11年1258人、12年は1400人、13年は1410人と増加。兵庫、大阪、東京、神奈川で多い。石綿を扱う工場などで働いたことがないのに病気になった人の数は中皮腫と肺がんで8千人を超え、その半数が亡くなっている。

 一方、労働災害として認定される人の数は毎年千人を超えている。高度成長期に起きた四大公害事件よりも被害者が多くなるのは間違いない。規制の決定的に遅れを踏まえると、被害のピークは2030年と予測される。


クボタショック

 アスベスト問題が労災を超えた公害であることを明確に示したのは、2005年6月に起きた「クボタショック」である。ショックたるゆえんは、工場の元従業員のみならず周辺住民の間で中皮腫が多発していることが発覚したからだ。中皮腫は石綿に起因する極めて予後の悪い特異性疾患だ。それが工場の周辺に広がっていた。発症状況を地図に落とすと、この特異な病気が工場の半径4キロにわたって広がっている状況が浮き彫りになる。

 2014年9月末時点で周辺住民と元従業員の死者は435人となり、アジア最悪の被害となっている。住民の被害者は263人で、元従業員(172人)を上回る。「俺、何か悪いことしたか」「1億円もらったってこんな病気、嫌」「クボタによる陰湿な殺人」「健康な体を返してほしい」―。不条理に命を奪われた患者たちの言葉はあまりに重い。

 クボタの社長は道義的責任から謝罪し、原則半径1キロの発症については救済金を支払ってきたが、肝心の因果関係についてはいまだに認めようとしない。「お見舞い金の延長」(首脳)という見解にとどまる。


震災アスベストの脅威

 重機がうなりをあげて建物を壊していく。むき出しの鉄筋、破砕された建材、積み上がる膨大ながれき、舞い上がる粉じん…。東日本大震災の被災地で続いた光景は、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災の状況と重なる。当時、全国から駆けつけた労働者たちは、復旧復興のためにひたすら解体作業に打ち込んだ。すぐそばではごく当たり前の日常生活が営まれていた。あたりを舞う粉じんに潜む「死の棘」の存在を、気に留めることはほとんどなかった。

 来年1月で丸20年となる。神戸の街に震災のつめあとは感じられなくなった。順調に「復興」したかのように見えるこの街で、肺の奥に突き刺さった微細な繊維、アスベスト(石綿)が牙をむき始めている。がれき処理に関わった人が相次いで、石綿に起因するがん、中皮腫を発症しているのだ。吸引後、10数年から40年たって発症するのが石綿のリスクだ。

 「チュウヒシュ? 俺が?」。2012年5月、兵庫県明石市にある県立がんセンターで思わず問い返した。医師の診断は「腹膜中皮腫」。高濃度のアスベスト(石綿)暴露で起きる病気だ。明石市環境部の男性=当時(48)=の仕事はゴミの収集業務だが、石綿との関連を考えるうちに、1995年の阪神・淡路大震災時に思い至った。

 男性は当時、がれきの処理業務に奔走した。ブロックやスレート、木材など震災で全半壊した住宅のがれきをパッカー車に積んで、処分場に運んだ。波形スレートは半分に割って車に押し込んだ。2、3トン積みの車だったが、可燃であろうが、不燃であろうがお構いなしだったので「5、6トンは載せていた」。

 処分場にがれきを投入する。荷重が重すぎて油圧で荷台が上がらないのでパッカー車の中に入ってがれきをかきだした。狭いパッカーの中はすさまじい粉じんだった。「使い捨ての紙マスクを2重にして使っていたけど、鼻の中まで真っ黒になった」。当時、焼却場は壊れていたのですべてのゴミを埋め立て処分場へ。破砕してブルドーザーでならした。舞い上がる粉じんとともにがれきはうずたかく積み上がった。

