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2011年4月21日 (木)

3・11東日本大震災「学校最多の犠牲者、石巻市立大川小」検証のために関連記事採録。

 悲劇を繰り返さないために、参考記事です(他の防災関連エントリーリンク紹介は末尾)。

関連エントリ(2018年9月11日):
今日は9月11日、2011年3・11東日本大震災から7年半で、9月の月命日。なかでも思い浮かぶのは大川小学校のこと。

 

参考:↓グーグルアースや、グーグルの地図検索で調べる時のデータ。コピペしてEnterするとその地点に飛びます。
大川小学校は標高約3m(正門前の緯度経度 +38 32 46.800",+141 25 40.150" )で、避難で向かった三角地帯は標高約8〜9m(緯度経度 +38 32 42.610",+141 25 34.080" )

 

 大川小学校のあった釜谷地区、きれいな街並や畑と北上川、程よい距離にあるなだらかな裏山は防災的には理想的な避難場所でした。同じく被災した、宮城県名取市閖上地区と比べれば明らかです。閖上地区は近くに避難に適当な髙地がありませんでした。大川小学校は好条件を活かせなかった悲劇と言わざるをえません。

(3・11被災の前々年、2009年11月のグーグル空撮画像)
↓クリックすると拡大します。スクロールして見るなら

20091104

 

よくまとめているサイト。
■大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻
http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_okawa.html

 

証言3・11:東日本大震災 児童、泣き叫び嘔吐 学校最多の犠牲者、石巻市立大川小
毎日新聞 2011年04月19日 東京朝刊
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110419ddm041040006000c.html
魚拓

 全校児童108人中死者64人、行方不明10人と、学校では東日本大震災最多の犠牲者が出た宮城県石巻市立大川小学校。追波湾(おっぱわん)から同市長面(ながつら)地区に上陸した津波は、湾奥部の北上川河口から約4キロにある大川小の2階建て校舎、そして校庭から避難し始めた子どもたちと先生の列をのんだ。住民や関係者の証言から、激しい揺れにパニックに陥った学校の惨劇が浮かび上がる。【百武信幸、堀江拓哉、遠藤拓】

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 ◇校舎のんだ津波「裏山に階段あれば…」

 ■その時

 「ありがとうって伝えたくて」。3月11日午後、2階の4年生の教室に、育ててくれた父母への感謝の気持ちを込めた児童の歌声が響いていた。10歳を祝う「2分の1成人式」の記念DVD用に、担任の佐々木芳樹先生(27)が録音していた。武山詩織さん(10)は振り返る。「(歌の)2番にいかないくらいだったかな」。激しい揺れに歌声が悲鳴に変わった。校内は停電。机の下に入った子どもたちは先生の指示で校庭の真ん中に集まった。

 先生たちは児童を座らせ、点呼を取った。近所の人たちも避難してきた。当日、娘の卒業式で市外にいた柏葉照幸校長(57)は「この時、恐怖と混乱から泣き叫んだり、嘔吐(おうと)したりする子どももいた」と後日、報告を受けた。学校は、混乱していた。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110419ddm041040006000c2.html
魚拓

 自宅から車で詩織さんを迎えに来た母久美さん(38)は学校到着を午後3時25分ごろと記憶する。「名簿を手に、迎えに来た保護者や避難住民に応対する先生たちもいた」。詩織さんを車に乗せ、アクセルを踏んだ。「津波はここまで来ない」と思いつつも、北上川より5メートルほど高い堤防近くの新北上大橋に向かい、さらに標高のある南を目指した。

 避難を呼びかけるため広報車で河口に向かった市職員、武山泰徳さん(53)は3時20分ごろ、学校から約1キロ海側の墓地近くにいた。「沿岸の松林の奥に水しぶきが見えた。津波だと思った」。Uターンして拡声機で繰り返した。「津波です。避難して」

 ■黒い波

20110419dd0phj000030000p_size5 多数の児童と教諭が津波の犠牲となった大川小(中央右)。左は裏山。奥に新北上大橋と北上川をのぞむ=宮城県石巻市で2011年4月17日、本社ヘリから小林努撮影

 大川小がある釜谷(かまや)地区の東隣、長面地区の農業、三條昭夫さん(75)は、妻喜久子さん(72)と車で釜谷地区に向かった。「80キロほど出ていたと思う。後ろから浮世絵に描かれた波を黒く塗ったような波が、縦にぐるぐる回転しながら迫ってきた。大川小前で校庭にいる子どもたちの姿が横目に見えた」

 学校では、体育館や校舎2階に避難できるか校内を見回った先生もいたが、避難住民とともに新北上大橋のたもとにある交差点に向かうことになった。その距離約200メートル。高さは堤防や校舎の屋根とほぼ同じだ。校庭から列になって釜谷交流会館の脇を通り、裏山沿いの裏道を歩いた。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110419ddm041040006000c3.html
魚拓

 同じ長面地区の永沼輝昭さん(70)と妻睦子さん(66)は6年の孫遼太君(12)、4年の和泉(いずみ)君(10)兄弟を迎えに車2台で学校に着いた。永沼さんは車外に出て兄弟を乗せた睦子さんと避難先を相談していた。校庭から先生と児童の列が出てきた。

 永沼さんは「列が裏道に進み出した時『バリバリ』という音とともに黒い水しぶきが来た」。睦子さんと兄弟を見失い、子どもたちに叫んだ。「山さ上がれ」。裏山の斜面に飛びついた。雪で滑り、波にのまれたが、押されるように斜面に上がった。3メートルほど先の水面に女の子がいた。そばの竹を左脇に抱えるようにして腕を伸ばし、手を握った。

 遼太君と和泉君は1週間後、遺体で見つかった。永沼さんは「近くにいたら、なんぼでも助けたんだけどな」。睦子さんは、見つかっていない。

 ■判断

 列の後方に、5年生の男の子がいた。津波の翌日、男の子を保護した顔見知りの男性によると、男の子は震災から1カ月が過ぎたころ、当時の状況をこう明かした。

 すごい音がして、津波が前から来た。腰を抜かし、その場に座り込んだ子もいた。自分で判断して、裏山に逃げた。竹林で他の男の子2人と大人十数人と一緒になり、一晩過ごした。大人が持っていたライターで火をおこした。「眠れば死ぬんだからな」と言われ、一睡もしなかった−−。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110419ddm041040006000c4.html
魚拓

 当時大川小にいた先生10人と事務員1人のうち、佐々木先生を含む9人が死亡し、1人は行方不明のままだ。助かったのは裏山を駆け上がった40代の男性教諭1人。この教諭は山を登る際、倒木で負傷しながら近くの男児1人を押し上げるように助けたという。

 ■その後

 なぜすぐに裏山に避難しなかったのか−−。大川小学校の惨劇への疑問は、この一点に集約される。

 石巻市は、大川小学校への津波到達を想定していなかった。市の「防災ガイド・ハザードマップ」は、同小を避難所として「利用可」としている。柏葉校長は「堤防を越える津波が来たらもたないので、山に避難場所をつくろうと職員で話はしていた。裏山は泥炭地でつるつる足が滑るので、階段をつくれるといいなと話していたが、そのまま震災になった」と明かす。

 校舎に残る三つの時計は、いずれも3時37分を指し止まっている。地震から津波到達まで、恐らく40〜50分あった。9日の保護者への説明会では、校庭で点呼を取るなどした対応に「なんですぐに逃げろって言わなかったのか」と非難の声も出た。だが一方「108人誰も欠けないように点呼し、先生はよくやってくれた。誰が悪いと思ったことはない」と話す保護者もいる。

http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110419ddm041040006000c5.html
魚拓

 狩野あけみさん(42)は避難所から学校周辺に通い、今も毎日、行方不明の三姉妹の末っ子、6年生の愛さん(12)を捜す。「あの日、自転車で『行ってきます』って出かけたままで。私はずっと待ってる。もう帰ってきてもいいころだよ」

※狩野あけみさん紹介の英文記事は下で

 

検証 石巻・大川小の惨事/保護者ら証言「学校前にバス待機」「全員が避難できた」
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110908_01.htm
Internet Archive

20110908001jd 亡くなった児童の保護者らが「ここに避難させてほしかった」と訴える学校近くの山道。校舎(奥)から歩いて数分の距離だ=8月28日、石巻市釜谷


Ookawa01k  東日本大震災の津波で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明になった石巻市大川小の惨事から、間もなく半年がたつ。河北新報社の取材に応じた児童や住民らの証言で、当時は現場にスクールバスが待機していたことや、高台への避難を相談していた状況が浮かび上がった。学校管理下で児童が犠牲になった事例として戦後最悪とされる今回の被害は、避けられた可能性もあると指摘する関係者もいる。(藤田杏奴、野内貴史)

 保護者らによると、地震が起きた午後2時46分は下校時間の直前で、スクールバスが待機していた。関係者は「バスで避難すれば助かった可能性もある」と指摘する。
 2年生の息子を迎えに来た父親(39)は午後3時10〜20分ごろ、学校前の県道に止まっているバスを目撃した。男性運転手に「何してるんですか」と尋ねたところ、落ち着いた様子で「待機だねえ」と応じたという。
 バス会社の関係者は同じころ、無線で運転手に避難を呼び掛けた。ラジオは「(宮城県)女川町で車が流されている」と伝えていた。運転手が「子どもたちが出てこないんだ」と話したのを最後に、交信は途絶えた。
 バスの定員は45人。関係者は「無理にでも詰め込めば、児童全員が避難できた」と言うが、バスが出発することはなく、運転手も津波の犠牲になった。
 証言では、避難をめぐるやりとりも断片的に浮かんできた。
 児童たちがとどまっていた校庭では午後2時52分、防災無線が大津波警報を知らせた。午後3時10分ごろ、子どもを迎えに来た母親によると、「この山に子どもを上がらせても大丈夫か」と裏山を指す教頭に、住民は「ここまで津波は来ない」などと答えた。
 同じころ、学校を訪れた別の保護者は教師から「学校の方が安全だから残った方がいい」と言われた。保護者は「どこかに避難する雰囲気ではなかった」と語る。
 5年生だった只野哲也君も、6年生の男子が担任に「山さ逃げた方がいい」と訴えた姿を覚えている。「どうして山に行かないのかなあ」と思ったという。

◎体育館裏は傾斜緩い山道/「低学年でも登れた」

 石巻市大川小の児童が避難誘導された新北上大橋たもとの堤防道路の先には、津波で水があふれた北上川があり、子どもたちは次々と濁流に巻き込まれた。学校に最も近い高台は裏山だった。「なぜ、山に避難させなかったのか」。遺族の疑問は今も解けない。
 児童らは避難の途中、県道付近で津波に襲われた。迫り来る濁流に追い込まれた裏山の斜面は急な上に滑りやすく、登れた子は少数だった。付近では30人以上の遺体が見つかった。
 同じ裏山でも、学校の体育館に近い所は傾斜がなだらかだ。実際に子どもの足でも大丈夫かどうか。わが子を亡くした父親3人とともに8月末、この斜面を登った。
 児童らが待機していた校庭から、体育館の脇を通って裏山に向かう。登り口の幅は広く、踏み固めた山道もあって歩きやすい。屋根まで冠水した2階建て校舎(約10メートル)を見下ろす場所まで数分でたどり着いた。
 校庭に避難してから津波が襲来するまで、40分以上あったとみられる。「低学年でも十分登れる。5分あれば、全員避難できたはずだ」。父親たちは口をそろえた。
 「子どもたちはここに避難したとばかり思っていた。こんな近くに安全な場所があったのに、なぜ川の方に向かったのか」。5年生だった次女千聖さんを亡くした紫桃(しとう)隆洋さん(47)は悔しさをにじませた。
 宮城県の調査では、海抜約1メートルの大川小付近に残る津波の痕跡は高さ7メートル以上。住民によると、付近にいて助かったのは裏山に登ったり流れ着いたりした約20人と、釜谷診療所屋上の塔屋部分に避難した数人などわずかだったという。
 石巻市教委は2010年2月、津波に備えた危機管理マニュアルを作るよう市内の小中学校に指示。大川小の10年度マニュアルは津波の避難場所を「近隣の空き地・公園等」と定め、高台を想定していなかった。
 学校と市教委は裏山に避難しなかった理由を「現場にいた教師が『山に倒木があったように見えた』と話している」と説明している。
 裏山に逃げて助かった住民の一人は「山裾に津波で流されたり、折れたりした木はあったが、地震で倒れた木は見ていない」と証言している。

2011年09月08日木曜日

 

検証 石巻・大川小の惨事/聴取方法、疑問の声/録音せずメモ廃棄
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110908_02.htm
Internet Archive

20110907019jd 石巻市教委が男性教師の聞き取り調査を基に作成した報告書

◎石巻市教委事故報告書 聞き取り調査9割が子ども

 東日本大震災の津波による宮城県石巻市大川小の惨事で、市教委が5月にまとめた事故報告書は、聞き取り調査対象者28人のうち子どもが25人と9割を占めた。大人と比べて記憶が曖昧になりがちな子どもへの聴取は、慎重に事実を引き出し、正確に記録することが求められる。市教委は聴取を録音せず、証言メモも報告書作成後に廃棄するなど、専門家からは調査の在り方に疑問の声も出ている。
 市教委によると、児童の聞き取りは市教委の職員と担任が分担した。「心理的な負担をかけない」(学校教育課)という理由で録音や録画は行わず、聴取中はメモもできるだけ控えたという。
 同課は「児童との信頼関係を重視した。その場でメモを取らなくても、報告書の中身がよければ問題ない」と説明するが、保護者の了承なしに聴取された児童もいた。
 報告書によると、高学年の児童2人は「『山に逃げた方がいい』と言う教頭と『津波がここまで来るはずがない』と言う住民が言い争いをしていた」、別の1人は「住民は堤防道路への避難を提案していた」という趣旨の証言をしたとされる。
 河北新報社が証言内容について児童側に確かめたところ、3人とも「自分は見ていない」「後で人から聞いた」としている。
 ただ、震災当日に学校を訪れた一部の保護者は、避難場所を話し合う教職員と住民のやりとりを耳にしていた。児童の親の一人は「避難をめぐり、さまざまな臆測が出ている。子どもは大人の会話を聞き、それを話したのかもしれない」と推測する。
 市教委によると、児童の証言や、当日学校にいて唯一生き残った男性教師の証言を記したメモも報告書作成後に全て廃棄され、検証作業を難しくしている。
 遺族の不満を受けて市教委は8月下旬、震災当日に子どもを迎えに来た保護者らを対象とする追加調査を始めた。「市教委の調査には限界がある」と懸念する遺族の中には、専門家ら第三者による調査を求める声も上がっている。

◎自分の記憶から自発的に説明を

<子どもに自発的に話してもらう質問法「司法面接」を研究、実践する仲真紀子北海道大教授(発達心理学)の話>
 子どもの記憶は見たことと聞いたこと、想像したことの区別が、大人より付きにくいのが特徴。質問するときのポイントは、できるだけ早い段階で自発的に自分の記憶と言葉で説明してもらうこと。質問の仕方も、限られた選択肢から答えさせたり、子どもの言葉を言い換えたりすると、記憶が汚染されてしまう。
 石巻市教委は録音、録画をしていないようだが、大人が注意深く事実を聞き取り、きちんと記録しないと信ぴょう性を損ねてしまい、子どものためにもならない。何十人もの子どもの話を聞いたが、丁寧に頼めば拒否されることはなかった。
 その場で記録を取らないと、場面、場面を聞き手が解釈しながら質問することになる。後で記録を作る際、大人の解釈が交ざってしまう危険性もある。聞き取りは専門知識のある第三者が担当するのが望ましかった。

2011年09月08日木曜日

 

検証 石巻・大川小の惨事/山と堤防、視界遮る
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110908_03.htm
Internet Archive

20110908013jd 大川小の校舎。2階まで壁が抜け、屋根には津波に運ばれたがれきや建材が打ち寄せた=3月29日、石巻市釜谷

 宮城県石巻市の指定避難所だった大川小は北上川河口から約4キロ、海抜1〜2メートルの釜谷地区にあった。津波への意識が比較的高い河口域と比べ、堤防と山に挟まれた独特の地形が避難を遅らせ、多数の犠牲者が出る一因となった可能性もある。

◎独特の地形が影響/避難遅れの一因か

 釜谷地区は1960年のチリ地震津波で被害がなく、市の津波ハザードマップでは、宮城県沖地震に伴う津波が到達する可能性は低いとされていた。
 市によると、東日本大震災に伴う釜谷地区の死者、行方不明者は計193人。地区人口(2月現在で497人)の4割近くに上る。
 北上川河口域の長面地区の死者・不明者は人口の2割で、尾崎地区は1割に満たない。地区外にいて被災したケースも含むため単純に比較はできないが、釜谷地区の被害は突出している。
 長面地区の男性(56)は「津波警報が出たら山に逃げる習慣があるわれわれと比べ、釜谷では津波を意識しにくかったと思う」と言う。
 釜谷地区と海の間には山が張り出し、北上川と、並行する富士川にはそれぞれ高さ4メートルの堤防があった。震災当日、釜谷地区で避難を呼び掛けた市河北総合支所職員の山田英一さん(56)は「津波襲来の歴史もなく、山と堤防に視界を遮られ、ぎりぎりまで津波に気付かない住民が多かったのではないか」と推測する。
 避難所として大川小の構造を疑問視する声もある。校舎は高さ約10メートルの2階建て。児童や住民が避難できるような屋上のスペースも階段もなく、屋根まで津波をかぶった。
 宮城県内の学校について震災当日の避難行動を調査している東北福祉大の数見隆生教授(学校保健学)は「山など高台への避難が大原則だが、防災の観点からはせめて一部でも3階建てにしておけば良かった。校舎3階に避難して助かった例もあり、学校建築の在り方を見直す必要がある」と問題提起する。

2011年09月08日木曜日

 

検証 石巻・大川小の惨事/証言でたどる51分間/黒い水、級友さらった
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110908_04.htm
Internet Archive

20110908014jd 津波で壊滅状態となった釜谷地区。残った建物は大川小の校舎(中央左)と、道路を挟んだ釜谷診療所だけだった=4月8日、石巻市釜谷

 3月11日の東日本大震災で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった石巻市大川小。あの日、あの時、学校と地域で何が起き、人々はどう行動したのか。河北新報社の取材に応じた児童や保護者、住民らのうち5人の証言で、地震発生から津波襲来までの51分間をたどる。

◎午後2時46分〜3時37分・5年只野君
震える脚、駆けだす/なぜ裏山に避難しないのだろう

 当時大川小5年生(現6年生)の只野哲也君たちの教室では、帰りの会が開かれていた。午後2時46分。声をそろえて「さようなら」と言いかけた時、揺れは襲ってきた。
 突き上げるような縦揺れに、横揺れが続いた。ガタン、ガタン。物が倒れる音が響く。「机の下に隠れろ。机の脚を持つんだ!」。先生の声に、哲也君は机の脚を自分の脚で押さえようとしたが、「体が回るようだった」。
 長い揺れが収まると、児童たちは校庭に避難し学年ごとに並んだ。靴下のままの子、上着を着ていない子。おびえて泣きだす低学年の女の子もいた。

<無線は1回>
 「大津波警報が発令されました。早く高台へ逃げてください」。午後2時52分、石巻市河北総合支所の職員が防災無線で呼び掛けた。校庭のスピーカーからも聞こえた。哲也君の記憶では、スピーカーが鳴ったのはこの1回だけだ。
 先生や地域の人たちは輪になり、何かを話し合っていた。指示を待つ子どもたちの列は徐々に崩れ、それぞれ小さな輪になって話し始めた。
 哲也君たちの輪の中に、涙を流している男の子がいた。「大丈夫だぞ」「こんな所で死んでたまるか」。みんなで口々に強気な言葉で励ました。
 「山さ逃げた方がいいんじゃね」「早くしないと津波来るよ」。近くにいた6年生の男子は、担任に訴えていた。
 この間に、母しろえさん(41)が哲也君と3年生だった妹の未捺さんを車で迎えに来た。先生は児童と保護者の名前を照合し、引き渡していた。
 忘れ物があったのか、しろえさんはいったん自宅に戻ることになった。「おっかあ、ヘルメット持って行って」。母を案じた哲也君は自分のヘルメットを渡そうとした。しろえさんは「危ないから、自分でかぶっていなさい」と受け取ろうとしなかった。
 「すぐ戻るからね」。2人の最後の会話となった。

<遠回り経路>
 「整列して。これから三角地帯に避難します」。先生の指示で、児童は新北上大橋たもとの堤防道路(通称三角地帯)に歩き始めた。海抜約1メートルの校庭より6、7メートル高い場所だ。直線で約200メートル。なぜか釜谷交流会館の前を通り、住宅地を抜ける遠回りのルートが取られた。「山に登れるのに、何で三角地帯なのかな」と哲也君は思った。
 高学年を先頭に、低学年が続いた。「津波が来ているから急いで」。教頭の声をきっかけに、みんな小走りになった。住宅地を抜けて県道を曲がった時、新北上大橋に波しぶきがかかるのが見えた。黒い水が堤防を越えて来た。
 がくがくと脚が震えて動けない。「授業中に寝ちゃって、夢を見ているのかな。でも、こんな長い夢はないよな」。次の瞬間、右脚が動いた。振り向き、裏山を目指して駆けだした。
 低学年の児童は、哲也君たちが走ってきた理由が分からず、きょとんとしていた。腰を抜かしたり、四つんばいになったりしている友達や先生の姿も目に入った。その中に柔道仲間の6年生の男の子がいた。「行くべ」。襟を何度も引っ張ったが、立ち上がれない。水の塊が近づいてきた。
 懸命に裏山をはい上がった。3メートルぐらい登ったところで「後ろから誰かに押されているような感じがした」。津波だった。頭から水をかぶると同時に、必死で木につかまった。土の中に押し込められるような激しい衝撃とともに、気を失った。

<はって進む>
 「てっちゃん、大丈夫か」。同級生の男の子が土をかき分け、助けてくれた。男の子は左手を骨折していた。津波にのまれたが、浮かんでいた冷蔵庫の中に入って、裏山にたどり着いたという。
 「助けてください。公民館があった場所の後ろの山にいます、助けて」。哲也君は震えながら、声を張り上げた。同じ裏山に避難していた大人たちが声を聞きつけ、来てくれた。雪をしのぐため、竹やぶに移動することになった。
 この時、哲也君は、足に力が入らないことに気付いた。「はってでも歩かいん」。おじさんに励まされ、何とか竹やぶに着いた。その日は山で一夜を明かした。
 避難所で父英昭さん(40)と再会できたのは、3月13日だった。「いつも強いおっとう」の涙を初めて見た。
 大川小にいた児童で、助かったのは4人だけ。津波は友達だけでなく、母と妹、祖父弘さん(67)を奪った。
 哲也君は津波にのまれた時、顔に大けがをして、しばらく物が二重に見えた。でも、しろえさんが「かぶっていなさい」と言ったヘルメットに守られた頭は無事だった。「おっかあが守ってくれた」。そう信じている。

◎3時30分〜37分・住民高橋さん
避難の叫び届かず/「大丈夫」顔見知り、笑顔で手振る

 石巻市釜谷地区に住む高橋和夫さん(63)の自宅は北上川沿いを流れる富士川の堤防近くにあった。揺れの直後、外へ出ると、近くの畑からぶくぶく泥水が湧いていた。
 「宮城県沖地震の時と一緒だ」と思ったが、津波が来るという危機感はなかった。家に備え付けの防災無線は鳴らず、大津波警報は知らなかった。
 「おい、堤防から水越えてるぞ。津波じゃないか」。午後3時半ごろ、近所の人の叫び声が聞こえた。北上川からあふれた泥水が約4メートルの堤防を越え、並行する富士川に流れ込んでいた。みんな慌てて車に乗り、避難を始めた。高橋さんも軽乗用車で堤防沿いを飛ばした。「逃げるならあそこしかない」。目指したのは大川小の裏山だった。