 時は流れ、2011年暮れ、下腹部にできたしこりに気づいた。それが見る間に大きくなった。「当時、俺よりもたくさんアスベストを吸い込んだ人がいた。神戸に来ていたボランティアの人もそうだ。俺が病気になるというとは、これからもっと多くの人が発症するということ。入念な検査をみんなにしてほしい」。男性の病状は悪化し、2013年10月に亡くなった。


■ 相次ぐ発症

 時がたち、阪神・淡路大震災の生々しい記憶が遠ざかる中で、石綿関連疾患の発症が相次いでいる。2008年3月、震災時の解体作業で石綿を吸ったため、がんの一種、中皮腫になったと訴えた兵庫県内の30代の男性を、姫路労働基準監督署が労災認定した。震災時作業による労災認定は初のケースだった。石綿の被害は潜伏期間が十数年~40年とされる。「震災による石綿疾患はいずれ爆発的に発生する」と、かねて懸念されてきただけに、いよいよ来たのか、という覚悟を迫る発症の報告だった。

 2009年5月、芦屋市の男性=当時(80)=が労災認定された。中皮腫と診断されたのは2007年。元建設会社の営業マンで、震災後の95年10~11月、人手が足りず、解体作業で現場監督を務めた。重機の巨大なハサミが建物をつかむと、左右に10メートルほど粉じんが広がった。労災を申請すると、労働基準監督署は建設会社に勤務していた77~98年の約22年間に石綿に触れたと判断した。しかし、渾大防さんは「営業マン時代、建設現場に出ることはほとんどなかった。石綿を吸い込んだのは、震災時の現場監督時代しか思い当たらない」と話す。13年暮れ、男性は死去した。

 2012年8月には、宝塚市内の男性(11年に65歳で死去)も労災認定された。この男性は衣料品販売をしていたが、震災で仕事ができなくなり、1995年2月、作業服に着替えてアルバイトとして工務店で勤務した。民家からずり落ちた瓦を集め、屋根にブルーシートをかけた。マンションの改修工事にも立ち会った。マンションの室内では職人が壁や天井をはがしたり、電動のこぎりで建材を加工したりしたため、相当量の粉塵が部屋にたちこめた。妻(67)は今、夫のかぶっていた野球帽にほこりがたくさんついていたことを思い出す。工務店のアルバイトはわずか2カ月。この間に石綿を吸い込んだ。16年後に中皮腫を発症し、2011年10月に死去した。妻は悲しみを口にした。「がれきの中のアスベスト(石綿)のことなんて考えもしなかった。お父さんは悔しかったと思う。同じ哀しみを東北の被災地で決して繰り返さないでほしい」

 同じ月、兵庫県内に住む別の70歳代男性も神戸東労働基準監督署から労災認定されたことも判明。3年近く瓦礫処理作業に携わったという。労災認定などで表面化する被害だけで5人。その背後で、解体、瓦礫収集、運搬、処理などの復旧・復興に関わった数多くの労働者が次々と石綿禍に倒れている。これが阪神・淡路大震災の被災地の現実なのだ。


異常事態の中で

 死者6434人、家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。現場は異常事態であり、緊急事態だった。

 「最悪の労働環境だった」。解体や瓦礫処理に携わった労働者たちの証言だ。神戸市兵庫区で工務店を経営する男性(81)は振り返った。「マスクどころか、タオルもまかずに仕事した。石綿が危ないなんて考える余裕はなかった」「防護シートを張らずに解体した。飛散を防ぐために水をまこうにも、水道管が壊れて水は出なかった」

 発生約1カ月後から一斉解体が始まった。無数の業者が被災地に集まり、神戸だけでも100件、兵庫県内で200~300件の解体が同時に進行したという。住民への情報開示、飛散対策が積み残されたまま、混乱の中、大量解体が進んだ。一体、どれだけの粉じんが街中を舞ったのだろう。当時、がれきの街を取材で回りながら、のどがいつもいがらっぽく、目が痛かった記憶が残る。