<外で世間話>
 県道沿いの住宅地では、まだ多くの住民が外で世間話をしていた。「逃げろ! 津波が来るぞ!」。窓を開けて怒鳴る高橋さんに、顔見知りは「大丈夫」と笑顔で手を振った。「危険と受け止めてくれる人はほとんどいなかった。みんな、津波が来るなんて想像していなかったんだ」
 裏山まであと少しのところで、いとこ夫婦が釜谷交流会館の方から来た。「駄目だ、戻っちゃ駄目だ」と説得したが、「家におばあさんがいるんだ」と応じない。引き留められなかった。

<「何でまだ」>
 裏山に着く寸前、校庭に子どもたち数十人の姿を見た。釜谷交流会館の前にも10人ぐらいいる。「何でまだここに」。裏山のふもとに車を止めて降りた時、背後から「ドーン」と重い響きが聞こえた。振り向くと、家が壊れるバリバリという音と、煙のような黒い壁が迫ってきた。
 「上がれ、上がれー!」。山に向かって走りながら叫んだが、みんな次々と水にさらわれていった。高橋さんも後ろから、津波の気配を何度も感じた。追い付かれまいと、斜面をはい上がった。
 眼下には水にのまれた集落が広がっていた。2階建ての校舎も体育館も濁流にのまれ、辛うじて見えた校舎の屋根にはがれきが乗っていた。
 しばらくして、助けを求める声が聞こえた。声を頼りに山沿いを歩いていくと、がれきだらけの泥水の中、木の枝をつかんで懸命に耐える女性や子どもの姿があった。
 「今助けてやっからな」。まず小学校低学年の女の子に手を伸ばした。水に落ちながらもやっと手をつかみ、周囲のがれきでけがをしないよう、そっと引き寄せた。その後も5、6人は助けただろうか。校舎側の斜面でも、波に運ばれてけがをした中学生を救出した。
 雪は本降りになっていた。みんな唇は紫色で震えていた。「ここにいたら凍死する。竹やぶに移動しよう」。全員が高橋さんに従った。別の場所で助かった只野哲也君や石巻市職員らも合流した。
 救えない命もあった。川から内陸へ流されながら「助けてー」と叫ぶ子どもたちがいた。声の方向に目を凝らした。流れが急な上、がれきや建材に阻まれて姿が見えない。声は次第にか細くなり、遠ざかっていった。
 「自分一人ではどうしようもなかった。でも、助けたかった」。高橋さんは涙を浮かべた。

◎2時57分〜3時29分・児童の父親三條さん
校庭の妻から伝言/とんでもないことになっている

 携帯電話のボタンを何度押してもつながらない。北上川下流の石巻市長面に住む三條真一さん(44)は車で自宅方面に向かいながら、妻早苗さん(48)と高校1年の長男友輔君、大川小3年の次男皓聖(こうせい)君の無事を確かめたくて、やきもきしていた。
 「道路はほとんど地割れしているので気をつけてください」。午後2時57分、友輔君が携帯電話のメールで大川小付近の道路の状況を伝えてくれた。早苗さんの車で皓聖君のいる学校を目指していたとみられる。
 「大変だ。とんでもないことになっている」。午後3時11分、早苗さんは災害用伝言サービスにメッセージを残していた。三條さんは「やっとしゃべっているような、震えた声だった。大川小に到着し、校庭の混乱ぶりを伝えようとしたのではないか」と推し量る。
 学校まで5キロに迫った午後3時15〜20分ごろ、北上川をさかのぼる流れが見えた。津波の第1波で、「堤防を越えるかと思うくらいの勢いだった」。慌てて近くの山に避難した。
 三條さんは何度か下流に向かおうとしたが、通行止めで近づけなかった。大川小の被害を知ったのは2日後。妻と2人の息子は遺体で見つかった。
 震災から4、5日がたち、ようやくつながるようになった携帯に1通のメールが届いた。「友と皓と小学校にいます」。送り主は早苗さんだった。受信日時は3月11日午後3時29分。津波が襲来する直前に発した最後のメッセージとなった。

◎3時20分〜37分・市職員山田さん
まるで滝、堤防越す/濁流、駆け上がるように迫ってきた

 午後3時すぎ、石巻市河北総合支所職員の山田英一さん(56)は広報車に乗り、北上川下流を目指していた。海に面した長面・尾崎地区で水門の見回りや住民の避難誘導に当たるつもりだった。
 北上川の左岸沿いから新北上大橋を渡り、大川小のある釜谷地区を通過。海岸まで2キロ余りに迫った午後3時20〜25分ごろ、海に閃光(せんこう)が走った。
 「何だ、あれ」。次の瞬間、海岸沿いの松林を波しぶきが突き抜けた。間髪入れず、高さ20メートルはある松を超えた大波が迫ってきた。「のまれる」。ハンドルを切ってUターンし、アクセルを踏み込んだ。
 釜谷地区ではまだ多くの住民が避難していなかった。助手席の同僚はマイクを持ち、「高台に逃げろー。松林を津波が越えてきたぞー!」と叫び続けていた。
 市教委によると、大川小周辺にこの声が聞こえたのは午後3時25分ごろ。校庭に待機していた児童が新北上大橋の堤防道路に誘導されるきっかけになったとされる。
 家族の身を案じ、上流側から戻ってくる車も相次いでいた。午後3時半ごろ、山田さんは堤防道路で釜谷地区に入ろうとする車を止め、雄勝方面の峠につながる国道398号へと誘導し始めた。
 住民たちは「まだ家に家族がいるんだ!」「通してくれ!」と訴えた。「津波が来る」と説得するのに必死で、小学校の様子や川の水位を確かめる余裕はなかった。
 誘導が一段落し、ふと川を見た。目を疑うような光景が広がっていた。
 川の水位は表面張力で膨らんだように堤防を越え、漁船が堤防より高い位置を逆流してきた。橋桁には下流から運ばれた木やがれきがたまり、流れをせき止めていた。
 北上川からあふれた水が富士川に滝のように流れ込んでいた。堤防道路は富士川より5〜6メートル高かったが、「川に流れ込んだ水が駆け上がるように迫ってきた。本当に不気味だった」。
 山田さんはとっさに別の車で避難誘導していた同僚4人とともに、大川小の裏山に駆け上がった。山田さんの助手席で最後まで避難を呼び掛けていた同僚1人は波に巻き込まれた。
 津波は堤防道路をのみ込んだ。水の塊が向かった先には、子どもたちの列と大川小があった。

◎3時10分〜20分・児童の母親
教頭、住民に尋ねる/この山に子どもを登らせて大丈夫か

 学校につながる堤防道路は所々に亀裂が入り、その都度、車のスピードを緩めなければならなかった。大川小の児童の母親が、北上川上流にある自宅から学校の校庭に着いたのは午後3時10分ごろ。児童や住民ら100人以上がいた。
 「この山に子どもたちを上がらせるとしたら、大丈夫でしょうか」「崩れる山でしょうか」。教頭が学校の裏山を指さし、4、5人の住民に問い掛けていた。住民たちは「ここまで津波が来るはずがないよ」「大丈夫だから」と答えていたように記憶している。
 わが子を引き取り、車に乗せて学校を出た。午後3時20分ごろ、新北上大橋を通り過ぎた先で警官に止められ、「危ないから、釜谷に戻って」と指示された。バックするにも、後ろには長い車列ができていた。
 「お願いです。家に戻りたいんです」。制止する警官とやりとりが続いたが、結局押し通した。夢中で車を走らせ、自宅に着いた。「あの時は、本当に津波が来るなんて思わなかった」

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2011年09月08日木曜日

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「死にものぐるいで上に行け」津波被害の大川小 「あの日」教員は叫んだ
産経新聞 4月15日(金)7時56分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110415-00000113-san-soci
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一面のがれきと泥の中に残った大川小学校の門柱。女性が花を手向けた=宮城県石巻市(矢島康弘撮影)(写真:産経新聞)

 海抜ほぼ0メートルにその学校はあった。北上川のほとりに立つ宮城県石巻市立大川小学校は、全校児童108人のうち、津波で74人が死亡・行方不明となった。学校にいて生還した教員は教務主任の男性1人。石巻市教育委員会が聞き取りを行ったこの教諭や関係者の証言から当時の状況が明らかになりつつある。あの日、何があったのか。“その時”を検証する。(桜井紀雄、荒船清太)

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【写真】映像がとらえた大川小周辺を襲った津波

 ≪列の前から波来た≫

 5時間目を終えたとき、大きな揺れが襲った。子供たちは机の下にもぐり、校庭への避難が指示された。

 泣き出す子供もいたが、女性教諭らが付き添った。学校前に自宅があり、同校に通う2人の孫を亡くした阿部文子さん(59)は「校庭に子供たちが整列しているのが見えた。ヘルメットをかぶっている子もいた」。

 校庭には、離れた地域の児童を送るためのスクールバスが止まっていた。「今、校庭に並んだ子供の点呼を取っているところで、学校の指示待ちです」。男性運転手(63)は運営会社に無線で連絡した。これが最後の通信。男性運転手も津波で死亡した。会社側は「詰め込めば児童全員を乗せられただろう」としている。市教委は「津波の際、どこに避難するか特に決められていなかった」という。

 男性教諭は校舎内を確認しに向かった。ガラスが散らばり、児童が入れる状況ではなかった。校庭に戻ると、子供たちは他の教員に誘導され、裏山脇の細い農道を列を組んで歩き出していた。坂道を行くと校庭より7~8メートル高い新北上大橋のたもとに出る。教諭は列の最後尾についた。

 「ドンという地鳴りがあり、何がなんだか分からないうちに列の前から波が来た。逃げなきゃと思った」。教諭はその瞬間をこう証言したという。波は河口とは逆方向の橋のたもと側から児童の列の先頭めがけて襲いかかった。

 気づくと、裏山を登ろうとする児童が見えた。生い茂る杉で周囲は暗いが、ゴーという音で足元まで水が迫っているのが分かった。

 「上に行け。上へ。死にものぐるいで上に行け!」と叫んでいた。追いつくと3年の男児だった。くぼ地で震えながら身を寄せ合ったが、お互いずぶぬれ。「このままでは寒くて危ない」と男児の手を引き、山を越えた。車のライトが見えた。助けられた。

 ≪農道以外選択肢は≫

 被害を免れた大半は津波が来る前に車で親が連れ帰った子供だった。しかし、他の児童とともに農道を歩きながら助かった5年の男児も2人いる。

 「山の中で『おーい』と捜していると、弱々しい声で『おーい』と聞こえた。髪までぬれた男の子2人が斜面に横たわっていた」。裏山の反対側から駆け付けた石巻市河北総合支所の佐藤幸徳さん(51)は振り返る。

 「歩けるか」と声を掛けると、2人は「大丈夫です」と答えた。開けた場所まで行き、他の避難者たちとたき火をして一夜を過ごした。2人は「誰かに大声で『山に逃げろ』と言われた」と説明したが、言葉は少なく、ずっとうつむいていたという。

 行方不明の子供の捜索中、作業着姿の男性(44)が泥まみれの赤いランドセルを抱き、突っ伏してむせび泣いた。「見つかったんだ!」。不明の小1の長女(7)のもの。つぶれ、茶色く変色したノートが残されていた。

 小4の次男(10)も亡くした男性は強い思いを抱き、学校跡に通い続ける。「あの日、本当に何があったのか、知りたい」

 震災当時、学校を不在にして助かった柏葉照幸校長(57)も捜索を続ける。男性は裏山を指して柏葉校長に疑問をぶつけた。「ここに登れば助かったんじゃないですか」。男性によると、柏葉校長は「そうですね。現場にいたらそうしたかもしれません」と答えたという。

 市教委は「想定外の津波だった。山が崩れる危険がある中、農道を行く以外に方法があったかは分からない」としている。

 

映像がとらえた大川小周辺を襲った津波
2011/04/15 00:17
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/502575/
Internet Archive

【東日本大震災】

 宮城県石巻市立大川小学校周辺地域に津波が押し寄せる様子をカメラがとらえていた。

 映像は、津波の警戒に回っていた石巻市河北総合支所の職員が撮影した約3分の内容。木の陰に隠れ、学校の様子は写っていないが、大川小の児童らが避難に向かう予定だった新北上大橋が波をかぶり、橋につながる道路が津波にのみ込まれ、寸断される瞬間も収録されている。橋も倒壊した。

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    7割死亡・不明の大川小 保護者に被災…
    「死に物狂いで…」大川小の「あの時」

記事本文の続き 橋に近い高台から被害状況を記録するため職員が持っていた動画機能付きデジタルカメラで撮影。映像は「学校大丈夫か、学校」という男性の声も拾っている。撮影後、職員らは児童の安否確認のため、大川小の方向に向かった。(動画は産経フォトとユーチューブの産経新聞チャンネルで)

↑↓

石巻市立大川小学校の近くに押し寄せた津波
SankeiNews
http://youtu.be/DW0dqWR4S7M

 念の為mp4 

 

北上川河口周辺の動画を一つ探しました。大川小学校からさらに下流の左岸、石巻市北上町あたりからの撮影です。山形新聞社チャンネルのYouTube映像。

【東日本大震災】宮城県石巻市に大津波
PressYamashin
http://youtu.be/S7Yp6LGanWk

2011/07/10 にアップロード

概要:
宮城県石巻市。北上川を逆流して押し寄せる津波。(東根市の高橋さん撮影、11日午後­3時30分ごろ)

 

“避難まで30分校庭に待機”
6月3日 21時0分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110603/k10013310671000.html
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K10033106711_1106040801_1106061436_ 巨大な津波によって全校児童のおよそ7割が亡くなったり、行方不明になったりしている宮城県石巻市の大川小学校で、児童らは教員に先導されて高台に避難を始めるまで、およそ30分、校庭で待機していたことが明らかになりました。津波に飲まれながら奇跡的に助かった児童がそのときの様子を語りました。
石巻市の大川小学校は2階建ての校舎を超える高さの津波に襲われ、全校児童108人のうち、68人が死亡、6人が行方不明になっており、学校や教育委員会は当時の様子について、助かった児童や教員などから聞き取り調査を進めています。これまでの調査で、地震が起きたあと、校舎内からグラウンドに出た児童らは、学校から200メートルほど離れた高台に避難を始めるまで、およそ30分待機していたことが分かりました。津波に飲まれながらも奇跡的に助かった現在6年生の只野哲也くんは、父親とともにNHKのインタビューに応じ、「先生たちはグラウンドの前でずっと話し合いをしていた。そのとき、先生は『大丈夫だからな』とか言っていた」と話しました。当時、学校には子どもを引き取るため保護者も大勢集まっていました。さらに学校は石巻市が指定する避難所になっていたため、近所の人たちが避難してきており、グラウンドではたき火の準備も始められたといいます。そして、児童らが高台に向かって移動を始めた直後に津波に襲われたということで、そのときの様子を「様子を見に行っていた教頭先生が堤防から走ってきて、もう津波来てるみたいだから早く逃げてくださいって。そこから小走りに逃げた」と話しています。このあと、津波にのまれた只野くんは学校裏の山の斜面に打ち上げられたところを、近所の人たちなどに助け出されたということです。只野くんは今回の地震で同じ学校に通っていた当時、3年生の妹と母親を亡くしています。父親の英昭さんは多くの子どもたちが犠牲になった原因を知りたいとして、ほかの保護者らとともに学校に対して地震が起きたあとの状況や学校の対応について説明を求めています。大川小学校では、4日の夕方、保護者を対象にした説明会を開いてこれまでの調査結果を説明する方針です。

NHKニュース 6月3日 21時0分

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なぜ大川小だけ多数被害…説明求め要望書
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110601-OYT1T01157.htm
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201106022777491l  東日本大震災の津波で全児童の7割近い74人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小の保護者有志が1日、同市教育委員会に対し、避難時の状況について検証し、改めて説明するよう要望書を提出した。

 要望書は、「このような惨事を二度と繰り返さないためにも、なぜ子供たちを救えなかったのかについてしっかり検証すべきだ」と訴え、津波到達までの対応や、避難場所として北上川そばの高台を選んだ経緯など5項目について説明を求めている。

 また、他の学校の例を挙げて、「校舎が津波にのみ込まれながらも安全な高台に避難させ、学校管理下の児童・生徒の命を守っている」とした。

 同小周辺には、津波が逆流した北上川に沿って、ほかにも小中学校が4校あり、計13人の児童・生徒が死亡・行方不明となった。各校や市教委によると、犠牲になったのはいずれも、学校から帰宅した後だったという。
(2011年6月2日03時03分  読売新聞)

 

避難より議論だった40分…犠牲者多数の大川小
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110613-OYT1T00508.htm
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201106134730971l多くの児童が犠牲になった大川小(12日午後0時2分、宮城県石巻市で、読売機から)


 

201106134731651l左:避難しようとした三角地帯。右:大川小学校の位置。


 

201106134731131l大川小学校での地震発生から津波到来までの経緯


 

201106134731351l大川小学校の児童・教職員の被災状況


 東日本大震災で全校児童の約7割にあたる74人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小学校で、地震発生から児童らが津波にのまれるまでの詳細な状況が13日、市教委や助かった児童の保護者らへの取材で明らかになった。

 学校側が、具体的な避難場所を決めていなかったことや、教諭らの危機意識の薄さから避難が遅れ、さらに避難先の判断も誤るなど、様々な〈ミスの連鎖〉が悲劇を招いた。

 市教委の調査などによると、3月11日午後2時46分の地震発生時は、児童は下校中か、「帰りの会」の途中だった。校舎内の児童は教師の指示で校庭に集合し、学年ごとに整列した。下校中の児童もほとんどが学校に戻った。

 午後3時頃、点呼を終えると、教頭と数人の教諭が桜の木の下で、「山へ逃げるか」「この揺れでは木が倒れるので駄目だ」などと話し合っていた。学校の津波の際の避難マニュアルは避難場所について「高台」としていただけで、具体的な場所を記していなかった。

 ただ、津波被害を受けた周辺の5小中学校のうち、1校には避難マニュアルがなく、作成していた4校のうち1校は避難場所を「校庭」としていた。

 一方、防災無線からは大津波警報が鳴り、避難を呼びかける声が響いていた。余震が続き、泣き出したり、嘔吐(おうと)したりする子もいた。保護者らが相次いで児童を迎えに訪れ、教諭は対応にも追われた。「ここって海岸沿いなの」と不安がる女子児童や、「死んでたまるか」と口にする男子児童もいて、騒然とした雰囲気になった。

 当時6年生の女児を連れ帰った母親(44)によると、母親が担任に「大津波が来る」と慌てて伝えた際、担任は「お母さん、落ち着いてください」と話した。しかし、すぐに避難する様子はなく、「危機感がないようだった」という。暖を取るため、たき火をしようとした教諭もいたとの証言もあったが、市教委は確認できなかったとしている。

 市教委の調査では、その後、市の広報車から「津波が松林を越えてきた。高台に避難してください」と呼びかける声が聞こえた。教諭と、この時も、集まった地域住民の間で「山へ逃げた方がいい」「山は崩れないのか」などのやり取りがあった。結局、約200メートル先の北上川堤防付近にあり、堤防とほぼ同じ高さ6~7メートルの高台に避難することになった。

 避難を始めたのは地震から約40分後の午後3時25分頃。約10分後の午後3時37分頃、6年生を先頭に、学校の裏手から北上川沿いの県道に出ようとしたところで波が襲い、高台ものまれた。
(2011年6月13日14時55分  読売新聞)

 

時論公論 「生死を分けた学校の避難経路」2011年08月16日 (火)
西川 龍一  解説委員
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/92413.html
魚拓

東日本大震災から5か月がたちました。これまでに死亡が確認された15000人を超える犠牲者の中には、多くの子どもたちも含まれています。被害を踏まえ、学校の施設をどう整備するべきなのか、文部科学省の検討会議が先月、提言をまとめ、公表しました。今夜は、この提言を踏まえ、学校が子どもたちの命を守るための工夫、特に大きな被害を出した津波への備えはどうあるべきなのかを考えます。

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文部科学省の検討会議は、東日本大震災で津波の被害を受けて建物自体が使えなくなった学校は、再建にあたって高台に移転することや、公民館などほかの公共施設と併設することで、津波避難ビルとなるよう高層化することなど盛り込んだ緊急提言をまとめ、先月公表しました。
地震や津波による学校の被害は、岩手、宮城、福島の3県の公立の学校施設だけで、2000校近くに上りました。被害を踏まえ、学校の施設をどう整備すべきかを示しました。
震災で犠牲になった小中学生と高校生は、岩手県で78人、宮城県で310人、福島県で72人。中には、本来安心していられる場所であるはずの学校で命を失った子どもたちもいます。その一方で、提言が取り上げた学校の中には、震災の直前に見直された避難経路によって、子どもたちを津波の被害から救ったケースがありました。

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沿岸部が潰滅的な被害を受けた宮城県石巻市は、179人の児童・生徒が死亡し、市内にあるすべての学校が被災しました。中でも、もっとも深刻な被害が出たのは、児童の7割が亡くなった大川小学校です。北上川の河口から4キロほどのところにあるこの小学校は、2階建ての校舎の屋根付近まで津波にのまれました。108人の児童のうち、学校に残っていた70人が死亡。4人が今も行方不明のままです。当時学校にいなかった校長を除く11人の教師のうち、助かったのは1人だけでした。

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大川小学校がある地区は、壊滅的な被害を受けましたが、同じように地域全体が津波の被害を受けたところでも、学校で、これほど多くの子どもが犠牲になったところはほかにありません。
11メートルを超える津波が観測された岩手県大船渡市。三陸鉄道の三陸駅に近い越喜来小学校は、被災したもののすべての児童が助かった学校の一つです。海岸から200メートルほどしか離れていないこの小学校を含む越喜来地区は、地震発生から10分後には津波の第1波が観測され、その後押し寄せた津波によっておよそ500世帯が被害を受け、79人が犠牲になりました。3階建ての校舎も屋上の一部を除いて水没しましたが、当時学校にいた71人の児童は、全員無事に近くの高台に避難することができました。

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同じ岩手県の岩泉町にある小本小学校も地区が津波にのまれて校舎が水に浸かり、校庭は流されてきた車やがれきで埋まりました。しかし、校舎や校庭にいた86人の児童は、混乱することなく高台に避難して無事でした。

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実は、3つの学校は、立地条件が極めてよく似ています。いずれも河口に近い川に隣接した場所にあり、校舎は堤防から200メートルほどのところに建てられていました。さらに、3校とも川と反対側には、津波が届かなかった裏山や高台があります。岩手県の2つの小学校の児童や教師たちは、いずれもこうした場所に避難して無事でした。

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何が生死をわけたのか。
越喜来小学校の裏側に通路が残っています。校舎の2階から海抜20メートルほどの避難所に続く県道に直接出られるようになっています。去年11月に完成したばかりのこの通路を使って、今回、子どもたちは避難しました。通路ができるまでは、全員がいったん一階にある昇降口まで降りて川の方向に回り込んでいたため、校舎から避難所までの距離は今の2倍以上ありましたが、昇降口を通ることで、わずか3分ほどで避難を終えることができ、地震発生から15分ほどで、さらに高台にある公民館まで全員が移動できたと言います。
小本小学校も、学校の脇に高台に直接避難できる階段がおととし整備されたばかりでした。この階段ができたおかげで、いったん海側に向かってから国道に抜ける避難ルートが見直されていたのです。
2つの学校の関係者は、いずれも新しい避難経路が決まっていたことで、緊急時に余裕を持って判断することが可能だったと話しています。