 都市では高度成長期以降、郊外型の開発に力が注がれ、インナーシティーと呼ばれる中心部の再開発は遅れてきた。ニュータウン開発に力を入れた神戸では、とりわけインナーシティー問題は課題となっていた。そこには石綿を含む老朽建築物が数多く取り残されており、災害対策としても石綿に十分注意が払われてこなかった。震災時の兵庫県地域防災計画には環境保全の記述はなく、10年後の復興10年委員会の「総括検証・提言報告」にもアスベストの文字は一カ所もない。

 「これは単なるアスベスト対策の欠陥ではなく、日本の都市政策、災害対策、復興政策の欠陥と関連している」(宮本、森永、石原編『終わりなきアスベスト災害』岩波書店、2011)。この指摘が重くのしかかる。

 しかし、自治体の対応は鈍いといわざるを得ない。東日本大震災の起きる1年前の10年5~8月に掛けて立命館大は全国の自治体に地域防災計画に震災時アスベスト対策を盛り込んでいるかどうかを調査した。結果、72・5%が「現在、盛り込んでおらず、特に盛り込む予定はない」と回答。そのうち、環境省が07年に策定した災害時の石綿飛散防止マニュアルについても、「認識していない」「確認していない」としたのは5割超。

 これが日本の石綿対策の実情である。そこに東日本大震災が起きたのだ。


繰り返される過ち

 東北の被災地に点在する瓦礫の集積場で遊ぶ子どもたち。倒壊した建物の前で、マスクをつけずに普通に歩く中高生…。「目に見えないアスベストが飛散しているから、できるだけマスクを」。そんな思いが募る。阪神・淡路大震災の被災地であまりに無防備だったからだ。

Kato_asbestos2 積みあがる震災がれき。微細な石綿繊維の飛散が懸念された。阪神・淡路大震災の教訓は生かされたのだろうか=2012年、宮城県石巻市

 津波に根こそぎ奪われた東北の町は、当初は声を失う惨状だったが、その後、がれきの様子が気になった。宮城県石巻市。2012年秋に県立石巻商業高校(約580人)の隣に広がるがれきの集積場には驚いた。高い囲いが巡らされ、白い袋詰めされた膨大ながれきが積み上がっている。搬入された後、生徒から「喉が痛い」「目がかゆい」などの声が寄せられたため取られた措置だった。

 がれきは、撤去、運搬、仮置き、処分の全過程で粉じんが発生する。倒壊家屋や破損した船舶には、ふきつけられたり、練り込まれたりした石綿がたくさん含まれている。当初、環境省の担当者は「津波で塩水にぬれ、石綿の飛散が抑制されている」としたが、乾燥が進み、破砕や運搬作業が進む中で、当然、飛散する。

 がれきの総量は東日本2300万㌧、阪神・淡路2千万㌧だ。東日本大震災に特徴的なのは、沿岸には製紙業をはじめ、さまざまな工場があることだ。長期間、排水を流したことで、海底にはさまざまな物質が蓄積している。「津波は、海底に沈殿していたものを一気に陸に揚げた。産業廃棄物を含むヘドロは普通の泥ではない」と石巻赤十字病院の矢(や)内(ない)勝・呼吸器内科部長が警告する。発生2カ月後に訪れた際、海底にたい積したヘドロが津波で打ち上げられていた。臨海部にそびえる日本製紙石巻工場の周りを歩いていると、雨が降り出した。それまで白っぽかった泥が、雨にぬれると、どす黒く変色した。石綿、砒素、鉛…。危険物質は数多くある。

 東日本で阪神・淡路とは決定的に異なる点がある。犠牲者の9割が建物倒壊による「圧死」が阪神・淡路なのに対し、東日本では死因の9割が津波による「溺死」だ。これはそのまま石綿被害にもあてはまる。破損した建物が津波で流され、そして有害なヘドロが沿岸部に拡散している状況を踏まえると、粉じんの飛散に伴う健康被害は、阪神・淡路大震災よりもはるかに広域になる危険性がある。