一方、多くの犠牲者が出た大川小学校で起きたことを改めて振り返ってみます。石巻市教育委員会によりますと、地震発生の後、教師たちは校庭に児童を集めてから、これからどうするべきか議論を始めたと言います。裏山は、避難先として想定すらしていませんでした。裏山が安全だという声もあったということですが、斜面が急で上りにくいなどという意見が出て、断念。地震から40分もたったあと、水が堤防を越えてくることはあり得ないという意見に従い、児童たちが向かったのは、津波が迫る川の堤防脇にある高台の広場だったと言います。
大川小学校があった地域は、宮城県沖地震を想定した石巻市のハザードマップでは、津波の浸水区域ではありませんでした。それでも川が近いこともあって、一部の保護者の間から、万一の場合裏山に避難できるように通路を整備したらどうかという意見が寄せられていたということです。しかし、学校側から教育委員会に設置を働きかけるといったことはありませんでした。校庭が水に浸かりそうな場合に児童をどこに誘導するべきかもはっきり決まっていませんでした。すぐ近くにある最適な避難場所をいかすことができなかったのです。

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岩手と石巻の違いは何だったのか。学校の設備としては、階段や通路があったかなかったかだけの違いです。しかし、そこには、日頃から津波に備えるという地域を含めた学校の意識の差が如実に表れています。越喜来小学校も小本小学校も津波の想定区域の中にあり、避難階段などは、もともと地域の人たちの強い要望で設置されました。巨額の費用をかけなくても通路一つで子どもたちの安全確保につなげていたのです。
こうした違いが、被災後の学校の取り組みにも現れています。
越喜来小学校が授業を再開するため間借りしている大船渡市立甫嶺小学校。今回、津波の被害はありませんでしたが、越喜来小学校側の提案で、すぐに避難経路を見直しました。これまで、校庭に集合して、海側にある正面の校門から避難することになっていましたが、児童の出口を裏の昇降口に改めました。そして裏山に上る山道を避難路にすることを決めたのです。子どもたちが上りやすいよう市の教育委員会に要請して、木製の枠を使った階段も整備しました。費用は100万円ほど。夏休み明けには、これを使って津波を想定した避難訓練を計画しています。

厳しい財政事情の中、今ある学校でも子どもたちを守らなければなりません。被災地以外の一部の学校でも、避難マニュアルの見直しが始まっています。最適な避難場所となりうるところをどうすれば最大限に活用できるのか。不幸にして多くの犠牲者を出した学校と、一人も出すことのなかった学校。その違いを考えるなかで得られた教訓を、子どもたちの命を守る方策としていかしていくことが求められています。

(西川龍一 解説委員)

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 以下、大川小学校の悲劇を伝える英文記事。最初は狩野あけみさん、次は狩野さんの娘、三姉妹の末っ子で行方不明の6年生愛さんの英文記事(日本語記事に戻る

Time has stopped for parents of dead and missing children
Closure next to impossible at school where 70 pupils were washed away
by Rob Gilhooly
Special To The Japan Times
http://www.japantimes.co.jp/news/2012/03/11/national/time-has-stopped-for-parents-of-dead-and-missing-children/#.UlAAXSSGrOc
魚拓
Internet Archive

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Searching for answers: Akemi Karino looks around the desolate landscape at Okawa Elementary School in Ishinomaki, Miyagi Prefecture, on Feb. 23. | ROB GILHOOLY

ISHINOMAKI, MIYAGI PREF. – On April 22 last year, Akemi Karino did exactly what she had done on the same day each year for more than a decade. She made a cake, sandwiches and some other of her daughter Ai’s favorite things for her birthday.

On this occasion she decorated the cake with 12 candles, but there was a conspicuous absentee from Ai’s 12th birthday.

It was Ai herself.

“It was nothing elaborate, but everything was as it usually was — except there was no Ai,” says Karino, 43, tears flooding down cheeks paled by a biting wind blowing through the now-desolate district near the skeletal remains of the school her daughter once attended. “She loved parties and I thought if she could see this one she might come home.”

Ai Karino was one of the 70 children from Okawa Elementary School in Ishinomaki’s Kahoku district who, along with nine of their teachers, were swept to their deaths by the March 11 tsunami.

Indecisiveness by the staff as to where they should evacuate the children ultimately accounted for 80 lives — a surviving teacher later committed suicide — while a further five remain missing.

Her daughter’s body was found April 28, the news reaching Karino via a phone call just as she was leaving a “shijuku-nichi” (49th day) memorial ceremony, a Buddhist rite held to mark the passage of the dead to the afterworld.

Almost one year on from what was one of the most tragic episodes of the March 11 disasters, Karino is among many grieving parents for whom time has frozen.

This was highlighted during an address by Takeshi Takeyama, chairman of an association for the bereaved families, during a ceremony March 4 in Ishinomaki to mark the one-year anniversary of the disasters.

“The painful and bitter memories remain unhealed, and the days of suffering continue,” said Takeyama, who lost two children. “We must carry on living by supporting one another.”

Akemi Karino’s logical acceptance of her daughter’s death is tempered by “an irrational notion” that she will return from school any day. Her daughter’s room remains as it was a year ago. She often sits on her daughter’s bed and looks at photographs of Ai, her smiling face stirring in her a jumble of emotions from which she is unable to escape.

And on April 22 this year she will bake another cake.

“We found her, we cremated her, she has been laid to rest and I know that I should clear her room and move on,” says Karino, as she rubs the toes of her rubber boots into the muddy dirt on which less than a year ago stood a family’s home.

“But I just can’t seem to gather the strength to do it. I can’t help myself from looking up sometimes and expecting her to walk through the door.”

For the 49 days before the discovery of her daughter’s body, things had been easier. Each day she would visit the devastated area around the school and look for her daughter. She had something to cling on to, something to keep her going.

Now she can’t stop her mind from wandering. Her surviving children, Yu, 15, and Yui, 18, avoid mentioning their deceased sister’s name: “They know it will only make me weep.”

To keep her mind occupied, Karino has returned to work — though she admits to having frequent lapses. On her days off, she still goes back to the area around the school to join the search for the still-missing children.

She sometimes joins another mother, Naomi Hiratsuka, who operates a power shovel, the license for which she obtained in order to search for her own daughter, Koharu, 12, who also vanished.

Even though her daughter was found Aug. 8, some 3 km downstream in Naburi Bay, Hiratsuka continues to look for the missing children, her husband, Shinichiro, 45, helping on his days off work at a local school, and urging the authorities to continue cooperating in the parent-led searches.

“What’s a year?” asks Hiratsuka, 38, who has taken indefinite leave from her teaching post to continue plowing through the earth that now shows few signs of the community that once thrived on the banks of the Kitakami River.

“Nothing has changed, but everything has changed. Our children are still dead and others remain missing. What’s important now is we return them to their homes.”

Hiratsuka and other parents successfully lobbied to get the city to damn the Fujigawa River, a narrow tributary of the Kitakami that passes in front of the school.

On Feb. 14, searches subsequently began along a 1.5 km-stretch that had been inaccessible, with 11 power shovels, including one amphibious caterpillar, scouring the area.

Nothing was found in the allocated 10 days, but Hiratsuka vows to buy more time. “We can’t just give up on them,” she says before making a beeline for two uniformed officials in hard hats.

This is how Hiratsuka’s days are spent. In between preparing morning and evening meals for her two surviving children, Toma, 7 and Sae, 3, and shuttling them between schools and day care, she burrows through the soil, a woolly cap pulled tightly over her ears.

“This is my life now,” she says, her hands in fingerless gloves manipulating the yellow power shovel’s complex control instrumentation like a seasoned pro.

The surviving children have all gone back to school, many of them suffering posttraumatic stress disorder, she says. Attempts to help them have been slow and ineffective — official counseling arrived some nine months after the disasters, she says. “Like everything else, it was too little too late.”

Many parents and some children instead sought solace from spiritual leaders.

“Everyone says that the flow of time has completely changed, that the clocks have stopped,” says Buddhist priest Dairyu Ono, 35, as he carefully places flowers at an altar erected outside the school in memory of the children.

“After the disasters, parents of the children killed would say they don’t have the will to carry on. Now they say that while they have come to terms with their loss, they still suffer a huge sense of guilt at having survived while their children didn’t.”

Unable to reconcile themselves, some parents have moved from the area, he says. According to Hiratsuka, only 19 of the 34 surviving students remain at the temporary school in Ishinomaki.

On March 10 last year, 108 pupils had shouted and screamed as they ran around the mountain-backed playground, peeping their heads through the portholes of a concrete facade on which they had painted colorful images of children from around the globe. Today, the play area is a muddied mess of debris. The school building is a shell — nothing remains except a partially burned dictionary and a plastic sword lying on a desk.

Karino says she too contemplated relocating — though, ironically, that was before the disasters, at a time when she hankered for a faster-paced, convenience-packed lifestyle.

Yet, her loss has somehow adhered her to the area. “I wanted out, but she loved it here. She loved the school, she loved summers at the seaside, playing in the river,” says Karino, stopping abruptly to cover her eyes and mouth with her trembling hands.

“So I have to stay. As a priest told me recently, Ai is watching me. So I have to stay here and I have to smile. For her.”

 

Tsunami spared few at elementary school in Ishinomaki
April 25, 2011
http://ajw.asahi.com/article/0311disaster/life_and_death/AJ201104251259
魚拓
Internet Archive

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Okawa Elementary School in Ishinomaki, Miyagi Prefecture, is still covered with mud on April 9 after being devastated in the March 11 tsunami. (Photo by Shingo Kuzutani)

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A photo and a graduation certificate of Ai Karino, who was still missing as of April 24, in Ishinomaki, Miyagi Prefecture (Photo by Gen Hashimoto)


Lessons learned from the tsunami spawned by the March 11 Great East Japan Earthquake showed that even schools once thought to be safe havens were vulnerable, and some parents who could get their children to higher ground saved them.

In Ishinomaki, Miyagi Prefecture, Okawa Elementary stands along a prefectural road near Shin-Kitakamiohashi bridge, about five kilometers from the mouth of the Kitakamigawa river. The two-story school building, where 108 students were enrolled, was a modern structure and supposedly safe from tsunamis.

Ironically, part of the school song goes, "Taiheiyo no Aoi Nami, Yosetekuru Nami" (Blue waves of the Pacific, waves that approach).

On March 11 at 2:40 p.m., the students were preparing to go home. Of the school's 13 teachers and clerical staff members, 11 were present at that time.

Among the school's fifth-graders was the second son of Nobuhiro Kimura, 37, who operates a local iron factory.

At 2:46 p.m., Kimura was in his office talking to the chairman of a company that has done business with his factory.

Then, a violent impact shook the ground. After the initial tremor, the shaking continued for a while. Many iron frames fell with a crash. Surprised by the big tremors, Kimura immediately jumped in his car and sped to his house, located between the school and his factory.

While he was driving his car along the river, he heard a radio report saying that a major tsunami warning had been issued, and he also noticed that the water level of the river was lower than usual. As the radio reported that the first wave of the tsunami had hit the neighboring town of Onagawa, Kimura felt a strong sense of ominous foreboding.

At his house, his eldest son, a junior high school student, had already come home earlier than usual because a graduation ceremony had been held that day. Taking his son, Kimura drove hurriedly to his other son's elementary school. While he kept his engine on, his eldest son jumped out of the car, rushed into the elementary school and got his younger brother. Immediately after starting to drive, Kimura saw something flying in front of him. It was a house, which flew from the side of the river to the opposite side, being carried by the tsunami.

City government employees were waving their arms near the bridge to instruct cars to head to a hill. Kimura turned the steering wheel and pressed harder on the gas pedal.

Several minutes before that, one of the city employees, Toshinobu Oikawa, 57, had been about a kilometer from the elementary school in the direction of the mouth of the river. When he looked to the front, he saw waves in the distance that were higher than the rows of pine trees on the beach that were at least 20 meters high.

"(The waves are) big," Oikawa thought. While driving his car, he urged residents through a loudspeaker to evacuate. Near the bridge, he stopped cars that were trying to go to the elementary school, and instructed them to head to the hill and higher ground. When he glanced at the river, a surge of black water was coming up it and swelling as if it was about to explode.

A fishing boat of about three tons being carried by the tsunami was approaching at the height of the riverbank. It was sliding along the embankment, and crashed into the bridge in front of Oikawa. He heard a sound like the echo of a huge waterfall.

When the wave of black water came closer to him, Oikawa turned and ran up a slope to the hill. The water that overflowed from the river near the bridge filled the lower-lying areas.

Immediately after that, the waves that had hit pine trees on the beach also neared Okawa Elementary School.

A male teacher, who was the only teacher who survived the tsunami that struck the school, later told his story to parents in a meeting held April 9 between school officials and relatives. The teacher and a few others, including parents who went to the school to get their children, were the only adults who knew what had happened just before the tsunami hit.

According to the teacher, the teachers all had confirmed in the schoolyard that all of their students were safe. However, some of the children were weeping. Others were feeling cold as they ran out barefoot in the snow.

The male teacher went back to the classrooms to confirm that no students remained and returned to the schoolyard. Then, he found that the students and the other teachers were trying to evacuate to higher ground on an embankment.

Then, he suddenly heard a loud sound followed by a gust of wind. The tsunami was rushing toward them along a road. After that, it engulfed the students.

Setsuko Takahashi, 60, who lives near the elementary school, was heading toward the schoolyard and saw the students walking in rows on a back road on the side of a hill.

"Follow the rows of the elementary school pupils," she told her 31-year-old daughter and a 2-year-old grandson, who were with her.

Immediately after that, she was engulfed by the brown water and managed to grab onto floating trees and a board. She was washed into a backwater area. She found a girl nearby, who was clinging to a piece of wood. While telling the girl, "Don't let go (of the wood)," she managed to climb onto a slope. A man who had fled to safety on the slope rescued the girl.

The elementary school was swallowed by a swirling muddy stream of water, and Takahashi was only able to see the upper part of the second floor of the school above the high water level. She could see neither the rows of students nor her daughter and her grandchild anywhere.

Four children made it to safety in the backwater. They were a first-grade girl and two fifth-grade boys from Okawa Elementary School and a male junior high school student. A total of 12 adults, including Takahashi and employees of the branch office of the city government, were also there.

The male teacher also survived along with a third-year boy of the elementary school on a different part of the slope.

Parents of all the elementary school students spent an anxious night while waiting on word about their children, as roads and all means of communication were disrupted. A rumor spread that the children had been saved at the school and all were safe. Some parents' minds were eased thinking that their children were staying there overnight, which also serves as an evacuation center.

The next day, however, parents began to get the tragic news. Officials of the local volunteer firefighters went to the elementary school in boats and found that the school building had been reduced to ruins. They also confirmed small bodies in the rubble around the school.

Of the 108 students at the elementary school, 64 were found dead and 10 were still missing as of April 9. That means that about 70 percent of the students became victims of the tsunami.

Many of the 34 students who survived had been taken by their parents in their cars to safety.

In the meeting held April 9, parents expressed their anger. One asked, "What did teachers do during the time between the earthquake and the tsunami?" Another demanded, "Give me back my child!" Another asked, "Is this a natural disaster or a disaster caused by humans?"

Since the March 11 earthquake and tsunami, parents have been looking for their children's bodies around the school. The body of fifth-grader Chisato Shito, which was found March 12, was badly injured. As it was difficult to remove mud from the girl's eyes, nose and ears, her 45-year-old mother took it off by licking it with her tongue.

"I am not going to blame anyone. But my daughter was at the elementary school ... I am sad and I regret that," the mother said.

Miyuki Fukuda, 43, identified the body of her eldest daughter, Risa, a sixth-grader, three days after the quake. Her daughter's face was beautiful. The girl had been looking forward to wearing the traditional "hakama" pleated skirt at her graduation ceremony.

"She was smart and listened to other people's opinions well. Though she was my daughter, I often asked her for advice," Fukuda recalled.

Her eldest son, Masaaki, a third-grader, is still missing.

"He was handsome and was popular. He was my treasure. As he is small and frightens easily, I want to find him as soon as possible," she said.

Fukuda has been searching sites around the school each day searching for him, except for the day when Risa's body was cremated.

"Rather than looking for my son, I want to be with him. At that time (when he was hit by the tsunami,) was he weeping or was he strong? If I hear the answer, I may feel sad. But I want to know about his last moment," she said.

One after another, "randoseru," or school backpacks, covered with mud, were found around the school. They were for the moment lined up near the bridge. Sadly, they bear testimony to the tragedy of March 11, never to be carried again on the small backs of their owners.

Okawa Elementary School held its graduation ceremony on April 24, about a month later than usual, using a building of a different school, also located in Ishinomaki city.

About 50 family members of 16 six-graders who died or were still missing participated in the ceremony. Only five other six-graders survived and moved onto junior high school.

The graduation ceremony started at 10 a.m. in the Iinokawa Daiichi Elementary School, as participants observed a silent prayer for the dead children. Then, Okawa Elementary School Principal Teruyuki Kashiba read the names of the 16 students and handed their graduation certificates to their family members.

"We, teachers and clerical staff members, will make efforts so that such a sad thing like this will never take place again," Kashiba said.

(This story was written by Hajime Ueno, Chiaki Ogihara and Takuhei Minamide.)

 

防災関連エントリー:
東日本大震災の記録 大津波悲劇の中の救い、防災の備えが命を救った、英字紙記事も。

3・11:東日本大震災 宮城・山元町の自動車学校、送迎手間取り25人死亡 

検証・大震災:3家族の3.11、陸前高田・河野さん、名取・佐藤さん、石巻・木村さん。 

災害:巨大地震や原発被災、「毎日小学生新聞」が画像表示などあり分かりやすいので資料保存。 

3月11日〜3月28日のNYT写真集を全採録。直視し忘れないことが犠牲者への弔い。事実を伝えない日本のマスゴミは糞。 

始めに戻る

 

 「防災必需品+体験談」←グーグル検索です。普段からの備えが大事、参考にして下さい。以下、僕自身が用意している基本グッズのAMAZONリンクをはっておきます。

 ※をつけたグッズは、小さな子は別にして家族全員個人装備でも良いと思います。特にヘッドライトは明かりの欲しい作業の時などに使って重宝しています。夜、自転車の前照灯が球切れした時にも使い助かりました。雨具は傘以外に、即行で着脱できて両手が使えるポンチョもお勧めします。

ホイッスル 笛 ※(救出要請SOS、その他)

ヘッドライト ※

LED懐中電灯 ※

SONYポケットラジオ ※

SONY防災ラジオ←スマホ等 手回し充電可能タイプの

LEDランタン、お勧めは Colemanのランタン

・火を熾すもの(チャッカマン西洋 火打ち石

卓上カセットコンロ 

VICTORINOX多機能ナイフ ※

ポンチョ(アウトドア雨具) (←お勧め)※

 ロープは万能道具、普段から慣れておくことが大事。

決定版 ひもとロープの結び方 便利手帳 

使えるロープワーク―必ず役立つ「結び」の完璧テクニック (OUT DOOR)←アウトドア好きの方が書いた本。

アウトドア用のロープ ←リンクをはりましたが、一番良いのは登山用品店に行って説明を聞き、自分でも手にとって選ぶ事です(太さの感じが分かります)。通常、メジャーを使って1m単位で量り売りしてくれます。僕自身は、径3.5㎜と4.5㎜のでそれぞれ2m、3m、5mのを適宜本数組み合わせて普段からザックの隅に入れてます。また車にはそれに加え径8㎜で10mのを2本積んでます。細いロープは長いのだとうまく使えません。短いのを準備して使うのがロープに慣れるコツ。長さが足りなければつないで使えばよいのです。

 着るものを含め、防災グッズはアウトドアグッズを転用出来るわけですが、ザッグを例に取ると、防災用と比べアウトドア用のザッグは作りも頑丈ですし、使い勝手もはるかに良いです。

リュックサック ※

ザック ※

 意外と忘れるのがマスクとゴーグル。特にマスクは瓦礫の粉じん対策として必需品(特に肺がんを引き起こす石綿:アスベストに要注意)、避難場所での風邪の集団感染予防にもなります。またゴーグルは震災での粉じん対策だけでなく富士山が噴火した場合、大量の降灰に対する備えとしても必要。マスクとゴーグルは花粉症対策としても使え、何もしないよりは放射能降灰への備えとしても有用と思います。

山本光学のN95マスク  ※

山本光学の浮遊粉塵用セーフティゴーグル ※

 薬や救急用品など。これは個人それぞれ違うはず。以下は僕が用意しているもの。消毒用ジェルは避難所で用意しているはずですが、万一に備え感染症防御でこまめな手洗い用。スキンクリームはウォシュレットが使えない避難所で拭く時に使う切れ痔予防。裏技用途で、ジェルやワセリンはたき火が必要な時に火口(ほくち)に少し使うと火を熾しやすくできます。手ぬぐいはバンダナ代わりや鉢巻きにも使え、いざという時には包帯にもなる必需品。

消毒用ジェル救急絆創膏テーピング用テープけが等の軟膏ワセリンスキンクリームソンバーユなら)、とげ抜き手ぬぐい

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 以下追記、資料として採録。

阪神・淡路復旧作業石綿禍 東日本被災地にも暗い影
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/18/201208/0005483567.shtml
魚拓 

B_05483568 重機で解体される被災ビル。粉じんが舞う=1995年2月、神戸市兵庫区

 発生から17年半となる阪神・淡路大震災の被災地で、建物の復旧作業に伴うアスベスト(石綿)被害が新たに確認された。牙をむき始めた大震災の石綿禍。しかし、当時の環境庁(現・環境省)などによる石綿の飛散調査は「おおむね問題なし」との結果だった。時をへて相次ぐ中皮腫の発症は、実態把握の不十分さを浮き彫りにするとともに、東日本大震災の被災地にも暗い影を落としている。

 家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。阪神・淡路大震災の被災地では、倒壊した建物からすさまじい量の粉じんが発生した。日本では石綿消費量の約8割が建材に使われてきた。吹き付け材、屋根材、内装材、吸音材、外装材、耐火被覆材(たいかひふくざい)などだ。震災で崩れた建物のがれきには、命を脅かす「死の棘(とげ)」が含まれていた。

 当時の環境庁の調査によると、解体現場周辺で空気1リットル中の石綿繊維量は平均3~5・4本、大気汚染防止法の基準(10本)を下回った。一方、民間研究機関「環境監視研究所」(大阪市)の測定では、解体現場周辺で1リットル中160~250本が検出された。基準値をはるかに上回る。

 官民でデータに隔たりがあるが、中皮腫が増えているのは「飛散防止に有効な手を打てなかったことを示している」(専門医)とみる人は多い。

 解体が急ピッチで進む中、行政が現場に本格的な粉じん対策を指示したのは、発生から1カ月あまりたってからだ。復旧工事が急がれる中、石綿対策が後手に回ったことがうかがえる。

 発生から間もなく1年半になる東日本大震災の被災地でも、石綿の飛散に不安が高まっている。

 環境省の飛散調査では、約350地点のうち95・4%で「問題なし」との結果だった。しかし、現地調査をした森裕之・立命館大教授(公共政策)は「極めて不十分」と疑問を投げ掛ける。「建材は解体作業で細かく砕かれており、風向きによって測定値が大きく異なる。東北の被災範囲は広大で、阪神・淡路の教訓を踏まえて丁寧に測定すべきだ」と話す。