 環境省は東北の被災地で11次にわたってモニタリング調査を行った。結果、1713地点のうち99・6%で問題がなかったという結果だった。「おおむね問題なし」と環境省の大気課長(当時)はいう。ここでも20年前の阪神・淡路大震災の当時と似ている。

 しかし、「調査はきわめて不十分」と森裕之・立命館大教授(公共政策)は言う。被災地ではがれきの量を減らすために成形板を破砕しているケースがあるといい、「破砕物は風向きで測定値が大きく異なる。被災のエリアは400㌔にわたる広大な地域だ。もっと丁寧な測定が要る」と話す。


課題を示す窓

 大震災の発生でどれだけの石綿が飛散したのか、完全な把握は難しい。とはいえ、できることはある。まず、アスベストを含んでいた建物の倒壊した地区を中心に、当時の住民や解体・撤去にかかわった労働者らを登録し、健康診断を継続しなければならない。土木工事に他府県から多くの労働者が神戸・阪神間にやってきた。これはボランティアも同じだ。アスベストに暴露したというリスクを本人に周知させ、健康診断を受けなければならない。

 もう一つ必要なのは、私たちの住む街にいったいどれぐらいの石綿が蓄積しているのか。神戸市は固定資産税台帳によって建物の建築年次を調べ、アスベストの飛散可能性のあるものをチェックしている。これは公表していないが、地図に落とし込んでいるので、アスベストマップとしても活用できる。

 「大震災の発生時、ふだんは見えない社会の課題を示す窓が開く。その窓はごく短い期間に閉じてしまう」。阪神・淡路大震災のちょうど1年前の1994年1月17日、米カリフォルニア州ロサンゼルス市ノースリッジで起きた大震災の報告書にはこんなフレーズがある。窓が開いているうちに、根本的な対策がとれるか。神戸で生かせなかった阪神・淡路の教訓を、東日本で生かさなければならない。これは石綿問題にとどまらず、私たちの社会の未来にかかわる問題である。

主要参考・引用文献

(1)中部剛、加藤正文『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』、かもがわ出版、2014年

(2)加藤正文『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』、中央公論新社、2014年

(3)立命館大学政策科学会編『別冊政策科学 アスベスト問題特集号』、2008、11、12年

※新聞、雑誌、インターネットサイトの記事、各種訴訟の訴状、判決文などを参考にした。


かとう・まさふみ

1964年西宮市生まれ。大阪市立大学卒。89年神戸新聞入社。経済部、北摂総局、阪神総局、論説委員などを経て、現在、経済部次長兼編集委員。著書に『工場を歩く-ものづくり再発見』(神戸新聞総合出版センター)、『工場は生きている-ものづくり探訪』(かもがわ出版)、『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』(共著、かもがわ出版)、『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』(中央公論新社)など。


   「いのちに突き刺さる」アスベストの悲惨―――
真正面から立ち向かった著者渾身の
「怒りと告発」の書に戦慄する。
――内橋克人氏(評論家)

これは“影の日本経済史”であり
世界的スケールで“白い肺の恐怖”を
描いた力作である。
――黒木亮氏(作家)

『死の棘・アスベスト』
加藤 正文著 中央公論新社 定価1700円(税別)

始めに戻る

|

« 【必見】福島原発で再臨界の疑いが濃厚に、小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教) | トップページ | 1万5千人参加、素人の乱主催の高円寺・原発やめろデモYouTube全採録。カネ太鼓、チンドン屋さんが素晴らしい。 »

防災」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/122555/53547328

この記事へのトラックバック一覧です: 検証・大震災:3家族の3.11、陸前高田・河野さん、名取・佐藤さん、石巻・木村さん。:

« 【必見】福島原発で再臨界の疑いが濃厚に、小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教) | トップページ | 1万5千人参加、素人の乱主催の高円寺・原発やめろデモYouTube全採録。カネ太鼓、チンドン屋さんが素晴らしい。 »