 被災地ではがれきの集積場が点在している。原発事故に伴う放射能汚染に目を奪われがちだが、宮城県石巻市の石巻赤十字病院の矢内勝・呼吸器内科部長は「がれきが身近にある以上、石綿の吸引を避けるために万全を尽くす必要がある」としている。(加藤正文)

【発症時期迎え被害拡大か】
 中皮腫で亡くなった宝塚市の男性=当時(65)=が阪神・淡路の復旧作業に携わったのは、わずか2カ月だった。震災アスベストの危険性を訴えてきたNPO法人ひょうご労働安全衛生センターは「十分な飛散対策がないまま、復旧解体が街中で繰り広げられた。労働者だけでなく、住民やボランティアへの被害も懸念される」と指摘する。

 石綿が肺の中に入り、中皮腫や肺がんといった石綿疾患を引き起こすまでの潜伏期間は、十数年から40年とされる。阪神・淡路大震災から17年半、同センターの西山和宏事務局長(50)は「発症時期に入ったのではないか」と警戒感を強める。

 近年、復旧に携わった労働者の石綿疾患が相次ぐ。2008年、解体にかかわった兵庫県内の男性の中皮腫発症が判明。その後、解体作業の現場監督を務めた芦屋市の男性、がれきを収集した明石市職員の発症が確認された。

 しかし、いずれも発症と震災時の石綿飛散との明確な因果関係は証明されておらず、兵庫県の井戸敏三知事は「原因が阪神・淡路大震災だとはなかなかなりにくいのではないか」などと繰り返し発言している。

 これに対し、今回の宝塚市の男性のケースでは、石綿に触れる機会が震災後の復旧作業に限定される。男性の妻(67)は「夫と同じような作業をしていた人は多いはず」との思いで、夫の病状の公表を決心した。

 被害拡大や不安解消に向け、行政の速やかな対応が求められる。(中部 剛)

2012/8/24

 

論壇
アスベスト禍の衝撃 史上最悪の産業災害
命に突き刺さる棘、震災復興でも深刻な被害が

http://gendainoriron.jp/vol.03/rostrum/ro03.php
魚拓 
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神戸新聞編集委員 加藤 正文


国賠勝訴 
複合型ストック災害 
クボタショック 
震災アスベストの脅威 
相次ぐ発症 
異常事態の中で 
繰り返される過ち 
課題を示す窓 


 原発事故とアスベスト(石綿)禍には被害の構図が共通している。過去に地震や津波が繰り返し発生した地に原発を起き、研究者が再三、その危険性を警告していたにもかかわらず、虚構の「安全神話」の中で稼働を続けた。一方、石綿も戦前から有害だと分かっていながらも、その有用性、経済性から「管理して使えば安全」と国は十分な規制を行わず、約1千万トンを消費した。使用禁止は北欧に遅れること20年、ヨーロッパ諸国に遅れること10年以上たった実に2006年だ。

 原発事故は「史上最大・最悪の公害」(宮本憲一・大阪市立大名誉教授)であり、石綿禍もまた「史上最大の産業災害」(同)である。筆者は2005年6月末、兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場内外で深刻な被害が発覚した、いわゆる「クボタショック」以降、各地で取材を重ねてきた。その成果を『死の棘・アスベスト』(中央公論新社、2014年)として刊行した。石綿はその使用状況の広がりを反映して、被害状況も多様だ。本稿では、①石綿産業の原点としての大阪・泉南②アジア最悪の被害を出した兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場③今後、深刻な被害が懸念される震災アスベスト-の3点で被害と不作為の構図を描いていく。


国賠勝訴

 「勝訴」「最高裁、国を断罪」。原告側の弁護士の旗が出ると、最高裁前に詰めかけた被害者らから拍手がわいた。2014年10月9日、石綿を吸って肺がんや中皮腫などを患った大阪・泉南地域の元工場労働者らによる国家賠償請求訴訟で、最高裁は国の賠償責任を初めて認める判決を言い渡した。

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知られざる地場産業だった大阪・泉南の石綿紡織産業。100年の時をへて最高裁が国の不作為を認定した(大阪アスベスト弁護団提供)

 「労働環境を整備し、生命、身体に対する危害を防止するために、国は技術の進歩や医学知識に合うように適時適切に規制権限を行使すべきだ」。この「適時適切」という理念を盛り込んだ判決が確定するまでに、どれほどの苦難があったことだろう。病気に斃れた無数の声なき声が、100年もの長い時を超えて重い扉をこじあけたのだ。

 関西空港の対岸、大阪府泉南市、阪南市を中心とする泉南地区は、日本の石綿紡織産業の原点の地だ。中小零細の工場が集積し、戦前は軍需産業、戦後は自動車や船舶、機械などの基幹産業を支えた。最盛期には約200社が稼働し、約2千人が就労したという。戦前から石綿紡織工場の全国一の集積地として発展した。

 主な製品は、石綿を主原料に綿花などを混紡した糸、そして、この糸を布状やひも状に加工したものだ。耐熱性、絶縁性にすぐれ、各種パッキング、蒸気機関車などの防熱ふとん、自動車の摩擦材などに幅広く使われた。「小はランプの芯から、大は重化学工業の発熱部を覆う断熱材として欠かせなかった」(柚岡一禎・泉南地域の石綿被害と市民の会代表)。あちこちに工場が点在し、「街全体が石綿工場のようだった」といわれるが、今の街並みからは想像もつかない。高度成長期をピークに生産は次第に先細り、産地は消えた。長年、数多く労働者や住民が石綿による肺の病気で苦しんできたが、2006年、石綿対策の不備について国の責任を問う集団訴訟が提起されるまで知る人は少なかった。「国は石綿の危険性を知っていた、対策を取ることもできた、でも、やらなかった」。長い間、隠されてきた被害が表に出た瞬間だった。

 戦前の調査がある。国は1937(昭和12)年、泉南地区の被害をつかんでいた。旧内務省保険院の調査で、労働者の石綿肺罹患率が12・3%に上ることが判明した。担当医師らの「有害工業に属し法規的取り締まりを要する」との警告が残る。だが、国はこれに対して不十分な症例調査にすぎないとの立場をとった。その後も罹患率は10%を下回らず、労働基準監督署が調査を重ねた。しかし、「被害は深刻ではなかった」という見解を譲らなかった。 クボタのような大企業と違い、泉南はほとんどが零細企業で対策も不十分だ。「だからこそ国に被害拡大を防ぐ責任があった」。石綿問題に詳しい立命館大の森裕之教授(公共政策論)は国の不作為を指摘する。

 訴訟は2陣あり、1陣の地裁、高裁、2陣の地裁、高裁。そして今回の最高裁、過去5回の判決が投げ掛けるのは、一体、何のために労働関係の法規はあるのか、という根本的な命題だ。いくつもの曲折があったが、最高裁判決は、人間の命と健康を守るため、という基本原則を明確に示した。

 不断の努力で最新の知見に合わせて健康被害を予防する。被害が発生しているのならば、根絶まで対策を取る。これは法律や規則以前の行政の当然の責務だが、縦割りの官僚機構の中でその意識はかなり薄れている。あえてこの原則を厳しく指摘したところにこの判決の最大の意義がある。


複合型ストック災害

 手元にアスベスト(石綿)の原石がある。白く毛羽だった繊維のついた蛇紋岩。カナダ・ケベック州の鉱山都市セッドフォード・マインズの取材時にもらったものだ。

 壮大な露天掘りの鉱山に立ったとき、上流から下流へ流れる川のように、採掘された石綿が輸出され、港から工場に運ばれ、加工され製品となり、最後に瓦礫として廃棄される様子がまざまざと脳裏に浮かんだ。 熱や引っ張りに強く、燃えない。そして何より安い。産業革命とともに本格利用が始まり、各国の経済成長を支えた。その用途は建材、水道管、パッキング、シール材、ブレーキ材など実に3千種類に及んだ。

 かつては「奇跡の素材」と喧伝され、有害な「悪魔の素材」にもかかわらず、大量に使われた。日本は1千万㌧を消費した。1970年代にWHO(世界保健機関)やILO(国際労働機関)が発がん性を指摘したのに、日本が使用禁止にしたのは前述のとおり2006年。建物など社会のあちこちに蓄積(ストック)された石綿。髪の毛の5千分の1の微細な繊維は吸引すると長い潜伏期間をへて中皮腫や石綿肺などの病気を引き起こす。「生産・流通・消費・廃棄の経済活動の全局面で複合的に影響を与えるストック災害」(宮本・大阪市大名誉教授)とされる。近代化の初期に大量使用され、経済成長が一段落するころに「死の棘」の本性をみせる。これが複合型ストック災害の恐怖だ。

 日本で中皮腫による死者は2006年から毎年千人を超え、10年は1209人、11年1258人、12年は1400人、13年は1410人と増加。兵庫、大阪、東京、神奈川で多い。石綿を扱う工場などで働いたことがないのに病気になった人の数は中皮腫と肺がんで8千人を超え、その半数が亡くなっている。

 一方、労働災害として認定される人の数は毎年千人を超えている。高度成長期に起きた四大公害事件よりも被害者が多くなるのは間違いない。規制の決定的に遅れを踏まえると、被害のピークは2030年と予測される。


クボタショック

 アスベスト問題が労災を超えた公害であることを明確に示したのは、2005年6月に起きた「クボタショック」である。ショックたるゆえんは、工場の元従業員のみならず周辺住民の間で中皮腫が多発していることが発覚したからだ。中皮腫は石綿に起因する極めて予後の悪い特異性疾患だ。それが工場の周辺に広がっていた。発症状況を地図に落とすと、この特異な病気が工場の半径4キロにわたって広がっている状況が浮き彫りになる。

 2014年9月末時点で周辺住民と元従業員の死者は435人となり、アジア最悪の被害となっている。住民の被害者は263人で、元従業員(172人)を上回る。「俺、何か悪いことしたか」「1億円もらったってこんな病気、嫌」「クボタによる陰湿な殺人」「健康な体を返してほしい」―。不条理に命を奪われた患者たちの言葉はあまりに重い。

 クボタの社長は道義的責任から謝罪し、原則半径1キロの発症については救済金を支払ってきたが、肝心の因果関係についてはいまだに認めようとしない。「お見舞い金の延長」(首脳)という見解にとどまる。


震災アスベストの脅威

 重機がうなりをあげて建物を壊していく。むき出しの鉄筋、破砕された建材、積み上がる膨大ながれき、舞い上がる粉じん…。東日本大震災の被災地で続いた光景は、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災の状況と重なる。当時、全国から駆けつけた労働者たちは、復旧復興のためにひたすら解体作業に打ち込んだ。すぐそばではごく当たり前の日常生活が営まれていた。あたりを舞う粉じんに潜む「死の棘」の存在を、気に留めることはほとんどなかった。

 来年1月で丸20年となる。神戸の街に震災のつめあとは感じられなくなった。順調に「復興」したかのように見えるこの街で、肺の奥に突き刺さった微細な繊維、アスベスト(石綿)が牙をむき始めている。がれき処理に関わった人が相次いで、石綿に起因するがん、中皮腫を発症しているのだ。吸引後、10数年から40年たって発症するのが石綿のリスクだ。

 「チュウヒシュ? 俺が?」。2012年5月、兵庫県明石市にある県立がんセンターで思わず問い返した。医師の診断は「腹膜中皮腫」。高濃度のアスベスト(石綿)暴露で起きる病気だ。明石市環境部の男性=当時(48)=の仕事はゴミの収集業務だが、石綿との関連を考えるうちに、1995年の阪神・淡路大震災時に思い至った。

 男性は当時、がれきの処理業務に奔走した。ブロックやスレート、木材など震災で全半壊した住宅のがれきをパッカー車に積んで、処分場に運んだ。波形スレートは半分に割って車に押し込んだ。2、3トン積みの車だったが、可燃であろうが、不燃であろうがお構いなしだったので「5、6トンは載せていた」。

 処分場にがれきを投入する。荷重が重すぎて油圧で荷台が上がらないのでパッカー車の中に入ってがれきをかきだした。狭いパッカーの中はすさまじい粉じんだった。「使い捨ての紙マスクを2重にして使っていたけど、鼻の中まで真っ黒になった」。当時、焼却場は壊れていたのですべてのゴミを埋め立て処分場へ。破砕してブルドーザーでならした。舞い上がる粉じんとともにがれきはうずたかく積み上がった。

 時は流れ、2011年暮れ、下腹部にできたしこりに気づいた。それが見る間に大きくなった。「当時、俺よりもたくさんアスベストを吸い込んだ人がいた。神戸に来ていたボランティアの人もそうだ。俺が病気になるというとは、これからもっと多くの人が発症するということ。入念な検査をみんなにしてほしい」。男性の病状は悪化し、2013年10月に亡くなった。


■ 相次ぐ発症

 時がたち、阪神・淡路大震災の生々しい記憶が遠ざかる中で、石綿関連疾患の発症が相次いでいる。2008年3月、震災時の解体作業で石綿を吸ったため、がんの一種、中皮腫になったと訴えた兵庫県内の30代の男性を、姫路労働基準監督署が労災認定した。震災時作業による労災認定は初のケースだった。石綿の被害は潜伏期間が十数年~40年とされる。「震災による石綿疾患はいずれ爆発的に発生する」と、かねて懸念されてきただけに、いよいよ来たのか、という覚悟を迫る発症の報告だった。

 2009年5月、芦屋市の男性=当時(80)=が労災認定された。中皮腫と診断されたのは2007年。元建設会社の営業マンで、震災後の95年10~11月、人手が足りず、解体作業で現場監督を務めた。重機の巨大なハサミが建物をつかむと、左右に10メートルほど粉じんが広がった。労災を申請すると、労働基準監督署は建設会社に勤務していた77~98年の約22年間に石綿に触れたと判断した。しかし、渾大防さんは「営業マン時代、建設現場に出ることはほとんどなかった。石綿を吸い込んだのは、震災時の現場監督時代しか思い当たらない」と話す。13年暮れ、男性は死去した。

 2012年8月には、宝塚市内の男性(11年に65歳で死去)も労災認定された。この男性は衣料品販売をしていたが、震災で仕事ができなくなり、1995年2月、作業服に着替えてアルバイトとして工務店で勤務した。民家からずり落ちた瓦を集め、屋根にブルーシートをかけた。マンションの改修工事にも立ち会った。マンションの室内では職人が壁や天井をはがしたり、電動のこぎりで建材を加工したりしたため、相当量の粉塵が部屋にたちこめた。妻(67)は今、夫のかぶっていた野球帽にほこりがたくさんついていたことを思い出す。工務店のアルバイトはわずか2カ月。この間に石綿を吸い込んだ。16年後に中皮腫を発症し、2011年10月に死去した。妻は悲しみを口にした。「がれきの中のアスベスト(石綿)のことなんて考えもしなかった。お父さんは悔しかったと思う。同じ哀しみを東北の被災地で決して繰り返さないでほしい」

 同じ月、兵庫県内に住む別の70歳代男性も神戸東労働基準監督署から労災認定されたことも判明。3年近く瓦礫処理作業に携わったという。労災認定などで表面化する被害だけで5人。その背後で、解体、瓦礫収集、運搬、処理などの復旧・復興に関わった数多くの労働者が次々と石綿禍に倒れている。これが阪神・淡路大震災の被災地の現実なのだ。


異常事態の中で

 死者6434人、家屋全壊約10万棟、半壊約14万棟。現場は異常事態であり、緊急事態だった。

 「最悪の労働環境だった」。解体や瓦礫処理に携わった労働者たちの証言だ。神戸市兵庫区で工務店を経営する男性(81)は振り返った。「マスクどころか、タオルもまかずに仕事した。石綿が危ないなんて考える余裕はなかった」「防護シートを張らずに解体した。飛散を防ぐために水をまこうにも、水道管が壊れて水は出なかった」

 発生約1カ月後から一斉解体が始まった。無数の業者が被災地に集まり、神戸だけでも100件、兵庫県内で200~300件の解体が同時に進行したという。住民への情報開示、飛散対策が積み残されたまま、混乱の中、大量解体が進んだ。一体、どれだけの粉じんが街中を舞ったのだろう。当時、がれきの街を取材で回りながら、のどがいつもいがらっぽく、目が痛かった記憶が残る。

 都市では高度成長期以降、郊外型の開発に力が注がれ、インナーシティーと呼ばれる中心部の再開発は遅れてきた。ニュータウン開発に力を入れた神戸では、とりわけインナーシティー問題は課題となっていた。そこには石綿を含む老朽建築物が数多く取り残されており、災害対策としても石綿に十分注意が払われてこなかった。震災時の兵庫県地域防災計画には環境保全の記述はなく、10年後の復興10年委員会の「総括検証・提言報告」にもアスベストの文字は一カ所もない。

 「これは単なるアスベスト対策の欠陥ではなく、日本の都市政策、災害対策、復興政策の欠陥と関連している」(宮本、森永、石原編『終わりなきアスベスト災害』岩波書店、2011)。この指摘が重くのしかかる。

 しかし、自治体の対応は鈍いといわざるを得ない。東日本大震災の起きる1年前の10年5~8月に掛けて立命館大は全国の自治体に地域防災計画に震災時アスベスト対策を盛り込んでいるかどうかを調査した。結果、72・5%が「現在、盛り込んでおらず、特に盛り込む予定はない」と回答。そのうち、環境省が07年に策定した災害時の石綿飛散防止マニュアルについても、「認識していない」「確認していない」としたのは5割超。

 これが日本の石綿対策の実情である。そこに東日本大震災が起きたのだ。


繰り返される過ち

 東北の被災地に点在する瓦礫の集積場で遊ぶ子どもたち。倒壊した建物の前で、マスクをつけずに普通に歩く中高生…。「目に見えないアスベストが飛散しているから、できるだけマスクを」。そんな思いが募る。阪神・淡路大震災の被災地であまりに無防備だったからだ。

Kato_asbestos2 積みあがる震災がれき。微細な石綿繊維の飛散が懸念された。阪神・淡路大震災の教訓は生かされたのだろうか=2012年、宮城県石巻市

 津波に根こそぎ奪われた東北の町は、当初は声を失う惨状だったが、その後、がれきの様子が気になった。宮城県石巻市。2012年秋に県立石巻商業高校(約580人)の隣に広がるがれきの集積場には驚いた。高い囲いが巡らされ、白い袋詰めされた膨大ながれきが積み上がっている。搬入された後、生徒から「喉が痛い」「目がかゆい」などの声が寄せられたため取られた措置だった。

 がれきは、撤去、運搬、仮置き、処分の全過程で粉じんが発生する。倒壊家屋や破損した船舶には、ふきつけられたり、練り込まれたりした石綿がたくさん含まれている。当初、環境省の担当者は「津波で塩水にぬれ、石綿の飛散が抑制されている」としたが、乾燥が進み、破砕や運搬作業が進む中で、当然、飛散する。

 がれきの総量は東日本2300万㌧、阪神・淡路2千万㌧だ。東日本大震災に特徴的なのは、沿岸には製紙業をはじめ、さまざまな工場があることだ。長期間、排水を流したことで、海底にはさまざまな物質が蓄積している。「津波は、海底に沈殿していたものを一気に陸に揚げた。産業廃棄物を含むヘドロは普通の泥ではない」と石巻赤十字病院の矢(や)内(ない)勝・呼吸器内科部長が警告する。発生2カ月後に訪れた際、海底にたい積したヘドロが津波で打ち上げられていた。臨海部にそびえる日本製紙石巻工場の周りを歩いていると、雨が降り出した。それまで白っぽかった泥が、雨にぬれると、どす黒く変色した。石綿、砒素、鉛…。危険物質は数多くある。

 東日本で阪神・淡路とは決定的に異なる点がある。犠牲者の9割が建物倒壊による「圧死」が阪神・淡路なのに対し、東日本では死因の9割が津波による「溺死」だ。これはそのまま石綿被害にもあてはまる。破損した建物が津波で流され、そして有害なヘドロが沿岸部に拡散している状況を踏まえると、粉じんの飛散に伴う健康被害は、阪神・淡路大震災よりもはるかに広域になる危険性がある。

 環境省は東北の被災地で11次にわたってモニタリング調査を行った。結果、1713地点のうち99・6%で問題がなかったという結果だった。「おおむね問題なし」と環境省の大気課長(当時)はいう。ここでも20年前の阪神・淡路大震災の当時と似ている。

 しかし、「調査はきわめて不十分」と森裕之・立命館大教授(公共政策)は言う。被災地ではがれきの量を減らすために成形板を破砕しているケースがあるといい、「破砕物は風向きで測定値が大きく異なる。被災のエリアは400㌔にわたる広大な地域だ。もっと丁寧な測定が要る」と話す。


課題を示す窓

 大震災の発生でどれだけの石綿が飛散したのか、完全な把握は難しい。とはいえ、できることはある。まず、アスベストを含んでいた建物の倒壊した地区を中心に、当時の住民や解体・撤去にかかわった労働者らを登録し、健康診断を継続しなければならない。土木工事に他府県から多くの労働者が神戸・阪神間にやってきた。これはボランティアも同じだ。アスベストに暴露したというリスクを本人に周知させ、健康診断を受けなければならない。

 もう一つ必要なのは、私たちの住む街にいったいどれぐらいの石綿が蓄積しているのか。神戸市は固定資産税台帳によって建物の建築年次を調べ、アスベストの飛散可能性のあるものをチェックしている。これは公表していないが、地図に落とし込んでいるので、アスベストマップとしても活用できる。

 「大震災の発生時、ふだんは見えない社会の課題を示す窓が開く。その窓はごく短い期間に閉じてしまう」。阪神・淡路大震災のちょうど1年前の1994年1月17日、米カリフォルニア州ロサンゼルス市ノースリッジで起きた大震災の報告書にはこんなフレーズがある。窓が開いているうちに、根本的な対策がとれるか。神戸で生かせなかった阪神・淡路の教訓を、東日本で生かさなければならない。これは石綿問題にとどまらず、私たちの社会の未来にかかわる問題である。

主要参考・引用文献

(1)中部剛、加藤正文『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』、かもがわ出版、2014年

(2)加藤正文『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』、中央公論新社、2014年

(3)立命館大学政策科学会編『別冊政策科学 アスベスト問題特集号』、2008、11、12年

※新聞、雑誌、インターネットサイトの記事、各種訴訟の訴状、判決文などを参考にした。


かとう・まさふみ

1964年西宮市生まれ。大阪市立大学卒。89年神戸新聞入社。経済部、北摂総局、阪神総局、論説委員などを経て、現在、経済部次長兼編集委員。著書に『工場を歩く-ものづくり再発見』(神戸新聞総合出版センター)、『工場は生きている-ものづくり探訪』(かもがわ出版)、『忍び寄る震災アスベスト 阪神・淡路と東日本』(共著、かもがわ出版)、『死の棘・アスベスト 作家はなぜ死んだのか』(中央公論新社)など。


   「いのちに突き刺さる」アスベストの悲惨―――
真正面から立ち向かった著者渾身の
「怒りと告発」の書に戦慄する。
――内橋克人氏(評論家)

これは“影の日本経済史”であり
世界的スケールで“白い肺の恐怖”を
描いた力作である。
――黒木亮氏(作家)

『死の棘・アスベスト』
加藤 正文著 中央公論新社 定価1700円(税別)

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